日本大学アメリカンフットボール部でラインバッカーをつとめる選手が、関西学院大学のクォーターバックをつとめる選手に、「悪質」な反則行為によって傷害を追わせた事件が、世間を騒がせています。

傷害行為を行なってしまった日大選手は当然罪をつぐなう必要がありますが、傷害行為を示唆したと疑われるコーチや前部長、ひいては、その前部長の任命者である日大の経営陣にも重大な責任があることは明らかと言えましょう。

さらに言えば、この事件からは、日大のそのような体質を許してしまう日本社会全体の持つ非民主的な性格についても思いを巡らす必要を感じます。

そこで、女子レスリング界におけるパワハラ問題や、TOKIOメンバーによる強制わいせつなど、どこか似たようなにおいのする事件が世間を騒がせ続ける今日この頃の、日本が抱える息苦しさについて、この記事ではちょろっと書いてみることにしましょう。

日大選手によると、事件は

傷害行為を行なってしまった日大選手によると、反則行為は元部長とコーチからの指示によって行われたということです。

記者会見の場で詳細に事情を明らかにし、十分に反省して、きちんと謝罪をした選手の姿はまったく誠実で謙虚なものであり、すがすがしさすら感じるものでした。

前部長やコーチを責めるような発言は一つもなく、ただ事実関係だけをしっかりと説明したことが、日大アメフト部の「暴力」的な負の遺産の解消につながっていけば、今回の反則行為で負傷した関学の選手や関係者の気持ちも報われるというものでしょう。

それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば

さて、前部長やコーチが記者会見で、自分たちの「不法」な指示を認めることができず、監督責任以外は認めない姿勢を見せることに、多くの批判がなされています。

けれども、彼らが自分の「罪」を認められないのは、まったく当たり前のことにも思えます。

というのも、そこで非を認めて謝れるような人間ならば、最初からそんな指示を出すはずもないのですし、選手の会見を信じれば、前部長やコーチは「恐怖政治」としか言えない手法によってチームを操っていたわけで、その実行においてはいくらでも言い逃れができるように巧妙に振舞っていたことが、報道からも透けて見えてくるからです。

平気で「不法」な指示を出すような人たちが、その非を認めず、謝らないからと言って、一々腹を立てていたら、今の日本ではストレスが多くなりすぎて生きていくのも難しくなってしまうのではないか、とすら思ってしまいます。

つまり、この問題の責任の所在はどこにあるのかと考えれば、少なくとも前部長止まりではありえませんから、彼に対して怒りをぶつけても仕方がないということです。

問題は当然、日本大学の経営陣にあります。

これだけ大きく世間を騒がせているにもかかわらず、理事長や学長のコメントの一つもないという時点で、誠に残念ながら日本大学は「終わってるなー」というのが正直な感想です。

さらに言えば、そうした大学の体質という問題を十分に取り上げないメディアも、結局は同じ穴のむじな、ということなのではないでしょうか?

また、大学を管轄する文部科学省の責任も重大です。

これだけの重大事件が発生しながら、日大がお手盛りの第三者委員会で調査をすることによって事件をうやむやにしようとしているのを黙認するような無責任なことは、到底道義にかなうものとは言いがたいでしょう。

そして、そのような官僚を黙認し、その官僚に十分ものを言えない政治家を選び続けるわたしたち国民自体に最終的な責任があることも、論理的に考えれば明らかなのではないでしょうか?

なお、5月22日付のニューヨーク・タイムズの記事は、この事件について次のように書いています。

But this incident has highlighted “power hara” and the obedience to authority and unwavering loyalty to the team that are highly valued in Japan.

The Football Hit Felt All Over Japan - The New York Times

試しに訳してみれば、
「この事件によって、『パワハラ』と、日本では高く評価される『権力への服従』と『チームへの絶対的な忠誠心』の問題が注目を集めることになった」
とでもなりましょうか。

我々日本人としては、この事件を日大アメフト部の問題として考えるのではなく、日本の社会全体の問題として捉えて、大いに反省する必要を感じるものです。

無論こうした日本人の体質を一朝一夕に変えることはできません。

しかし、わたしたち一人ひとりが、こうした問題に目をつむることなく、きちんと向き合っていくことでしか、今回のような不幸な事件をなくすことはできないのではないかということを、多くの方に考えていただきたいと思うのです。

一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども

今回の傷害事件が、多くの人の注目を集めることは、その事件性からして当然とは思うのですが、こうした「エンターテイメント」が世間に提供されることによって、政治を始めとするもう少し考えたほうがよい問題を考える時間が少なくなり、社会の趨勢というものが、なんだかなあなあに流されていくことについては、やはり一言言っておきたいと思います。

と、言いながら、この事件について書いてるんだから、
「お前だって同じ穴のむじなじゃないか」
という声が聞こえてきそうです。

そう思いたい方にはそう思っていただいて全くかまいません。

けれども、同じ題材を扱っても、ただ興味本位で取り上げるのと、それを自分なりの視点でもって、見えにくい面に光を当てるのでは、やっぱり違いが出てくるってもんじゃないですか?

もちろん、この記事がそういう違いを十分出せているかどうかは、読者の皆様の判断次第ではありますけれども。

パワハラ、強制わいせつ、女性蔑視、恐怖政治と、どの一つをとっても、さまざまな考察が必要になる深い話題なのですけれども、テレビや週刊誌は扇情的な言動を垂れ流すだけですし、大手の新聞も結局は事なかれ主義的な報道を繰り返しているだけのように思えます。

そうして「なんだかなー」という気持ちだけが社会に蔓延して、あっちからもこっちからも「戦争ごっこ」の景気のいい声が聞こえてきはじめて、ぼくたちの未来は奈落の底へ真っ逆さま……、なんてことにならないように、いや、なってしまっても大丈夫なように、今から「覚悟を決めた上で、日々を楽しく生きたい」ものだと、そんな脳天気なことを考えている今日この頃なのでありました。

てなとこで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬