友だちに貸してもらって村上春樹の「1Q84」を読み始めたところなんですが。
巻頭、主人公の一人である青豆はタクシーに乗ってます。
首都高の渋滞につかまった彼女は、待ち合わせの時間に遅れないようにと、
タクシーの運転手の助言にしたがって非常用階段を使って首都高を歩いて降りることにします。
そのときに運転手が言う台詞が「ものごとは見かけと違います」っていうやつでして。
十中八九 "things are not what they seem" という英語の慣用句の翻訳です。
日本語で言ったら「人は見かけによらぬもの」が近いでしょうけど、全然かっこよくないですな(笑)。
ぼくがこの言葉を知ったのは、pink floyd の 'sheep' (アルバム "animals" 所収)という歌でなんですが、
そのあとの節に、
Now things are really what they seem.
No, this is no bad dream.
#いまや物事はありのままに見える。
#そうだ、これは悪い夢なんかじゃない
という、そいつをひっくり返した文句が出てくるんで、長らく pink floyd のオリジナルな言葉だと
思い込んでました。
ちなみにこちらは、いわばサイケデリックな文脈ということになります。
歌詞の全文はたとえばこちらをどうぞ。
でもって、そののち、ロバート・パーカーのスペンサーシリーズ (タイトルは失念) を読んでたところ、
このシリーズは探偵スペンサーのキザな台詞が売り物なわけですが、この決まり文句を上手に
使ってる場面があって、なるほど慣用句だったのねと気がついた次第。
こういう英語の慣用句を臆面もなくさらりと使ってしまうところに、村上春樹が海外でも好まれる
理由の一つがあるのかなと、そんなことを考えていたのですが、ネットで検索してみたところ、
幾人かの方々がこの台詞に取り上げており、日本人受けするポイントでもあるようです、はい。
人が、たとえば weblog に何かを書くということによって、表現をするとき、
その人なりの表現の意味というものはもちろんある。
それは、単なる暇つぶしかもしれないし、知人に近況を知らせているのかもしれないし、
あるいは、孤独な独白(ひとりごと)ではあるにしても その人にとって必要不可欠な
切羽詰まった心情の吐露なのかもしれない。
そうした個人的な側面とは少し距離をおき、いくぶん抽象化したところで考えてみると、
文章にしろ写真にしろ、表現と呼ばれるものが何か特殊なものだ考える必要は必ずしもなく、
表現というものも人が生きるという形態の中でおこなっている様々なほかの活動と
特に代わりはないと考えることができるし、その表現の意味として伝言という機能を
想定することができる。
つまり、意識しているか していないかは さておき、人の活動はすべて表現であり、
その表現は伝言であると考えても構わないわけだ。
この世界で人間がやっていることは伝言ゲームなのだと考えるとすっきりすることに、
しばらく前に気がついた。
言葉を使ってする活動だけでなく、動作であれ心理的な状態であれ、人は表現し、
それを見た人は反応を返し、そのようにしてなにがしかのメッセージがやりとりされ、
そこに現れたパターンというものは、進化論的な意味合いで、生き残ったり、数を
増やしたり、死に絶えたり、という歴史を辿っていく。
まったく同じものが伝わっていくわけではない。遺伝子が変異するように、伝言が
聞き間違えられるように、なんらかの意味で生き残りやすいものが、変化しながら
伝わっていくのだ。
そんなこんなで、ぼくは今日も伝言ゲームを続ける。
そこに特別な意味があるわけではない。自分なりの心の落ち着きを求めて、
あれやこれやと試してみているだけのことだ。
近所の macdonald でバロックの音楽が流れる中、ぼくなりに言葉の流れを
調節してみているだけのことだ。
ディーノ・ブッツァーティ「神を見た犬」関口英子訳、光文社文庫2007
みさなん、お元気でお過ごしでしょうか。
この本については前にもちょっと書いたけど、また読み直したので感想を追加します。
ブッツァーティは独特の味わいの幻想的ないし寓話的短篇を書いたイタリアの人だけど、
「呪われた背広」は星新一とも似た感触の話。
料金を請求しない奇妙な仕立て屋が作った背広。その背広を着てポケットに手を入れると
一万リラ札が一枚ずつ、いくらでも出てくる。
ところがそこで手に入れた額だけ、世間では不幸な事件が起こる...
人間の愚かさを笑うブラックユーモアが効いた作品です。
さて、とっても苦いブラックであったり、どうにも救いがなかったりといった作品が多い
ブッツァーティ
なのだけど、「驕らぬ心」はニヤニヤしながら読んでいたのに最後の場面では思わず泣いて
しまいました。
ちょっと長めにストーリーを紹介。
都会で隠遁生活をする修道士のもとに、ある日若い司祭が告解に来て言う。
高慢の罪を犯したというのだ。
修道士が詳しく聞くと、若い司祭は「司祭さま」と呼ばれる度になんともいえない
喜びを感じてしまうのだという。
修道士はまさかこんなこととはと思いながらもその敬虔で純真な司祭に赦し(ゆるし)を
与える。
三、四年が経ち、またその司祭が修道士のもとに訪れる。今度は前よりももっとひどい
状態だと言い、「司教さま」と呼ばれる度に喜びを感じてしまうのだという。
修道士は、この男は哀れな愚者でまわりの人間からからかわれているに違いないと
思い、再び赦しを与える。
それからまた十年。同じ司祭が修道士のもとへ。修道士はまだ同じことで悩んでいるのかと
尋ねる。すると司祭はもっと情けない状態だと言う。「大司教猊下」と呼ばれる度に
喜びを感じてしまうのだと。
お人好しのこの司祭は年をとるにつれて愚直になり、まわりの皆が調子に乗って彼のことを
からかっているに違いない、修道士はそう思い、三度(みたび)司祭に赦しを与える。
やがてある日、老いさらばえた修道士は、死が間近に迫ったことを知り、ぜひヴァチカンに
行って聖ピエトロ寺院や法王さまのお姿が一目見たいと思う。
そして、ヴァチカンに行った修道士が見たものは...
ぼくとしては、「おもしろくて、しかもいい話」海外短篇部門第一位の栄誉をこの短篇に
与えたいと思います。
ヴォネガット、カフカ、カルヴィーノ、ボルヘス、そんな作家が好きなあなたに
お薦めしておきます。
それではみなさん、また来週*1!
*1:「来週」という表現に特別な意味はありません(笑)。
以前森下一仁氏の weblog で見かけて気になっていた
山田正紀「オフェーリアの物語」理論社 2008 を読んだ。
森下氏の言葉を引くと
明治維新後の理性が支配する日本と、それ以前の夢想がそのまま現実と溶け合っていた日本とを
不思議な言語理論で対比する意欲的な作品
ということになるが、その対比は、西洋と東洋、現実と夢、言葉と言葉以前、さまざまな
形として描かれている。
ぼくはついカスタネダのトナールとナワールを思い出してしまうのだが、この対比がとても
本質的なものだということですよね、つまりは。
維新前後の日本だけれど、どこか幻想の場所のような、そうした舞台設定の上で、
小さな女の子の人形使(にんぎょうし)とビスクドールを主人公に据え、異形の世界の奇妙な
植物も盛り沢山(消粟[けし]が一番気に入りました)、謎解きミステリの形をとった
このアクション哲学マンガ、きちんと終わっていないのがなんとももったいないので、
ぜひ続編を期待したいところです、はい。