(奇言と戯言) 不安を抱えて軽々生きる 不安を抱えているのに、軽々と生きるだなんて、まったく言語矛盾した話だと思われるかもしれません。 でもまあ、言葉なんてのは初めから矛盾だらけなのでありまして、矛盾が嫌いな人は数学でもしていればいいのであります。 こいつは鏡の国に紛れ込んでしまったんだろうかと思って、では軽々と不安を抱えてみることにしようかと考えるあなたならば、ぼくが言いたいことや言いたくないことや、あるいは、ほんとは言いたいんだけど言わないようにしてることまでもきっと読み取ってくださるでしょうから、高々百年ほどの短くて貴重な人生のうちの数分か数十分をこの進みも止まりもしない文章のために費やしてくださるものと確信しております。 それにしてもどうしてぼくは、スマホにテンキーまでついたフルサイズのキーボードをつないでこの文章を打ち込んでいる今まさにそのときに、奇妙な不安を腰の辺りに痛烈に感じながら、言葉のダンスを続けているのでしょうか。 文章を入力する準備を整えたのは、実は他の記事を書くためだったのですが、いざキーボードを目の前にすると、言葉にして説明すれば「書こうとしていた記事が書けなかったらどうしよう」というような不安がやってきてしまいました。 その不安を抱えたまま記事を書くのは苦しい闘いになるのが目に見えていました。 そこでぼくは軽々と文章を打ち出し続けるために作戦を変更して一時退却し、この不要不急にして浮揚感の漂う、腐朽の名作にはなりえないことが初めから明らかな随想にとりかかることにしたのです。 ですからこの文章は、ぼくにとっては不安感をしっかりと味わいながら、それが溶けて消えていく過程を積極的に見つめるための方策であり、同時にこれを読んでいるみなさんにとっては、ぼくのうちに生成消滅する不安を垣間見ていただくことによって、共感・予行演習・他山の石・対岸の火事・軽蔑・暇つぶしなどなどといった、さまざまな効用が期待できる一石二鳥・一挙両得・一目瞭然にして一網打尽の、まああえて言いますならば、こういう文章だけは自分は書くまいという反面教師としての価値だけはどなた様にもお認めいただけるものと自負しております。 さてここで本考察のテーゼに永劫回帰し、不安とはいかなるものかについて一言述べさせていただきましょう。 果たして人は不安をいかにして認識するのか。 それは体に現れる様々な感覚の変化を通して認識されるものなのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 世界を言語によって切り取り、切り取った言語を貼りつけては張りぼてを作り、作った言語の張りぼてを実際の世界だと勘違いしてしまうと、「我不安を感ず。ゆえに我あり。我不安とともにあり!」と声たかだかに叫びたくなってしまうものですが、最近の心理学的知見を持ち出すまでもなく、賢明なる読者諸賢におかれましては懸命にそしてつぶさに自分の感覚を観察することによって、「自分はいま腰の辺りに強い緊張を感じているな。そしてそのことから脳の中で不安や恐怖などの情動を司る扁桃体が活発に活動して世に『不安』として知られる情動がこの体に起こっていることが知れるのだ」と例えばそのように、体の感覚と情動との関係を理解することができるわけであります。 ここまで筆を進めてまいりましても、もちろん進めるべき筆など持ち合わせはなく、キーボードを打ち続けるしか能のないわたしではありますし、そもそも脳があるのかどうかも分からない脊髄反射的な意味不明な文章の羅列になっていることは平にお謝りするしかない次第ではありますが、つまり残念なことにわたくしの不安は一向に消滅の方向に向かっていってはくれていなことを報告せざるをえないのが現状であります。 ところが、人間心理というものは実に不思議なものです。 「一向に消滅の経方向に向かってくれない」と書いてしまったためでしょうか、その文章を打ち込んでいるうちに少し腰の緊張が軽くなったかな、どうだろうな、うん確かに少し軽くなってるな、まだすっと消えるほどではないけど、初めのとんがった緊張からは確かに軽くなってるぞ、というくらいには緊張がゆるみ、不安感が減じていることをここにご報告できるのは、ここまで読みにくい文章を読み進めてくださったみなみなさまのおかけでありますから、これを読んでくださっている多数の方々が住んでいらっしゃる東の果ての国ジパングには、足を向けて寝ることができないのでございます。 グローバルでワールドワイドで、フラットだけど球状の、天網恢恢疎にして漏らさずなご時世に、生物と無生物の間の顕微鏡的な存在が世の中を騒がせてはおりますが、みなさまにおかれましては、虚の中に実を見、うつつも夢と決め打ちし、覆われたものを敢えて白日の元に晒すも晒さぬもあなた次第、不安を抱えて軽々と生きる術を身につけるための、これを絶好の機会と心得て、日々ことのはを紡いで、言葉の彼方へと飛び去ろうではありませぬか。 以上、天竺国の聖地、ガンジスのほとりハリドワルより、緊張と共に機嫌よくつづり上げた奇言の羅列でありました。 [即興作文のため、誤字脱字はご寛恕ください]

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北インドの聖地ハリドワルより、みなさん、こんにちわ。 今ぼくはヒンズー教のお寺のゲストハウスに泊まっていて、お昼はたいていそこの食堂でカレーのセットをいただいています。 インドではセットの定食が銀色のスチールの大皿で出てきますが、この大皿をターリーといい、定食自体もターリーと呼びます。 ハリドワルは物価が安いので、道端の屋台ならターリーが30ルピー(約45円)から食べられます。 なお、お寺の宿は奥さんと二人で一泊200ルピー(約300円)の格安値で泊まらせてもらっており、食事も無料でいただいているので、ありがたいことこの上ありません。こんなに好条件なのは、奥さんがお寺の手伝いを熱心にやっているからなのですが。 で、こちらの写真が今日のお昼です。 手前右から時計回りに、チャパティ、ごはん、サグ・パニール(ほうれん草とインド風カッテージチーズのカレー)、ダル(ムング豆のカレー)、豆のカレーとなります。 サグ・パニールは、日本だとほとんど辛くないことが多いですが、今日のはピリ辛でした(しばらく前は相当辛いのが出ていたのですが、今は辛さ控えめになってます)。ほうれん草のとろとろ感が独特のカレーですよね。 ダルもほとんど辛くなく、ムング豆のとろみがいい感じです。 最後の豆カレーは豆の種類が分かりませんが、大豆よりは柔らかめでクセがなく、やや辛めでアクセントが効いていました。 というような具合で、インドの食事は日本の感覚からいうと、すべての料理がカレー、と言いたくなるくらいです。 店で食べるターリーのセットにはこの他にアチャールというインド風の漬け物やプレーンヨーグルトがついたりします。 アチャールは漬け物ですが油が使ってあり、もちろん唐辛子をメインにスパイスも漬け込んでありますし、ニンブーという小さく丸いインドのレモンが使われることも多く、このニンブーが苦味と共に独特の風味をつけ加えてくれていて、「慣れるとおいしいインドのアチャール」てな感じです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ちなみにムング豆のダルと並んでインドの食事にかかせないのがサブジです。 サブジはじゃがいものカレーだと思っておけば、だいたい間違いありません。 庶民的なターリーだと、ダルとサブジとアチャールで三点セットになります。 ただしこのサブジという言葉、実際は野菜の意味なんですね。インドでは英語も多用しますから、サブジの意味でベジタブルともいい、略してベジという言い方も普通です。 そこでベジバーガーというと、じゃがいもを茹でて潰して油で焼いたパテをバンズに挟んだものになります。 インドではベジタリアン料理が普通なので、ひき肉のハンバーガーは洋風の特別の店以外にはなく、バーガーと言えば、じゃがいものベジバーガーなのです。 ちなみに日本でインド料理といえば半発酵パンのナンがつきものですが、インドではやや高級な店に行かないとあまりナンを見ることはありません。 ここハリドワルでは、道端の露店式の食堂でもドラム缶で作ったタンドリーを使って何を出す店もあるのですが数は多くなく、主流は発酵させない平焼きパンのチャパティとごはんになります。 そして軽食としてはサモサを始めとする揚げ物が多種多様にあるのですが、それはまた別の機会に書くことにしましょう。 てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬ [写真は、お寺の振る舞いがもうじき始まるところで、食事が配られるの待っているヒンズー教の行者たち] ※初出: https://note.com/tosibuu/n/nfe3ca79a45f8

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このところ、どんな言葉が人を動かす力を持つのか考えています。 それで気がついたのは、確かに「言葉が人を動かす」ということもあるのだけれど、実際に人を動かすのは、言葉のもとになっている「人の気持ち」だということです。 当たり前と言えば、当たり前の話です。 けれども 「ネットでどんなふうに情報を発信すれば多くの人にとどけることができるんだろう?」 というような関心から表現について考えていると、これはどうしても引っかかり安い「落とし穴」だと思うのです。 表現に磨きをかけるのも大切 言葉は器でもあり、中身でもある 表現と承認欲求 囁きと叫びが、心の奥底で渦巻くとき 表現に磨きをかけるのも大切 どんなふうに言葉を使えば、たくさんの人に理解してもらえるのか。 そう考えて表現に磨きをかけていくこと自体は悪いことではありません。 けれどもそれをやり過ぎると、本末が転倒してしまい、枝葉のことばかり気にする結果になりかねません。 言葉って難しいなと思います。 言葉が難しい理由の一つは、言葉が器と中身の両方の役割を果たすためです。 何が器で何が中身なのかがすぐ分からなくなり、中身を食べるべきなのに器をかじってしまうわけです。 分かりにくい話でしょうか。 言葉は器でもあり、中身でもある ご飯と間違えて茶わんを食べる人はいません。 けれども「愛してる」と言われただけで、「この人は自分のことを本当に愛してくれているんだ」と勘違いしてしまうことはよくあることでしょう。 「愛」という言葉は器です。その器には優しさとか思いやりとか、いろいろな中身が詰まっています。 つまり「愛してる」という言葉に、実際に優しさや思いやりの気持ちからなされる行動が伴って初めて「愛されている」という器に中身が盛られたことになるわけです。 ところが、肉体というものが持つ過剰な欲求に心を奪われるとき、人は「愛」という言葉が中身と関わりなく、それだけで気持ちを落ち着かせてくれるという錯覚に落ち入り、自分をだましてまでも納得させたりもするのです。 中身のない空虚な器をかじって、なんとか心の飢えをなだめるのです。 表現と承認欲求 あなたが表現というものに取り憑かれた人間なのであれば、人に伝えることなど二の次で表現に取り組んでいらっしゃるでしょうから、ここで書いていることは、 「ああ、そんなことを考える人もいるんだな」 くらいのことでしかないでしょう。 けれども、ぼくのように中途半端で、表現を捨てることもできず、かといってそれに没頭することもできない人間にとっては、これは切実な問題です。 というのは、「書く=表現する」という内発的な行為が、承認欲求からなされるとき、「承認を得るために表現を調整する」という本末転倒が起こり、しかもその調整が必ずしも承認につながらない場合、あとに残るのは一抹の虚しさでしかないからです。 承認欲求のために書くことも、決して悪いことではないでしょう。けれどここでも本末を転倒させないことと、それにのめり込み過ぎないことが大切です。 囁きと叫びが、心の奥底で渦巻くとき 物書きを趣味とする旧友が「すべての言葉は魂の叫び」という題の文を書いていて、ホントにその通りだなと思ったことがあります。 そして、すべての言葉は呪文であり、祈りでもあります。 器ではなく中身としての言葉を発することができれば、それはきっと誰かに届いてその人に力を与えることになるでしょう。 願わくばこのつたない言葉が、あなたの心に響いて、あなた世界にほんの少しでも光をもたらしますように。 インドの片隅でバナナをかじりながら、ぼくはそんなことを想ったのです。 (初出: とし兵衛@note.com https://note.mu/tosibuu/n/n85eff388c872 )

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暑き日の自由律

日本で寒い冬をお過ごしの皆さん、おはようさんです。 こちら、北インドの聖地ハリドワルは、もうだいぶ寒さもゆるんできていたのですが、今日は天気が悪く、ちょっと寒めの一日となりそうです。 そこで今日は、熱に満ちたしばらく昔の日を思い起こし、二年前に年中暑いタイ・ノンカイで作った自由律の句を六つお送りします。 てなわけでみなさん、ナマステジーっ。 - あかいありがそぞろあるく だれかのたましいのせて ひとりはだかで はじているこのいのち むねをはれ、ひとりあゆめ はだしのいのち ひろいうみで ひとりおぼれるも自由 ははのちちをのむように ビールをごくごくと たそがれて、たそがれつくせば あけのみょうじょう 以上、2016年2月16日、タイ・ノンカイにて 〈初出: https://note.mu/tosibuu/n/n2905788e24da〉

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インドのハリドワルという聖地に来ています。 たくさんの人が巡礼に訪れる有名な街ですが、外国の人はほとんどいません。 ガンジス川沿いの巡礼宿に泊まっており、毎夕七、八人のお坊さんが、ガンガーの神に祈りを捧げるのに立ち会うと心もすがすがしくなり、新たな英気が湧いてきます。 年の暮れに、そうやってのんびりと過ごせる幸せを噛みしめています。 [写真は宿のベランダから臨むガンガー]

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敬愛するはてな村の友マミーさんのブックマーク経由で、九尾【coconoo】さんの記事に出会いました。 ・包丁研ぎとカブトムシ。 - coconoo doll この記事についたマミーさんのコメントが、 トウモロコシ3本で100円!すっごい安い!お腹いっぱい食べたい? というものだったので、 「包丁研ぎに、カプトムシ、おまけにトウモロコシとは何者?」 と思ったわたしなのですが...... 。 というわけで(?)、今日はトウモロコシの話です。 coconooさんは、球体関節人形というものを作ってらしゃる方で、ブログのヘッダ画像を見ていただければ、その妖しい魅力は一目瞭然と思います。 そして、そうした工芸作家としてのお顔とともに、里山ぐらしのガーデニングの話なども書いてらっしゃって、自給自足が憧れのぼくからすると、 「あっ、いいなー」 というのが、最初の感想です。 というところで、今日の話題のトウモロコシの話に入るのですが、 「3本100円」 は、いくらなんでも安すぎますよねっ!! でも、そういうちょっとした「意表」をつく話こそ、この世界の秘密を表してる気がするんですよ。 というのは、一口に「安すぎる」といっても、それは、あくまでも「都会」を基準にした話であって、coconooさんのお住まいがどちらかは分かりませんが、すこしばかり田舎に足を伸ばせば、結構お買い得なものって、いっぱいあるからなんです。 ぼくは一時期、東広島に住んでいたことがあるのですが、たとえば農協の直売のお店で、生産者の方の名前入りのいろんな野菜が、申し訳なく思うくらいのお安い値段で売っていることには、正直に言って感動を覚えたものです。 と、それにしても、トウモロコシが3本100円は安いですし、おまけにぼくはお金の感覚に弱い人間なものなので、一瞬、 「えっ、それってインドより安くない?」 と思ってしまいました。 でも、さすがにそれは勘違い。ひと桁くらいは値段が違いました。 今ぼくはインドの西、ラジャスタン州のプシュカルという小さな街にいるのですが、やや痩せ気味の焼きトウモロコシが、屋台で1本10ルピーで売ってます。 日本円にすると17円かそこらですから、3本買っても50円かそこらです。 しかもこれは、焼いてあるトウモロコシの話ですし、お好みによってレモン汁を塗ってもらったりもできて、これがまたおいしい。 生のトウモロコシがいくらで売ってるかは知らないもんで、ややいい加減な話ですんませーん。 トウモロコシについては、自分で育てた「しょぼいトウモロコシ」や、本場アメリカ大陸で食べた「おいしいソース付きの焼きトウモロコシ」とか、いくつかネタがあるのですが、今日はとりあえず、このくらいにしておきます。 てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬

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みなさん、おそようございます。 今日は、わたくしのライフゲームであります「ぷちウェブ作家スゴロク」にて、「移動中につき一回休み」のコマに止まってしまいましたので、このところ連日の更新を続けて参りましたが、こちらの記事執筆につきましては、しばしの間お休みに入らせていただこうかと思います。 なお、冒頭のおまけの写真は、カメラ機能だけはどうにも使えない 「lenovo tab2 a7-30hc」で撮った 「ネパールとインドの国境の町スノウリのインド側イミグレーション前の路上茶屋」 のぼけぼけ写真です。 てなことで、みなさん、アディオス・アミーゴスっ!!

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はてなのみなさん、ご無沙汰してまーす。 ネパールの首都カトマンズからほど近い、ドゥリケルという山腹の小さな街に来ています。 晴れた日には、宿の窓からも、遠くヒマラヤの峰々が、白く輝く清々しい姿をお披露目してくれているのを拝めるのですが、今日は階段を何百段か登って、見晴らしのよい尾根に立つ、カーリー寺まで、奥さんと二人、足を伸ばしました。 朝早いうちに登る山道は、空気も冷たく爽やかで、道の所々に設置されているヒンドゥー教の神様の像を、これはクリシュナさんだね、こっちはラーマさんかな、などと拝みながら、ゆっくりゆっくり歩いていきました。 道の両側には背の高い木が生えているのですが、ネパールはしゃくなげの木が多く、食堂の名前などにもラリグランスというしゃくなげの英語名がつけられていることがありますが、ここでも普通に見かけました。 けれどもしゃくなげの花の時期にはまだ早く、青々と葉を茂らせるばかりで、道端の小さな草には可愛い花をつけているものもありましたが、花をつける木はありませんでした。 いつかしゃくなげの花の頃に来たいものだなと、思っていると、背の高いしゃくなげの木のてっぺん辺りに、赤い花が三輪ほど咲いているのが見えました。 山道を登るぼくらをみおろして早々と咲く赤いしゃくなげ そのあと、もう少し登ると、カーリー寺に着きました。 寺といっても屋根つきのお堂があるわけではなく、土台は立派な石造りでちょっとした広場のようになっているのですが、そこに露天の石の祭壇があり、カーリー女神の小さな石像がまつられています。 そこで、荒ぶる女神カーリーの力を分けていただき、初夏ののどかな空気に霞むヒマラヤの山々がうっすらと見えるのをしばし楽しんで、持っていったパンとバナナをおいしく食べました。 ....と、そんな呑気な日々を送っているとし兵衛でした。 それではみなさん、ナマステジーっ。

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四ヶ月ほどの長逗留をして、すっかり住み慣れた西インドは砂漠のほとり、プシュカルの街をあとにし、今日、昼過ぎの列車で、インド東部のヴァラナシに向かいます。 16時間ほどの列車の旅となります。 ヴァラナシは、ガンジス川に沿って沐浴場が連なっており、信仰心篤いインドの人たちが、聖なる川の水で体を清めている姿が、日常の中に溶けこむ街です。 久しぶりのヴァラナシが、その迷路のような細い路地が、どんな顔をして迎えてくれるのか、今から楽しみです。 ...... ということもあり、しばらくこちらの更新は、お休みさせていただくかもしれません。 で、昨日書いた鍋料理の話とは、特に関係もありませんが、インドの鍋のある風景、ということで、写真を一枚 。 プシュカルのお菓子屋さんでは、こんなふうに店先で、揚げ物をしている光景をよく見かけます。写真のさつま揚げのようなものを、シロップ漬けにして、あまーくしたものが、プシュカル名物なのだそうです。 ぼくは甘いものが苦手なので、食べたことがないのですけど。 てなことで、今日はこの辺で。 ほいでは、みなさん、またーー。

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プシュカルの冬は、昼間、日差しが強いと暑いが、日陰に入ると肌寒いほどで、朝晩はそれなりに冷え込む。 といっても、最低気温 10 度前後なので、日本の冬とくらべたら、暖かいものだけど。 そして、プシュカルは砂漠の入り口に当たるので、冬の乾季には砂が舞い散り、埃っぽい。 昼間、街道を歩くと埃っぽい上に、日が照っていると影になるものもないし、暑くてかなりきつい。 ......というのは、一週間くらいまえの話で、今日はそれほどでもなかったのだけど。 この記事では、その街道沿いで見た、三つのオートバイにまつわる光景を書く。 バスの屋根の上で 足蹴り遊び 手放しで褒めていいのだろうか バスの屋根の上で インドやネパールのバスは、たいてい屋根の上に荷物を積めるようになっている。 そして、荷物だけでなく、人も乗る。 暑いときは厳しいが、今くらいの季節、昼間にバスの屋根の上に乗るのは気持ちのよいものだ。 五年前、プシュカル近郊のヴィパッサナー・センターで瞑想のコースを受けたとき、帰りのバスは、屋根の上に乗った。 頭が瞑想ですっきりしているところを、風を切って走るバスに揺られて、実にいい感じだった。 一緒にコースを受けた白人のひとたちと一緒で、その中の一人、フランスの若者が巨大な横笛を出して、バスの屋根の上で吹き始めた。 すばらしいひと時を過ごした。 旅の醍醐味は、こうした瞬間を味わうことにあるのだと思う。 * * * さてそれで。 一週間ほど前に、街から少し歩いたところにある店に買い物に行った。 その帰り道、暑くて埃っぽい街道を歩いていると、少し先の方にバスが止まっていて、何か大きな荷物を屋根の上に積もうとしているのが見えた。 何を積んでるんだろう、と思ってよく見ると、なんとオートバイを積もうとしている。 上から三人がロープで引っ張り、下から二人が押し上げている。 125 c.c. くらいの小さめのバイクだが、日本のスクーターなどとは違い、がっちりした作りの、それなりの重量があるバイクだ。 けれども、手慣れたもので、しばらく時間はかかったが、特に大変なことをしている、という感じもなく、無事に屋根の上にバイクは載った。 日本ではありえない光景だが、インドの人たちにとっては、朝飯前のことなのだろう。 足蹴り遊び アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルに「石蹴り遊び」という〈その筋〉では有名な長編がある。 どう有名かというと、この小説はふた通りの読み方ができるのである。 「ふた通り? 読み方は読者の数だけあるんじゃないの!」と思った、そこのあなた。 あなたの意見には、ぼくも完全に同意するのだが、これはそういう話ではないのだ。 なんとも奇妙なことに、この本は冒頭で、作者自身がふた通りの読み方を指示しているのである。 第一の読み方は、初めから順番に読んでいって、第二部まで読んだら終わっても良いというもの。この作品、第三部まであるんだけど。 この読み方をすると、第二部までは割とふつうの物語に読めて、第三部を読もうとすると、なんだか支離滅裂に思える。 作者の分身と思われる青年を主人公とした、パリとブエノスアイレスを舞台とするデッドエンドの青春苦悩ロマンスなのだが。 そして、第二の読み方は、冒頭にある著者指定の順番にしたがって、155ある各章を行ったり来たりしながら読む方法。 こうやって読むと、一番目の読み方とは、違ったメタフィクション的物語が見えてくるという、なかなか手の混んだ実験的趣向の作品なのである。 で、この作品にオートバイが出てくるかというと、別にそういう話ではない。いや、ほんとうは出てきたかもしれないが、ずいぶん昔に読んだので、出てきたとしても憶えていないのだ。 なお、この本を読んでみたい方は、次の水声社版を図書館で探すのがおすすめである。 [水声社版「石蹴り遊び」] アマゾンで見ると四つの版があるのだが、すべて絶版のようで、また、昔の全集版は訳が古く、新訳は値段が高い。 文庫版は上下巻なので、第二の読み方をするとき、不便だ。なお、値段は今見ると揃いで 4,000 円。ちょっと高いが、買うならこれだろう。 [文庫版] * * * ここで、インドの道端に舞台は戻る。 四、五日前のこと、またぼくは買い物のため街道を歩いた。この日も暑い日だった。 そして、やはり帰り道のことである。前方からやってくるオートバイが見える。 しかし、そのオートバイは、やけにゆっくり走っている。 この街道は、新しく舗装されて十分な道幅があるから、ほかのオートバイは、みなかなりの飛ばし方だ。 その中をなぜか、そのオートバイは、ゆっくりと、しかも妙に静かに走っているのだ。 んっ? と思ってよく見ると、オートバイに乗ったインドのおじさんの左足が動いているのが見える。左足が前に行って後ろに行く、また前に行って後ろに行く、前に行って、地面に足をついて、後ろに蹴る......。 世に稀に見る、足蹴りオートバイ。 ぼくは「石蹴り遊び」ならぬ、「足蹴り遊び」を目撃したのだった。 手放しで褒めていいのだろうか 三つ目の話は手みじかにいこう。 これは、おとといのことだ。この日も暑かった。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中