クリスティーナ・ホール「言葉を変えると、人生が変わる」大空夢湧子訳、2008年、ヴォイス
google ブックスでカスタネダを検索していたら、この本が目に入った。
カスタネダの「イクストランへの旅」から言葉によって自分を変える方法を書いたくだりが引用されている。
自分をダメな人間だと思っている人に、八日間「自分はダメな人間じゃない、すばらしいんだ」と言い聞かせるように勧める内容で、そうすることによって「自分はダメな人間だ」というのも「自分はすばらしい人間だ」というのもどちらも錯覚にすぎないことが分る、というような話。
言葉のもってる大きな力は分ったつもりでいるんだけど、なかなか体得するところまではいかない。
この話を久しぶりに読んだのをきっかけに、またちょっとこの練習をしてみることにしよう。
ところで、著者のクリスティーナ・ホールはNLP(神経言語プログラミング)の大家だそうで、このNLPというやつ心理学的な技法の一つなのだが、名前こそよく聞くもののくわしくは知らない。
この本もそのうち読んでみようかな。
遠藤ミチロウが歌っている「Mr. ボージャングル」しか知らなかったんだけど、ずいぶん昔のアメリカの歌だったんだね、こいつは。
ミチロウのバージョンももちろんいいんだけど、こっちにあるニーナ・シモンのもとってもいい。
よかったら聴いてみてよ。
http://www.youtube.com/watch?v=tJs3ooeQDYY
泡々(うたかた)のように浮かんでは消えてゆくぼくの思考。
それをとりあえず紙に記(しる)してみる。
自分がなくなってしまいそうで恐いから、そんなことを
しているのかもしれない。
とすればその逆手を取って、「自分」を消すためにここからは
書くのだ。
つまらない「我(が)」を捨て、他人(ひと)に認めてほしいとか
分ってほしいとかいう思いを捨て、この世界にたいする執着(とらわれ)
の心を捨てるために。
そしてどうもぱっとしない毎日をやりすごすためについつい酒に
頼ってしまう自分の弱さと向き合うために。
この世界の仕組みというものはどうやら実は単純で、
「自分」にとらわれることなく「自分」を保つことさえできれば、
万華鏡のような幻の浮き世を十分楽しむことができるらしい。
そう、この世に現れる地獄にも天国にも分け隔てなく接することさえ
できれば。
もちろん、それさえできればという、その「それ」が、実際に
そのように生きようとするならば、とんでもなく大変なことに
なるわけなのだけれども。
そしてそのように生きれるかどうかに関らず、ぼくの命もあなたの命も、
浮かんでは消えてゆくうたかたに過ぎず、その意味ではこの地球も
あの太陽も、そしてこの銀河も、ひいてはこの宇宙全体も、つまりは
同じうたかたに過ぎない。
そうしたことを心の奥底から認めることも生半可なことではなく、
またそれを認めながらなおかつ悲観的にならず力強く生きるとなれば、
これはまたかなりの力業(ちからわざ)に違いないので、とりあえず
今はそこまでの高望みはせず、それやらこれやらを忘れ去って
しまわないように、たまには思い出せるように、ここに書き留めて
おくことでとにかくよしとしよう。
[追記]
人は単純な論理にしたがって行動する存在ではない。
命のもつ論理は簡単に図式化できるものではない。
ここはタイ。
人が「微笑みの」とか枕詞をつけて呼んだりする国。
つい先頃まで首都バンコクでは流血の事態が続いていたけれど、
田舎街にいるぼくにはそれほどの実感もなく。
何かを表現したい、という煩悩がまだ残っている。
あの人やこの人の weblog を読んでいたら、また、そんな「悪い」虫が
騒ぎだして。
かといって書きたいことが何かあるのかというと、そういうわけでもない。
書いて、誰かに認めてもらいたいのだ。
誰かにぼくの存在を肯定してもらいたいのだ。
子どものころから続く承認の不在感を、文章を書くことで解消できるのでは
ないかという、さして現実味のない願望充足的欲求。すなわち煩悩。
しかしながら。
書き始める前は、書き出してさえしまえば言葉がそれなりに湧いて
くるのではと思っていたのだが、実際にはそうでもない。
だからもうこのへんでやめてしまってもいいのだ。
けれど、もう少し書き続けようという、悪あがきの上塗りの屋上屋。
ところで。
この文章は psp に赤外線キーボードをつないで書いていて、
それには人様の作ったメモ帳ソフトに赤外線キーボードを
ハンドリングするライブラリをつぎはぎ改造した自作ソフトを
使っているのだが、書いた文章を psp から直接ネットに投げることが
残念ながらできない。
それで、この文章は micro sd 経由で nokia の e51 に持っていき、
そこからネットに転送するのだが、シフトjis から utf へコード変換する
必要がある上そのときなぜか一部文字化けまでするので、手作業で直しも
しなければならない。
……というような手間暇をかけてまでネット上で公開する価値がこの文章に
あるのかというと。
無論そこまでの価値はない。
ないのは分っているが、そこを敢えてやるのが今日の気分なのだ。
あるいは、それをやろうと思っている以上、そのこと自体に確かに
価値がある。文章の価値のほうはおいといて、ですよ。
実を言えば、この文章どころか古今東西すべての文章に特別な
価値などないとぼくは思ってるし、人間の存在自体も同様で、
以下すべて同様。
そうした、生きるということ自体に積極的な意味がないという価値観の中で、
なお生きることを許され、許されてる以上せっかくだからそれを
味わうことにしてみようかという、消極的な命の歓び。
まあ、だいたいそんなことが書きたかったような気がするし、
これ以上書きたいことが特別あるわけでもないし、そろそろこの文章も
終わりにしよう。
タイの安宿のねっとりとした空気を味わいながら。
カート・ヴォネガット「国のない男」によると、マルクスが宗教を共産主義と相容れないものとして否定した、
というのは後世の人の誤解のようだ。
以下、引用。
スターリンの教会破壊や現在の中国での教会破壊についてだが、この種類の宗教弾圧はカール・マルクスの
次の言葉が原因になっているらしい。つまり「宗教は民衆のアヘンである」というやつ。
マルクスがこう書いたのは 1884 年、アヘンおよびアヘン誘導体がだれもが手に入れることのできる唯一の
効果的な鎮痛剤だった頃のことだ。マルクス自身もアヘンを使用していて、その場限りであっても苦痛を
やわらげてくれるアヘンに感謝していたという。
マルクスは客観的な事実を述べているのであって、宗教がいいとか悪いとかいう話をしているわけではない。
宗教は、経済的、あるいは社会的な困難に対する鎮痛剤になりうるということだ。
つまり、宗教を否定しているわけではない。
まあこれは、誤解というよりは、スターリンやそれに類する人が、マルクスの言葉を自分に都合よくねじ曲げて
その解釈を流布したということだろうけど。
「欲望と消費 トレンドはいかにして形づくられるか」スチュアート&エリザベス・イーウェン、
小沢瑞穂訳、晶文社1988
ぼくたちは、ぼくたちの生きる社会を「資本主義」社会として受け止めているのだろうか。
それとも「消費主義」? あるいは「浪費主義」?
それはある意味「広告主義」の社会なのかもしれない。
十五世紀半ばのヨーロッパに始まる印刷の歴史から説き起こし、現代におけるメディアの意味を
解読するこの本は、三十年近く前に出版されたにも関わらず、インターネット全盛の今という時代を
客観的に見ようとするものには必読の書といっても大げさではないだろう。
山田正紀「地球・精神分析記録(エルド・アナリュシス)」
心理学的冒険sf。
今から三十年ほど前、中学生の時に読んでさっぱり分らなかったが、帯の惹句、
「狂っているのは私なのか、それともこの世界なのか」というのが忘れられず再読した。
いささか古めかしいし、若書きの感は否めないが、日本sfの源流を探るためには
外せない連作長編だろう。
二番目の短編「憎悪 オディウス」のインドの街ヴィシュの設定は、「ブレードランナー」や
「ニューロマンサー」に先駆ける雰囲気が感じられ、海外放浪の経験を持つ山田正紀ならではと
思う。
ハインリヒ・フォン・クライスト「チリの地震」
十八世紀から十九世紀にかけて三十四年の短い歳月を生きたドイツの人の短編集です。
やや古めかしくはありますが、奇妙な味の短編好きのかたなら一読して損はない。
表題作の「チリの地震」など悲劇的な因縁譚が中心で、ぼくは芥川龍之介やディーノ・ブッツァーティを
連想しました。
巻末の「マリオネット芝居について」はボルヘスを思わせる哲学小説。面白いです。
久しぶりに aureliano さんの日記を見たら、自分のことを誰よりも分かってないのは自分自身という項目があった。
ほんとにそうです。
自分を客観的に見るのは難しくて、つい目をそむけちゃいます。
今度またギター弾き語りのライブをやるんで今練習中なんだけど、あまりの下手さについ、
開き直りたくなっちゃうんだよね。このくらいできればいいじゃん、みたいな感じで。
いやいや、そんなことではいけません、とにかく人前でやるんですから、できる限りのことは
やって、舞台に のぞもうではありませんか(笑)。
aureliano さんの日記に戻ると、お笑い芸人志望の若い人に教えていて、滑舌が悪いから
もっとはっきりしゃべるように言ったところ、「緊張すると早口になっちゃって」と返され、
あきれて次のように言ったそうです。
きみがラーメン屋に入ったとする。そこで、出されたラーメンに髪の毛が入ってて、きみがそれを指摘したとしよう。そうした時に、もし店主に「いや、分かってはいるんですけど、緊張しちゃうとつい湯切りの時に頭を振り乱して、スープに髪の毛が入っちゃうんですよね」と言われたら、きみはどう思うか?
なかなか素敵なたとえ話で笑いました。
追記:前半がおもしろい内容なだけに、最後が広告になってるのには また笑ってしまいまいした:-)