*魂の次元* (by としべえ)

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過去を未来へつなげるために - sns時代の言葉の役割 - 高橋源一郎氏の講演から自由連想的に

京都に拠点を置く短歌結社「塔短歌会」が2019.8.24に行なった「現代短歌シンポジウム IN KYOTO」にて、作家の高橋源一郎氏が講演されています。*1

この記事では高橋氏の「過去の言葉を受け止め、編み直して未来へ届けてゆく」という言葉をヒントに、sns時代に言葉が持つ役割について考えてみます。

伝言ゲームとしての世界

高橋氏は、snsという新しいメディアの登場によって、現代はもっとも言葉が生産されている時代だと言います。そしてそれは同時に、もっとも言葉が聴かれていない時代なのだとも。

snsによって誰もが気軽に「声」を発することができるようになった以上、ほとんど聴かれることもなく消えていく「声」が無数に存在することも、いわば当然のことです。

高橋氏はボイスという言葉を使っていますが、書き言葉にも文体ではなく、もう少し肉体的な「声」があるというんですね。

そしてその「声」はあたかも超伝導のように永遠に届くのだそうです。

DNAが複製されて世代から世代に受け継がれていくように、過去からの「声」もリレーされて未来へと送り届けられていく。

短歌を詠む人も小説を書く人も、言葉に従事している人は、「受け取って、編み直して、送り出す」のが役割であり、義務であるというのです。

作家である高橋氏は、書き言葉についてこのように話すわけですが、ぼくたちの人生自体がある意味「伝言ゲーム」ですよね。

親や大人の話を聞いて育ち、友だちとのやりとりを通して言葉の使い方に慣れ親しみ、日頃言葉を発することで世界に働きかけていく。

幾千万の世代を越えた「伝言ゲーム」が、今のぼくたちの住む世界を作り出したというふうに考えるのも、ちょっとおもしろいのではないでしょうか。

☆高橋源一郎氏の小説はこちらがおすすめ。〈石川啄木が伝言ダイヤルにはまり田山花袋はアダルトビデオを監督する〉日本の近代文学がパロディーで学べます、笑。
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過去から未来へ言葉を送り届けることが、ざわついた今の世界への反撃

講演の中で高橋氏は、小沢一郎も安倍晋三も大嫌いだったと語ります。

けれども著作を読んでみた結果、小沢は大好きになり、安倍はかわいそうと思うようになったそうです。

本を読んでその人の「声」を聴くとき、それを簡単に否定することはできなくなるし、軽々しく悪口も言えなくなる、と言うのです。*2

そして安倍氏という人物にも共感を示した上で高橋氏は、安倍首相に代表される「ざわついた今の世界」に反撃するためにこそ、「読まれるのを待っているたくさんの本=過去の言葉」を「受け取って、編み直して、送り出す」ことが必要だというわけです。

作家として、言葉に従事する者としては、まったく正しいあり方の一つに違いありません。

過去から未来へと言葉をつないでいくことは、確かに大きな力になりえることでしょう。

さてそのとき、snsで大量生産、大量消費される言葉の渦に巻き込まれているぼくたち一般の人間には、何ができるのでしょうか。

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文章の価値、好み、「声」

さて、この記事を読んでいるみなさんは「バズり、拡散されることこそが価値である」などとは夢にも思ってはいないことでしょう。

そもそも文章の価値などというものは、「あなたにとっての」という枕言葉がつかなければ何の意味もなしません。

志賀直哉の「城の崎にて」がいくら名文だと言われても、ぼくにはあいにくピンときませんでした。死を主題とし、蜂が重要な役割を果たす点では奇妙な一致のある、内田百閒の「冥途」は大好きなのですが。
(「冥途」の朗読がこちらにあって、なかなかよい「声」で読まれていますので、ご参考まで。https://m.youtube.com/watch?v=jhdnXYbUGGs )

結局のところ「価値」というものはまったく個人的なものであり、それはある意味「好み」としか言いようのないものなのです。

つまりは、高橋氏が「反撃」という言葉を使うのも彼の好みに過ぎないのですし、彼の講演の結論として提示される「過去を未来につなぐ」という主題にしても、そこに反撃という「声」を使うことによって、今の日本について「なんとかならないものか」と思っているいる人たちの共感を引き出そうという試みによって、ある色づけが行なわれることになります。

それが「ざわついた今の世の中に反撃する」という表現に込められた高橋氏の「声」なのです。

あなたの文章に「声」はありますか?

ネット上で文章を書き、情報を発信するとき、こうしなければならないというルールは基本的にはありません。

法律を無視すれば罰則が降り掛かってくるかもしれないし、うかつに他者をおとしめれば、炎上してひどい目に遭うかもしれません。けれども、それも一つの経験であって、決して否定されるだけのものではありません。

とはいえ、せっかく人目に触れるところで文章を書くのならば、一つくらいは心がけを持っていてもいいでしょう。

高橋源一郎氏のボイスという言葉をぼくなりに言い換えをして使わせてもらえば、

  • 「声」のある文章を書こう!

ということになります。

ぼくたち一般人がネット上で書く文章は、基本的には大量生産、大量消費の大海の中で、ほとんど「耳を傾けられることもないまま消えていく」文章に過ぎないでしょう。

そうではあっても、あなたが「書きたくて書く」文章は、相応の熱量をもって、誰かの心に届く可能性をいつでも持っています。

あなたが誰かに伝えたいと思うから書くにしても、ただ体の中から溢れ出る言葉を書きしるしていくだけだとしても、その「書こうとする気持ち」があなたの文章に「声」を与えます。

つたない文章であっても、十分に説明しきれない想いであっても、あなたが本音を映そうとするとき、たとえわずかであってもその言葉には人の心を動かす力が宿るのです。

それが文章の「声」の正体です。

ですから気負わずに、あなたの経験を、感じたことを、読んだ本についてでも、見た映画についてでも、自分の書ける範囲で書けばいいのです。

なかなかうまくは書けなくても、そこにあなたの本当の気持ちを少しだけでも込めることができれば、その「声」はきっと誰かに届くはずですから。

こうしてぼくたちの「伝言ゲーム」は、いつまでも続いていきます。それがsns時代の言葉が持つ一つの役割なのです。

てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬

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*1:毎日新聞の記事がこちらに。 https://mainichi.jp/articles/20190902/dde/014/040/007000c

*2:このことについては、興味がおありならば、雑誌「新潮45」を廃刊にするきっかけの差別的論文を書いた小川榮太郎氏についての高橋氏のこちらの文章を読んでいただくとニュアンスがよく分かると思います。https://kangaeruhito.jp/article/5536

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