*魂の次元* (by としべえ)

肩から力を抜いて、自由に楽しく生きる。

鶏ハムは手間がかかるのか問題を、言葉の超過労働の概念によって#今日も考察乞ご高察

極小網作家(ぷちウェブライター)*1のとし兵衛です。

今日は高知県在住赤茄子網日記家(トマトブロガー)さん(仮名)の教えにしたがい、たぶん私のはてな史上初の「一日あたり複数更新」でお送りしております。

この記事では、鶏ハムを作るのは果たして手間がかかることなのか、という人類の今後を考えるダメためにも必要不可欠な、蝶重要問題をみなさんと一緒に考えていきたいと思います。

ただし、これを書いているわたくしは、ch3ch2ohという脳幹突破物質によって、意識の変性状態にありますので、本文の内容については、一切の保証はできかねます。

したがって、以下の文章を読むあなたは「アズ・ユー・ライクのシャディです」といった気持ちであってはならないことが期待されますので、以上、十分ご注意の上でのご高覧をお願いいたします。

酔っ払って書いてるのでどうかすべてを大目に見てください

浅田彰という三十年ほど前に一世を風靡した経済学者*2に「構造と力」という著書がある。
//というか「構造と力」という最初の本*3一世風靡セピアしたんですわ。

その著書の内容については猫の額ほども触れないうちに立ち去ることにするが、今はなき、東京渋谷の旭屋書店において、その後書きを読んで蝶違和感を感じたわたしは当時若干19歳であったことだよ。

ほんで何に違和感感じたかというと、後書きで、浅田さんが「自分のこの著書は未熟なもんだから、いろいろ足りないこともあると思うからごめんね」みたいなことを書くときに、その「ごめんね」が「ご寛恕願いたい」かなんか書いてあったんよ*4。もう、もう、違和感120% 。日本の謙遜の文化を、これっぽっちも知らずに育った昭和の世田谷原住民としてはね。

半世紀以上生きてきて、最初の奥さんの、お母さんの出身が群馬、お父さんの出身は長野だったり、今の奥さんは、お母さんが広島で、お父さんは熊本、そして、ぼく自身は母も父もだいたい東京だけど、南伊豆に二年ほど、東広島に一年半住んだりもしたもんだから、「日本は、その大きさにまで拡大した東京ではない」という東京圏以外の人から見たら、あたり前田のクラッカーな*5の事実も、あたまで分かってる。

だけど、やっぱり体じゃ分かっちゃねーってことだろなぁー。>おれ

いや、この話はね、浅田さんとぼくの世代の違いだけじゃなくて、西の彼と東のぼくでは、その言葉のもつ意味が違うはずだってことでね。

つまりこの話は、「ご高覧」という、ぼくからしたら「ゾンビ感」丸出しな言葉を、当時26歳の浅田さんが使っていたことが、いま思い返すとぼくにとっては、西と東の似て非なる言葉遣いをそれとは知らずに意識した初めての機会だったんだなってことなんよ。

水島真司とDAICON 3に西言葉を教わったぼく

さてさて。

お昼ごろに、ルンビニバザールの雑貨屋で、ネパール国謹製タイガービール500ml缶(ひと缶150ネパールルピー、ほぼ150円)をふた缶買って、聖地公園の入り口向かいの屋台で、インドやネパールではチョウメンと呼ばれる、我々日本人からしても焼きそばとしか呼びようのない食べ物(ハーフサイズ約25円)をつまみに、ひと缶飲みました。

そして、その屋台でKurkureという日本で言えばカラムーチョみたいなスナックのMasala Munch味(約10円)を買って帰り、それをつまみに宿(ツィンルーム一泊約400円*6)でもうひと缶飲んで、前節まで書いていたのです。

ひと眠りして今は四時半すぎ、漢語では酒精と呼ばれる、現在地球上のほとんどの国家で合法的に購入することのできる向精神物質の影響からほぼ回復し、続きを書き始めたところです。

なお、この項以降、内容をネットで確認する手間を省き、紋白蝶いい加減モード全開でお送りしますので、記憶違いなどあるかもしれません。あらかじめお詫び申し上げます。

水島真司という、野球漫画で知られる漫画家さんがおりますが、ぼくが小学生の頃(ってことは、1975年とかそのくらいですね)に「男どアホウ甲子園」という漫画を少年チャンピオンで連載されてました。

ぼくはこの漫画をコミックスで全28巻買い揃えていたのですが、この漫画がいわゆるところの大阪弁とぼくの出会いであったといっていいでしょう。

ときは過ぎゆき、ぼくは高校生になります。あれは1980年だったでしょうか、世の中には「日本SF大会」というイベントがあるのですが、まあ誤解を承知で、しかも分からない人にはやっぱり分からない例えで説明しますと、コミケことコミックマーケットみたいな、つまりは、SF好きな人が集まって、「SFに関する話題で一年に一度盛り上がろう」的なお祭りなわけです。

そのSF大会が、たぶん1980年に大阪で開催されたわけですね。DAICON 3 という愛称がついてるんですけど。

なお、このDAICON 3というイベントが、のちに世界を席巻する日本のアニメの代表作「新世紀エヴァンゲリオン」を撮ることになる大監督、庵野氏の、まだアマチュア時代ではありますが、実質的な活動の始まりということになります。

こんなことを書いていると、自分が時代の生き証人になったような気がしてきて、なんだか面白いですね。

で、そのDAICON 3に参加の申し込みをすると、今こんな感じで準備を進めてますよー、というお知らせを送ってきてくれるんですが、そのお知らせの中にカセットテープが入ってたんですね。

そのカセットテープは、大阪流のギャグが詰まっていたわけですが、そのうちの一つが大阪弁講座だったわけです。

日本全国から集まるSFファンのみなさん、「せっかく大阪にきはるんやったら、大阪弁くらい話してーな」*7というわけです。

もう内容はほとんど覚えてませんが、たとえば、
大阪弁の挨拶は、

「もーかりまっかー」
「まーぼちぼちでんなー」

ですよ、
みたいな感じで、語学教材風に作ってあり、これがなかなかよくできてるわけですよ、なにしろガイナックスの人たちが、会社を起こす前に作ってたわけですから。

おもしろい場面に立ち会っていたものだなあと、あとからしみじみ思うものですね、青春時代って。

ここで鶏ハムの時間です

さて、ぼくのリアルでの知り合いには、はてなを使っている人などほとんどいないのですが、そのはてな村友のうちで、太古の昔よりの人生の先輩であるネギ氏が、鶏ハムについて記事を書いていたのが、ことの発端なんです。

ネギ氏が、鶏ハムを作って食べたって話で、それの感想が
「うまいはうまいけど、ちょっと手間がかかるから、割が合わない。これだったら、ただ茹でて食べるだけでいいか」
というものだったんで、
「ふーん、どんな料理で、どの辺が手間なんかなー」と思ったんですよね。

鶏ハムというのは、悪名高い有名な巨大ネット掲示板 2 channel 生まれのレシピということで、
鶏の胸肉に蜂蜜、胡椒、塩をつけて冷蔵庫で寝かせ、
これを沸騰した鍋に入れ、
再沸騰したら15分ゆでて、
そのあとしばらく鍋をそのままにしとけばできあがり、
という仕込みだけすればあとは手間いらずって料理なんです。

これを知って思いました。
さすが、ネギ氏、「手間の概念が凡人とは違う」って。

この感想は、ネギ氏のことを、これっぽっちもばかにしてるわけじゃなくて、むしろ、尊敬すると同時に、すっごく面白がってるだけなんです、懇切丁寧に説明しておきますけど。

料理における「手間」ってなんなんよ?

ということで今日はここで、料理における「手間」について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

「常識的」な意味では、鶏ハムは「手間いらず」なレシピです。

このとき、「手間」という言葉が意味するのは、

鶏ハムなどの手間いらずな料理を作るには必要がなく、ほかの多くの料理を作るには必要な、時間と労力のかかるいろいろな手順

くらいの意味でしょう。

もちろん、包丁で切ることが「手間」なのか、皮をむくのが「手間」なのか、といった具合に、人それぞれに何が「手間」なのかは、異なりますから、「これは手間いらずの料理である」と言われても納得できないこともありますよね。

とはいえ、鶏ハムの場合はどうでしょうか。

料理をするみなさんからすれば、これはやっぱり「手間いらず」の料理としか言えないんじゃないでしょうか。

自分は料理をするのも鶏肉も好きだけど、鶏ハムはちょっと手間がかかりすぎるので作りたくない、という人がもしいたら、ぜひご連絡ください。

一方で、「おれは料理なんて手間のかかることはしない」という使い方もあります。

この場合の「手間」は、

料理など自分がしたくないことをするのに必要な、時間と労力のかかるいろいろな手順

とでもなりましょう。

ですから「料理なんか俺はしないよ」という人が鶏ハムのことを「俺はそんな手間のかかることはしない」という分には、なにもおかしなことは、ありません。

ところがネギ氏は、自ら進んで料理をし、一度は失敗した料理を、失敗の原因まできちんと調べて、もう一度作り、今度はうまくできて、おいしく食べた上で、

  • どうも自分にはこの鶏ハムという料理は納得がいかない。
  • なぜ納得がいかないか考えてみると手間がかかりすぎるからだ。
  • 鶏の胸肉は安いが、手間まで考えると安いとは言えなくなる。
  • 高い肉なら手間をかける価値があるが、安い肉の場合は割に合わない。
  • ただし、安い肉でもとんでもなくうまくなるのなら別。
  • 鶏ハムはとんでもなくうまくはならない。
  • ゆえに胸肉はただ茹でて食ったほうが手間がかからなくていい。

と、綿密な考察の結果、たいへん大胆な結論を導き出しています。

この考察にはまったく隙がなく、反論はありえないと私は考えます。
もちろん、ネギ氏にとっては、ということであって、ほかの多くの方は、大声で
「納得いかねーー」
と叫ぶかもしれませんけど。

ネギ氏自身、『「買ったほうが安いね晩のおかず」って ケロロ軍曹の1期opでも歌っている』と、値段との兼ね合いの話ではありますが、「手間をなくすには料理をしないのが一番」という解法を示しているにも関わらず、最終的な結論が「ゆでるだけが手間いらずで一番」とは、なんたる大胆さでしょうか。

そして、ネギ氏の天才は、なぜ、この大胆な結論を導くことが可能なのでしょうか。

ネギ氏の天才性は、値段という要素を「手間」の概念に詰め込んでいるところにあります。

我々がさきほど見たように、普通「手間」というときは、その中には、「労力と時間」の要素しか入っていません。

ところが、ネギ氏はそこに「価格」の要素までが詰め込んでしまったのです。

「手間」という言葉に「超過勤務」*8をさせているわけです。

もちろん、常識的な立場からすれば、「いや、手間の中に価格の要素を入れるのはおかしいでしょ」ということもできます。

しかし、そんな常識的な立場を頑なに守っていて、人類の文化の発展が可能でしょうか。

我々は、「太陽は神である」とか「言葉には魂が宿っている」といった数々の常識を打ち破り、それを否定することで、このインターネット全盛の集合愚集合知の時代にたどり着いたのです。

さあ、みなさんも、つまらない常識などすてて、手間の中に価格の要素を詰め込むという、ひと手間をかけてみましょう。

時は金なり、金は神なり*9、常識の公理系に、独自の新たな公理を追加することで、あなたが神となる時代の到来です。

ネギ氏の天才を持ち合わせない凡人のぼくは、私淑するゴータマ・シッダルタ氏と荒川修作氏の方法論を参考に、日夜迷想を続け、不死への道を迷走し続けます。

以上、今日も長文、最後までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。

では、今日のテーマミュージック「けせらんぱ」をお送りして、今回の記事は終わり*10にしたいと思います。

それではみなさん、ナマステジーっ。

けせらん ぱさらん けせらん、ぱっ、ぱっ
けせらん ぱさらん けせらん、ぱっ、ぱっ
けせらん ぱさらん けせらん、ぱっ、ぱっ

ぱっっ

*1:はてな記法にルビはないと思うのですが、はてなで「この機能がほしい」みたいな要望を上げるのってどうしたらいいんでしょうか。どなたかご教示いただけたら揚羽蝶幸いです。

*2:一般には哲学者として知られているる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/浅田彰 参照

*3:昔は処女作といったものですが、http://realkyoto.jp/blog/kozotochikara/ を見ると御本人がこう言っており、「処女作」という言葉を使わないのは、時流なんでしょうね。

*4:これが広島言葉としておかしいと思う方はどしどしご指摘ください

*5:懸命な読者諸氏には、この取り消し線が前田製菓に対して何らの意図も持たないことが言葉によらずテレパシーによって伝わっていることと思います。

*6:ひと月ほどの長期滞在を前提にしての値引き値段。はじめの言い値は約600円でした。このあたりでは格安で、多くの宿は1000円以上の値段を言ってきます。それでも日本と比べたらメチャ安ですけど

*7:大阪言葉としておかしかったらバシバシと指摘していただけると嬉しいです。

*8:この言葉の「超過勤務」の話が出てくるのは、「不思議の国」と「鏡の国」とどちらのアリス作品でしたっけね

*9:映画「ゼイ・リブ」より。

*10:西言葉の話が途中でどっかに行っちゃいましたがご愛嬌

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