*魂の次元* (by としべえ)

肩から力を抜いて、自由に楽しく生きる。

結婚にまつわる二、三の心象風景

giveus さんが「ある新卒 - いのちばっかりさ」という記事で、「みんなの結婚前の話が聞きたい」という意味のことを書いていましたので、今回は結婚と聞いて思い浮かぶあれこれをつれづれに書いてみようと思います。

「結婚のことはどう考えてるの?」と女友だちに聞かれたときのこと

今や五十すぎの「りっぱな」おじさんである私にも、恋に悩む二十代の青春時代がありました。

音楽や小説の趣味が合って、ときどき電話で話したり、まれに会って飲んだりする女の子がいたのですが、あるとき新宿のバーで飲んでいると、

「ながのくんって、結婚のことはどう考えてるの?」と聞かれました。
(ぼくの苗字は「ながの」です)

ぼくが「うーん、結婚ってのは制度にすぎないからねぇ」と答えると、

「ながのくんてば」とたしなめられて、その話はなんとなくうやむやに終わってしまいました。

結婚は社会的な制度にすぎない、ということについては、今もその通りに考えていますし、正直に思ったことを話しただけなのですが、彼女が話したかったこととはまったく関係のないことを話してしまったにも関わらず、その状況がうまくつかめなかった当時の自分を今思うと、冷や汗ものです。

それでまず「結婚」という形式の話

役所に届けを出して法律上の婚姻関係を結ぶ、ということは、風が吹けば飛んでしまう一枚の紙切れに石で重しをするようなことだと、ぼくは考えています。

つまり、女と男(に必ずしも限りませんが)がカップルとして、一つ屋根の下で暮らすということが、「結婚」と呼ばれるもののおおよそ本質であって、日本ではそのとき多くの人が役所に届けを出し、また、結婚式や披露宴などというものをすることで、その関係性を固めようとするのですが、人間の気持ちというものは、法律や儀式といった形式だけで固められるものではありませんから、それはあくまで「形式上」の「結婚」という話であって、その内実はまた別の話ということになります。

せっかく紙の上においた重しの石も、なにかのはずみで横にのけてしまえば、紙切れは風にあおられてどこかへ飛んでいってしまいます。

カップルの関係もそれと同じことで、形式だけでそれを保つことはできませんし、保てていても気持ちが通いあっていなければ、なんだかさみしいですよね。

形式とは関係なく、二人の関係性というものをきちんと作り上げていく努力があってこそ、幸せなカップルの暮らしが実現するというものではありませんか。

カップルが一緒に暮らすということについて

さて、カップルが付き合うということと、一緒に暮らすということは、似ているようでいて、まったく別のことかもしれません。

カップルのそれぞれが、別々の家庭で育っているからには、日常の生活について大いに異なる「常識」を持っている可能性があります。

そうした違う「常識」同士が 24 時間相対峙するわけですから、お互いが相手に対して寛容な精神を持ち得ない場合には、たやすく「地獄」が出現しえます。

まあ、たいていの場合は「地獄」というほど深刻なものではなく、周りから見れば滑稽で、陳腐な痴話喧嘩といったものでしょうけれども、関係性が維持できなくなるほどに「激化」することも当然あり、ぼくも一度目の結婚関係は四年間で終わりを迎えることになりました。

ぼくの場合は、子どものいないままで、喧嘩別れしたというわけでもなく、そういう意味では「地獄」を見ることはありませんでした。

別れてからも数年は、電話で時々話すし、たまには会いもするという、珍しいほどに良好な関係のままだったのですが、ぼくの側に「共感能力」が欠如していたために、彼女がぼくに合わせるためにいかに苦労しているかを、これっぽっちも理解できていなかったことが、彼女との関係が崩れてしまった大きな原因なのだと、今では理解しています。

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付き合い始めて速攻で結婚するということについて

ぼくの一度目の結婚は、25のときのことでした。出会ってすぐに付き合い始め、ひと月ほどで結婚しました。

そのこと自体には問題はなかったと思うのですが、彼女の気持ちを十分理解できないでいたために、四年ほどで離婚することになったのは先ほど書いたとおりです。

次の結婚は、35のときでした。このときも出会ってすぐに付き合い始め、やはりひと月ほどで結婚しました。

一度目に「速攻結婚」で失敗してるのに、二度目もかよ、と思われる向きもあるかとは思いますが、ぼくの中には別にためらいはありませんでした。

でも、やはり今の奥さんに対しても、一度目と似たような意味で、初めのうちはうまく気持ちを理解することができず、ずいぶん苦労をさせてしまったなあと、反省しています。

この結婚は、途中何度か危機的な時期もありましたが、幸い今は安定して、そろそろ20年を迎えようとしています。

はじめの彼女がぼくに対する不満を一切述べなかったのに対して、今の奥さんはぼくに対する不満をがんがん言ってきます。

こちらからすれば「そこまで言わなくても」と思うようなことも多々あるのですが、相手は言いたいことを言う、こちらはできる限りそれを聞く、そして、こちらも必要に応じて言い返す、というようなことを長年に渡って繰り返しているうちに、結婚二十年を目前にして、ようやくなんとか安定した関係になってきたなぁと、ほっと一息つくような状況です。

というわけで、ぼくの場合、「結婚前の時期」というのがほとんどないに等しいので、giveusさんのご要望にはほぼ応えられないありさまですが、なにがしかでも参考になれば幸いです。

幸せは、自分で作るもの

今の奥さんとの間にも子どもはいないもので、奥さんと二人インド辺りをぶらぶらと、漂うような暮らしを続けていますが、こうして世間の常識的な道からははみ出した人生を歩むのも、決して楽な生き方ではありませんでした。

けれども、どうしてそれが「楽」でないかというと、結局は自分の意識が世間的な「常識」にしばられちゃってるからなんだなと、五十も過ぎ、また、数年間に渡ってヴィパッサナー瞑想をたしなむようになって、ようやく気づけるようになってきました。

人間として生まれたからといって、結婚しなければならないわけではありませんし、届けを出さずに事実婚を通す人もいます。

一人で生きるにせよ、誰かとともに歩むにせよ、自分で道を選び、そこに幸せな人生を築くのに、自分自身の力こそが最大の頼りとなります。

結婚に関して言えば、相手の気持ちをよく理解すること、そして自分の気持ちをきちんと相手に伝えること、また、相手が自分の気持ちを理解してくれなくても、そして自分が相手の気持ちを理解できなくてもめげないこと、などが大切なところかと思います。

これから結婚しようという人も、すでに結婚している人も、あるいは一人で生きる決意をしている人も、みなさんが、自分の手と足を頼りに幸せな人生を築いていかれるよう願ってやみません。

てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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