中村篤史氏は、神戸市元町で「内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー栄養療法」のナカムラクリニックを開業しているお医者さんですが、反コロナとでもいうべき立場で、note.comに投稿を続けていらっしゃいます。
https://note.com/nakamuraclinic
この記事では、氏が4/5付けで書いたのちにすでに削除してしまった「教授からの電話」という投稿を全文引用させていただきます。
著作権法上の制限から、予告なく削除する可能性もありますので、あらかじめご了承願います。
投稿内容の紹介と注釈 中村篤史医師「教授からの電話」全文 投稿内容の紹介と注釈 中村氏の投稿は、
「テレビにもよく出ている某教授が、氏のクリニックに電話をかけてきて、コロナワクチンの問題点について語った」
というものです。
教授は、
「ワクチンを打てば血栓ができるのは当たり前、というのも、すでに抗体を持っている人ならば、ワクチン成分が取り込まれた血管内皮が攻撃され傷つけられるから。それなのにテレビに出る専門家はそのことを言わない」
という意味のことを語っています。
この教授の意見がどこまで信頼するに値するかは簡単には言えませんが、ワクチンについて専門家の中にも、このような懸念を示している方がいることは、ワクチン接種を受けるかどうかを決める際に、知っておいたほうがいいことでしょう。
なお、中村氏が投稿したのちに、すぐ削除してしまった理由については、本人以外は知りようもないことてすが、教授本人から削除を要請されたと考えれば、特別の不思議はないでしょう。
この記事を読んでくださっている皆さんには、その教授が誰なのかといったことには深入りしないで、匿名の専門家からの情報として、内容を検討していただければ幸いです。
念のためつけ加えると、ぼくはワクチンの接種自体を否定するわけではありません。
けれども、社会全体として、接種を積極的に推進すべきなのか、それとも個人の判断に任すべきなのか、あるいは打ちたい人は打てばいいというようなものなのか、そういう選択肢というものを、副反応とか副作用とか呼ばれるものについてもきちんと知り、そしてワクチンの効果についてもしっかり知った上で、自分なりの考えを持つことが大切だと思うのです。
皆さんが今回のワクチンについて考えるための一助として、この記事が少しでもお役に立てば幸いです。
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中村篤史医師「教授からの電話」全文 コロナ関係の話題でテレビでしばしば見る某教授から、当院に直接お電話いただいた。受付から「○○教授からお電話です」と聞いても、意味が分からなかった。その教授は、僕にとって、完全に「テレビの中の人」だったから。『そこまで言って委員会』かもしれないし『TVタックル』かもしれない。とにかく、「テレビの中の人」である。その人が僕に電話をくれたというのだから、意味が分からない。急に現実感がなくなるような、夢の中にいるような錯覚を感じた。
しかし電話の向こうの声は、確かに、テレビで聞き慣れたあの教授の声だった。
「noteで見ています。僕らがなかなか言えないことを言ってくれてて、ありがとうございます」
とんでもない。こんな高名な先生に読んでもらっているなんて、想像もしない。僕は恐縮して、うまく言葉が返せなかった。
「僕が一番もどかしいのは、コロナワクチンを打って血栓ができるということ、あんなの当たり前なのに、学者は誰もそれを言わない。コロナワクチンは筋注です。筋肉から毛細血管に入り、そして血中にまわる。ワクチンの成分が血管内皮細胞に取り込まれる。もし、この人の体にすでにコロナに対する抗体があれば、血管内皮を攻撃して傷ができる。こんなの当たり前です。従来のタンパク型ワクチンなら打ったところにマクロファージが来て抗原提示して、といった反応が起こるところ、すでに細胞性免疫の成立している人が打てば、攻撃にかかる。だからひどい副反応が出る。当然皮膚に現れるけど、それだけではありません。血管そのものを攻撃するから、血栓もできる。
当然のメカニズムなんです。でも、テレビのなかの学者はそれを言わない。学者が「なぜ起こるかわからない」って言うんだけど、その発言の意味がわからない。本当にわかっていないのなら、もう学者じゃなくて素人でしょ。
だから、コロナワクチンの接種希望者に対して国がやるべきことは、まず最低限、抗体検査。その人がコロナに罹患したことがない確認が要る。あるいはCTL検査。これは日本ではできないけど。
もっとも、抗体はすぐに消える。軽い感染では抗体も残っていない。こういう人に1回、2回ワクチンを打つと、大変なことになる。まったく感染したことのない人ならともかく、すでに感染歴のある人ならやばいと思う。
あと、「ワクチンの接種によってコロナ検査の陽性者が頻発している」っていうのをさも異常事態のように言っているけど、これも当たり前。腸管にウイルスがいる人もいる。ワクチンによってサイトカインやIL4が誘導されて、マクロファージが活性化して、ACE2受容体が発現する。すでにそういう論文が出ている。腸管にウイルスがいる人がワクチン接種を契機にマクロファージが全身にまわる。こんなの当然です。
みんなボケてるのか頭が悪いのか、わからない。あと、やばいなって思うのは、コロナワクチンが変異株に対して感染防御効果がないだけならまだしも、逆に感染しやすくなる可能性。これ、本当にやばいと思う。冬に全然違う変異株が出たとき、ワクチンを打った人だけが重症化しやすい、っていう可能性は十分ある。だから、僕は言ってるんです。「コロナを今止めたいかもしれないが、医療者への接種は全員ではなく、せめて3分の1にしてくれ」と。
コロナワクチンを打った医療者全員が変異株によって重症化したら、日本の医療はパニックになる。
10%の確率で墜落する飛行機があるとして、そこに医者全員を乗せるようなものです。墜落は、即、医療の崩壊を意味します。こんなリスクのある施策を、行政がとってはいけない。
僕は自民党の議員にこの点を指摘して、何とかしてくれるよう言いました。しかしどの議員も及び腰です。
どうせワクチンの作用発現なんて、ゆっくりだから大丈夫っていう先生がいる。でもそれって詐欺でしょ。コロナウイルスは何度もかかる。同じウイルスに何度もかかる。なのに今全員にワクチン打ってどうするのかって思う。でも〇〇教授は「細胞性免疫を誘導してるから大丈夫」っていう。
いや、怖いよ。ワクチン接種によって、普通に感染する以上に強い免疫誘導をすることについて、恐怖感がなさすぎる。自分の血管内皮を攻撃しちゃうかもしれないんだよ。
さらに突っ込んだことを言うとね、僕は免疫というのは有限だと思っている。何かに対する免疫がつくと、何かに対する免疫は下がると思う。他のウイルスに対して弱くならないか、って危惧してるわけ。
たとえば、大して恐れる必要もないカンボジア軍に対して、自衛隊が戦力の50%をカンボジア軍特異的な配置にしたらどうなるか?結果は見えている。中国軍にあっという間にやられるだろう。
不必要に強すぎるワクチンはダメなんだ。論理的に考えて、血栓や流産は当然。偶然起こるんじゃない。必然だよ。ワクチンでサイトカインを暴走させているわけだから。予言しておくけど、うつ病や精神的不調も続発しますよ。
はっきり言って、ワクチンに関して、みんな常軌を逸している。僕がこれまで尊敬していた専門家が、テレビの中では、とんでもない頓珍漢なことを言っている。僕は聞きたいんです。一体何があったんですか?なぜ当たり前のことを言わないんですか?お金ですか?圧力ですか?
ちょっとテレビでは言いにくいことだけど、僕は、接種後すぐに出るアナフィラキシーに関しては大したことないと思っている。アドレナリンとかで助かるから。もっと他にやばいことがあると思っている。サイトカインの暴走です。理屈で考えれば、起こるに決まっているし、実際起こっています。
そもそもコロナは、欧米に比べて、日本では大して流行ってない。仮に1千万人に打っても、集団免疫にもならない。マスクを外したいから、ってわざわざ打っても、感染防御効果は7割ほど。3割は感染するわけ。
結論、弱毒化するまで待つしかない。どうせ多くの日本人はかからない。だから僕は言ってるんです。あと1,2年は待とうって。
どうせ弱毒化します。変異するにつれて弱毒化する。変異して感染力が高まる可能性はある。でも、弱毒化するからどうってことはない。
打ちたい人は打てばいい。でも打つ打たないは、こういう情報を知ったうえで判断すべきでしょ。医者で立場上打たないといけない人もいるだろう。でもリスクは十分承知しておくべき。打つと、次の冬には診療できなくなるかも、と。
僕もテレビに出演する側の人間だけど、確かに「遠回しにしか言えない」タイプの事柄はある。『そこまで言って委員会』も「僕は打ちません」程度しか言えなかった。それでも、ネットでさんざん叩かれた。「あいつは反ワクチンだ」って。
みなさん、新型コロナウイルスの騒動で、不安を感じながら日々をお過ごしでしょうか。
また、トイレットペーパーが手に入らず困っている方もいらっしゃるかもしれません。
今や、政府の発表もメディアの報道も、眉に唾をつけて疑わざるをえない時代です。
そんな時代の中で、賢く生きるための一助になることを祈って、この記事では
「なぜデマや噂は広がるのか」
そして、
「それに対してどう向きあえばいいのか」
を考えてみたいと思います。
なぜトイレットペーパーなのか? あなたの落ち着きがデマを防ぐ最大の武器です ** デマはなぜ広まる? 不安の心理と人間行動
今回の「コロナ騒動」では、マスクとトイレットペーパーが店頭から消えるということが起きました。
マスクはウイルスを防ぐためにはあまり役立ちませんし、トイレットペーパーがなくなるというのは完全なデマです。
どちらも不安にかられた多くの人が、必要性の低いものをたくさん買うことによって、本当に必要な人が手に入れることが難しくなり、社会問題になってしまったわけです。
いつもは理性的に行動している人でも、強い不安・怒り・恐怖を感じると理性的な行動ができなくなります。
これを扁桃体ハイジャックと言います。
脳の中で感情を担当している扁桃体という部分が、その人の行動全体を支配してしまうことを、飛行機のハイジャックに例えた表現です。
※扁桃体ハイジャックについて詳しく知りたい方はこちらの本をどうぞ。
ダニエル・ゴールマン 「EQ こころの知能指数」
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ふだんから不安感の強い人は、「トイレットペーパーがなくなる」と聞いただけで、その情報の正しさを確認する前に「今のうちに買っておいたほうがいいのかな」と考え始めてしまいます。
ここで追い打ちをかけるのがテレビなどの報道です。人間は視覚的な情報を重視するし、映像に反応しやすいからです。
アメリカの心理学者メラビアンが提唱するメラビアンの法則は、非言語コミュニケーションの重要性を説くもので、その実験結果によると、
「言語情報は7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%」
となっており、視覚情報が最大です。*1
これは対面でのコミュニケーションを想定した実験ですので、誰かがあなたに
「トイレットペーパーがなくなるらしいよ」
と話しかけてきたときに、その人の
・「表情や動作」が一番重要で、
・「声の調子」が二番目、
・「言葉の内容」は一番あとになる、
というものです。
これを一般化して考えれば、同じ「トイレットペーパーがなくなる」という話を聞くにしても、
1. ツイッターで見る
2. ラジオで聞く
3. テレビで見る
の三通りの場合、1. < 2. < 3. でテレビで見る影響が一番大きいことになります。
ツイッターでたまたま「トイレットペーパーがなくなる」というデマを見かけて不安に思っていた人は、テレビを見てさらに不安を煽られれば、自分も買い占めに加担してしまいかねないわけです。
というわけでテレビ関係のお仕事の方にお願いです。
こうした心理学的情報を踏まえ、人の不安をあおりかねない報道はどうか控えてください。
「トイレットペーパーが売り切れ」を強調する画像を流すことは、誰のためにもなりません。「工場や倉庫にはたくさんのストックがある」ことを、映像ではっきりと伝えるようにしてください。
こうした倫理的な報道基準がきちんとなされるような社会になってほしいなと、切に願うものです。
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みなさん、神さまは信じてますか?
神さまがこの世界を創ったのか、それとも人間が神さまを考えだしたのか。
今日は、
E.フラー・トリー「神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源」(2018 ダイヤモンド社) という本を紹介しながら、そんな話について考えてみようと思います。
「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 早すぎた「神々の黄昏」としての仏教、そしてデカルト・ニュートン・ニーチェからマインドフルネスへ 「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 神さまを信じるか? と言われたら、答えに困るかもしれませんが、「この世界が神に創られた」というような考え方はしていなくても、日本では願い事を神さまに頼んだりするのは、割と普通ですよね。
そういう曖昧な信仰の形とは違って、ヨーロッパやアメリカでは、「唯一・万能の神がこの世界を創った」というようなきっちりした信仰が生きています。
アメリカのキリスト教原理主義者の方などは、キリスト教の考え方と矛盾するから進化論を学校で教えるな、と言ったりするようです。
でも、進化論って、神さまが世界を創ったっていうような話と、別に矛盾しないと思うんですよね。
聖書に書かれているとおりに、何千年か前に神さまがこの世界をお創りになったとしましょう。
でも、それは万能の神さまがなさったことなんですから、あたかも
「138億年前にビッグバンがあって、46億年前に地球ができて、そうして生命が生まれ、途方もない時間をかけて進化した結果人間が生まれた」 かのように見せかけて、この世界を創ったからなんだってことで、十分説明がつくじゃないですか。
ですから「神を信じるか否か」はあくまで個人の考え方の問題であって、科学的な思考とも合理主義的な人生観とも矛盾せず共存できるものだと思うんです。
「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 この世界を神さまが創ったかどうかはさておいて、とにかく人類は猿の仲間から長い時間をかけて進化してきたようです。
トリーさんの「神は、脳がつくった」という本の説明では、人類200万年の進化の歴史の間に、次のような神の誕生を準備する「5つの段階」があったとしています。
そして、この進化の副産物として、神々は生まれたっていうんですね。
200万年前、脳の大きさ、知能が増大し、道具を使うようになる。 180万年前、自意識が誕生し、狩りや共同生活といった自他の意識を必要とする行動が可能となる。 20万年前、「心の理論」が発達し、他者の心を推測する能力が生まれ、相手を思いやる行動が生まれる。 10万年前、「内省的意識」が発達し、他者が自分をどう見ているかを考えるようになる。その結果、飾りを身につけたり、様々な自己装飾をするようになる。 4万年前、自伝的記憶が発達し、自分の過去や未来について考えられるようになる。道具や武器、洞窟で見つかる絵画、貴重な副葬品を合わせてする埋葬などといった技術・文化が加速度的に進展する。 このようにしてヒトが、
「自分の過去と未来を考え、死後の世界について思いをめぐらすようになったとき、神々が生まれたのだ」 というわけです。
進化によって人類が巨大な脳を獲得し、類まれな知能を駆使するようになったことの副産物として「神々を発明する必要があった」のだとするトリーさんの考えは、確かに理に適っているように思えます。
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「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 さて、トリーさんは、
生者と死者の関係における革命がもたらした結果の一つが、最初の神々の出現だったように思われる。(……)神々は八〇〇〇年前から七〇〇〇年前に現れた可能性があるが、もしかしたらもっと早く現れたかもしれない。
*1
と書いていて、これは農耕が始まることによって、定住が進み、死者を居住地のそばに埋葬するようになったことが祖先崇拝へとつながって、そうして神々が生まれたのだ、というのですが、ここのところはちょっとどうでしょうね。
というのは、現在でもアマゾンの奥地などには、狩猟採集を中心として半定住の原初的暮らしを続けている、たとえばヤノマミといった人々がいるのですが、彼らは死者を埋葬することはしません。
どうしてマインドフルネスの練習をすると人生が楽しくなって、仕事もできるようになるのか、今日は超絶簡単に説明してみます。
好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 なぜ「好き嫌い」をなくすと、「悩み」もなくなるのか。 「好き嫌い」をなくすなんてできるの? 「好き嫌い」をなくしたら、人生味気なくなりそうなんだけど……。 はじめは3回の深呼吸だけでオーケー。マインドフルネスの練習の基礎の基礎。 仏教と瞑想・ヴィパッサナー・マインドフルネスの関係。 最後にひとつだけ注意点を。魔境に入り込まないために。 好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 マインドフルネスという方法論は、
「今自分に起こっていることを、価値判断せずにただ観察すると、悩みはやがて消え去っていく」 という、あまりに簡単すぎて
「いきなり信じろと言われても困っちゃうなー」 的な人間心理の原則にもとづいています。
「価値判断をしない」ということを言い換えてやると、
「好き嫌いをしない」 ということになります。
というわけで、マインドフルネスの練習をすると、
「好き嫌いがなくなって、すると悩みもなくなり、つまりは人生楽勝モードになっちゃう」 という話なんですね。
「悩み」がなくなっちゃうんですから、仕事も人生も、それまでより充実するのも当然です。
とはいえ、いくらなんでも話が簡単すぎて、「そうは言われてもなー」と思われる方も多いでしょうから、もう少し説明を続けましょう。
なぜ「好き嫌い」をなくすと、「悩み」もなくなるのか。 「悩み」というのは、「いやなことが起きてしまったけど、どうしたらいいだろう」とか、「いやなことが起こるかもしれない、どうしよう」とかいったように「いやなこと」によって引き起こされます。
ですから「いやなこと」をなくしてしまえば、「悩み」もなくなります。
つまり「いやなこと=嫌い」をなくせばいいわけです。
ではどうして「好き」もなくしたほうがいいのでしょうか。
それは「好き」があると、その
「好きなことが得られないことが『悩みの種』になる」 からです。
結局「好き嫌い」をなくせば「悩み」もなくなることになります。
「好き嫌い」をなくすなんてできるの? 「好き嫌い」をなくせば「悩み」がなくなるのは、分かっていただけたとして、果たして「好き嫌い」をなくすなんてできるのでしょうか。
これは確かに簡単なことではありません。
ぼくたちは生まれてからずーっと長い時間をかけて、無自覚に「好き嫌い」を作り続けてきてしまったのですから、それを
「『好き嫌い』は今日からやめた」 といって、簡単にやめられるものではありません。
けれども、もしあなたに「やる気」さえあれば、「好き嫌い」を少しずつなくしていくことは可能です。
そしてその基本原理は
「今自分に起こっていることを『価値判断せずに観察する』」 という、ただこれだけのことなんです。
どうしてこれだけで「好き嫌い」がなくせるかというと、そもそも
あなたは自分が何を好きで何を嫌いか、「本当は何も分かってない」 からなんです。
「そんなアホな」と思うでしょうか。
もちろんあなたは「自分はこれが好きで、これは嫌いだ」と説明することはできるでしょう。
けれどもそれはあなたの「理性」が言葉で説明していることに過ぎず、氷山の一角にすぎません。
あなたが「本当のところ何を欲していて、何を避けようとしているのか」は、実のところ、「自分の体に起こる反応」を細かく見ていかないと分からないのです。
これは心理学的な実験によって確かめられていることですが、人間が自分の気持ちを知ることができるのは、まず自分の体に反応が起こるからなんですね。
体の反応を無意識のうちに察知して、それによって人間は
自分は今怒ってる、とか 自分は今悲しい、とか 感じるようにできているんです。
ですから、「今自分に何が起こっているか」を丁寧に観察する練習をすることで、自分の「好き嫌い」を体の反応のレベルで知ることができるようになったときに初めて、あなたは自分の「好き嫌い」を手放し、同時に「悩み」も手放すことができるようになるのです。
ちょっと話が難しくなってきたでしょうか。
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はてな村の通好みブログ「分裂勘違い君劇場」から生まれたふろむださんの初の著書
「人生は、運よりも実力よりも『勘違いさせる力』で決まっている」
ですが、8月に発売されて以来、早々に9万部を売り、9月16日には林修先生のテレビ番組「初耳学」でも取り上げられて、さらに人気に拍車がかかっている模様です。
ふろむださんは、実力だけにこだわらず、学歴・肩書き・職歴などの「錯覚資産」を上手に使うことが「人生における成功」のためには大きく物を言うのだと主張しているのですが、同時に
「一貫して偏ったストーリー」を語ること の重要性も述べています。
この記事では、ネット上で情報を発信しているあなたのために、
「一貫して偏ったストーリー」を語るとは、どういうことなのか、 なぜそれが大切なのか、 を見ていくことにしましょう。
「一貫して偏ったストーリー」を語るとは、「メリットならメリットをしっかり伝える」ということ そんな広告みたいなやり方で本当にうまくいくの? 「一貫して偏ったストーリー」を語るとは、「メリットならメリットをしっかり伝える」ということ 「一貫して偏ったストーリー」を語るというのは、話題にしていることがらについて、
メリットを伝えたいなら、メリットについてきちんと述べて、読者にデメリットなどの不安材料を与えるな、 ということです。
商品を広告するための宣伝文句がどんなふうに書かれているかを考えれば、当たり前すぎる話ですよね。
自社の新型自動車を売りたいとき、その自動車の広告にわざわざその自動車のデメリットを盛り込むわけがありません。
どうしてこんな当たり前の話をするかというと、広告の作り手はこうした人間心理を知り尽くしていますから、あえて自分に不利な情報は出さないようにしっかり注意するわけです。
けれども、わたしたちが話したり、文章を書いたりするときには、事実をできるだけ正確に伝えるために、メリットもデメリットも両方を客観的に伝えることが「正しい態度である」と考えられがちです。
たとえばあなたが上司に仕事の進捗状況を伝えるときに、うまくいっている点だけ伝えて、うまくいっていない点については伝えないとしたら、上司からの評価は下がってしまうでしょう。
こういう場面では「偏ったストーリー」にメリットはありません。
とすればあなたは、
「偏ったストーリー」はよくないものだ、 という先入観を無意識のうちに持ってしまっているのではないでしょうか?
錯覚資産の観点から言うと、その先入観は落としたほうがいいということになります。
ふろむださんが言うのは、
ネットなどで多数の読者の支持を得て、錯覚資産を増やしたければ、「一貫して偏ったストーリー」を語れ、 ということです。
たとえば、この記事では「錯覚資産」について書いているわけですが、「錯覚資産」のメリットを書くことに集中し、デメリットについて触れる場合は「読者が思いつくようなデメリットは心配しないでいいですよ」というふうにメリットとして受け取れるように書けばいい、ということです。
そうやって「錯覚資産」のメリットについて、十分に説明を読んで納得した読者は、
「錯覚資産」には確かに価値がある、 と信じてくれるようになります。
そうすれば、この記事全体の信頼度が上がり、ひいてはこのブログ全体の信頼度や、ブログを書いている筆者の信頼度も上がり、読者増にもつながり、錯覚資産が増大していく、というわけです。
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そんな広告みたいなやり方で本当にうまくいくの? もちろん、上に書いたような内容を鵜呑みにして、この記事の内容を丸ごと信じてくれるような素朴な方は、多分あまりいらっしゃらないでしょう。
この記事を読んでくださっているみなさんは、十分に知的であり、「健全な疑い」をお持ちの方に違いないからです。
「一貫して偏ったストーリー」はいわゆる「ブレない」こととも重なりますから、「営業用の顔」としては「誰にでも分かりやすいストーリー」を狙うのが多数派の戦略としては「直球ど真ん中」の選択肢となるでしょう。
この「分かりやすさ」の中には、あえて「悪役」を引き受け、アンチと対決するような姿勢も含まれます。
人を動かすためには、
「シンプルでわかりやすいこと」を、それが真実であるかのように言い切ってしまえ。本当は断定できないことを、断定してしまえ。
今(2018年8月)アマゾンでバカ売れしている
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
みなさんはもう読まれましたか?
著者のふろむださんは、「分裂勘違い君劇場」という知る人ぞ知るモンスターブログの書き手なのですが、この本では、大学で専攻した心理学の知識をもとに、さまざまなデータを駆使し、
社会で成功するためには「錯覚資産≒人を勘違いさせる能力」がものをいうのだ、 ということを、実社会での豊富な経験も交えて、大変わかりやすく解説してくださっています。
「錯覚資産」というのはふろむださんの造語で、心理学の世界では有名な「ハロー(後光)効果」に代表される、自分が有利になるように「人に錯覚してもらう」能力を経済学的な「資産」に見立てたものです。
人間なら誰でも落ち入ってしまう「思考の錯覚」が「資産」になりうるとすれば、どうしてそんなことが可能なのか、そしてそれをどうやって使えばいいのかを知ることは有意義に違いありません。
「錯覚資産」を十分理解し、使いこなすことの重要性については、ふろむださんの著書
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を読んでいただくとして、この記事では、
錯覚資産の裏に隠されている、 あなたの人生を根底から変える力を秘めた、 錯覚負債とは何なのか、 を簡単に書いてみたいと思います。
錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 人はなぜ「錯覚資産」に魅力を感じてしまうのか。プロスペクト理論の恐ろしさについても一言 「『錯覚負債』の棚卸し」こそがあなたの人生を幸せにする 「錯覚負債の棚卸し」のための基礎体力をつけよう - 呼吸と瞑想とマインドフルネスの科学 まずは三回の深呼吸から。奥深いマインドフルネスと瞑想の世界へのご招待 錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 「錯覚資産」とはある意味「はったり」の力とも言えます。
あなたにどんなに実力があっても、その実力を他の人に認めてもらえなければ「宝の持ち腐れ」ですから、そのためには「はったり」を使ってでも、あなたの実力を誰かに「使ってもらう」必要があります。
あなたが社会的に「成功」したいと思い、その「成功」のために自分のスキルを上げようと真剣に願うのであれば、この「はったり」の心理学と経済効果をよく知ることは、素晴らしい武器となることでしょう。
けれどもここでよく考えてほしいのは、
「社会で成功する」って、そんなに簡単なことじゃないよね、 っていう、すんごく当たり前の話なんです。
あなたは「成功するために毎日努力するタイプ」の方ですか?
もしそうなら、
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を今すぐ買って勉強し、実践したら、役に立つこと請け合いです。
そうでないならば、あなたにとっては錯覚負債について知ることのほうが、「はるかに重要」になってくるかもしれません。
「錯覚資産」は、
「自分が有利になるように『人』に錯覚してもらう能力」 のことでした。
これに対して「錯覚負債」は、
「自分が不利になるように『自分で』錯覚してしまう『負の能力』」 のことです。
ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、
あなたの人生、「自分にとって損な思い込み」でいっぱいじゃないですか? ということです。
自分の能力に限界を設定して、現状に甘んじたり、 自分が変われば改善できる人間関係を、相手が悪いんだと思い込んで、そのまま放っておいたり、 変えちゃったほうがいい「損な思い込み」って、相当あるんじゃないでしょうか。
というようなところから、どうして錯覚資産を増やすよりも錯覚負債を減らすほうが大切なのか、もう少し詳しくみていきましょう。
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世の中には、
好きなことを仕事にして、楽しく生きよう、とか、 好きなことを仕事にするなんて夢のようなことは考えるべきじゃない、 とか、いろいろな意見がありますが、みなさんはどんなふうに考えて、仕事をやったり、やらなかったりしてますか?
今日は、はてな村の秀逸な書き手ふろむださんが十年以上前に書いた文章、
・「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
を肴に、「幸せに生きるために知っておくべき二、三のことがら」について書いてみようと思います。
なお、本当に幸せに生きるためには、
あなたの幸せはあなたにしか分からないのだし、 したがって人の考えを鵜呑みにしてはいけない、 のだという、ごく当たり前の結論が十分分かってらっしゃる方は、本文をわざわざ読むには及びませんので、念のため。
頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? 本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? それでも「おれは好きでこんな仕事をしてるわけじゃない」と思うあなたへ - 自分の無意識との賢いつき合い方 あなたが「今の仕事にすっかり疲れ切っている」のならば あなたの幸せはあなたにしか分からない - 自分だけを頼りに世界の幸せを願う 頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 テレビや新聞、様々な書籍、もちろんネット上の各種メディアにも、どんなふうに生きたらいいとか、どんなふうに生きるべきだとか、いろんな意見が溢れています。
頭のよさそうな人や、大成功してるように見える人の意見は、どれも「もっともらしく」思え、そうした考えをうまく真似して、自分の人生を充実したものにしたいと思うのは、ごく当たり前のことでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、たいていの人の意見というのは
自分はこうやったらうまくいった、 というだけの「個人的な体験談」にすぎないのに、
こうするとうまくいく、 という「一般論」の形で語られるため、読み手が注意深くないと、簡単に間違った方向に誘導されてしまう危険があることです。
ですから、もしあなたが、人の文章を読んで、「確かに言えてるなー」と納得しやすいタイプの方だったら、
「おっと、また納得しちゃったけど、これが本当かどうかは、少し判断を留保しておくか」 と思うくらいのほうが、真実に迫れる可能性が増すというものです。
現実には様々なメディアで、「好き」と「稼げる」が一致して成功している人がたくさん発言していますので、結果として「好きを仕事にするべきだ」といった言説が「真実」であるかのように流布することになります。
しかし、それを「鵜呑みにしてよいのか」ということが問題です。
これについては、ふろむださんが、
・「好きを仕事に」という欺瞞に騙されず、心の底から気持ちよく好きなことをやる方法 - 分裂勘違い君劇場
という記事で、十分に分析してくださっています。
窮屈な日本の社会では「匿名ブログでしか書けない」本音が読めますので、一読をおすすめします。
自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? そもそも「好きを仕事にする」といっても、仕事にしたいほど好きなことがある人って、どのくらいいるんでしょうかね?
あるいはぼくのように、「ぐうたら寝て過ごすのが好き」な人間は、どうやったら、それを仕事にできるのでしょうか?
一生をかけて一つのことを仕事としてやり続けて、それをずっと好きでいられる人って、ごく少数の幸せな人でしかないのが、現実というものでしょう。
どちらかといえば、現実に「自分ができる職」について、その仕事を「楽しくできるように工夫する」、というのが多くのみなさんにとっては、有効な方法論になるはずです。
このとき、日本のさえない社会状況の中では、「楽しく仕事をする」ことが難しくなっていることが、大きな問題になるわけですけれども。
本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? さて、みなさんは「好きでもない仕事を、生活のために仕方なくやっている」と感じているかもしれません。
けれども、その状況は
「あなたが好きこのんで選んでいるものなのだ」 と言われたら、どう思うでしょうか。
「いや、自分は好きでこんな状況を選んでるわけじゃない、状況さえ許せば、もっと自由に他の道を選ぶに決まってるじゃないか」 と考えるでしょうか。
もしもそうお考えでしたらば、ここで少し検討していただきたいのは、いくらかの限定はあるにしても、
あなたの今の人生は、あなたが選んできたことの結果としてあるのではないか、 ということです。
みなさんの中には本当に地獄のような状況を生き延びてきて、生き延びるためには他の選択肢はあり得なかった、という方もいるかもしれません。
そうであったとしても、死を選ぶか、生き延びることを選ぶか、という究極の選択に対して、「生き延びる」という選択をしたのは当然あなたなのです。
みなさんが自分の人生において「何を基準に選択してきたか」は人それぞれでしょう。
ときには「打算」で、ときには「自分の欲求」を最優先して、ときには愛する人のために「自分を犠牲にして」、あなたは様々な選択をし、その結果として、あなたの人生の今があるのです。
その選択はどれをとっても「あなたが好きで選んだもの」です。
たとえそれが「親に強制された選択肢」であったとしても、「親に逆らわない」という選択を好きでしたのは、あなたなのですから。
このように考えれば、「好きを仕事にする」という夢のような話も、実はみんなが普通にやっていることになってしまいます。
「こんな仕事やりたくない」とあなたが思っているとしても、現にあなたがその仕事をやっている以上、それは「好きでやっている」ことに決まってますもんね。
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数々の含蓄ある記事を生み出してきた「分裂勘違い君劇場」で、はてな村のみなさんにはおなじみの、ふろむださんのデビュー作
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』
は、みなさんもう読まれましたか?
9月16日(日)22時、TBS系列の「林先生が驚く初耳学」で取り上げられて、いよいよ人気沸騰してますね。
ようやく購入してぼくも全部読みました。
めちゃくちゃ面白いです。[以上2段落 2018.9.17追記]
親切なふろむださんは、ネットで最初の五章を読めるようにしてくれていて、それだけ読んでも彼の主張の面白さは十分伝わってきます。
ふろむださんは、
人生は「実力」よりも「運」よりも「錯覚資産」によって決まってくる、 というのですが、一体これはどういう意味なのでしょうか。
というわけで、今日はふろむださんの説く「錯覚資産の活用」についてのお話です。
成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 錯覚資産の有効活用について。 あとは蛇足ですが、「錯覚資産に頼らず生きるのもいいんじゃない」って話 成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 「あなたの判断は、大抵の場合、錯覚にもとづいているのだ」 と要約できるふろむださんの主張は、シンプルにしてラディカルです。
心理学の世界で「ハロー効果」と呼ばれる現象があります。
ハロー halo というのは「後光」のことで、まったく同じことを主張しても、
立派そうに見え、地位のある「後光の差している」人が言えば、「本当のこと」に思え、 さえない外見の、どこの馬の骨とも知れない人が言っても、「説得力がない」と感じてしまう、 これがハロー効果というものです。
たとえば、「採用面接で、身だしなみが、どのような影響を与えるか」という研究がある。
その結果、「仕事に必要な資格よりも、身だしなみのよさのほうが、採用決定に大きな影響を与えていた」ということがわかった。
そして、ここでも、面接官自身は、「外見は、ほとんど採用決定には影響しなかった」と考えていたのだ。
つまり、面接官は、「外見で採用したわけじゃない」と、自分では思っていたが、実際は、外見で採用していたということだ。
(画像、文章とも、ふろむださんのページ https://www.furomuda.com/entry/2018/08/04/011000 より)
このとき面接官が「外見で採用したわけではない」と思っていたことは、面接官が「ウソを言ったわけでもなく、バカだったからでもない」というところが、この話のポイントです。
これは、ぼくたち人間の「判断」というものの、そのかなりの部分が「無意識的」に行われており、言葉によって説明される「理由」というのはあと付けのものにすぎず、実際の理由とは違う場合が多々あるのだし、それは「知能が高い」とされる人でも普通に起こることだ、ということです。
ふろむださんはこれを「脳のセキュリティホール」と呼び、
「自分は大丈夫」と思っている人ほど危ない、 と書いています。
この「脳のセキュリティホール≒思考の錯覚」は、「人を外見で判断してしまう」ということだけでなく、物事のあらゆる「判断」に関わってきます。
というのは、
「プラスのイメージを引き起こすもの」であれば、
なんでも「全体的に優秀」という思考の錯覚を引き起こしてしまうから
です。
そして、学歴であれ、経歴であれ、「プラスのイメージ」につながるものなら、どんなものでも「思考の錯覚」を引き起こす力を持ちますから、
「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」は、一種の資産として機能する
というわけです。
これがふろむださんのいう「錯覚資産」というものです。
また、「全体的に優秀」という錯覚は、思考の錯覚のほんの一部にすぎないので、様々な種類の錯覚を掛け合わせることで「とんでもない威力の錯覚資産が作り出される」とも書かれています。
そして、
「自分の得になるような、他人の勘違い」(=錯覚資産)は、生涯賃金に換算して、何千万円、何億円ものお金を生む。
のだから、錯覚資産は大変重要なものだし、他人に騙されないためにも、この錯覚資産についてよく知っておく必要があるのだ、というわけです。
なかなか面白い話ではありませんか。
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omion さんの7月7日のツイート*1、
オウムでサリンつくった人たちだって蒔いた人たちだって「人を殺す犯罪」をしようとしたんじゃなくて「理想の社会を作る正義」のための戦いをしようとしてたんですよ。良かれと思っての行動なんですよあれ。
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
が、25,000件以上リツイートされており、そこについたリプライを見ると、多くの方が「絶対的な正義はない」という健全な理解をしていることが分かります。
この記事では、「絶対的な正義はない」と考えるとき、ぼくたちはどのように判断の基準を持てばいいのか、また人間の振る舞いを「権力ゲーム」と見たとき、そこで「幸せなプレイヤー」になるためにはどんな資質が重要なのかを「自己肯定感」というキーワードを使って考えてみたいと思います。
結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 権力ゲームの遊び方 「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる 結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと 「絶対的な正義」という確実な判断基準がない中で、幸せに生きるためのぼくなりの「三つの指針」をまず明らかにしておきます。
それは、
人の意見を鵜呑みにしないこと、 分からないことは分からないままに判断を保留すること、 きちんと自分に自信を持つこと(自己肯定感) の三つです。
それぞれの意味するところについては、順に説明していくことにして、まずは、「正義のやばさ」に話を戻しましょう。
なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 omionさんがオウム事件に関して、
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
と言っているのは、
宗教は全部やばい、とか あらゆる正義がやばい、 という意味ではおそらくないでしょう。
宗教にしろ、正義にしろ「盲信することは恐ろしい」ということが言いたいのだろうと思います。
けれども、ゆっちさんが引用するドラえもんの言葉、
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
https://twitter.com/Yutti114514/status/1015882463514537984
を見ても、国家が「正義」と呼ぶものですら、十分吟味する必要があることは明らかでしょう。
とすれば、
「オウムのような狂信的な正義がやばい」 というよりは、
「どんな正義も、それが場合によっては他者を抑圧しうることを考えれば、ある程度のやばさを隠し持っている」 と考えたほうがいいでしょう。
ですから、三つの基準の一つ目に挙げた、
「人の意見を鵜呑みにしないこと」 ということが大切になってきます。
どんなに偉い人や、どんなに頭のいい人が言うことでも、またどんなにたくさんの人が信じていることでも、
いつでも確実に正しいと言えるわけではない、 のですから、なんとなく信じて、鵜呑みにしてしまうようなことには、危険がともないます。
もちろん、一人の人間が自分の経験からあらゆることについて正しい意見を持つことなどできませんから、信頼できる人の言うことを「多分そうなんだろうな」と少しだけ疑問を残しながらとりあえず信じておくことは、生きる上で役に立つことです。
けれども、偉い人や、賢い人が、あるいはたくさんの人が言っていることだからと言って、
「きっとそうに違いない」 と条件反射的に思ってしまうとしたら、非日常的で重要な局面では命を落とすことにもなりかねません。
2011年3月11日の津波で「大人の常識」にしたがったために命を落とすことになった宮城県石巻市の大川小学校の子どもたちのことを考えれば、ぼくが言っていることの意味は分かってもらえるでしょう。
リチャード・ロイド・パリーの「津波の霊たち」によれば、教員の指示で子どもたちが校庭にとどまっていたとき、二人の子どもが「危険だから山に逃げるべきだ」と言っていたことが記されています。
このとき大人たちに「子どもの直感」に耳を貸す知恵の持ち合わせがなかったために、「児童・教職員合わせて84名が死亡・行方不明」という大惨事を引き起こすことになってしまったのです。
この二人の子どもが「健全に教師を疑って」裏山に逃げていたら、命を落とさずに済んでいたのに、と残念でなりません。
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山田ノジル@スピリチュアル百鬼夜行さんのツイートが
・「子宮はお宮、膣は参道、だから女性のカラダはパワースポット」 2018年夏の子宮系ニセ医学トンデモ怪談 - Togetter
としてまとめられ、345件のブックマークがつき、あきれるやら、あざわらうやら、様々なコメントのオンパレードとなっています。
「スピリチュアル≒詐欺商法」と考える「はてな系純朴科学オタク」の皆さまとしては当然の反応だなと了解するのですが、「子宮系ニセ医学」とでも呼びたくなるような「オカルト」な言説にも、幾ばくかの存在意義があると考える者といたしましては、科学的リテラシー豊かなみなさまに
「オカルト的」言説の有用性 についてもう少しご理解いただけたらなー、と考えて、余計なお世話の解説を試みる次第です。
「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 科学と非科学を分けるという極めて難しい問題 助産師さんたちのホメオパシー信仰も含め、お産を女性が取り戻すことの意義について少し 「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 ブックマーク・コメントで、id:kasekiiさんが、
冗談じゃなく女性誌ってほんとこの手の女性の体や医療に関する嘘情報が蔓延している。生理痛や片頭痛など女性特有の悩みに絡めて根拠ゼロの嘘がずらずら並べられた雑誌をローティーンのころから読まされる。有害 と完結に「嘘情報」の有害性についてまとめてくださっています。
「ニセ医学」とか「ニセ科学」とかがもっともらしく「嘘情報」を書き立てて、人の不安を煽ったり、不安につけ込んだりして高額商品を売りつけたりすることは、倫理的にグレーな領域に入るものであり、そうした「被害」を防ぐための啓蒙活動が大切だいうことについては、ぼくも異論はありません。
こうした問題は「女性」に限ったことではありませんが、「女性特有」の問題もあることから、そうした点に配慮することも大切でしょう。
しかしながら、こうした一見「嘘情報」と思えるものも、「100%嘘」と言い切ることはできないことには注意が必要です。
科学的には「眉唾もの」の説明であり、医学的には「無効能」であったとしても、プラシーボという暗示の効果を利用した「科学的にも説明が可能な効能」によって実際に「症状」が改善する人がいる以上、「その効能」を説く人や、それを素朴に信じる人に対して、
あざ笑ったり、バカにしたり、感情的に非難しても、大して有効ではない、 だろうなー、と思うわけです。
どうして「非科学的な言説」を信じる人がたくさんいるのか、どうしたらその状況を変えられるのか、そして、それはそもそも悪いことなのか、いろいろな問いかけが必要なように思われます。
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そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 山田ノジルさんの
【第14話】子宮系女子をはじめとする一部スピ界隈による主張→「子宮はお宮を表している!」「膣は参道」だから「女性のカラダはパワスポ」。本職(神職)曰く「神社の全体構造は女性器を模したものだなんて教義、聞いたこともなければその根拠もわからない」。
というような書きっぷりを見れば、おもしろおかしく人の言説を取り上げて、娯楽を提供する以上の意図はないのでしょうから、それについては別に言うこともありません。
「子宮をお宮に見立てるなんてバカバカしいことだ」 と思うみなさまは、仲間同士で「そうだ、そうだ」と盛り上がっていればいいというだけのことです。
けれどもたとえば、長野の善光寺などでは「戒壇巡り」というお参りがあり、別名を「胎内巡り」ともいうことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
母体を豊穣の象徴と考えたり、世界の力の根源として男根を信仰したりすることは、世界中で普通に見られる、人間にとってごく自然な世界観です。
太古の昔より、様々な疫病などで苦しんできた人々が、こうした宗教的な世界観や儀式などを使って暗示による自然治癒の効果を活性化し、生活に役立ててきたことは、「非科学的」でもなんでもなく、人間の歴史が生み出した生活の知恵であるのは明らかなことです。
もちろんそうした「信仰による治療」が、鎮痛解熱剤や抗生物質などに象徴される、劇的な効果を持つ近代的な薬物や治療法には遠く及ばない面も多いことは言うまでもありません。
けれども、現在の行き過ぎた近代医療による多大な「副作用」を考えれば、「スピリチュアル」な方法論は、決して嘲笑っていればいいような性質のものではなく、むしろその中の「有効な部分」を今後どのように近代医療に取り入れていくかが問われる時代になっているものと思われます。
その片鱗は、仏教的な瞑想の手法を取り入れた精神療法であるマインドフル・ベースド・認知行動療法 Mindfulness-based Cognitive Therapy (MBCT) の普及で注目された「瞑想の科学とその意義」が、精神療法にとどまらず、精神的な健康法や創造的な能力の育成法として、ひろくビジネス界に広っているアメリカ社会などのあり方を一瞥すれば、分かっていただけるのではないかと思います。