脚本家・石井飛鳥さんのツイート(https://twitter.com/ishiiasuka/status/1028196483709820929)、
電子書籍、便利なんだけど「親の本棚」が家に構築されないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。
が13,000ものリツイートを受け、話題になっています。
「親の本棚」の役割を否定するわけではないのですが、個人的には
「親の本棚」? そんなもん、さっさと「粗大ごみ」にでも出したら? と思ってしまったので、その理由を少しばかり書いてみましょう。
「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 「旧人類の寝言」は気にせず、新しい時代の波の間を漂って生きよう。 追記: 石井飛鳥さんへのお詫びと「文化資本を奪おうとする者」についての考察 「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 まず、個人的な話をしましょう。
ぼくには「親の本棚」はありませんでした。お袋も親父もあんまり本を読むような人間じゃなかったもんで。
けれども三つ年上の兄がいましたので、本も音楽も多大な影響を受けました。
ですから「誰かの本棚が与えうる影響」という意味では、「親の本棚」に恩恵を受けた人が、
「親の本棚」がなくなったら寂しいなー、 と思う気持ちは分かります。
たぶん石井飛鳥さんは、聡明で自由闊達な親御さんをお持ちで、「親の本棚」のおかげで、すばらしい人生を歩むための豊かな糧を得ることができたのでしょうから、
あー、それはよかったですねーー、 と大きく同意してあげて、「親の本棚」が消える未来をぼくも一緒に憂いたいところです
けどですよ、「親の本棚」\(^o^)/的言い方からは、なんだか
世襲制のいやらしさ がプンプンにおってきませんか。
そんな「本棚」から、親の世代の古臭い価値観を押しつけられるくらいだったら、むしろそいつを
ナタでぶっ壊して、ぜーんぶ景気よく裏庭で燃してしまいたい、 というもんじゃありませんか。
多くの人にとって「親の本棚」が何を意味するだろうかということを少しばかり想像してみると、そんな感想も浮かんでくるというわけなんです。
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電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 ・ネットでの新刊購入は全体の1割、「文字もの」電子書籍は「紙」の4%、縮みゆく出版業界の明日はどっちだ!? - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、書籍全体が縮みゆくマーケットであることに加え、ネット上での新刊書の購入も全体の一割程度だし、「文字もの」の電子書籍に至っては「紙」の書籍の4%ほどしかないのが現状で、ちょっと意外な気もします。
長い目で見れば、紙の本は電子書籍に置き換わっていくでしょうし、そのとき書籍というフォーマット自体が衰退していくことも、避け得ない未来でしょう。
そうはいっても、書籍に対する欲求は人類の歴史が続く限り、消え去りそうもありません。
となれば問題は、
「親の本棚」がなくなる人類の将来はヤバイかも、 みたいな主観の話よりは、
古来より蓄積されてきた無数の書籍に対するアクセス方法をどう構築するか、 という方法論の話になるはずです。
「LGBTには生産性がない」という差別発言で悪名を馳せている自由民主党所属・2期目の衆議院議員をつとめる杉田水脈(みお)氏ですが、理学博士の琳さんという方が、その杉田氏を擁護する内容のツイートをしています。
一連のツイートの中で、
「自分の知り合いにも性的少数者の人はいるが、そうした人から差別されているというような話は聞いたことがない」
という趣旨の発言があり、これに対し、ブックマーク・コメントが183もついていますので、その中身をちょっと見てみましょう。
「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか もともとの杉田氏の発言に戻って、ニッポンの未来のお先真っ暗感を味わってみましょう 「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 琳さんは問題となっているツイートで次のように言っています。
友人のゲイは彼氏と楽しく暮らしてるし、バイの友人も普通に生活してる。もちろん彼らには僕らにはわからないような悩みもたくさんあるだろうけど、少なくとも「俺達は差別されてる」なんてセリフ聞いたことない。
「LGBTは差別されていて欲しい」と思ってるの、お前らなんじゃねーのかって思う。
これに対して id:Dragoonriders さんは、
周囲の人間が言ったかどうかをただ漫然と観測してるだけでは、わからないことだらけの世界。言っても理解しない人だから言わないだけかも、って自分を鏡で見る感性が必要。 と述べていて、まったく正論と言えましょう。
しかしながら、琳さんのような「差別される側」の気持ちを想像できないタイプの人に、「自分を鏡で見る感性」を期待することは残念ながらかなり無理なことでしょう。
id:tabidachi_nam さんは、
理系の癖に差別に関する当事者へのアンケート結果すらも見てないのかよ。観測範囲を極狭い範囲に絞ってレポート提出してんのかお前は。 と書いてらっしゃっており、琳さんの差別問題に関して、実際のデータに基づかずに主観だけでものを言っていることへの批判はもっともです。
ただし、彼女/彼が自分の専門の研究でどのような仕事をなさっているかということは、まったく分かりませんので、しっかりと科学的な真実を追求する姿勢で研究してくださっていることを祈るのみです。
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「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか 琳さんのツイートについたコメントの多くは、おおむね二つの種類に分けられます。
皮肉っぽくからかうもの、と 明らさまにバカにするものです。 どちらもそれぞれの方の意思表明として大いに意味はあるのですが、もともとの琳さんの発言の中に、
「弱者を仕立て上げ、悪者を作り上げ、攻撃しやすいフレーズで、よってたかってその『悪者』を叩く」というパターンが、東北震災からこっち、特に顕在化したと感じている。
彼らは、騒ぐだけ騒いで焼け野原にした後は、知らんぷりで次の獲物に向かう。
もういい加減、踊らされるのやめましょうや。
という言葉があるのことを考えると、ユーモアでからかうのはともかく、ぎらぎらと怒りをぶつけるような言葉には、やはり違和感を感じてしまうのです。
杉田水脈氏の発言も、琳さんの発言も「限りなく誤謬としか言いようのないもの」だとは、ぼくも思います。
けれども、それを「攻撃して叩き潰してなきものにしよう」と思って発言してらっしゃる方には、
「そういうやり方ってホントに有効ですかね?」 と聞いてみたいのです。
データに基づいて有効性を示してくれ、というわけではありませんが、自分の胸に手を当てて、
「これはただ自分のストレス解消のためにやってるだけではないのか?」 と自問してみてほしいと思うのです。
もちろん「ストレスの解消」も大切なことですから、それを分かってやってらっしゃるのなら、何も言うことはありません。
そうではなく、
「民主主義的原理」を「勘違い」して、「ディベート原理主義」に落ち入っていないか、 相手を叩き潰していけば世の中はよくなる、という到底ありそうにない「空想」を信じこんでいないか、 そういうようなことがもしあったなら、ここらで少しネット上での発言のスタイルを変えることをご考慮していただけたら嬉しいなと思うのです。
今回はわっとさんの記事に相乗りさせていただいて、街頭で政治的な意思表示をすることの意味と、民進党の枝野幸男氏による国会での「安倍内閣不信任決議案の趣旨説明」について書くことにします。
オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫氏をはじめとする13人の死刑囚に対する「処刑」が、2018年7月に二回に分けて執行されました。
この件について、作家の村上春樹氏が毎日新聞に次の記事を寄稿しています。
・村上春樹氏:寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行 - 毎日新聞
村上氏は「アンダーグラウンド」というノンフィクションの作品で地下鉄サリン事件の被害者や遺族のインタビューをまとめており、オウム事件の裁判の傍聴も続けてきました。
本稿では、村上氏の寄稿記事を紹介するとともに、オウム真理教事件がわたしたち国民の一人ひとりに問いかける問題について、今一度考えてみたいと思います。
死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 村上氏ははじめに、一般論として「死刑には反対の立場である」ことを述べ、その理由として
死刑が究極の償いであるという考え方は、世界的にコンセンサスが得られなくなっていることと、 数多くの冤罪事件を考えれば、死刑は「致死的な危険性を含んだ制度」である ことを挙げています。
一方で、オウム真理教事件に関しては、
「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。
と書いています。
村上氏がこのように述べていることにはまったく共感するのですが、ぼくの個人的意見としては、オウム事件についても死刑を執行するべきではなかったと考えるのです。
もちろん村上氏が書くように、
「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ち
があることを考えれば、そうした遺族に対して、「いや、死刑という制度には問題があるから、死刑を執行するべきではなかったのだ」というようなことをわざわざ言うぺきだとは思いません。
現に今の日本に死刑という制度がある以上、その刑罰が現実に執行されたことについてはそれなりの合理性も当然あり、一部の遺族の気持ちがそれで多少なりとも安らぐのであれば、その事実まで否定することはできないからです。
しかしながら、死刑という刑罰の形ではなく、生きて「なぜあんな事件を起こしてしまったのか」という問いと向き合い、不完全ではあってもその答えを社会に伝えるという形で償いをすることのほうが、犯罪を犯してしまった人にとっても、そのどう時代を生きる者にとっても、ずっと意味があるはずだ、という考えはぼくの中で揺るぐことはないのです。
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「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 村上氏は、オウム事件の裁判の傍聴に当たり、地下鉄でのサリン散布を実行し、13人中9人の死亡者*1を出したことから、「殺人マシーン」の異名で呼ばれることになった林泰男氏の裁判を特にフォローしたと述べています。
氏は、林泰男について「他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入った二つのビニール袋を、尖(とが)らせた傘の先で突いたのに対し、自分から進んでビニール袋を三つに増やしてもらい、それを突いた」と書いていますが、ハフポストの記事
林泰男死刑囚への1審判決で、裁判長が出した異例のメッセージとは?(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
によると、「喜んで」三つの袋を受け取ったわけではなく、「みんながいやがる仕事を引き受ける」という「真面目さ」からそのような結果になったことがうかがい知れます。
一審において林泰男の審理を担当した木村烈裁判長は、量刑理由の要旨で、
被告は元来凶暴、凶悪な性格ではない。魚屋を営む友人が病み上がりの体で商売する姿を見かねて自分の仕事を犠牲にして手伝ったこともあり、善良な性格を見て取れる。松本被告や教団とのかかわりを捨象して林被告を一個の人間としてみるかぎり、資質や人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。
およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。
(強調、筆者。以下同)
先日某所にて、著作権法で保護されているデータを私的なコピーとして「限定的」に公開したところ、id:typex2さんから、「それってまずいんじゃない」という意味のコメントをいただきました。
そこで今回は著作権の問題を題材に、さまざまな法規制と賢くつき合う方法を考えてみることにします。
著作権法でも私的コピーは認められているという立場 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? 法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義 著作権法でも私的コピーは認められているという立場 著作権法を厳密に解釈すれば、確かにぼくの行なった「限定公開」は「問題」をはらんでおり、「技術的には誰もがコピーできる」場所に他人の著作物を保管することは、賢いやり方とは言えません。
typex2さんのおっしゃる通り、「公開」をとりやめにしたほうが波風立てずに「安全なセーカツ」が送れるというものです。
けれども法律というのは所詮「ニンゲンが便宜的に定めたもの」としか考えないぼくの立場からすれば、
著作権法で保護されたものであっても、私的なコピーを取ることは個人の自由として当然認められている、 と考えますから、行為の結果起こることの責任は自分がとることはこれも当たり前の前提として、「限定公開」と称してオープンな場に私的コピーを保管することくらい、
「別にいーじゃない、カラスの勝手でしょ」
と言いたくもなるところなのです。
「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ typex2さんが「あなたのしていることは著作権の侵害に当たるのでやめたほうがいいですよ」と善意で言ってくださっているのは痛いほど分かるのですが、
「xxxさんの著作物を勝手に公開するのは問題だ」 というような書き方をしている点については、そのような形で著作権者の名前をオープンにすることは、
かえって著作権の侵害を助長することになる ので、
「そういうやり方は、やめといたほうがいいでしょう」 と思います。
ぼくは「限定公開」をお知らせする記事で、
不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開である ことを断っています。
そのため検索流入がおこらないように、タイトルや作家名などは明示していません。
それなのに、あー、それなのに、それなのに、typex2さんはご丁寧にも作家名を明示してくださってしまったので、これによってぼくの友だち以外の誰ともしれない人々が、大量の違法コピーをすることになって著作権者の方に多大な損害を与えた場合、保管者としてのぼくの責任はもちろん生じますが、違法コピーを助長する行為を行なったtypex2さんもその法的責任をまぬがれえないだろうことを考えると、せっかく善意からの助言をしてくださったtypex2さんには、今後はそのような「危険」な発言はなさらないように、くれぐれもご注意いただきたいと思うのです。*1
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cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? さて、typex2さんのような生真面目に法律を遵守され
cdの一枚も違法コピーをしたことがないような方 には、ぼくのやっている「超法規的行為」の意味がまったく分からず、社会の存在基盤が揺らぐような危機感すら覚えるかもしれませんので、どうして一見「おろか」としか思えない「パブリックな場に私的コピーを保管する」ような無謀な行為をわざわざ行なっているのか、その考え方について少しばかり説明してみましょう。
著作権の保護期間が50年から70年に伸ばされることの是非が取り沙汰される昨今ですが、その延長を否定する論の根拠として、多くの著作者の出版物について、そもそも死後に発行されること自体が少ないことを調査したデータがあります。*2
であるにもかかわらず、保護期間を50年から70年に延長することは、ごく少数の力のある著作権者の権利ばかりを保護して、人類の共有財産である多様な著作物へ多数の者が自由にアクセスする権利を侵害ずるのは、「よろしくない」法律であると言いうるわけです。
同じことが現行の著作物の保護に関しても言えるはずだ、というのがぼくの個人的な見解です。
たとえ有名な作家であっても、うん十年前のもはやほとんど「売れない」作品というものはあるわけです。
とは言え、そうした作品も著作物として権利が保護されますから、これを勝手にコピーして販売するとなれば、それはもちろん取り締まりの対象となるでしょう。
けれどもそうした「古い作品」を、私的コピーの範囲で少数の「友だち」の便宜を図るために、パブリックではあるが目立たない場所に保管する程度のことは、わざわざ法律で取り締まる必要があるほどの大きな権利侵害には当たらず、多くの「善良な市民」が行なったことがあるはずの「cdを友だちにコピーしてあげる」ことと同じくらいの
軽微な法律違反にすぎない、 と考えるわけです。
図書館で本を借りて読むにしろ、古本屋で本を買って読むにしろ、「著作権者にお金が入らない」という意味では、「ネット上でデータを『借りて』読む」場合となんら変わりはありません。
「多数派の規範の押しつけ」が強くなっていることをひしひしと感じる今だからこそ、