今までぼくは、吉本ばななの小説のどこが面白いのか、よく分かっていませんでした。
けれども今回、彼女の「体は全部知っている」という短篇集を読んで、ようやくその「魅力」が分かったので、この記事ではそのことをちょっと書いてみます。
「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり 「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 13編の短編が収められたこの短篇集の、ちょうど真ん中、7番目の小説が「ミイラ」という題名の作品です。
大学に通う日常に退屈するはたち前の少女が、近所に住むエジプトおたくの青年に突然「軟禁」されてしまう様子を描いた不思議な小説です。
「軟禁される」というくらいですから、「ビデオで勉強したようなしつこいセックス」とか「しばられたままもらしたりした」とか、それらしいことが書いてはあるのですが、ちっともいやらしさは感じられなくて、「これはエッチな妄想のお話なんですよ」という記号として散りばめられているだけ、という感じなんですね。
こういう吉本ばなな独特の書き方を「リアリティがないよなー」と、今までぼくは思っていました。
でもこの短篇集を読んでようやく分かったのは、こうやって記号を散りばめて雰囲気だけ表現するような書き方というのは、ばななファンにとって、えげつなく書き込まれた他人の感性を押しつけられることなく、自分の空想の余地が残されることで、かえって共感を持って読むことのできる表現になっているのだろうな、ということです。
ばななの作品は、言ってみれば「少女マンガ的ファンタジーとしての文学」ということになるでしょう。男どもが読むようなえげつない劇画と比べると、少女マンガは日常の風景を描いてはいても、どこか実際の日常からはかけ離れた空想世界を描写しているわけで、ばななという作家は、小説の世界でこれをやっているのかな、と思うのです。
好きでもない青年に軟禁されてセックスの快楽に酔うという妄想が小説の中の「現実」として書き表さられ、その男に自分で作った猫のミイラを見せられた主人公は、自分がミイラにされるところを空想し、あるいは息ができなくなるほどの愛情から相手の頭を打ち砕く自分の姿を空想します。
しかし物語は、危険な領域に決して踏み込むことなく、青年の優しさと身勝手さが表現されたあとで、切ない別れの場面が描かれて終わりを迎えます。
後日譚として青年が作家になりきれいな奥さんをもらったこと、自分は普通に恋愛をして、普通に暮らしている様子がつづられますが、最後にその普通の生活は「正しくて幸せなのか」という問いかけがされます。
ミイラにされた自分や、頭を打ち砕かれた彼を想像するとき、「それはそんなに悪いことにはどうしても思えなかった」のだ、といってこの掌編は閉じられます。
平凡な日々の中で、その平凡さに満足できず、静かに別の現実にあこがれる若者たちが、ばななさんの小説を大切に思う気持ちが、この不思議な読後感の物語によって、ようやく分かったような気がするのです。
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アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり さて、もう何編か簡単に紹介しておきましょう。
巻頭の「みどりのゆび」は、植物を愛するおばあちゃんを通して、アロエと友だちになる女性の話です。
中ほどの「小さな魚」は、胸にできた小さな魚の形をしたおできとの別れの物語で、長年連れ添ったそのおできに対して、旅先でふと出会った大切な友だちに対するような深い気持ちを持っていた様子が描かれます。
巻末の「いいかげん」では、小学生や老人に見初められる女性が、いかにもばなな的な空想世界の中で「活躍」し、物語の結末では「ちょうどいい年頃の伴侶に恵まれますように」と神社でお祈りをします。「何かがどうしようもなく偏っている」自分を意識しながら……。
もしあなたが、周りのみんなの価値観とどこかずれている自分を感じ、「何かがどうも偏ってるなー」と思うようなタイプの方だったら、たまには吉本ばななの小説を読んで、ささやかな空想の世界に心を遊ばせるのも、いい気分転換になるに違いありません。
☆紹介した本
吉本ばなな「体は全部知っている」(2002 文春文庫)
てなわけでご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
※オウム真理教が起こした事件によって亡くなった方のご冥福と、その親族の方およびさまざまな被害者の方の心の安寧を心よりお祈りします。
今日2018年7月6日、オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑が執行されたとの報道がありました。
この記事では、地下鉄サリン事件を頂点とするオウム真理教が引き起こした事件と、それがわたしたちの社会に投げかけた問題点について、簡単に振り返ってみたいと思います。
地下鉄サリン事件の恐怖 可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 2018年7月7日追記: 智津夫氏の精神状態などについて 地下鉄サリン事件の恐怖 1990年3月20日の午前8時ごろ、通勤ラッシュ時の現東京メトロの5つの車両において、猛毒の神経ガス・サリンが大量に散布され、13人が死亡、被害者は6300人にものぼる、未曾有の無差別殺傷事件が発生しました。
どうしてこのような事件が起こってしまったのか、これを防ぐ術はなかったのか、同じような事件が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか。考えるべきことは多岐に渡りますが、簡単に答えが出る問題ではありません。
この事件についてはさまざまな書籍が扱っていますが、作家の村上春樹氏が事件に遭遇した多数の方々にインタビューした
・「アンダーグラウンド (1999 講談社文庫)」
をここではおすすめしておきます。
事件を体験した一人ひとりの方の恐ろしさが伝わってくる良質のノンフィクションと言えます。
可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 ネット上ではウィキペディアの
・麻原彰晃 - Wikipedia
というページによって、麻原彰晃こと松本智津夫氏の人生を概観することができます。
智津夫氏が、兄弟ともども水俣病の認定されなかった被害者であった可能性も分かり、また、その家庭の貧困の影響もあって、さまざまに屈折して育ったであろうことを読み取ることもできます。
氏は日本在住のチベット人政治学者ペマ・ギャルポ氏を通して、ダライ・ラマ14世と何回かの接見をしていたようですから、チベット仏教の理解について、相当に評価されていただろうと考えられます。
また、現実にオウム真理教という教団をあれだけの規模にするだけの、ある種のカリスマがあったことも間違いなく、そうした彼の宗教的才能が「歪んだエゴ」と結びついたとき、日本史上類を見ない、恐ろしい事件が起こることになったのでしょう。
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松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ 地下鉄サリン事件の前年1994年6月27日には、松本サリン事件が発生していました。
・松本サリン事件 - Wikipedia
ところが長野県警は、この事件がオウム真理教によって起こされたものであることをまったく察知できず、無実の市民を冤罪で苦しめることしかできませんでした。
オウム真理教が公安によって捜査されていたことも考えれば、警察の発表を鵜呑みにして冤罪報道を繰り返したマスコミも含め、この事件をオウム真理教と結びつけることができず、地下鉄サリン事件の発生を許してしまった日本の危機管理体制の甘さにはなんとも言葉がありません。
日本社会のこうした危機意識の薄さが、のちの福島第一原発事故にまでつながっているのではないかと考えるとき、これからの日本でどんな事件が起こることになるのか、はなはだ不安にもなってくるところです。
オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 松本智津夫氏が死刑になったと聞いて、悪人が処刑されてよかったと思う方も多いかもしれません。
「瞑想」なんていうと難しく感じるかもしれませんが、初めての人は、
楽な姿勢で、自分の呼吸に注意を向ける というだけのことを、一分でも二分でも、自分に無理のない時間続ければいいだけで、実は簡単なことなんです。
呼吸に注意を向けると言っても、長い間ずっと向け続けるのはすごく難しいことです。
雑念が湧いてきて、あれこれ考えている自分に気がついたら、「雑念が湧いてるなー」とだけ確認して、また呼吸に注意を向けます。
瞑想の一番シンプルなやり方としては、ほんとにこれだけです。
雑念が湧くこと自体は自然なことですから気にする必要はなくて、静かに座ることにだんだん慣れてきて、三十分くらい気楽にできるようになれば、「初心者卒業」といったところでしょうか。
さて、友だちのyoruさんが、こんな記事を書いています。
早朝、瞑想のために座っていると、たまにこのままずっとこうしていたいというような、多幸感が訪れることがあります。
それはとても幸せな時間なのですが、もしかしたらその感情にとらわれてはいけなくて、さらに呼吸を感じてゆくのが良いのかもしれません。
https://ameblo.jp/kaz32i/entry-12388321765.html 「感情にとらわれないほうがいい」のは確かなのですが、「感情をしっかり味わうことも大切」です。
呼吸に意識を向けるのには、心を静める役割があるので、そうして心が静まった結果「喜び」の気持ちがやってきたときには、その気持ちが「体にどんな感覚をもたらしているか」を落ち着いて見てやればいいんですね。
「この喜びが続けばいいなあ」と思ってる自分がいれば、「今自分はそう思ってるなー」と観察すればいいし、そうした様々な感覚や思いがやってきては去っていくのを見守りながら、
「なるほど、この世の全ては変化を続けている、これが無常というものか」 というのを確認していくことで、やがて「とらわれ」というものが減っていき、「エゴ」というものが落ちていく……。
というのが、ありがたいお釈迦さまの教えというわけなのでした。
ところで、日本に伝わる大乗仏教にもいろいろな味わいがあってぼくも好きなのですが、ここに書いたような初期仏教の教えを知るためには、中村元さんが口語訳したパーリ語の経典、
「ブッダの言葉」https://amzn.to/2KGkCg9
「真理の言葉」https://amzn.to/2z7kMZj
などがとても参考になるのでお勧めしておきます。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬
中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] H氏について、実のところぼくはほとんど何も知らないまま、この記事を含めて三本の記事書きました。
それは彼がネット上で「危険な」挑発をした結果、命を落とされたことに関して、彼の死を無駄にしないためには、早い時点でその意味を明らかにしておいたほうがいいと思ったからです。
ぼくの記事を読んで、H氏を批判していると思い、遺族や関係者の方々に配慮が足りないと思った方もいらっしゃったかもしれません。
それについてはここで改めて謝りたいと思います。つたない文章で気分を害していたとしたら、本当に申し訳ないです。
中川淳一郎氏の書かれたブロゴスの追悼記事を読んで、H氏はとても有能な方であっというだけでなく、人間的にも素晴らしい方だったんだなということがよく分かりました。
H氏のご冥福を改めまして心よりお祈りいたします。
中川氏の追悼記事には、H氏の直截で忌憚ない人柄と、裏側もしっかり確認するきちんとした仕事に対する姿勢が描かれると同時に、
だからといって彼による揶揄を正当化する気は毛頭ない
と冷静な筆致でしるされています。
このような素晴らしい追悼記事を書かれた中川氏にも敬意を表して、この追記を終わります。
・ ・ ・
2018年6月25日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こった。
警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)は、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、Hさんと面識はなかったにも関わらず、犯行に及んだものと見られている。
この件についてはすでに二つの記事を書いた。
・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元*
・はてな殺人の深層 - きみの一言が容疑者を焚きつけていたとすれば - *魂の次元*
この記事では、亡くなったHさんのご冥福を改めて祈るとともに、ロマン優光氏の記事
・福岡セミナー講師刺殺事件に思うこと:ロマン優光連載112 - ブッチNEWS
からいくつかの論点をお借りして、この事件について再度考えてみることにする。
中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ 我慢できない人は勝手にやってればいいと思うけど、報復は報復を生むだけでしょ? 救うことはできなくても、自分の考えや行ないを改めることはできる 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ ロマンさんは
H氏が、彼に何をしたかというと、彼の荒し行為と彼に対する通報に関する株式会社はてなの対応をblogに書いたこと、程度の低いことに関するたとえとして「T先生」の名を出したこと、それぐらいだ。容疑者を運営会社に通報したり、そのことを公言してた人間は他にもいるだろう。そればかりか、容疑者に対する酷い罵倒を書いていた人たちだって何人もいることだろう。別にH氏が彼を必要以上に攻撃していたというようなことは、特にないのだから。
(被害者と容疑者の名前に関わる表現は、通称の頭文字に置き換えた)
と言って、今回の事件の「通り魔性」を主張してて、まあ、それは一理あります。
だけど、Hさんが記事で、Tさんのことをおもしろおかしくネタとして書いてるのもまた事実で。
(参照 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/02/112825 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/10/132154)
それがTさんの神経を逆撫でしないわけもないよね。
もちろん、「その程度」の発言があんな事件を引き起こすなんて予想できるわけもないから、それを理由に「Hさんに落ち度があった」と言うわけにはいきません。
そして、逆に「あの程度の発言はしていいんだ」というわけにも、もはやいかない。
現にこういう事件が起きちゃった以上、
「あんなふうに人を見下して笑いものにするのは危険なことなんだ」 という認識を多くの人が持つべきだと思います。
弱者を見下すのは特に危険ですよね。
失うべき何も持ってない弱者だったからこそ、Tさんは今回の事件を引き起こしてしまったわけで。
ページビューを稼ぐために特定の弱者を笑いものにするようなことは、絶対やめたほうがいい、 というのが今回の事件から得られる一番大きな教訓でしょう。
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前の記事
・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元*
で、ブロガーのH氏がネット上での発言から「逆恨み」され、凶刃に倒れることになった事件について考え、安易に「批判・非難・からかい」の言葉を発信することの危険性を述べたわけだが、もう少しだけつけ加えて書きたくなった。
「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします 「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? 良識と想像力のある多くの人にとって、今回の事件は、
「あんなことをやっていれば、こんなことにもなるよな、ちょっと想像を超えてるとこはあるけど」 というようなものだと思う。
けれども、一部ではあるが決して少なくはない「攻撃的な」はてなユーザのみなさんは、
「おれたちの発言は常識の範囲であって、まったく問題ない。今回の事件はキ○ガイが起こした通り魔的殺人にすぎない」 くらいの感想をお持ちのことだろう。
そのような考え方が間違いだ、というつもりはない。
けれども、今回殺人事件の被害者となった故H氏が、法律的には問題ないであろう範囲で記事を書いていたことが、かえって容疑者Tさんの恨みと妬みを増幅し、仇となった可能性を考えれば、
「常識の範囲内の発言」が持つ危険性 というものを、「合法か違法か」といった枠組みとは別の視点で考えることが大切に思えるのだ。
結論から言ってしまえば、
人を見下すような発言は慎むべきだ ということに尽きる。
今回の事件は、H氏が「見える」存在だったから標的にされたのであり、Tさんの「うらみ」はH氏だけに向けられたものではなく、ネット上でTさんを見下す発言をしていた不特定多数の人間に向けられたものと考えるのが妥当だろう。
そうであれば、今後類似の事件が繰り返されるのを避けるためには、
ネット上では人を見下すような発言は慎むべきだ ということを「常識」として広めていくことが重要に違いない。
以上の述べたことが、「愉快犯的」に暴言やからかいを繰り返すみなさんにとっては余計なお世話にすぎないことは分かっている。
けれども、周りに流されて「歪んだ発言」を繰り返すことになっているものの十分良識を持つ方々には、どうか今回の事件を自分の発言を考えなおすきっかけにしてほしいと思い、あえて書いているのだ。
ネット上で匿名性に守られて鬱憤を晴らしたくなる気持ちは分かるし、人を批判することで優越感に浸りたくなる気持ちも分かる。
また、容疑者のTさん自体がそのような行為を繰り返していたことを考えると、複雑な気持ちにならざるを得ないのだが、そうしたストレスの解消をはかるはずの行為が、今回のような事件を通して、かえって社会を息苦しいものとし、さらに大きなストレスとして自分に降り掛かってくるという悪循環の構図を、一人でも多くの方に共有していただくことができたら本望である。
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はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします ここで、はてなさんへのお願いを一つ書いておく。
今回の事件の発端が、Tさんのブックマーク・コメントでの「暴言」にあったことを考えると、事件への対策として
コメント欄におけるNGワードの設定 は必須であろうと考える。
ブックマーク・コメントで、 idコール付きで、 見知らぬ人から 「低能」呼ばわり されて不愉快に思わない人はないだろう。
2018年6月24日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こりました。
警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)はHさんと面識はなかったにも関わらず、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、犯行に及んだものと見られています。
この記事では、亡くなったHさんのご冥福を祈るとともに、わたしたちが日々何気なく使っている言葉の持つ、危険性と可能性について考え、この不幸な事件から何を学ぶべきなのか、書いてみたいと思います。
(なお、事件の当事者お二人の名前については、ネット上での通称の頭文字を使うことで、プライバシーに配慮させていただきます)
罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? 閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 ネット上の情報によりますと、容疑者のTさんは自分の意見と合わない記事を見つけては、相手に対する罵詈雑言を頻繁に投げつけていたようです。
こうした行為はネット上での発言のルールにもとるものですし、Hさんをはじめ、Tさんからの「被害」を受けていた方々は、ネットサービスの運営会社に「問題」を通報し、その結果Tさんのアカウントは凍結され、Tさんは新しいアカウントを作っては「暴言」を繰り返すといういたちごっこになっていた模様です。
この経緯だけを見れば、殺害されたHさんの行動にはまったく問題がなく、容疑者であるTさんが「逆恨み」した挙句、一方的に「犯行」に及んだようにも思えますが、本当にそういう判断で問題の本質が見えてくるのか、もう少し細かく状況を見てみましょう。
正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? ネット上で暴言を繰り返すことはほめられる行為ではありません。
それをたしなめることは、大いに意味のあることでしょう。
けれども、暴言を「批判」する時点で「批判者」は相手の恨みを買う危険を犯しているのだということを十分認識する必要があります。
まして感情的に「非難」するとなれば、喧嘩を売っているのと区別はありません。
またストレートな批判や非難でなく、「からかい」の表現としておちょくるというやり方も、度が過ぎればやはり同じことです。
お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタさんが「言葉には気をつけなさい。人を傷つけるような言葉は慎みなさい」と言ったのは、実にもっともなことです。
ネット上の正義のために暴言をいさめているのだ、という大義があったとしても、余計ないさかいを引き起こすような言葉使いは避けた方が安全というものではないでしょうか。
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閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 Hさんはネットウォッチャーと称して、ネット上の有名人をネタにおもしろおかしくからかう記事を提供して、人気を集めていました。
今回の事件に関して、「からかい」の対象になっていたネット有名人のはあちゅう氏やイケダハヤト氏は、からかわれていたことの不快感よりは「同業者」として同情する由のコメントを発しています。
ネットに書いた言葉を理由に殺されるとなれば、いくら命があっても足りませんから、同情するのも無理のないことです。
しかしながら、今回のような「事件」に至らなくても、「書き込まれた言葉」を原因にしてさまざまな軋轢が日々起こっていることは事実です。
ネットやテレビで幅を効かせる「閲覧数・視聴率第一主義」やそれを支える「稼いでナンボ」という行きすぎた経済主義のあり方を、この辺で少し見直してみる必要があるのではないでしょうか。
* * *
Hさんの2018年5月2日付けの記事がTさんの犯行のきっかけになったのではないかと取り沙汰されていますが、記事の内容は「暴言を投げつけるTさんを通報して凍結してもらった」というものです。
この記事に事件後につけられたブックマークコメントを見ると、多くの方はここでのHさんの発言には特に問題はないのに、そのために殺されてしまったとは、と思っていることが分かります。
けれども、事件前についたコメントをよく読むと、わざわざTさんを名指しで記事を書くことの危険性を指摘しているものがありますし、その他の多くのコメントはTさんからすれば「笑いものにされている」としか受け取りようのないものです。
Hさんはネット上でのやりとりの経験が長く、Tさんをおちょくるようなコメントが多数つくことを予測していたでしょうから、殺意を引き起こすことまでは想像できなかったとしても、逆恨みを買う危険性は予想ができたはずです。
とすれば、「人を笑いものにしようが何をしようが、とにかくブックマークをたくさんつけてもらって閲覧数を稼ぐ」というような安直な方法論が今回の悲劇を招いた可能性について、ネット上で発言をするみなさんは、十分考慮するべきでしょう。
また、ブックマークコメントでお気楽・お気軽に人を否定し、笑いものにしてストレス発散している方々にも、自分の何気ない一言が、巡り巡って社会の緊張度を上げ、かえって自分に大きなストレスとして降りかかってきているのではないかということに、少しばかり想像を巡らせていただけたらなあと、勝手なお願いをさせていただきたくもなる次第なのです。
罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 人の気持ちを逆撫でし、逆恨みを買うような言葉をネット上で書いたからといって、それを理由にその人を殺していいということには、もちろんなりません。
人を傷つけるような言葉は慎むべきと考えますが、そのような言葉をすべて法律で取り締まることはできませんし、H氏の発言にはその意味では罪はなかったと言えるでしょう。
H氏のご冥福を心から祈ります。
同時に人を殺すという、大変重い罪を犯すところにまで追い込まれてしまったTさんについても、自分が犯した罪を冷静に振り返り、その罪を償うことができるよう、お祈りしたいと思います。
ネット上でどんなにバカにされたとしても、それを理由に人を殺すことは許されません。
日本大学アメリカンフットボール部でラインバッカーをつとめる選手が、関西学院大学のクォーターバックをつとめる選手に、「悪質」な反則行為によって傷害を追わせた事件が、世間を騒がせています。
傷害行為を行なってしまった日大選手は当然罪をつぐなう必要がありますが、傷害行為を示唆したと疑われるコーチや前部長、ひいては、その前部長の任命者である日大の経営陣にも重大な責任があることは明らかと言えましょう。
さらに言えば、この事件からは、日大のそのような体質を許してしまう日本社会全体の持つ非民主的な性格についても思いを巡らす必要を感じます。
そこで、女子レスリング界におけるパワハラ問題や、TOKIOメンバーによる強制わいせつなど、どこか似たようなにおいのする事件が世間を騒がせ続ける今日この頃の、日本が抱える息苦しさについて、この記事ではちょろっと書いてみることにしましょう。
日大選手によると、事件は それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば 一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 日大選手によると、事件は 傷害行為を行なってしまった日大選手によると、反則行為は元部長とコーチからの指示によって行われたということです。
記者会見の場で詳細に事情を明らかにし、十分に反省して、きちんと謝罪をした選手の姿はまったく誠実で謙虚なものであり、すがすがしさすら感じるものでした。
前部長やコーチを責めるような発言は一つもなく、ただ事実関係だけをしっかりと説明したことが、日大アメフト部の「暴力」的な負の遺産の解消につながっていけば、今回の反則行為で負傷した関学の選手や関係者の気持ちも報われるというものでしょう。
それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば さて、前部長やコーチが記者会見で、自分たちの「不法」な指示を認めることができず、監督責任以外は認めない姿勢を見せることに、多くの批判がなされています。
けれども、彼らが自分の「罪」を認められないのは、まったく当たり前のことにも思えます。
というのも、そこで非を認めて謝れるような人間ならば、最初からそんな指示を出すはずもないのですし、選手の会見を信じれば、前部長やコーチは「恐怖政治」としか言えない手法によってチームを操っていたわけで、その実行においてはいくらでも言い逃れができるように巧妙に振舞っていたことが、報道からも透けて見えてくるからです。
平気で「不法」な指示を出すような人たちが、その非を認めず、謝らないからと言って、一々腹を立てていたら、今の日本ではストレスが多くなりすぎて生きていくのも難しくなってしまうのではないか、とすら思ってしまいます。
つまり、この問題の責任の所在はどこにあるのかと考えれば、少なくとも前部長止まりではありえませんから、彼に対して怒りをぶつけても仕方がないということです。
問題は当然、日本大学の経営陣にあります。
これだけ大きく世間を騒がせているにもかかわらず、理事長や学長のコメントの一つもないという時点で、誠に残念ながら日本大学は「終わってるなー」というのが正直な感想です。
さらに言えば、そうした大学の体質という問題を十分に取り上げないメディアも、結局は同じ穴のむじな、ということなのではないでしょうか?
また、大学を管轄する文部科学省の責任も重大です。
これだけの重大事件が発生しながら、日大がお手盛りの第三者委員会で調査をすることによって事件をうやむやにしようとしているのを黙認するような無責任なことは、到底道義にかなうものとは言いがたいでしょう。
そして、そのような官僚を黙認し、その官僚に十分ものを言えない政治家を選び続けるわたしたち国民自体に最終的な責任があることも、論理的に考えれば明らかなのではないでしょうか?
なお、5月22日付のニューヨーク・タイムズの記事は、この事件について次のように書いています。
But this incident has highlighted “power hara” and the obedience to authority and unwavering loyalty to the team that are highly valued in Japan.
The Football Hit Felt All Over Japan - The New York Times 試しに訳してみれば、
「この事件によって、『パワハラ』と、日本では高く評価される『権力への服従』と『チームへの絶対的な忠誠心』の問題が注目を集めることになった」
とでもなりましょうか。
我々日本人としては、この事件を日大アメフト部の問題として考えるのではなく、日本の社会全体の問題として捉えて、大いに反省する必要を感じるものです。
無論こうした日本人の体質を一朝一夕に変えることはできません。
しかし、わたしたち一人ひとりが、こうした問題に目をつむることなく、きちんと向き合っていくことでしか、今回のような不幸な事件をなくすことはできないのではないかということを、多くの方に考えていただきたいと思うのです。
一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 今回の傷害事件が、多くの人の注目を集めることは、その事件性からして当然とは思うのですが、こうした「エンターテイメント」が世間に提供されることによって、政治を始めとするもう少し考えたほうがよい問題を考える時間が少なくなり、社会の趨勢というものが、なんだかなあなあに流されていくことについては、やはり一言言っておきたいと思います。
と、言いながら、この事件について書いてるんだから、
「お前だって同じ穴のむじなじゃないか」
ホメオパシーやEM菌などの代替医療について、それが非科学的であることを理由として批判する方々を、ネット上では時折り見かけます。
科学的な考え方の啓蒙という意味では、これらの「批判」にも社会的な意義はありえるのですが、多くのそうした「批判」は心理学的な意味での「否認」の域を出ないものであり、社会的には有効であるというよりも有害性の方が高いであろうことを以下簡単に述べます。
また、プラシーボ効果と自然治癒力についても一言書きます。
非科学的な「思考の枠組み」を「否定」することは社会の「健全性」を損なう みんなプラシーボ効果の凄さを知らないと思うから、意志と暗示による自然治癒力のこともからめて少し書いとくね 非科学的な「思考の枠組み」を「否定」することは社会の「健全性」を損なう 以前書いた記事、
・代替医療としての「ホメオパシーやEM菌の意義」と疑似科学「批判」の有害性について - *魂の次元*
について、しんざきさんという方が次のような記事を書いてくださいました。
・「ニセ科学批判は危険」と言っている人が勘違いしていること: 不倒城
おっしゃっているのは、
・ホメオパシーなどの「擬似科学的」医療について、「それを知らない、あるいは知っていてもその有効性について判断を保留している」人に対して、「それにはプラシーボ以上の効果はない」ことを提示することは必要かつ重要だ、
ということです。
この点については、しんざきさんのようなスタイルで、冷静にそうした「事実(と思っていること)」を伝える限り、大きな問題はないものと考えます。
しかしながら、実際の「批判」的な言説には、「疑似科学はけしからん」という感情的な主張が入り込むことが往々にしてあります。
そのとき、善意の「啓蒙」であるはずのものが、少数者を追い詰めるような「排外主義」の雰囲気をどうしてもまとってしまうことには、十分留意する必要があるのではないでしょうか?
その上、自分から記事を書いてそのような「啓蒙」をなさっている方たちとは違って、誰かが書いた記事にイナゴと見まごうばかりの勢いで集まっていらっしゃって、わざわざご丁寧にも「批判」してくださる皆々さまの場合、
自分の主張と異なる主張は見たくもない よって、言葉の暴力を使ってでもそうした言説を弾圧する という、ヒステリックと言いたくなるほどの「排外主義」にもとづいて行動していらっしゃるのではないかと、考えざるをえないほどの、強力な感情を露わにしての「批判」をなさっていらっしゃるのですから、
「こういうのってフロイトが言った否認ってやつの一種じゃないのかなー?」 といった疑問も浮かんでこようというものです。
こうした感情的な「批判」は、相手の誤りを正して導くという「啓蒙」的意見とは異なり、相手の人格を否定するだけの「攻撃」でしかないように思えます。
「攻撃」は社会に分断を生むだけであり、少数者が分断によって追い詰められればカルト化するだけだ、というのが前の記事で述べたことです。
これをもう少し一般化して言えば、
非科学的な「思考の枠組み」を感情レベルで「否定」することは、価値観の多様性にもとづく社会の「健全性」を損なうのではないか ということになります。
もちろん、以上述べたことは私見にすぎませんから、これとは異なる考えをお持ちの皆さまが、ネット上でどのようなご意見を、どのような感情と共に主張なさることも、すべて言論の自由というものでございます故、日本国の法律で制限されている「誹謗・中傷」のたぐいにならないようくれぐれもご注意の上、様々な修辞を書き連ねてわたくしめの記事を宣伝していただけるのならば、小心者ゆえ大変心労も多いとは言え、それこそ本望でありますので、どうかわたくしの弱い心などについてお気遣いなさらずに、叱咤激励いただければ幸いでございます。
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みんなプラシーボ効果の凄さを知らないと思うから、意志と暗示による自然治癒力のこともからめて少し書いとくね さて、前の記事に書いたプラシーボ効果と自然治癒力の関係については、
自然治癒力効果なんて研究は一言も書いていない。
研究では鎮痛効果と書いている。
https://abyss.hatenablog.jp/entry/2018/02/27/125921 というご指摘を白いケモノさんからいただきました。
確かに、言及した記事の大もとの記事である
・Placebos can work even when patients know the treatment is fake | Daily Mail Online
国民的アイドルグループTOKIOのベーシスト山口達也氏が、酒に酔って、未成年の女性知人を自宅に呼び、無理やりキスをした事件が世間を騒がせています。
山口氏は今年46歳。「いい大人が何をやってるんだ」というのが「常識」的な反応のようです。
この記事では、この事件についてあれこれ感想を書いてみたいと思います。
第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 依存症について 山口氏には同情あるのみ 第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 今回の事件では、被害者の女性の方とは示談が成立しており、「強制わいせつ」事件として書類送検されたものの不起訴処分が決まっています。
ですから法律の枠組みとしては、すでに決着がついているわけです。
しかしながら、社会的には「はい、一件落着!」と言えるような状況には到底ないわけで、テレビやネットでは大騒ぎをしている人たちが目立つ状況です。
この事件は「強制わいせつ」ということで、未成年の女性が被害者となっていますが、この女性を特定しようという悪質な行動もネット上では取り沙汰されており、事件だけでも十分に心に大きな傷を追ったであろう被害者に、二次被害が出ることのないよう、心から祈るものです。
また、事件を起こしてしまった山口氏については、飲酒が原因で体調を崩してひと月入院していたにも関わらず、退院した当日に泥酔してこのような事件を引き起こしたことを考えれば、彼が「依存症」であることは明らかでしょう。
「依存症」は生まれと育ち、そして大人になってからの環境が複合して原因となるものであり、しかもそうした原因が「本人の弱さ」という見かけを通して「病気」として現れるものですから、そのとき「お前は弱いからダメなんだ」というような厳しい言葉を投げることは、回復につながりません。
「依存症」は、人間関係をうまく築くことができず、絶えず「孤独」を感じることから起こる病気です。ですから、この「孤独感」を乗り越え、周りとの信頼関係を育てていくことによってこそ、この「病気」は克服されえます。
山口氏は、今回の事件をいいきっかけとして、きちんと自分の「病状」と向き合い、回復を目指して十分な取り組みをしていただきたいところです。
また、周りの方々には、彼の「休養」を暖かく見守ってあげてほしいですし、もしも彼に復帰を急ぐ気持ちがあっても、周りはむしろそれを抑えることで、彼が十分「回復」できる環境を整えてあげてほしいものです。
山口氏は、大きなお金が動くビジネスに関わるスターとして、いろいろと取り沙汰されることを逃れられませんが、周りの雑音に心を惑わされてあせることなく、ゆっくり休養されたらいいなと思うのです。
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芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 「パンとサーカス」という言葉があります。
古代ローマの詩人ユウェナリスが、政治に関心を失った市民は「パンとサーカス」すなわち「食べ物と見世物」を求める、と言ったのですが、21世紀の報道はすっかり娯楽化して、政治や経済といった物事の本質から目をそらすための「サーカス=見世物」になってしまっているのではないでしょうか。
事務次官がセクハラをしたとか、大臣が「キャバクラ」ヨガに公用車で通っていたとか、それぞれに報道するに値する社会的意義があるかもしれませんが、テレビのワイドショーを見ていると、そうした「意義」を超えて、いわゆる「覗き趣味」であったり、誰かを叩いて「鬱憤を晴らす」といった、娯楽の役割ばかりが強調されているようで、しかも、それがまったく当たり前のことになっていることに、ある種の違和感を感じます。
スポンサーは視聴率を取れればいいのでしょうし、政治を支えて、経済を回す企業こそがスポンサーなのですから、こうした「見世物」によって大衆が政治から関心を失うのはまさに好都合というわけでしょう。
インターネットがどれだけ普及し、いかに多様化しようとも、「マスメディア」としてのテレビの地位は揺るぎないものと思われ、TOKIOのような国民的アイドルグループは、ニッポンの集合的意識を操作するためにまったく便利な道具になっているようです。
依存症について 山口氏の事件の報道を見ていて、一番感情を動かされたのは、「依存症に対する世間一般の理解のなさ」によるものでした。
ぼく自身がアルコール依存でクリニックにかかり、断酒薬を処方してもらった経験があるためもありますが、この問題について「だらしがない」とか「意志が弱い」とか、はたまた「酒が悪いのではなく、本人の意志の問題だ」というような言葉を聞いていると、どうしても怒りの感情が湧いてきてしまうのです。
ぼくはヴィパッサナー瞑想に出会うことによって、アルコールに振り回されることはなくなりましたが、「依存症」というものは、本人が「今度こそやめるぞ」と思ったからといってやめられるようなものではありません。
もちろん、本人に「やめよう」という気持ちがあることこそ出発点になるのですが、それを支える環境がない限りアルコールをやめることはできないのです。
(一部の例外はあると思いますが、それは本当に稀なケースに限るでしょう)
「酒を飲まずにはいられない」という、その「底なしの孤独」を知らない人が、
「自分はこうやって普通に酒と付き合えるんだから、お前だってできるはずだ、できないお前はダメ人間だ」 と烙印を押しても、問題は悪化するだけです。
「酒癖が悪い」ことは確かに問題でしょうが、「酒癖が悪い」ことを責め立てても、その問題の解決には役に立たないのです。
残念ながら、多くの「普通の方々」は、「底なしの孤独」なんてものは知りたくもないようですから、そういう方が何を言おうと、それはただ聞き流すしか仕方のないことです。
けれども、もしもあなたに、「依存症」を抱える方の友だちとして、その問題を解きほぐしていく手助けをしたいという気持ちがあるのでしたら、その「依存症」の方が、どんなに「ダメ」な人間だったとしても、許してやってほしいと思うのです。
ここで「許す」というのは、「酒に逃げるのを許す」ということではありません。
「酒に逃げてしまった弱いその人を許す」ということです。
そしてそれは、「前は酒に逃げざるを得なかったけれども、もう酒に頼らなくても大丈夫なその人を信じる」ということでもあります。
イタロ・カルヴィーノは、20世紀のイタリアの作家のうちでもっとも有名といっていいくらい各国に翻訳されている作家であり、日本語でもほとんどの作品を読むことができます。その作風は、作品ごとにさまざまで、初期の代表作『木のぼり男爵』は寓話風の物語、日本では早川書房から出版されている『レ・コスミコミケ』はSF的ほら話の連作短編、ポストモダンの教科書とも呼ばれる『冬の夜一人の旅人が』はその本を読んでいるあなたが主人公になるメタ・フィクションです。