楽天モバイルのゼロ円プランがなくなって、iijmio と povo が人気のようです。 iijmio のホームページにも2022/5/17付けで、本人確認と商品発送に時間がかかるとのお知らせが出ています。 IIJmio:【解消】お申し込みの集中による商品発送の一部遅延について さて、実際に2022/5/28 に sim と端末を申し込んで何日で商品が届き開通できるのか、経過を書いてみましょう。 2022年5月28日朝早くに申し込んで、本人確認まで。 2022/5/28土 に朝早くに申し込んだところ、申込み受理のメイルが届いたのが、お昼ごろ。 本人確認完了のメイルが来たのは、2022/5/31火 の夕方で、3日かかりましたが、土日が挟まってるので、1営業日でオーケーということかもしれません。 sim と携帯はいつ届く? sim と携帯はいつ届くのかな。届き次第更新します。 ※なお、平常時の開通までの期間についてはこちらが参考になります。 https://joshikikakusa.com/iijmio-device-days/ * * * 久しぶりにこちらに記事を書きました。 今後はぼちぼち更新していきたいなと思っとります。 てなことでみなさん、ナマステジーっ♬ * * * ……と、ひとつ記事を書いたのに、情報の追加もなければ、その後に続く記事もなし。 まったくオイラのやることはこれだからなー。 そんなこんなで今後ともよろしくお願いしまーす。(2023-02-09 北インド・デリー郊外のヒンドゥー寺より)

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牧野信一『「悪」の同意語』を読んでいる。 牧野は大正から昭和初期にかけての、太宰より一回りちょっと歳上の「ダメ作家」の先輩で、『「悪」の同意語』にも、思わず苦笑せざるを得ないようなダメ人間ぶりが、主に家族との関係を通して徹底的に描かれている。 これを読むと、ぼくのダメダメな人生など、まったく中途半端なものでしかないことを思い知らされ、21世紀初頭のインドの片隅でぷちブル的貧乏生活を送っている自分自身に、限りない幸福を見い出せるような気持ちになるから、可笑(おか)しなものだ。 ☆牧野信一『「悪」の同意語』 (2002 青空文庫オンデマンド) https://amzn.to/3xxhFUC

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中村篤史氏は、神戸市元町で「内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー栄養療法」のナカムラクリニックを開業しているお医者さんですが、反コロナとでもいうべき立場で、note.comに投稿を続けていらっしゃいます。 https://note.com/nakamuraclinic この記事では、氏が4/5付けで書いたのちにすでに削除してしまった「教授からの電話」という投稿を全文引用させていただきます。 著作権法上の制限から、予告なく削除する可能性もありますので、あらかじめご了承願います。 投稿内容の紹介と注釈 中村篤史医師「教授からの電話」全文 投稿内容の紹介と注釈 中村氏の投稿は、 「テレビにもよく出ている某教授が、氏のクリニックに電話をかけてきて、コロナワクチンの問題点について語った」 というものです。 教授は、 「ワクチンを打てば血栓ができるのは当たり前、というのも、すでに抗体を持っている人ならば、ワクチン成分が取り込まれた血管内皮が攻撃され傷つけられるから。それなのにテレビに出る専門家はそのことを言わない」 という意味のことを語っています。 この教授の意見がどこまで信頼するに値するかは簡単には言えませんが、ワクチンについて専門家の中にも、このような懸念を示している方がいることは、ワクチン接種を受けるかどうかを決める際に、知っておいたほうがいいことでしょう。 なお、中村氏が投稿したのちに、すぐ削除してしまった理由については、本人以外は知りようもないことてすが、教授本人から削除を要請されたと考えれば、特別の不思議はないでしょう。 この記事を読んでくださっている皆さんには、その教授が誰なのかといったことには深入りしないで、匿名の専門家からの情報として、内容を検討していただければ幸いです。 念のためつけ加えると、ぼくはワクチンの接種自体を否定するわけではありません。 けれども、社会全体として、接種を積極的に推進すべきなのか、それとも個人の判断に任すべきなのか、あるいは打ちたい人は打てばいいというようなものなのか、そういう選択肢というものを、副反応とか副作用とか呼ばれるものについてもきちんと知り、そしてワクチンの効果についてもしっかり知った上で、自分なりの考えを持つことが大切だと思うのです。 皆さんが今回のワクチンについて考えるための一助として、この記事が少しでもお役に立てば幸いです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 中村篤史医師「教授からの電話」全文 コロナ関係の話題でテレビでしばしば見る某教授から、当院に直接お電話いただいた。受付から「○○教授からお電話です」と聞いても、意味が分からなかった。その教授は、僕にとって、完全に「テレビの中の人」だったから。『そこまで言って委員会』かもしれないし『TVタックル』かもしれない。とにかく、「テレビの中の人」である。その人が僕に電話をくれたというのだから、意味が分からない。急に現実感がなくなるような、夢の中にいるような錯覚を感じた。 しかし電話の向こうの声は、確かに、テレビで聞き慣れたあの教授の声だった。 「noteで見ています。僕らがなかなか言えないことを言ってくれてて、ありがとうございます」 とんでもない。こんな高名な先生に読んでもらっているなんて、想像もしない。僕は恐縮して、うまく言葉が返せなかった。 「僕が一番もどかしいのは、コロナワクチンを打って血栓ができるということ、あんなの当たり前なのに、学者は誰もそれを言わない。コロナワクチンは筋注です。筋肉から毛細血管に入り、そして血中にまわる。ワクチンの成分が血管内皮細胞に取り込まれる。もし、この人の体にすでにコロナに対する抗体があれば、血管内皮を攻撃して傷ができる。こんなの当たり前です。従来のタンパク型ワクチンなら打ったところにマクロファージが来て抗原提示して、といった反応が起こるところ、すでに細胞性免疫の成立している人が打てば、攻撃にかかる。だからひどい副反応が出る。当然皮膚に現れるけど、それだけではありません。血管そのものを攻撃するから、血栓もできる。 当然のメカニズムなんです。でも、テレビのなかの学者はそれを言わない。学者が「なぜ起こるかわからない」って言うんだけど、その発言の意味がわからない。本当にわかっていないのなら、もう学者じゃなくて素人でしょ。 だから、コロナワクチンの接種希望者に対して国がやるべきことは、まず最低限、抗体検査。その人がコロナに罹患したことがない確認が要る。あるいはCTL検査。これは日本ではできないけど。 もっとも、抗体はすぐに消える。軽い感染では抗体も残っていない。こういう人に1回、2回ワクチンを打つと、大変なことになる。まったく感染したことのない人ならともかく、すでに感染歴のある人ならやばいと思う。 あと、「ワクチンの接種によってコロナ検査の陽性者が頻発している」っていうのをさも異常事態のように言っているけど、これも当たり前。腸管にウイルスがいる人もいる。ワクチンによってサイトカインやIL4が誘導されて、マクロファージが活性化して、ACE2受容体が発現する。すでにそういう論文が出ている。腸管にウイルスがいる人がワクチン接種を契機にマクロファージが全身にまわる。こんなの当然です。 みんなボケてるのか頭が悪いのか、わからない。あと、やばいなって思うのは、コロナワクチンが変異株に対して感染防御効果がないだけならまだしも、逆に感染しやすくなる可能性。これ、本当にやばいと思う。冬に全然違う変異株が出たとき、ワクチンを打った人だけが重症化しやすい、っていう可能性は十分ある。だから、僕は言ってるんです。「コロナを今止めたいかもしれないが、医療者への接種は全員ではなく、せめて3分の1にしてくれ」と。 コロナワクチンを打った医療者全員が変異株によって重症化したら、日本の医療はパニックになる。 10%の確率で墜落する飛行機があるとして、そこに医者全員を乗せるようなものです。墜落は、即、医療の崩壊を意味します。こんなリスクのある施策を、行政がとってはいけない。 僕は自民党の議員にこの点を指摘して、何とかしてくれるよう言いました。しかしどの議員も及び腰です。 どうせワクチンの作用発現なんて、ゆっくりだから大丈夫っていう先生がいる。でもそれって詐欺でしょ。コロナウイルスは何度もかかる。同じウイルスに何度もかかる。なのに今全員にワクチン打ってどうするのかって思う。でも〇〇教授は「細胞性免疫を誘導してるから大丈夫」っていう。 いや、怖いよ。ワクチン接種によって、普通に感染する以上に強い免疫誘導をすることについて、恐怖感がなさすぎる。自分の血管内皮を攻撃しちゃうかもしれないんだよ。 さらに突っ込んだことを言うとね、僕は免疫というのは有限だと思っている。何かに対する免疫がつくと、何かに対する免疫は下がると思う。他のウイルスに対して弱くならないか、って危惧してるわけ。 たとえば、大して恐れる必要もないカンボジア軍に対して、自衛隊が戦力の50%をカンボジア軍特異的な配置にしたらどうなるか?結果は見えている。中国軍にあっという間にやられるだろう。 不必要に強すぎるワクチンはダメなんだ。論理的に考えて、血栓や流産は当然。偶然起こるんじゃない。必然だよ。ワクチンでサイトカインを暴走させているわけだから。予言しておくけど、うつ病や精神的不調も続発しますよ。 はっきり言って、ワクチンに関して、みんな常軌を逸している。僕がこれまで尊敬していた専門家が、テレビの中では、とんでもない頓珍漢なことを言っている。僕は聞きたいんです。一体何があったんですか?なぜ当たり前のことを言わないんですか?お金ですか?圧力ですか? ちょっとテレビでは言いにくいことだけど、僕は、接種後すぐに出るアナフィラキシーに関しては大したことないと思っている。アドレナリンとかで助かるから。もっと他にやばいことがあると思っている。サイトカインの暴走です。理屈で考えれば、起こるに決まっているし、実際起こっています。 そもそもコロナは、欧米に比べて、日本では大して流行ってない。仮に1千万人に打っても、集団免疫にもならない。マスクを外したいから、ってわざわざ打っても、感染防御効果は7割ほど。3割は感染するわけ。 結論、弱毒化するまで待つしかない。どうせ多くの日本人はかからない。だから僕は言ってるんです。あと1,2年は待とうって。 どうせ弱毒化します。変異するにつれて弱毒化する。変異して感染力が高まる可能性はある。でも、弱毒化するからどうってことはない。 打ちたい人は打てばいい。でも打つ打たないは、こういう情報を知ったうえで判断すべきでしょ。医者で立場上打たないといけない人もいるだろう。でもリスクは十分承知しておくべき。打つと、次の冬には診療できなくなるかも、と。 僕もテレビに出演する側の人間だけど、確かに「遠回しにしか言えない」タイプの事柄はある。『そこまで言って委員会』も「僕は打ちません」程度しか言えなかった。それでも、ネットでさんざん叩かれた。「あいつは反ワクチンだ」って。

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横光利一の「欧洲紀行」を読んでいる。 1936年のベルリン・オリンピックの取材がてら、船でフランスに渡り、ヨーロッパ各国を見聞し、シベリア鉄道で帰国の途、内モンゴルの満州里に到着するまでの思索的な紀行文である。 横光利一は短編「機械」がサルトルからも賞賛を受けるほどの実力の持ち主だが、八紘一宇を素朴に信じ、戦時体制に率先して協力したことが大きな原因なのだろう、今ではほとんど忘れ去られた昭和の作家である。 状況からほどよくその身を切り離して観察する横光の書くヨーロッパは、世界がまだ広かった頃に、半年ほどの見聞でその狭さを実感してしまった男の、怜悧な頭脳の働きを映し出していて興味深い。 例えばこんな具合である。 外国から帰ると馬鹿になるという説は、日本人の間では常識である。しかし、これではたしかに、馬鹿になるよりしようがない。 人間が地上を完全に一人で廻ってみたということは、古往今来絶無なのだ。世界の話というものからよせ集めた知力が、つまりわれわれの知っている論理である。この誰もの信じている論理からどれほど多くのことが洩れているか。否、むしろ、洩れているものの方が、知っているものよりどれほど多いか。こういうことに気附いたとき、この者は馬鹿になる。これは懐疑主義というがごとき、言語心理学的な間延びのした知的なものではない。 万国共通の論理というものがある。これも同様に人間の不完全性から押し上げて来た電流のようなものだ。その証拠にこれが絶えず変るのは、知性の極がどこにあるのか分らぬという危険さを示したことだ。全く何も分らなくなった安全さ――この頭からばかり弁証法という知力が出て来た。私はヨーロッパを廻って来た人で、おのれが賢明になったと信じる人の頭を疑う。 「欧洲紀行」には幾人かの自殺者の名が出てくるが、そのうちの一人に牧野信一がいる。 横光は門司港を2月22日に出港しているが、牧野の自殺は3月24日。 2歳歳上の作家が39歳で首をくくって死んだのをフランスへと向かう船上で知って、横光は何を思ったことだろう。 その牧野信一についてネットで検索したところ、下記のページに遭遇。 以下、松岡正剛の千夜千冊1056夜・牧野信一「ニューロン・淡雪」の回(https://1000ya.isis.ne.jp/1056.html)より引用。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 哲学と芸術を分岐点に衝突すると、自由が欠ける。そこでやむなく自分を3つに分けた。Aの自分は黄金の吊籠が上下する呑気な芸術家である。Bはストア派の血をうけて聖人の下僕たらんとする者である。Cはピサの斜塔にいて金属球の落下を測るあの科学者の弟子である。 これが牧野信一の『吊籠と月光』の発端だ。こういう三分三身法を思いついた「僕」は嬉しさに雀踊りをしながらインディアン・ガウンを羽織って、この三者の絡みぐあいをこれから見ていこうという小説なのだ。まったくもって奇天烈だ。 劈頭に「マキノ氏像」という彫像が出てきて、これについては自分も始末に思案しているのだが、そのためには馬のゼーロンの勇気を借りなくてはいけないというふうに始まるのが、『ゼーロン』である。これまたとんでもない発想だ。 本書には12篇の作品と随筆が収録されているのだが、どれもがこんなぐあいで、その大半は昭和2年から7年までのわずかな期間に綴られた。実はその前の大正期のものは、もっと変なのだ。 (中略) かつて三島由紀夫は中央公論社の「日本の文学」に内田百閒・稲垣足穂とともに牧野信一を収録して、それまでにまったく顧みられることが少なかった3人の比類のない才能を評価しようとした。 さすがに三島の編集力は冴えていて、たちまち百閒も足穂も浮上して世間を驚かせた。三島はそのあと自害した。ところが牧野信一ばかりは三島をもってしても蘇生させられなかったのである。 北インドの聖地ハリドワルで、新型コロナの時代の幕開けに遭遇し、その地にとどまったまま早1年が過ぎた。疫病がほどほどに蔓延する中、12年に一度の大祭クンブメラが、規模こそだいぶ縮小されたものの、もうじき始まる。1年前の人影の絶えた街の静寂が幻のように、街は活気を取り戻している。 そんな状況に身を置いて、昭和の昔の日本の、まだ敗戦を知らぬ時代の人々の暮らしに思いを馳せながら、読書にいそしむ日々である。 ☆この記事で紹介した本 横光利一『欧洲紀行』 (2006 講談社文芸文庫) https://amzn.to/3stUHuI 横光 利一『機械・春は馬車に乗って』 (1969 新潮文庫) https://amzn.to/3cz0zgZ 牧野信一『ゼーロン・淡雪 他十一篇』 (1990 岩波文庫) https://amzn.to/39iKFVB

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仏教の教えは、人生で出会うあらゆることが「苦」を生むという事実を確認することから始まります。 その上でその「苦」を乗り越えて「涅槃」という絶対的な安らぎの境地を実現する具体的な方法としての「八正道」が説かれます。 この記事では「苦」というものが、「どんなに満ち足りても満足することができない人間の限りない欲望」を原因とすることと、それを解決するためには「今ここをいつも意識する」というマインドフルネスの方法論が有効であることについて、 「予測・満足・制御の不可能性」という観点から説明します。 無常だから苦が生まれる。予測と満足の不可能性について。 自分と言えるものは本当はない。「無我」と「制御の不可能性」 八正道とマインドフルネス。「今ここを意識する」ことからすべては始まる。 今ここに意識をしぼることができれば、予測も満足も制御も、意識的にする必要はなくなる。 無常だから苦が生まれる。予測と満足の不可能性について。 仏教では、この世のすべての現象は「無常」であると説明します。 変化しないものはない、物事はやってきては去っていく、生まれたものはいずれは死ぬときを迎える、ということです。 そして、この「無常」の物事に執着することから「苦」が生まれると考えるのです。 恋人と過ごす時間は甘美で幸せなものですが、それが永遠に続くことはありません。 いずれは関係性は変わらざるをえないのに、いつまでも「今の幸せ」を握りしめて手放そうとしないとすれば、いつの間にかそれは変質して、幸せだった二人の時間が、互いに相手を支配しようとする苦痛の時間になりかねません。 この「無常」ということを別の視点から考えると、「将来を予想できない=予測の不可能性」ととらえることもできます。 今は幸せな恋人との関係が、将来どうなるかが分からないために、不安をいだき、今の状態に執着することにつながるわけです。 そして将来への不安や、関係性の悪化という「苦しみ」は、「現状に満足できない」ということでもあります。 今ある幸せな関係に満足できず、それが壊れたときにも、壊れてしまったという事実を受け入れることができないとき、そこには不満が生まれ、苦しみが生まれます。 「苦」という言葉の意味は、「この世では完全な満足は得られない」ということなのです。 自分と言えるものは本当はない。「無我」と「制御の不可能性」 「無常・苦・無我」の三番めの無我は、「これこそが自分と言えるものは本当はない」ということを意味します。 このことの一つの考え方として、「自分といえるものがあるなら、それを制御(コントロール)できるはずだ、だけれど本当に制御できているだろうか」という問いかけがあります。 仏教では生老病死を「苦」の代表として考えますが、あなたは生まれるかどうかを自分で決めて生まれてきたでしょうか。 老いることが嫌だからといって、老いないことにできるでしょうか。 病気になるかならないかを自分で決められますか。 そしていつか死ぬことは避けられません。 自分の行動は自分で決めている、とあなたは言うかもしれません。 けれども、それだって本当でしょうか。 あなたは怒りたいから怒るのですか。周りの状況に反応して怒っているだけではないですか。怒ってしまったときに、怒るのをやめることができますか。 喜びや悲しみなどの感情も同じことです。自分でコントロールできないのに、その感情は自分のものだと本当に言えるでしょうか。 ここで「自分が本当はない」という考えに納得がいくかどうかは、一旦置くことにしますが、「無我」という考えが「制御(コントロール)の不可能性」と大きく関連していることは理解していただけたことと思います。 さてそれでは「予測・満足・制御」が十分にはできない人生を幸せに生きるためには一体どうしたらいいのでしょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 八正道とマインドフルネス。「今ここを意識する」ことからすべては始まる。 仏教では「苦から逃れ、幸せに生きるためには八正道を実践すればいい」と考えます。 八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。 正見、正思惟は、正しい見解と正しい考え方のことで、この二つを合わせて、智慧とします。 正語、正業、正命は、正しい言葉、正しい行ない、正しい生計の立て方のことで、この三つを、倫理とします。 最後に、正精進、正念、正定は、正しい努力、正しい注意力、正しい集中力のことで、これが瞑想を意味します。 以上のように八つの道が、智慧(慧え)・倫理(戒かい)・瞑想(定じょう)の三つに分類されます(戒定慧の順番で呼びます)。 この八つの道がそれぞれに支えあって、幸せな人生が実現していくのですが、このうちの一番大切なものといってよいのが、瞑想(定)に分類される正念(しょうねん)、正しい注意力で、これがマインドフルネスのことです。 今ここで起こっていることを価値判断を加えずに観察すること、それがマインドフルネスであり、呼吸に注意を向けることがその第一歩になります。 今ここに意識をしぼることができれば、予測も満足も制御も、意識的にする必要はなくなる。 予測できない、満足できない、制御できない。 人生における困難や不幸はすべてこうした状況で起こります。 そして、こうした困難な状況を乗り越えるための基礎的な力として、マインドフルネスは役立ちます。

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ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンはマインドフルネスがアメリカの精神療法に取り入れられるきっかけを作ることになった人物である。 マインドフルネスと並んで彼が提唱している重要な概念がインタービーイングであり、日本語にすれば「相互存在」というところだろう。 インタービーイングという言葉は「この世界の中の存在は、個別に独立して存在しているのではなく、相互に依存しあって存在している」ということを意味している。 ティク・ナット・ハンは「一枚の紙の中に雲を見る」ということについて、インタービーをこう説明している。 もしもあなたが詩人なら、この紙のうえに雲が浮かんでいるのが、はっきり見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ紙はできないのですから、この紙がこうしてここにあるために、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったなら、ここにこの紙は存在しません。それで雲と紙はインタービー(相互共存)しているといえるのです。 interbeing | ともにあること (以上、『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』https://amzn.to/378RGIr の一節を孫引き) ティク・ナット・ハンは1966年にティエプ・ヒエン教団を立ち上げているが、ベトナム語のティエプ・ヒエンは漢字では「接現」となり、「接=接する、続く」、「現=現れる、今ここに現す」の意味で、これをナット・ハンは「インタービーイング」と訳した。そして、インタービーイングは仏教の教えのうちの「無我、十二縁起、中観」を意味すると説明している。 *1 漢語としての接現は、「今ここに現れ続ける」と解せるが、その背後に「相互存在として」という意味が隠されているということなのだろう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 先ほど「一枚の紙に雲を見る」という話は、実は般若心経の内容を説明するためのものである。*2 ナット・ハンはインタービーイングを「無我、十二縁起、中観」と説明しており、般若心経は「中観=空(くう)」を説く経典であるから、その意味では納得できる。 そして、「あらゆるものの本質は空である」ということと「十二縁起=この世の全ては因果の連鎖によってつながっている」ということを合わせたとき、「紙の中には雲がある=すべての存在は、相互に依存して存在している」という説明の意味も十分に理解ができる。 この説明の仕方は、般若心経に新たな光を当て、新鮮な風を送り込むものとして、すぐれた解説だと言える。 しかしながら、「納得」も「理解」もできるが、インタービーイングという言葉が「般若心経の心」を表し、「無我、十二縁起、中観」をまとめて表現するためには、もう一つの「補助線」が必要である。 それが華厳思想の一即一切(いち・そく・いっさい)という考え方である。 これは「一即多・多即一」とも言われるが、「一つのものにすべてのものが含まれ、すべてのものが一つのものとして統合されること」を意味する。*3 ナット・ハンは、この考え方をインタービーイングという言葉に込めたわけである。*4 上座部系の瞑想実践においては、「気づき=マインドフルネス」とともに、「慈悲=コンパッション」が強調されるが、ナット・ハンの場合には、インタービーイングという言葉を通して、「世界のすべての存在がともに平和にあること」の大切さを説くことで、慈悲と同等の価値を説明しているわけだ。 以上、インタービーイングと華厳思想の関係についてネット上で解説している記事が見当たらなかったので、覚書の作成まで。 ☆今回参照したティク・ナット・ハン師の著作 「微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践」 https://amzn.to/378RGIr 「仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす」 https://amzn.to/3nXTVVd ※誤字・脱字など乞う寛恕。連絡も歓迎。 *1:http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Interbeing より *2:http://www.ne.jp/asahi/bodhipress/way/news/kimoti.html 参照 *3:http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%8D%B3%E4%B8%80%E5%88%87 参照。なお、一即一切は華厳経の言葉ではなく、華厳経を解説した『華厳五教章』の言葉なので、厳密にはここで取り上げるべきは「相即相入」なる概念なのだが、次の注の参照ページ内の棚橋氏の説明に合わせるため、「一即一切」を説明した。相即相入については http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9B%B8%E5%8D%B3%E7%9B%B8%E5%85%A5 参照。ティク・ナット・ハンは相即相入を英語で interconnectedness と説明していると思われる *4:『ビーイング・ピース』の解説で訳者の棚橋氏が華厳経について言及している。 http://blog.livedoor.jp/t2san/archives/50441740.html 参照

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仏教では「一切皆苦」といい、「生老病死のすべてが苦である」とも言います。 日本では仏教が葬式と結びついていることもあり、これだけを聞くと、 「仏教って悲観的で辛気臭いよな」 と思ってしまいがちです。 けれども仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが実際に言ったのは、 「この世のすべては苦しみの元になりうるが、正しいものの見方を身につければ苦しみを離れて、幸せな人生を送ることができる」 ということです。 実際のところ、ぼくたちの人生は思う通りにはならない、不自由なものです。 お金がもっとほしいと思ったからといって、お金が入ってくるわけではないし、素敵な恋人がほしいと思ったからといって、理想の恋人が見つかるわけではありません。 仏教における「苦」というのは、こうした「思い通りにはならないこと」からくる「不満足」のことであり、また、イヤでもやってくる「ストレス」のことでもあります。 そして仏教では、こうした「苦≒不満足≒ストレス」が生じる原因は、ぼくたちがこの世界の現実をよく理解していないからだ、と説明します。 この無理解のことを「無明」と呼びます。「真実を明らかに知っていない」という意味です。 ここで理解するべきだという「この世界の現実」というのは、 「この世のすべてのものは変化するものであり、不変のものは何もない≒無常」 という事実と 「すべてが無常であるとき、これこそが不変の自分であると言えるようなものも存在しない≒無我」 という事実の二つのことです。 ☆無常と無我についてはこちらの記事もどうぞ。 ・初期仏教における「無我」の考え方。あるいは、自分を体や感情と同一視しないこと。 - *魂の次元* ・「怒り」というやっかいな感情とどう向き合うか。あるいは、「怒り」についての私的考察。 - *魂の次元* 無常と無我の考え方を理解してかていないと、「変わりゆくもの」と「自分や自分のものと思い込んでいるもの」に対する執着が生じ、この執着が「苦しみ」原因になるというのが仏教の考え方です。 たとえば「お金がたくさんほしい」と思って、もしも実際にお金が得られても、使ってしまえばなくなってしまいます。 お金を使った得られた満足で、そのときは幸せな気持ちになれたとしても、過ぎ去ってしまえば、もうその満足はそこにはありません。 頭で思い描く「素敵な恋人」に出会えた場合も、恋い焦がれて夢中のときには、会うだけで幸せな気持ちになれるでしょう。 けれども逆に言えば、会えないときは不幸せな気持ちになりかねませんし、最初のときめきが過ぎてしまえば、そこには不満が生まれてくるおそれもあります。 変化するものに執着している間は、瞬間瞬間の満足は得られても、心の安らぎは得られないのです。 ここで発想を逆転させてみましょう。 無常と無我という考え方をよく理解した上で、無常で無我なこの世のものごとに執着することをやめてみるのです。 ほしいものを握りしめて「絶対手放さないぞ」と思ったり、逆にイヤなものを毛嫌いして「こんなものどこかへ行ってしまえ」と思ったりすることをやめます。 ほしいものを手に入れても、それがいずれはなくなることをはっきりと知り、イヤなものが現れても、それもいずれはなくなることもはっきりと知るのです。 そうすれば、ほしいものが手元になくても、イヤな気分にならず、いつも落ち着いた気持ちでいられます。 また、イヤなことが起こっても、それは永遠に続くわけではなく、やがて去っていくのですから、しばらくの間、辛抱してつき合うことにすれば、それによって心が乱されることもなくなります。 このように「選り好みも毛嫌いもしない≒執着心がない」状態になれば、どんな状況に置かれても、苦しみを感じず、不満も感じず、ストレスとも思わないような心境でいることができるようになるのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 人生から苦しみをなくしたければ、執着心をなくせばいい。 言葉にしてしまえば、簡単なことです。 けれどもこれを実際に実行するのは、なかなか難しいことになります。 ほしいものが手に入らなければ不満に思い、イヤなことが起これば不愉快に思う。それが人間というものです。 けれども、もしあなたが本当に幸せになりたいのなら、今この瞬間にも「執着心をなくすぞ!」と決意する必要があります。 「自分にはできる!」と信じて決意し、それを持続的に実行していくことができれば、あなたは少しずつ理想の状態に近づいていくことになるのです。 まずは鼻から三回深呼吸をして、体と心の余分な力を抜いてみてください。 力を抜いてリラックスすれば、今までは使えずに垂れ流しになっていた心の力が、意味のあることに使えるようになります。

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ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。 一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。 もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。 これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。 後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。 この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。 けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。 たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。 曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。 ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。 どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。 仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。 「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。 たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。 このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。 初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。 三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。 こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。 初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。 けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。 同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。 その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。 「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。 仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。 仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。 瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。

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前の記事では、仏教の「無我」という考え方について説明しました。 https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga 私的なことですが、今日は怒りを相手にぶつけてしまう体験をしたので、そのことを「無我」の考えともからめて書いてみます。 「怒り」という感情はやっかいなものです。 自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、それを抑え込んでも、あとあとに悪い影響を残しますし、相手に直接ぶつけたりすれば、これも大きな問題になりかねません。 そこで「怒り」という感情を押さえつけず、そして外に出しもせず、きちんと観察することで対処しましょう、というのが、ヴィパッサナー瞑想のやり方になるわけです。 もちろん、これは簡単なことではありません。 「怒り」に心が乗っ取られてしまっているときには、それを冷静に観察することなどできるものではありません。 けれども、瞑想の練習にある程度慣れてくれば、怒りが少し収まってきて、自分が怒っていることに気づいた時点で、「あ、今自分の中に『怒り』があるな」と観察し、「息が荒くなってるな」とか「頭に血が上ってるな」などの体の感覚を観察することができるようになります。 そうして「怒り」と、それに伴う体の感覚を観察し、それが次第に弱まっていき、やがては消えてなくなるところまで見届けることができれば、これが一番理想的と言えます。 「この世に起きることはすべて一時的なものであり、生じては消えていくものにすぎない」というのが、仏教において無我と並んで重要な「無常」という考えの意味するところです。 * * * さて、「怒り」のような強い感情が生じて、しかもそれを相手にぶつけてしまった場合、そのことがどうしても頭から離れない、というようなことが起こります。 今日のぼくの場合は、怒りを相手にぶつけてしまったこと自体は、それはそれで自然な反応であり、それを「悪いこと」と考える必要はないのだ、と頭では納得できていました。 けれども、「怒りを相手にぶつけるのは悪いことだ」という考えが染みついているもので、後味の悪さが残ってしまい、しばらくの間「怒りをぶつけてしまったこと」が、繰り返し頭に浮かんできました。 こうして思考がとらわれた状態になると、「自分は悪くない、相手がこうしたから悪いのだ」といった相手を責めて、自己正当化をすることになりがちです。 そうやって自己正当化をしてしまうと「本当は怒りをぶつけないほうがいい」のに、「怒りをぶつけても構わないのだ」と勘違いすることになります。 ですから自己正当化をしている自分に気づいたら、「あ、また自己正当化をしているな」と確認した上で、「でもやっぱり怒りはぶつけないほうがいいぞ」と正しい方向に考えておくことが大切です。 幸い今日はそうした自己正当化には陥らずに済み、何度も怒った事実が思い起こされることで「『自分は怒りをぶつけてはいけない』と強く思い込んでるんだなぁ」と確認することができました。 こうして自分のクセが確認できれば、時間はかかりますが、段々とそのクセをなくしていくことができます。 このようにして、そのときそのときに自分に起きていることを肯定も否定もせずに観察し、確認していくことが、いわゆるマインドフルネスの練習ということになります。 * * * 「自分は怒りっぽい」とか「自分は意志が弱い」とか、いろいろな思い込みをぼくたちは持っているものです。 けれども、自分というものも変化をし続けるものであり(無常)、「怒り」とか「意志の弱さ」とかいうものは、あるときのあなたの状態としては存在しても、それがあなただというわけではありません(無我)。 そして、無常で無我である様々なものに執着するとそれが苦しみを生むもととなるのだ、というのが仏教の世界観です。 逆に言えば、この世のすべてのものが無常で無我であると理解できれば、すべての苦しみはなくなってしまうのです。 すべての苦しみがなくなるなんて、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。 けれども、この大それた主張が仏教の第一原理になりますので、それについては次の記事で説明したいと思います。 てなことで、みなさんそれではナマステジーっ♬ ☆なお、マインドフルネスの背景にある仏教的世界観について知りたい方には、こちらの本がおすすめです。 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法」(1999 春秋社) https://amzn.to/2CdFQ2M

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「瞑想で一番大切なのは、物質や心理的現象を自分と同一視することをやめることだ」とビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師は言っています*1。 別の言葉で言えば、初期仏教における瞑想の大きな目的の一つは、「無我を体験的に理解すること」なのです。 そして「無我」という考え方が腑に落ちれば、人生における厄介ごとは格段に減ります。 「無我」というのは、「普段あなたが自分だと思っているものは、よくよく観察すれば自分だとは言えない。『これが自分だ』と言えるようなものは何もない」ということです。 「自分」とか「自分のもの」とかいう考えに慣れ親しんでいるわたしたちは、「自分は存在しない」などと言われたら、驚き、傷つき、がっかりしたり、否定したりするかもしれません。 けれども、落ち着いて検討してみれば、この考えは決しておかしなものではないことが分かります。 たとえば誰かが、あなたを傷つけるようなことを言ったとします。 あなたは不愉快に思い、何か言い返してやろうかと考えます。 つまりあなたは「怒った」のです。 ですが、これを「無我」の視点から眺めると、別のことが言えます。 イヤなことを言われたあなたの中に「怒り」の感情が起こります。けれどそれを自分と同一視する必要はないのです。 ただ「自分の心に『怒り』が生じたこと」を観察するにとどめ、それに反応して「相手に言い返す」ことはやめておきます。 言い返せば相手はさらにイヤなことを言ってくるかもしれません。 余計なことは言わないのが得策というものです。 こうして「自分が怒った」と捉えることをやめ、「自分の中に怒りが生じた」と考えるようにするのが、「無我」を理解する第一歩です。 この視点に慣れてくれば、自分と感情を同一視しないですむようになり、自分の体を自分だと勘違いすることもなくなっていきます。 いずれは、「自分は歩いている」と考える代わりに、「この体が歩くという動作をしている」というように、完全に自分を取り払った捉え方もできるようになるはずです。 そうなれば、自分を特別視することもほとんどなくなりますから、執着や怒り、好き嫌いなどの感情に左右されることも、格段に減ります。 ☆『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社) https://amzn.to/3k3Gvox こちらの本はウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。 中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。 *1:"snow in the summer" p.11, https://holybooks.com/snow-summer-sayadaw-jotika/

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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