牧野信一『「悪」の同意語』を読んでいる。
牧野は大正から昭和初期にかけての、太宰より一回りちょっと歳上の「ダメ作家」の先輩で、『「悪」の同意語』にも、思わず苦笑せざるを得ないようなダメ人間ぶりが、主に家族との関係を通して徹底的に描かれている。
これを読むと、ぼくのダメダメな人生など、まったく中途半端なものでしかないことを思い知らされ、21世紀初頭のインドの片隅でぷちブル的貧乏生活を送っている自分自身に、限りない幸福を見い出せるような気持ちになるから、可笑(おか)しなものだ。
☆牧野信一『「悪」の同意語』 (2002 青空文庫オンデマンド) https://amzn.to/3xxhFUC
京都に拠点を置く短歌結社「塔短歌会」が2019.8.24に行なった「現代短歌シンポジウム IN KYOTO」にて、作家の高橋源一郎氏が講演されています。*1
この記事では高橋氏の「過去の言葉を受け止め、編み直して未来へ届けてゆく」という言葉をヒントに、sns時代に言葉が持つ役割について考えてみます。
伝言ゲームとしての世界 過去から未来へ言葉を送り届けることが、ざわついた今の世界への反撃 文章の価値、好み、「声」 あなたの文章に「声」はありますか? 伝言ゲームとしての世界 高橋氏は、snsという新しいメディアの登場によって、現代はもっとも言葉が生産されている時代だと言います。そしてそれは同時に、もっとも言葉が聴かれていない時代なのだとも。
snsによって誰もが気軽に「声」を発することができるようになった以上、ほとんど聴かれることもなく消えていく「声」が無数に存在することも、いわば当然のことです。
高橋氏はボイスという言葉を使っていますが、書き言葉にも文体ではなく、もう少し肉体的な「声」があるというんですね。
そしてその「声」はあたかも超伝導のように永遠に届くのだそうです。
DNAが複製されて世代から世代に受け継がれていくように、過去からの「声」もリレーされて未来へと送り届けられていく。
短歌を詠む人も小説を書く人も、言葉に従事している人は、「受け取って、編み直して、送り出す」のが役割であり、義務であるというのです。
作家である高橋氏は、書き言葉についてこのように話すわけですが、ぼくたちの人生自体がある意味「伝言ゲーム」ですよね。
親や大人の話を聞いて育ち、友だちとのやりとりを通して言葉の使い方に慣れ親しみ、日頃言葉を発することで世界に働きかけていく。
幾千万の世代を越えた「伝言ゲーム」が、今のぼくたちの住む世界を作り出したというふうに考えるのも、ちょっとおもしろいのではないでしょうか。
☆高橋源一郎氏の小説はこちらがおすすめ。〈石川啄木が伝言ダイヤルにはまり田山花袋はアダルトビデオを監督する〉日本の近代文学がパロディーで学べます、笑。
「日本文学盛衰史」
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過去から未来へ言葉を送り届けることが、ざわついた今の世界への反撃 講演の中で高橋氏は、小沢一郎も安倍晋三も大嫌いだったと語ります。
けれども著作を読んでみた結果、小沢は大好きになり、安倍はかわいそうと思うようになったそうです。
本を読んでその人の「声」を聴くとき、それを簡単に否定することはできなくなるし、軽々しく悪口も言えなくなる、と言うのです。*2
そして安倍氏という人物にも共感を示した上で高橋氏は、安倍首相に代表される「ざわついた今の世界」に反撃するためにこそ、「読まれるのを待っているたくさんの本=過去の言葉」を「受け取って、編み直して、送り出す」ことが必要だというわけです。
作家として、言葉に従事する者としては、まったく正しいあり方の一つに違いありません。
過去から未来へと言葉をつないでいくことは、確かに大きな力になりえることでしょう。
さてそのとき、snsで大量生産、大量消費される言葉の渦に巻き込まれているぼくたち一般の人間には、何ができるのでしょうか。
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文章の価値、好み、「声」 さて、この記事を読んでいるみなさんは「バズり、拡散されることこそが価値である」などとは夢にも思ってはいないことでしょう。
そもそも文章の価値などというものは、「あなたにとっての」という枕言葉がつかなければ何の意味もなしません。
志賀直哉の「城の崎にて」がいくら名文だと言われても、ぼくにはあいにくピンときませんでした。死を主題とし、蜂が重要な役割を果たす点では奇妙な一致のある、内田百閒の「冥途」は大好きなのですが。
(「冥途」の朗読がこちらにあって、なかなかよい「声」で読まれていますので、ご参考まで。https://m.youtube.com/watch?v=jhdnXYbUGGs )
結局のところ「価値」というものはまったく個人的なものであり、それはある意味「好み」としか言いようのないものなのです。
つまりは、高橋氏が「反撃」という言葉を使うのも彼の好みに過ぎないのですし、彼の講演の結論として提示される「過去を未来につなぐ」という主題にしても、そこに反撃という「声」を使うことによって、今の日本について「なんとかならないものか」と思っているいる人たちの共感を引き出そうという試みによって、ある色づけが行なわれることになります。
それが「ざわついた今の世の中に反撃する」という表現に込められた高橋氏の「声」なのです。
あなたの文章に「声」はありますか? ネット上で文章を書き、情報を発信するとき、こうしなければならないというルールは基本的にはありません。
法律を無視すれば罰則が降り掛かってくるかもしれないし、うかつに他者をおとしめれば、炎上してひどい目に遭うかもしれません。けれども、それも一つの経験であって、決して否定されるだけのものではありません。
とはいえ、せっかく人目に触れるところで文章を書くのならば、一つくらいは心がけを持っていてもいいでしょう。
高橋源一郎氏のボイスという言葉をぼくなりに言い換えをして使わせてもらえば、
「声」のある文章を書こう! ということになります。
カメキチさんの記事
2019.4.30 『猫も老人も役立たずでけっこう』① - kame710のブログ
で養老孟司氏の「猫も老人も、役立たずでけっこう」という本を知りました。
物質的には十分以上に恵まれているのに、あくせく働かないと気持ちが落ち着かないわたしたちに、「もう少しのんびり過ごしたらどう?」と、猫の視点から語りかけてくれるような、養老さんの言葉が気に入りましたので、本の内容にはとらわれず、気ままに思うことをつづってみます。
無用の用 何もしない喜び 書かないことで書く 無用の用 中国の老子さん、荘子さんは、無用の用ということを言います。
役に立たないからこそいいんだ、という逆説の発想ですね。
人間のものさしで測ったら役立たずとしか言えなくても、猫の目で見ればそれこそが生きる道という養老さんの主張もここに重なります。
「材として有用だったらとっくにかられてなくなっていたであろう木が、ねじくれて役に立たないからこそ大木となり、巨大な神木として人々の役に立つことになるのだ」という荘子さんのエピソードがぼくは好きです。
しかしこれも、効率一辺倒の人が見たら、「神木に何の意味があるか、そんなものは邪魔なだけだ、かり倒してしまえ」という話になりかねません。
でもぼくは思うんです、その極端なまでの効率主義こそが、現代の享楽主義的社会の息苦しさを生み出しているんじゃないかなって。
「そんなこと考えても、何の役にも立たないさ」と切り捨ててしまわずに、忙しく過ぎていく日々の中で、一度立ち止まって、じっくり考えてみてもいい話題じゃないかなって思うわけなんです。
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何もしない喜び 忙しく働くことで充実した毎日を送っている方に対して、特別意見をするような気持ちはまったくないのですが、忙しすぎる日々の中で、「ああ、猫みたいにのんびり過ごしたい!」と思う方も少なくないのではないでしょうか。
都市化やグローバル化が進んで人間たちはひーひー言ってるのに、養老さんちの猫のまるちゃん齢15歳は、そんな世間の忙しさなんてどこ吹く風で、のんびり散歩、ゆっくり昼寝をして、悠々と老いを楽しんでいます。
ぼくはまだ五十代なかばなので、自分を年寄りとは思っていないのですが、産業社会に貢献していないことにかけては、若いころから隠居みたいな生活を送ってますし、役立たずで無用の用を地で行っている人間です。
その上に最近は瞑想の練習も楽しくなってきて、何もしないことが何よりの喜びとなってきました。
何もすることがなくても、猫は決して退屈しません。
人間だって同じようにできるはずです。
ただ頭を空っぽにして、ごろりと横になって、何を見るでもなく、ぼーっと視線を空間に漂わせることができれば、そこにはいつだって小さな幸せが漂っているのだということに、あなたもきっと気づくはずです。
イタリア語には dolce far niente という言い方があります。「無為の楽しみ」という程度の意味ですが、さすがはラテン文化のお国柄、人生の楽しみ方をよく知っているな、と思います。
書かないことで書く 何もしないことが楽しくなってくると、わざわざ文章を書くことにもさほどの意味がなくなってきます。
ネット上で文章を書いているみなさんは、なんといっても好きだから書いている、という部分が大きいと思うのですが、ぼくの場合はあまりそこのところが強くありません。
誰かに読んでもらって褒めてほしいとか、なんとかお金が稼げないだろうか、といった「邪心」で書いている部分が大きいのです。
だから、「ただ生きているだけで十分で、何もしなくてもオーケーなんだ」ということが分かってくると、書く動機が弱まってしまうんですね。
でも、ただ生きてるだけでオーケーならば、書いても書かなくても、どっちでもオーケーという話ですから、何か有用な記事を書こうという気持ちではなく、無用の記事でかまわないから、心から湧き出してくる言葉を並べてみようじゃないか、というような塩梅で、この記事はつらつらと書いてみているのです。
若いころ作家になりたいなと思って、けれどもうまく文章が書けないでいるときに、「貝が貝殻を作り上げるように文章を書きたいものだ」と思ったことがあります。
養老さんちのまるちゃんのことを考えてこれを言い直すと、「猫が毛づくろいをするように文章が書きたい」ということになります。
あれこれ考えて、有用な文章を書こうとするのではなく、自分にとっての自然な所作としてただ淡々と文章をつづっていく。
そんな形でこれからも書き続けていけたらなと思っています。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
☆紹介した本
養老孟司「猫も老人も、役立たずでけっこう」(2018 河出書房新社)
みなさん、おはこんばんわ。
この記事では、スティーブン・キング「書くことについて」とマイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」という二冊の本を簡単に紹介します。
「シャイニング」の原作者であるキングと、「ジュラシック・パーク」の原作者であるクライトンという、アメリカのベストセラー作家二人の舞台裏が覗けるノンフィクションの二冊です。
スティーブン・キング「書くことについて」 マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 スティーブン・キング「書くことについて」 キングのこの本は、小説の書き方についてがテーマになっています。
ですから、どちらかと言えばこれは、作家志望の人向けの作品だと言えます。
けれども、前半三分の一程度は「履歴書」というタイトルで自伝的な内容がつづられていますから、作品だけでなく作家に興味を持つタイプのあなたならば、興味深く読めること間違いありません。
想像力豊かだった子どもの頃の話から始まり、売れなくても書き続けた貧乏作家時代、ベストセラー作家になってからの酒とドラッグなしには生きていけなかった苦境など、どのエピソードも心をつかみます。
後半は小説の書き方になるのですが、作家を目指す方でなくても、ここから文章術を学ぶこともできますし、また小説に限らず、人間が表現することの意味を学ぶこともできるでしょう。
そして「後書き 生きることについて」では、この本の執筆中に車に轢かれて九死に一生をとりとめた体験がつづられます。
度重なる手術の結果、再起し、執筆を再開するに至る過程は涙なしには読めませんでした。
書く力を回復したキングはこう書きます。
ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。
この言葉は、「書く」ということを「生きる」という言葉に置き換えても十分に通用します。
生きるということは、金や名誉や人間関係のためにあるのではありません。あなたが人生を真摯にそして楽しく生きるとき、そのことがあなたの人生を豊かにし、周りの人の人生をも豊かにするのです。
この本を読めば、キングという作家の書くことに対する情熱が、きっとあたなの人生を豊かなものにしてくれるに違いありません。
「書くことについて」 (2013 小学館文庫) スティーヴン キング
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マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 クライトンの「トラヴェルズ」は、人生という旅を描いた自伝的ノンフィクションです。
この本の最初のエピソード「解剖死体」は次のように始まります。
弓鋸(ゆみのこ)で人間の頭を切開するのは用意ではない。
これはクライトンがハーバード大学で医学生として勉強をしていた時代のエピソードなのです。
ぼくのように血を見ると背筋に悪寒が走る人間には、ちょっと読むのがつらい話が続くのですが、クライトン自身が血を見るのが苦手だというのですから、どうして医学を志したのだろうと、なんとも不思議な気持ちになります。
医学生のうちから小説で金を稼ぎ始めていたクライトンは、医学部を出たものの医師の資格は取らず、そのまま小説と映画の世界に身を投じることになるのですが、この医学部での経験は彼に取ってきわめて重要な「旅」だったのでしょう。在学中に書いた彼の出世作「アンドロメダ病原体」は、医学的なアイディアで成り立つ緊張感あふれるサスペンス小説なのです。
さて、クライトンは映画の世界ハリウッドに関わるようになったことで、スピリチュアルというもう一つ別の世界にも導かれていくことになります。
ハリウッドの女優とつき合い、その女優に霊媒を紹介され、自分が関わっていた映画が今は座礁しかかっているが、じき軌道に乗ることを予言され、その予言は的中します。
その映画「ウエストワールド」の制作がうまくいったとき、クライトンは次に何をすればいいのかが分からなくなり、深いうつ状態に落ち込んでしまいます。
そして関心の持てないまま大量の本を買い、それを読みますが、どれにも興味が湧きません。
そんな状態で彼は「ビー・ヒア・ナウ」という本に出会います。これは元ハーバード大学の心理学教授ラム・ダスが書いたスピリチュアルの古典的作品で、精神的バランスを失っていた一人のアメリカの知識人が、インドの聖者に出会うことで、新しいパースペクティブを見つけたことを語るノンフィクションです。
科学的な思考に信を置くクライトンは、ただちにインドの神秘世界に飛びつくことはしませんが、ハリウッドから距離を取り、ハワイのマウイ島に行っては、スピリチュアルに関わる本を読んで、自分を取り戻していきます。
そしてタイのバンコクを皮切りに世界中を旅し、自分の心の中を旅していく経験をこの本につづったのです。
科学的な思考を大切にしながらも、神秘主義的なものの見方にも心を開いて、自分の経験を観察していくクライトンが、肉体的にも精神的にも続ける冒険旅行は上下二巻の大冊ながら、あなたの心をきっと揺さぶることになるでしょう。
合理性や経済性が優先されがちな現代社会に息苦しさを感じているあなたには特におすすめの作品です。
「トラヴェルズ―旅、心の軌跡〈上〉」 (2000 ハヤカワ文庫NV)
今日はちょっと重い内容の本を紹介します。
矢川冬さんは小学生のときに実の父親から性的虐待を受けました。50年も昔の話です。
助けを求めた母親にも拒絶され、冬さんは一人でその絶望的な状況を乗り越えるしかありませんでした。
こちらが彼女の30年にも及ぶ孤独な闘いの記(しる)された本です。
矢川 冬「もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて」(2018 NextPublishing Authors Press)
性暴力の問題は、重たすぎて、ぼくの力量では書ききれないのですが。 実父からの性的虐待という恐ろしい烙印 女が一人で生き抜くために。ボーボワールとフェミニズム 冬さんの底力 アマゾンで、初期費用無料で自分の本を出版して売れる時代なのね。 矢川冬さんのことはわっと (id:watto)さんに教わった。 性暴力の問題は、重たすぎて、ぼくの力量では書ききれないのですが。 はじめにお断りしておきますが、ぼくはまだ冬さんの著書を読んでおりません。現在インドにいるため、著書を取り寄せて読むことが難しいのです。
けれども、アマゾンで読者のレビューを12編全部読んで、この本はぜひ多くの人に読んでもらいたいと思いましたので、見切り発車的ではありますが、冬さんの経験について、今書けるだけのことをこの記事で書いて、わずかばかりでも冬さんを応援したいのです。
また、ぼくの性別は男であり、LGBTというわけでもありませんから、女性に対する性暴力について、当事者的な立場で実際の体験にもとづいた発言をすることはできません。
ですからここに書くことは、ぼくなりの思考実験による一つの解釈の記述ということになります。
ただし、ぼく自身、社会における少数者としての「苦しみ」を自分なりに知っていますので、決して傍観者的な発言をするものではありません。
性暴力という極めて過酷な体験について、実感としては理解できないことを承知の上で、自分の経験してきた「社会からはみ出したもの」としての苦しみにもとづいて、自分にできる範囲で「冬さんの人生」を表現してみようと思うのです。
実父からの性的虐待という恐ろしい烙印 冬さんは9歳のときに性暴力事件を経験し、それについて何も言えなかったことを知った父親から、10歳から12歳のときまで性的虐待を受け続けることになりました。
アマゾンの著者紹介にはこうあります。
性虐待が10歳で始まると同時に成長はとまり、感情消失、言語の障がい、うつが出現する。性虐待を受けていた頃の体形そのものがPTSDを誘発する。24時間365日なぜ辛いのか。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4802094310?ie=UTF8&tag=ksatmblr-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4802094310 彼女はまさに「生き地獄」を生き抜いてきたのです。
「被害者のトラウマから発生する乖離症状が次の性被害を呼び込む」という構図の中で、冬さんはのちにさらなる性暴力を受けることになります。そのとき、実父から受けた性的虐待という「烙印」があるために、冬さんは「こんな被害を受けるのは自分が悪いのだ」という思い込みに苦しめられます。
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女が一人で生き抜くために。ボーボワールとフェミニズム 冬さんは10歳のときに「子どもは入らない、結婚もしない」と決心し、家族から離れることを第一の目標にします。
性虐待のトラウマから「自分は何もできない無能な人間だ」と信じ込んだ冬さんは、唯一の逃げ道を勉強に見いだし、地域で一番の公立高校に入り、有名私大に合格して実家を逃げ出します。
けれども、家族から離れても彼女の「生きにくさ」は減るどころか増すばかりでした。
虐待の後遺症であるPTSDは遅れてやってくるのです。しかも当時は誰にもなんの知識もなく、一人の専門家すらいませんでした。
パニックや鬱の症状がどうして起こるのかも分からず、自分の性質のせいだとしか考えられず、孤軍奮闘せざるを得なかった彼女の救いになったのは、女一人で生き抜くために、教育と経済力をつける過程で出会ったフェミニズムでした。
なかでもボーボワールから強く影響を受け、ご著書の中でもボーボワールの「娘時代」を含め、自分の経験にもとづいて、女性の自立に役立つさまざまな書籍を紹介してらっしゃいます。
冬さんが本当に一人で切り抜けなければならなかった五十年前と比べれば、性暴力の被害者にとって今の状況は多少なりとましなものになっているはずですが、実のところ社会的な偏見は根強く残り、医療・福祉関係者の無理解もまだまだあり、男性による女性の抑圧自体が、未だに十分認識されているとは言えません。
本書のような書籍が多くの人に読まれることで、少しでもよい方向に社会が変わっていくことを切に願うものです。
冬さんの底力 冬さんは、実父からの性虐待を受けるまでは、きっと聡明な子どもだったに違いありません。お母さまからも事件以前は必要十分な愛情を受けていたのではないでしょうか。
いつもながらに話題作りのうまいキンコン西野氏が、11月に発売した新著を12月19日に早速ネット上で公開しました。
・11月発売&絶賛ヒット中のビジネス書『新世界』を全ページ無料公開します(西野亮廣)|新R25 - 20代ビジネスパーソンのバイブル
今までの著書と同じく、とってもおもしろい本ですので、スマホやパソコンでささっと目を通すもよし、書店やアマゾンで購入してじっくり線を引きながら読むもよし、ご自分に合った方法で楽しんでいただけたらと思いますが、「そこまでする時間はないよ」という皆さんのために、この記事では「新世界」の概要をご紹介したいと思います。
「大丈夫、行けるよ」 キンコン西野が経験した「苦難と成功」 新しい挑戦とさらなる苦難の道 「大丈夫、行けるよ」 r25.jp 上の「新世界」のページを開くと、記事タイトルの上に小さめの赤い字で
「大丈夫、行けるよ」 という西野さんの呼びかけのメッセージが書いてあります。
この言葉に「新世界」という本に込められた西野さんの気持ちが詰まっているのを感じます。
今の世の中、正直に言って息苦しいとは思いませんか?
株や仮想通貨で誰かが儲けているような景気のいい話をメディアで見聞きする機会はあっても、自分の周りではそんな浮ついた話は聞いたことがありません。
ごく一部の人たちが儲けているのを遠目に見ながら、一般人のぼくたちは、一生懸命働いても稼ぎはたかが知れてるし、仕事につけずに悩むものも多い。
かといって会社に見切りをつけて起業ができるかといえば、それもどこか遠くの世界の話で、ほとんどの皆さんが現状に我慢して、なんとか毎日を過ごしている、そんな姿が目に浮かびます。
そこに西野さんという溢れるエネルギーを持つ青年が、
「大丈夫、行けるよ」 と、あなたの肩をぽんと叩いて、今とは違う新しい可能性を教えてくれるのがこの本、「新世界」なのです。
キンコン西野が経験した「苦難と成功」 西野さんは高校を卒業すると兵庫の田舎街をあとにして、大阪の「新世界」、家賃4万円の部屋で一人暮らしを始めます。
吉本の養成所で出会った梶原雄太氏とコンビを組み、死物狂いの努力をします。そして頭角を表し、20歳の頃には東京で「はねるのトびら」という深夜番組にメインとしてレギュラー出演するまでになります。
けれども、このスピード出世が仇になって、秒刻みのスケジュールと、期待に答えられないための批判の声がストレスとなり、相棒の梶原さんは精神に失調をきたし、失踪してしまいます。
マネジャと話し合って、一人では活動をせず、自宅待機をすることに決めた西野さんは、梶原さんの復帰を待ちながら、自宅でネタを書き続けます。梶原さんはいつ戻ってくるのか、本当に戻ってこれるのか、不安にかられながらも、彼は待ったのです。
そして三ヶ月、復帰した梶原さんとともに西野さんは活動を再開し、自宅待機中の経験を肥やしにして活躍します。
「はねるのトびら」はゴールデンタイムに進出し、日本一の視聴率を取るまでになります。
25歳のときのことでした。
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新しい挑戦とさらなる苦難の道 けれども西野さんは、その「売れっ子芸人」の地位に満足しませんでした。
西野さんはこう書いています。
ボクは、「どうして今の自分に、芸能界のトップを走る先輩方を追い抜く気配が備わっていないのか?」を考えてみることにした。
そしてそれは、先輩方の敷いたレールに乗って走っているからなのだと気がつきます。
西野さんは「新しいレールを敷く」という大胆な挑戦を始めます。
すると周りからは大バッシングの嵐が巻き起こります。新たな苦難の始まりです。
ここで西野さんは読者に語りかけます。
「キミは今どこにいる? 一歩踏み出したいけど、踏み出せない? 変わりたいけど、変われない? 一歩踏み出したら、ぼこぼこに殴られるんだもんね、怖いよね。
作家になりたいと、いくらかでも思っているあなたなら、村上春樹の成功について、まったく知らないということはありえないでしょう。
彼が「なぜ世界中でこれほどまでに読まれているのか」という理由を、合理的に説明することなどできるわけありませんが、春樹が「なぜこんなに成功することができたのか」を少しばかり考えてみることは、あなたが作家になる可能性をきっと高くしてくれることでしょう。
そして、もののついでではありますが、世間で取りざたされるように、春樹がノーベル文学賞をとる可能性があるのかどうかについても、せっかくだから一緒に考えてみようじゃありませんか。
村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 作家になりたかった *わけではない* からこそ。 「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 第22回群像新人賞を受賞したデビュー作「風の歌を聴け」と、受賞第一作の「1973年のピンボール」が、全体を断章で構成する形式の点で、アメリカの作家カート・ヴォネガットの模倣であることはよく知られた事実です。
おまけに「風の歌を聴け」では、デレク・ハートフィールドなる架空の作家を登場させています。
これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトというSF作家を登場させていることの模倣あり、ここまでいくと「バクリ」という言葉も使いたくなります。
当時の群像新人賞の選考委員は、佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介の諸氏で、
・村上春樹 第二十二回群像新人文学賞
というページに選評が載っているので読んでみると、アメリカ文学の影響を強く受けてはいるが独創性が高いということで、満場一致の受賞となったことが分かります。
この「模倣」の問題は本人も気にしていたと考えられ、長らくこの二作は2015年になるまで、海外での翻訳出版はされていませんでした。
・ようやく英訳が出た村上春樹氏の初期作品に世界が熱中! | クーリエ・ジャポン
という記事には、
デビュー作『風の歌を聴け』と二作目の長編小説『1973年のピンボール』については、長い間、日本国外で英訳が刊行されていなかった。村上氏自身が「未熟な作品だと思っていたから」だという。
と、2015年になってようやく海外での出版がなされた事情を説明しています。
多くの作家がはじめは優れた作家の模倣から始めるのですから、春樹の作品がアメリカ文学の模倣から始まっていたとしても、何も悪いことはありません。
みなさんが作家を目指して小説を書くのならば、好きな作家をいくらでも真似してみればいいでしょう。
ただし、プロフェッショナルとして作家になりたいのならば、そこに模倣以上の何かを生み出さなければならないことは言うまでもありません。
作家になりたかった *わけではない* からこそ。 村上春樹という作家のおもしろいところは、彼は別に作家になりたかったわけではない、というところにあると思います。
千駄ヶ谷でジャズ喫茶をしていた春樹は、野球の観戦中にふと小説を書いてみようと思い立ち、そして実際に書き始め、じっくりと書き上げた作品を新人賞に応募したところ、これが一発で見事に受賞してしまったのです。
それが1979年、30歳の年です。
こんなことは普通の人間に起こることではありません。
しかも同じようにして自然に淡々と書き続けた結果、5作目の長編「ノルウェイの森」は、上下巻合わせて430万部の大ベストセラーとなります。
1987年、38歳で押しも押されぬ有名作家となったわけです。
真似しようと思っても真似のしようがない人生の軌跡ですが、作家になりたいあなたがここで学ぶべきことは、あなたが本当に書くことが好きならば、春樹のようにはなれなくても、自分なりの方法で書き続けていくことで、自分なりの形を作ることはできるはずだ、ということです。
春樹自身も、デビュー作と二作目の形式からは離れて、新しいスタイルで本格的な長編を書くことで、「これこそ村上春樹だ」と言える作風を確立していきました。
あなたもプロになれるかどうかとは関わりなく、書くことが好きで、書き続けることができれば、自分らしい作風を確立し、数は少なくても読者を獲得することもできるでしょう。
今の世の中では、誰にでも手の届くところに、ネットという表現媒体があります。
じぶんなりのメディアを用意して発表をし続けることで、明日を夢見るアマチュア作家たちは数知れません。
あなたが本当に書くことが好きならば、そうした人たちの仲間に加わることは、きっとあなたの人生を豊かにしてくれるに違いありません。
そして、運がよければ、あなたにもプロとしてのデビューの道が開けるかもしれないのです。
「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 村上春樹という作家の天才性は、「生き方自体が作家」であるということに尽きると思います。
書くことが好きで、走ることが好きで、走ることについても書いて、翻訳もして、とにかく彼は好きなことをして生きていて、それが「作家として成立」しています。
それはまったく幸運なことしか言いようがありません。やろうとしてやれることではなく、天が与えた運命としか言いようがないでしょう。
その上、彼の書くものは「商品」としても優れているのですから、これは奇跡以外の何ものでもありません。
この奇跡の秘密こそが彼の成功の秘密であるわけですが、それは彼の執筆方法が「無意識の力」を利用しているところにあるのではないでしょうか。
彼はストーリーがどのように進んでいくかを自分でも知らないまま書き進め、一旦書き終われば、すべてを打ち込み直しながら推敲していくという作業を、何度も繰り返すのだといいます。
このようにして村上春樹本人の意識すら知らないことを書いた結果が、世界の読者に受け入れられているのですから、不思議と言えば、まったく不思議なことです。
言ってみれば彼の無意識は、今の地球の時代精神とつながっているのでしょう。
もちろん彼の書くものが万人に受けるというわけではありませんから、そのとき、春樹ではないあなたが書く作品にも、出番があるわけです。
実のところ、あなたの無意識だって、今の地球の時代精神とつながっているのです。
ただしそのつながり方は、春樹ほど太いつながりではなく、ごく細いものかもしれません。
けれど、それがいかに細いものであっても、同じチャンネルでつながっている人にはあなたの表現が届くはずですし、創作を続けていく中で、そのつながりを太いものにしていくこともできるのです。
ぼくも非力ながら、こうして記事を書いていくことで、少しずつでも時代精神とのつながりというものに磨きをかけて、流れのよいものにしていこうと心がけています。
願わくば、あなたのもとに文芸の神さまが降りてきて、あなたをこの地球時代の集合無意識と太く結びつけてくれますように。
春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹がノーベル文学賞を取る可能性はどのくらいあるのでしょうか?
これについては、はっきりは分からないというのが、もちろん正直なところで、まったく神のみぞ知るということです。
けれどもここで大胆な予想をしてみましょう。
村上春樹がノーベル賞を取るのは、日本の全体主義化が進んで、日本がふたたび戦争を始めたときである、という予想です。
ノーベル文学賞に政治的な意図が込められていることは、みなさんもご存知の通りです。
ソビエトのソルジェニーツィン、中国の高行健など、政府に抗議した人物の受賞に、それなりの意図があるのは明らかですし、ミュージシャンであるボブ・ディランの受賞も、表立っては言われていなくても、その政治的な姿勢が受賞の背景にあることは否定できないでしょう。
春樹の小説が、ノーベル賞に値するものかどうかは、スウェーデンアカデミー外部の人間には判断できません。また、大江健三郎氏がノーベル賞を取ってからの期間や、日系のカズオ・イシグロ氏が受賞したことも春樹受賞には不利や要素として働く可能性があります。
そうしたことを考えると、当分の間、春樹の受賞はなさそうに思えますが、今後十年単位のスパンで考えたとき、日本が軍事大国となり、戦争を始めたときに、それを諌めるメッセージとして、村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性が高まると思えるのです。
以上、最後は勝手なぼくの妄想となりましたが、この記事はこの辺でおしまいにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
みなさん、神さまは信じてますか?
神さまがこの世界を創ったのか、それとも人間が神さまを考えだしたのか。
今日は、
E.フラー・トリー「神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源」(2018 ダイヤモンド社) という本を紹介しながら、そんな話について考えてみようと思います。
「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 早すぎた「神々の黄昏」としての仏教、そしてデカルト・ニュートン・ニーチェからマインドフルネスへ 「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 神さまを信じるか? と言われたら、答えに困るかもしれませんが、「この世界が神に創られた」というような考え方はしていなくても、日本では願い事を神さまに頼んだりするのは、割と普通ですよね。
そういう曖昧な信仰の形とは違って、ヨーロッパやアメリカでは、「唯一・万能の神がこの世界を創った」というようなきっちりした信仰が生きています。
アメリカのキリスト教原理主義者の方などは、キリスト教の考え方と矛盾するから進化論を学校で教えるな、と言ったりするようです。
でも、進化論って、神さまが世界を創ったっていうような話と、別に矛盾しないと思うんですよね。
聖書に書かれているとおりに、何千年か前に神さまがこの世界をお創りになったとしましょう。
でも、それは万能の神さまがなさったことなんですから、あたかも
「138億年前にビッグバンがあって、46億年前に地球ができて、そうして生命が生まれ、途方もない時間をかけて進化した結果人間が生まれた」 かのように見せかけて、この世界を創ったからなんだってことで、十分説明がつくじゃないですか。
ですから「神を信じるか否か」はあくまで個人の考え方の問題であって、科学的な思考とも合理主義的な人生観とも矛盾せず共存できるものだと思うんです。
「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 この世界を神さまが創ったかどうかはさておいて、とにかく人類は猿の仲間から長い時間をかけて進化してきたようです。
トリーさんの「神は、脳がつくった」という本の説明では、人類200万年の進化の歴史の間に、次のような神の誕生を準備する「5つの段階」があったとしています。
そして、この進化の副産物として、神々は生まれたっていうんですね。
200万年前、脳の大きさ、知能が増大し、道具を使うようになる。 180万年前、自意識が誕生し、狩りや共同生活といった自他の意識を必要とする行動が可能となる。 20万年前、「心の理論」が発達し、他者の心を推測する能力が生まれ、相手を思いやる行動が生まれる。 10万年前、「内省的意識」が発達し、他者が自分をどう見ているかを考えるようになる。その結果、飾りを身につけたり、様々な自己装飾をするようになる。 4万年前、自伝的記憶が発達し、自分の過去や未来について考えられるようになる。道具や武器、洞窟で見つかる絵画、貴重な副葬品を合わせてする埋葬などといった技術・文化が加速度的に進展する。 このようにしてヒトが、
「自分の過去と未来を考え、死後の世界について思いをめぐらすようになったとき、神々が生まれたのだ」 というわけです。
進化によって人類が巨大な脳を獲得し、類まれな知能を駆使するようになったことの副産物として「神々を発明する必要があった」のだとするトリーさんの考えは、確かに理に適っているように思えます。
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「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 さて、トリーさんは、
生者と死者の関係における革命がもたらした結果の一つが、最初の神々の出現だったように思われる。(……)神々は八〇〇〇年前から七〇〇〇年前に現れた可能性があるが、もしかしたらもっと早く現れたかもしれない。
*1
と書いていて、これは農耕が始まることによって、定住が進み、死者を居住地のそばに埋葬するようになったことが祖先崇拝へとつながって、そうして神々が生まれたのだ、というのですが、ここのところはちょっとどうでしょうね。
というのは、現在でもアマゾンの奥地などには、狩猟採集を中心として半定住の原初的暮らしを続けている、たとえばヤノマミといった人々がいるのですが、彼らは死者を埋葬することはしません。
みなさんは「魔術」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
魔法使いのお婆さんが鍋でぐつぐつ秘薬を煎じているところ、なんてのは、ちょっとレトロすぎますかね。
何しろアニメの魔法少女がダークファンタジーの世界で活躍する時代ですもんね。
あれ、でも、魔術と魔法って、同じものなんでしょうか?
この記事では、その辺りの言葉の使い方を入り口にして、SF作家、森下一仁氏の「魔術師大全」という本を肴に、魔術を巡る駄法螺を吹くことにしましょう。
魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! 魔術とは果たして何なのか、それは本当に存在するのか 魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 魔術とか魔法とかいうのは、たぶん英語のマジック magic の訳語として作られた言葉なんでしょうね。
マジックの語源は、古代ササン朝ペルシアの神官を意味するマギ magi からきていて、西欧世界の人々がペルシアという東洋の異教の儀式を「魔術」として捉えたということのようです。
日本語でマジックと言ったら、奇術や手品のことになってしまいますが、これはアメリカあたりから見世物として入ってきたマジックショーの影響でしょうか。
試しにアメリカのフリーの辞書アプリを引いてみますと一番最初に「呪文や特別の身振りによって不可能なことを実行する不思議な力」といった意味のことが書いてあります*1。
ちなみにマジック以外に魔術に当たる言葉としては、ソーサリー sorcery というのもあります。
異世界ファンタジーの分野で「剣と魔法もの」というのがあって、これは sword and sorcery の訳ですね。英雄が剣を振り回し、魔法を使って活躍する物語のことです。
また、ぼくが好きなカルロス・カスタネダの「呪術師と私」というノンフィクション・ノベルでは、メキシコの呪術師に弟子入りしたアメリカの人類学者の姿が描かれますが、この呪術師は sorcerer の訳ですから、魔術師と言ってもかまわないはずです。
この辺の使い分けは、西洋的な魔術師に対して、それ以外のアジア・アフリカ世界などの場合は呪術師になるといった感じでしょうか。
ここで改めて魔法と魔術の違いを考えてみると、
魔法は、おとぎ話やファンタジーに出てくるもの、 魔術は、西洋世界で現実に誰かが実践しているもの、 というニュアンスの違いがあるような気がします。
というところで、森下一仁氏の「魔術師大全」の話に入ることにしましょう。
森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! さて、森下さんの「魔術師大全」ですが、副題が「古代から現代まで究極の秘術を求めた人々」となっています。
アマゾンのページで内容を見ると、
魔法・魔術は奇跡を生む技であり、古くから魔術を実現するため人々は試行錯誤を続けてきた。錬金術、テレパシー、占星術、未来予知、不老不死、テレポーテーションなど、人間が古代から求め続けた魔術の真髄を解き明かす。
とあります。
つまりこの本は、古代より現在に至るまで、西洋において実践されてきたとされる「魔術」について、様々な文献からその実像を解き明かす書物ということになります。
例えば古代ギリシアのビタゴラスといえば、ピタゴラスの定理でお馴染みですから、幾何学を研究した哲学者くらいに思っている方が多いかもしれませんが、彼が数学を研究したのは、神の持つ神秘の力が数字に現れるという数秘学の思想があったからこそなのです。
現代の数学観、科学観からすれば、不思議に思えるかもしれませんが、自然を統べる法則こそ神の力の顕れであり、古代においてはその研究はまさに魔術だったわけです。
SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない」という意味のことを言いましたが、こうした歴史を鑑みれば、そもそももともとは魔術と科学の間に区別などなかったことが分かります。
* * *
さて、時代は下って17世紀、中世のフランスの話です。
太陽王ルイ14世の愛人モンテスパン夫人が起こしたとされる黒魔術の事件は、なんともおどろおどろしいものです。
この時代、魔術はキリスト教社会では当然のように禁じられていたにも関わらず、実際にはカトリックの神父が黒ミサと称される魔術的儀式をとりおこない、世俗の人間の欲望を叶える手伝いをしていたのでした。
モンテスパン夫人はルイ14世に見初められ寵愛を受けるのですが、やがて年月が流れば、王の心は更に若い愛人へと移っていきます。
その王の心を繋ぎとめようと、夫人は黒魔術に手を染めてしまったのです。
夫人の依頼を受けて、ギブールという神父が初めに行なったのは、夫人の希望が叶うように祈る程度のまだまだ常識的な範囲のミサでした。
しかし王の心を失うことを恐れた夫人の不安は収まることがなく、ギブール神父と彼を手引きした魔女ヴォアザン夫人に、更なる魔術や惚れ薬を要求していくことになります。
やがて鳥を生贄にする怪しい儀式を行なうことになり、それでも飽きたらずついには自らの体を祭壇とする黒ミサを行なうまでに至ります。
この血に染まった黒ミサでは、モンテスパン夫人は全裸になって自らの体を祭壇としたばかりでなく、なんと人間の赤子を生贄としたというのです。
しかしそうした儀式の甲斐もなく、王の心は夫人から離れてしまい、逆上した夫人は、王の呪殺、毒殺までをも依頼しますが、当局の手がヴォアザン夫人とギブール神父に及んだためにこの暗殺計画は頓挫します。
この事件で逮捕された関係者は360人を超えたにも関わらず、その顧客に宮廷内の有力者が多かったことから、実際の告訴は110人にとどまったとのことで、有罪となった者たちは、流刑、終身刑、死刑などに処されたのですが、ギブール神父は終身刑、ヴォアザン夫人は主犯として火炙りの刑を受けることとなったのでした。
王の寵愛を受けたモンテスパン夫人には特段のお咎めはなく、その後10年の間王との親交は続き、敬虔なカトリックの信仰に戻った夫人は、16年後にひっそり息を引き取ったとのことです。*2
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今までぼくは、吉本ばななの小説のどこが面白いのか、よく分かっていませんでした。
けれども今回、彼女の「体は全部知っている」という短篇集を読んで、ようやくその「魅力」が分かったので、この記事ではそのことをちょっと書いてみます。
「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり 「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 13編の短編が収められたこの短篇集の、ちょうど真ん中、7番目の小説が「ミイラ」という題名の作品です。
大学に通う日常に退屈するはたち前の少女が、近所に住むエジプトおたくの青年に突然「軟禁」されてしまう様子を描いた不思議な小説です。
「軟禁される」というくらいですから、「ビデオで勉強したようなしつこいセックス」とか「しばられたままもらしたりした」とか、それらしいことが書いてはあるのですが、ちっともいやらしさは感じられなくて、「これはエッチな妄想のお話なんですよ」という記号として散りばめられているだけ、という感じなんですね。
こういう吉本ばなな独特の書き方を「リアリティがないよなー」と、今までぼくは思っていました。
でもこの短篇集を読んでようやく分かったのは、こうやって記号を散りばめて雰囲気だけ表現するような書き方というのは、ばななファンにとって、えげつなく書き込まれた他人の感性を押しつけられることなく、自分の空想の余地が残されることで、かえって共感を持って読むことのできる表現になっているのだろうな、ということです。
ばななの作品は、言ってみれば「少女マンガ的ファンタジーとしての文学」ということになるでしょう。男どもが読むようなえげつない劇画と比べると、少女マンガは日常の風景を描いてはいても、どこか実際の日常からはかけ離れた空想世界を描写しているわけで、ばななという作家は、小説の世界でこれをやっているのかな、と思うのです。
好きでもない青年に軟禁されてセックスの快楽に酔うという妄想が小説の中の「現実」として書き表さられ、その男に自分で作った猫のミイラを見せられた主人公は、自分がミイラにされるところを空想し、あるいは息ができなくなるほどの愛情から相手の頭を打ち砕く自分の姿を空想します。
しかし物語は、危険な領域に決して踏み込むことなく、青年の優しさと身勝手さが表現されたあとで、切ない別れの場面が描かれて終わりを迎えます。
後日譚として青年が作家になりきれいな奥さんをもらったこと、自分は普通に恋愛をして、普通に暮らしている様子がつづられますが、最後にその普通の生活は「正しくて幸せなのか」という問いかけがされます。
ミイラにされた自分や、頭を打ち砕かれた彼を想像するとき、「それはそんなに悪いことにはどうしても思えなかった」のだ、といってこの掌編は閉じられます。
平凡な日々の中で、その平凡さに満足できず、静かに別の現実にあこがれる若者たちが、ばななさんの小説を大切に思う気持ちが、この不思議な読後感の物語によって、ようやく分かったような気がするのです。
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アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり さて、もう何編か簡単に紹介しておきましょう。
巻頭の「みどりのゆび」は、植物を愛するおばあちゃんを通して、アロエと友だちになる女性の話です。
中ほどの「小さな魚」は、胸にできた小さな魚の形をしたおできとの別れの物語で、長年連れ添ったそのおできに対して、旅先でふと出会った大切な友だちに対するような深い気持ちを持っていた様子が描かれます。
巻末の「いいかげん」では、小学生や老人に見初められる女性が、いかにもばなな的な空想世界の中で「活躍」し、物語の結末では「ちょうどいい年頃の伴侶に恵まれますように」と神社でお祈りをします。「何かがどうしようもなく偏っている」自分を意識しながら……。
もしあなたが、周りのみんなの価値観とどこかずれている自分を感じ、「何かがどうも偏ってるなー」と思うようなタイプの方だったら、たまには吉本ばななの小説を読んで、ささやかな空想の世界に心を遊ばせるのも、いい気分転換になるに違いありません。
☆紹介した本
吉本ばなな「体は全部知っている」(2002 文春文庫)
てなわけでご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬