中村篤史氏は、神戸市元町で「内科・心療内科・精神科・オーソモレキュラー栄養療法」のナカムラクリニックを開業しているお医者さんですが、反コロナとでもいうべき立場で、note.comに投稿を続けていらっしゃいます。
https://note.com/nakamuraclinic
この記事では、氏が4/5付けで書いたのちにすでに削除してしまった「教授からの電話」という投稿を全文引用させていただきます。
著作権法上の制限から、予告なく削除する可能性もありますので、あらかじめご了承願います。
投稿内容の紹介と注釈 中村篤史医師「教授からの電話」全文 投稿内容の紹介と注釈 中村氏の投稿は、
「テレビにもよく出ている某教授が、氏のクリニックに電話をかけてきて、コロナワクチンの問題点について語った」
というものです。
教授は、
「ワクチンを打てば血栓ができるのは当たり前、というのも、すでに抗体を持っている人ならば、ワクチン成分が取り込まれた血管内皮が攻撃され傷つけられるから。それなのにテレビに出る専門家はそのことを言わない」
という意味のことを語っています。
この教授の意見がどこまで信頼するに値するかは簡単には言えませんが、ワクチンについて専門家の中にも、このような懸念を示している方がいることは、ワクチン接種を受けるかどうかを決める際に、知っておいたほうがいいことでしょう。
なお、中村氏が投稿したのちに、すぐ削除してしまった理由については、本人以外は知りようもないことてすが、教授本人から削除を要請されたと考えれば、特別の不思議はないでしょう。
この記事を読んでくださっている皆さんには、その教授が誰なのかといったことには深入りしないで、匿名の専門家からの情報として、内容を検討していただければ幸いです。
念のためつけ加えると、ぼくはワクチンの接種自体を否定するわけではありません。
けれども、社会全体として、接種を積極的に推進すべきなのか、それとも個人の判断に任すべきなのか、あるいは打ちたい人は打てばいいというようなものなのか、そういう選択肢というものを、副反応とか副作用とか呼ばれるものについてもきちんと知り、そしてワクチンの効果についてもしっかり知った上で、自分なりの考えを持つことが大切だと思うのです。
皆さんが今回のワクチンについて考えるための一助として、この記事が少しでもお役に立てば幸いです。
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中村篤史医師「教授からの電話」全文 コロナ関係の話題でテレビでしばしば見る某教授から、当院に直接お電話いただいた。受付から「○○教授からお電話です」と聞いても、意味が分からなかった。その教授は、僕にとって、完全に「テレビの中の人」だったから。『そこまで言って委員会』かもしれないし『TVタックル』かもしれない。とにかく、「テレビの中の人」である。その人が僕に電話をくれたというのだから、意味が分からない。急に現実感がなくなるような、夢の中にいるような錯覚を感じた。
しかし電話の向こうの声は、確かに、テレビで聞き慣れたあの教授の声だった。
「noteで見ています。僕らがなかなか言えないことを言ってくれてて、ありがとうございます」
とんでもない。こんな高名な先生に読んでもらっているなんて、想像もしない。僕は恐縮して、うまく言葉が返せなかった。
「僕が一番もどかしいのは、コロナワクチンを打って血栓ができるということ、あんなの当たり前なのに、学者は誰もそれを言わない。コロナワクチンは筋注です。筋肉から毛細血管に入り、そして血中にまわる。ワクチンの成分が血管内皮細胞に取り込まれる。もし、この人の体にすでにコロナに対する抗体があれば、血管内皮を攻撃して傷ができる。こんなの当たり前です。従来のタンパク型ワクチンなら打ったところにマクロファージが来て抗原提示して、といった反応が起こるところ、すでに細胞性免疫の成立している人が打てば、攻撃にかかる。だからひどい副反応が出る。当然皮膚に現れるけど、それだけではありません。血管そのものを攻撃するから、血栓もできる。
当然のメカニズムなんです。でも、テレビのなかの学者はそれを言わない。学者が「なぜ起こるかわからない」って言うんだけど、その発言の意味がわからない。本当にわかっていないのなら、もう学者じゃなくて素人でしょ。
だから、コロナワクチンの接種希望者に対して国がやるべきことは、まず最低限、抗体検査。その人がコロナに罹患したことがない確認が要る。あるいはCTL検査。これは日本ではできないけど。
もっとも、抗体はすぐに消える。軽い感染では抗体も残っていない。こういう人に1回、2回ワクチンを打つと、大変なことになる。まったく感染したことのない人ならともかく、すでに感染歴のある人ならやばいと思う。
あと、「ワクチンの接種によってコロナ検査の陽性者が頻発している」っていうのをさも異常事態のように言っているけど、これも当たり前。腸管にウイルスがいる人もいる。ワクチンによってサイトカインやIL4が誘導されて、マクロファージが活性化して、ACE2受容体が発現する。すでにそういう論文が出ている。腸管にウイルスがいる人がワクチン接種を契機にマクロファージが全身にまわる。こんなの当然です。
みんなボケてるのか頭が悪いのか、わからない。あと、やばいなって思うのは、コロナワクチンが変異株に対して感染防御効果がないだけならまだしも、逆に感染しやすくなる可能性。これ、本当にやばいと思う。冬に全然違う変異株が出たとき、ワクチンを打った人だけが重症化しやすい、っていう可能性は十分ある。だから、僕は言ってるんです。「コロナを今止めたいかもしれないが、医療者への接種は全員ではなく、せめて3分の1にしてくれ」と。
コロナワクチンを打った医療者全員が変異株によって重症化したら、日本の医療はパニックになる。
10%の確率で墜落する飛行機があるとして、そこに医者全員を乗せるようなものです。墜落は、即、医療の崩壊を意味します。こんなリスクのある施策を、行政がとってはいけない。
僕は自民党の議員にこの点を指摘して、何とかしてくれるよう言いました。しかしどの議員も及び腰です。
どうせワクチンの作用発現なんて、ゆっくりだから大丈夫っていう先生がいる。でもそれって詐欺でしょ。コロナウイルスは何度もかかる。同じウイルスに何度もかかる。なのに今全員にワクチン打ってどうするのかって思う。でも〇〇教授は「細胞性免疫を誘導してるから大丈夫」っていう。
いや、怖いよ。ワクチン接種によって、普通に感染する以上に強い免疫誘導をすることについて、恐怖感がなさすぎる。自分の血管内皮を攻撃しちゃうかもしれないんだよ。
さらに突っ込んだことを言うとね、僕は免疫というのは有限だと思っている。何かに対する免疫がつくと、何かに対する免疫は下がると思う。他のウイルスに対して弱くならないか、って危惧してるわけ。
たとえば、大して恐れる必要もないカンボジア軍に対して、自衛隊が戦力の50%をカンボジア軍特異的な配置にしたらどうなるか?結果は見えている。中国軍にあっという間にやられるだろう。
不必要に強すぎるワクチンはダメなんだ。論理的に考えて、血栓や流産は当然。偶然起こるんじゃない。必然だよ。ワクチンでサイトカインを暴走させているわけだから。予言しておくけど、うつ病や精神的不調も続発しますよ。
はっきり言って、ワクチンに関して、みんな常軌を逸している。僕がこれまで尊敬していた専門家が、テレビの中では、とんでもない頓珍漢なことを言っている。僕は聞きたいんです。一体何があったんですか?なぜ当たり前のことを言わないんですか?お金ですか?圧力ですか?
ちょっとテレビでは言いにくいことだけど、僕は、接種後すぐに出るアナフィラキシーに関しては大したことないと思っている。アドレナリンとかで助かるから。もっと他にやばいことがあると思っている。サイトカインの暴走です。理屈で考えれば、起こるに決まっているし、実際起こっています。
そもそもコロナは、欧米に比べて、日本では大して流行ってない。仮に1千万人に打っても、集団免疫にもならない。マスクを外したいから、ってわざわざ打っても、感染防御効果は7割ほど。3割は感染するわけ。
結論、弱毒化するまで待つしかない。どうせ多くの日本人はかからない。だから僕は言ってるんです。あと1,2年は待とうって。
どうせ弱毒化します。変異するにつれて弱毒化する。変異して感染力が高まる可能性はある。でも、弱毒化するからどうってことはない。
打ちたい人は打てばいい。でも打つ打たないは、こういう情報を知ったうえで判断すべきでしょ。医者で立場上打たないといけない人もいるだろう。でもリスクは十分承知しておくべき。打つと、次の冬には診療できなくなるかも、と。
僕もテレビに出演する側の人間だけど、確かに「遠回しにしか言えない」タイプの事柄はある。『そこまで言って委員会』も「僕は打ちません」程度しか言えなかった。それでも、ネットでさんざん叩かれた。「あいつは反ワクチンだ」って。
新型コロナで社会的な不安が高まる中、フェイスブックやツイッターでこんな画像が拡散されています。
「恐れを克服して成長しよう」というこの図の主張に対して、
「政府の無能に怒りをぶつける権利を奪うのか?」という反論が上がっています。
さて、この対立するように見える2つの立場ですが、実際のところはどうなのでしょうか。
恐れを克服して成長する 弱者の怒る権利を奪うな! 「社会的な働きかけ」と「ネガティブな感情」の大切さ 恐れを克服して成長する 図に書かれた言葉をぼくなりにまとめたものがこちらです。
1. 恐れのゾーン
(1) 買い占めをしていないか
(2) 恐れや怒りの感情をまき散らしていないか
(3) 頻繁に不平不満を言っていないか
(4) ソースを確認せず、不確かな情報を拡散していないか
(5) すぐ怒る
2. 学びのゾーン
(1) コントロールできないものを手放す
(2) 食べ物でもニュースでも自分に外のあるものはやめる
(3) 自分の感情に名前をつけて確認する
(4) 状況を自覚して行動を考える
(5) うっかりデマを拡散しないように、情報のソースを確認する
(6) 誰もがベストを尽くしていることに気づく
3. 成長のゾーン
(1) 他者を助ける方法を考える
(2) 自分のできることを必要な人に届ける
(3) 今を生き、未来にフォーカスする
(4) 自分を大切にし他者にも共感する
(5) 他者に感謝する
(6) 幸せを大切にし希望を広める
(7) 変化に適応する道を探す
ここに書かれていることは、精神的な成長というような心理学的話題について考えたことのない方にとっては、違和感を覚える点も多いかもしれません。
たとえば、
2. 学びのゾーン
(1) コントロールできないものを手放す
などはただ読んだだけでは意味もよく分からないでしょう。
けれども、
2. 学びのゾーン
(4) 状況を自覚して行動を考える
ならば、恐れのままに無自覚に行動(たとえば買い占め)するのではなく、気持ちを落ち着けて自覚的に行動しよう、というわけですから、まったく当たり前のことを言っているにすぎません。
また、
3. 成長のゾーン
(5) 他者に感謝する
という項目は極めて倫理的な主張に思えるでしょうが、これは
新型コロナウイルスが蔓延して、世界中で死者が増えています。
人類史上まれな事態であるため、不安を抱えて暮らしている皆さんも多いことでしょう。
けれども世間が大騒ぎをしているからといって、あなたまで右往左往する必要はありません。
この記事では、嵐の中でも心落ち着けて暮らすためのヒントを、いくつか書くことにしましょう。
心を落ち着ける。 人生の意味を確認する。 人のことは気にしない。 できることを淡々とやる。 死を覚悟する。 心を落ち着ける。 最初に確認する必要があるのは、心を落ち着けることの大切さです。
どんなに苦しい状況にあっても、心の落ち着きさえあれば、苦難を乗り越える可能性を確かなものとすることができます。
心を落ちけるための方法は人によって違いますが、たとえば呼吸を、鼻からゆっくりと長くすることを心がけるだけでも、気持ちを落ち着けることができます。
体を動かすことで気持ちが落ち着く人もいるでしょうし、音楽を聴くことで落ち着く人もいるでしょう。
自分に合った方法で心を落ち着けてみてください。
自分に合う方法がまだ分からない場合は、これをいい機会として、どんなことをすると気持ちが落ち着くのか、いろいろと試してみてください。
何かをするにせよ、何もせず静かに時間を過ごすにせよ、心を落ち着けることが何よりもよい出発点になります。
まずは自分の気持ちを落ち着けるための時間を取って、そこから次のステップへ進むことにしましょう。
人生の意味を確認する。 あなたにとって人生の意味とはなんでしょうか。あなたが人生で一番大切にしているものはなんですか。
この質問にはっきり答えられるならば、世間が大騒ぎしている中でも、自分にとって大切なもののために、できることを一つひとつやっていけばよいだけのことです。
もしあなたが日々の暮らしで精一杯で、自分がなんのために生きているのかがはっきりしないのなら、この機会に時間を取って考えてみることをおすすめします。
あなたにとって幸せな時間はどんなものですか。
それは一人で静かに過ごす時間なのでしょうか、それとも友だちや家族と楽しく過ごすことでしょうか。
あるいは、やり甲斐のあることに打ち込んでいるときかもしれませんし、答えは人それぞれに違います。
自分にとっての人生の意味を確認し、自分にとっての幸せな時間を大切にすることができれば、周りの人にもあなたの幸せな気持ちを分かち合うことができるようになります。
心を十分落ち着かせて、幸せな時間を作り出すこと、そしてそれを周りに広げていくことを、心がけてみましょう。
人のことは気にしない。 世の中が騒がしいと、どうしても周りのことが気になります。
隣の人がしていることを真似したくなったり、逆に批判的になって「そんなことするな」と言いたくなったり、世間の騒ぎに巻き込まれやすくなります。
そんなときは「人のことは気にしない」ときっぱり決めてしまうのが一番です。
人間は一人ひとりが異なる存在です。
別の人にとって正しいことがあなたにとっても正しいとは限りませんし、その逆も同様です。
誰かが小麦粉を使って作ったおいしいお菓子も、あなたに小麦アレルギーがあれば食べることはできません。
自分には向かないやり方なのに、人に影響されて、間違って取り入れたりしないためには、外からの情報をシャットアウトすることも時には必要です。
外野の情報が気になったり、非難するような気持ちになったら、まずは自分の気持ちを落ち着けることです。
心の落ち着きさえあれば、自分が何をするべきかはあなたの無意識が教えてくれます。
気持ちさえ落ち着けば、他の人が何を言い、どんなことをしていても、人は人、自分は自分と別けて考えることができます。
そうして自分に大切なことから順番にやっていけば、結果として周りの人にもいい影響を与えることができるようになるのです。
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できることを淡々とやる。 生活の見通しが立たず、不安が大きくなり、何をやればいいのか分からなくなってしまうこともあるかもしれません。
そんなときには、ただ不安な気持ちを抱えておろおろしているよりは、どんなことでもいいので、今できることをやってみるのがいいでしょう。
部屋を片づけることでも、料理をすることでも、ゲームをすることでも、おしゃべりをすることでも、それが役に立つかどうかなど気にせず、今自分ができること、ちょっとやってみようかなと思うことを、どんなことでもいいので、とにかくやってみることです。
重い腰を上げてとにかく取りかかってしまえば、案外そのことに没頭できるものです。
やってみて気分が乗らなければ、また別のことを試してみればいいのです。
東京都の小池知事が3月30日夜8時半ごろから緊急の記者会見を開き、
「夜間の酒場 出入り自粛を」呼びかけたことがNHKによって報道されています。
小池知事は「厚生労働省のクラスター対策班の専門家の報告によると、感染経路が不明な症例のうち、夜間から早朝にかけて営業しているバーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発していることが明らかになってきた」と述べました。
NHK WEBより この記事では、新型コロナの感染爆発に対する、こうした「自粛要請」という対応についての問題を考えます。
自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 自粛要請と相互監視のパノプティコン的監獄社会 過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって感染経路不明者が増加して、自覚のない感染者や自覚があっても行動を変えない感染者がさらなる感染者を増やす。社会的な収束よりも自分自身の目の前の問題が大切だし、そう思わせてしまう様々な施策や制度が失敗に転じているという事なのだろう。
過去遡及型パノプティコンと公正世界信念によって増加する感染経路不明者 - 太陽がまぶしかったから 池田仮名 (id:bulldra)さんはこのように書いて、自粛要請という政策の失敗を語っています。
パノプティコンとは全展望監視システムのことです。ここでは市民が相互に監視し合うことによって、進んで監獄を作っていく状況を意味します。
過去遡及型とは「感染が分かったことによって過去の行動を後から暴露されて責められる」ということです。
つまり「バーやナイトクラブで夜遊びをしているものは叩いてかまわない」というわけです。
こうして新型コロナに対する恐怖から息苦しい相互監視社会が立ち上がっていくにも関わらず、人間の自由な行動自体に制限はかけられないことから、感染は広がり続けているというわけです。
恣意的な自粛要請と「自粛要請」自体のはらむ矛盾 「バーやナイトクラブ、酒場など接客を伴う飲食業の場で感染したと疑われる事例が多発している」と知事は述べているわけですが、疑いがあるというだけで確証はありません。
本当にバーやナイトクラブで感染が多発していると考えられるのか、また通勤列車では感染が起こらないと言えるのどうか、それぞれの状況を厳密に考慮することなく、「夜遊び」だけを問題視して自粛要請することは、まったく恣意的であり、感染防止に役立つものとは思えません。
そもそも「自粛要請」という用語自体が矛盾に満ちています。
bokukouiさんの説明が分かりやすいので引用します。
「自粛」という言葉を辞書で引いてみると、
「自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」
という定義が示されます。「自分から進んで」というのがポイントで、だから「自」粛なのですね。
ところが、「要請」というのをこれまた辞書で引くと、
「必要だとして、強く願い求めること。」
となります。
「自分でから進んでやる」ように、他者が「強く願い求める」というと、自主的なんだか命令なんだか、はなはだあいまいになってきます。
自粛はいつから要請されるようになったのか : 筆不精者の雑彙 こうして考えてみると、「自粛要請」は結局実質的に命令であり、法的な制裁はない代わりに、相互監視によって国民同士の関係を監獄化させます。
その結果として、ソフトな全体主義社会体制を強化する装置として機能するのです。
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新型コロナから学ぶべきものと未来への希望 新型コロナウイルスの蔓延によって経済がうまく回らない状況については、政府が十分な施策を打って、社会的な弱者を筆頭に、社会全体が受けるダメージを緩和することが必要です。
一方で、この新型コロナ騒ぎは、経済一辺倒の現代社会のあり方を見直すいい機会でもあるでしょう。
世界的に多数の死者が出ている現状の重さはしっかりと受け止めた上で、物質的繁栄だけを重視するような社会のあり方を考え直す時期に私たちは差し掛かっているのではないでしょうか。
昨日までの日常生活が消え去りかねないような情報が飛び交い、重苦しい相互監視の空気が漂う中で、私たちは不安を抱えて、ストレスのやり場にも困ります。
けれどもそんな状況だからこそ、未来への希望を持ち続けることが大切です。
新型コロナのこれ以上の蔓延を防ぐためには、東京でも自粛ではない外出制限の実施も十分考えられます。
4年前に開設された学習院大学の国際社会科学部は今年度はじめて卒業生を送り出しました。
第一期生の卒業式は3月20日に予定されていましたが、新型コロナウイルスの流行により中止され、当日卒業生代表として謝辞を述べるはずだった2人の学生の謝辞がホームページで公開されています。
*1
その2人の卒業生のうちの小堀奈穂子さんの謝辞が、日本の形式主義にあからさまな「攻撃」を加える内容であることから、
「超パンク!*2」という賛辞と共に、
「ネオリベの申し子。教育の失敗*3」という否定的な意見が並んで見うけられます。
称賛と失望が渦巻く台風の目となった小堀さんの謝辞とはどんなものなのか、確認して見ることにしましょう。
日本社会の形式主義を痛烈に批判 経済的自由の大切さと自分への感謝 いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー 眠った世界の否定と言論の自由 大学側の注釈 権利は何かの対価なの? (2020.3.27 追記) 頑張ってる女性同士が励まし合える世の中であってほしい (2020.3.29 追記) 「歴史」を知り先達をリスペクトすることの大切さ 批判の投げ合いではなく、建設的な提案が増えてほしい 日本社会の形式主義を痛烈に批判 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
これが問題の謝辞の第一段落です。
日本社会の形式主義を痛烈に批判しています。
横並びを大切にする主流派のみなさんは眉をひそめるに違いありませんが、自由な表現を愛するぼくとしては、ここでの主張にはまったく同感です。
強いていえば言葉の選び方が強すぎる気はしますが、それもあまりに大人しすぎる日本の若者へのアンチテーゼとして考えれば、十分理解できるものです。
経済的自由の大切さと自分への感謝 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
第二の段落では、経済的な自由の大切さを述べた上で、その実現のために努力をした自分にこそ最も感謝すべきだ、という極めて利己主義的な主張がなされています。
上級国民は犯罪を犯しても優遇され、下級国民はこき使われるだけで、その上でヤルヤル詐欺で税金を取られっぱなしという日本の現実を考えれば、この主張も本音を隠さずさらけ出したというだけのことであり、必ずしも「エゴイスティックな最低の意見」とは言えない気がします。
たとえばこれを、次のように言い換えてみたらどうでしょうか。
「現在の日本の状況では、国民への社会的な保障は決して十分とは言えない。そんな状況を変えて社会に貢献したいからこそ、まずは自分の経済的自立が大切だと考え、そのために私は勉強してきた。勉強する環境を用意してくれた大学関係者にはもちろん感謝するが、その環境を使ってしっかりと勉強してきた自分にこそ一番の感謝をしたい」
つまり「誰だって自分がかわいい」という当たり前のことを、小堀さんのようにストレートな表現でいうか、それとも社会に受け入れられるような形でいうか、という話にすぎないと思うのです。
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いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
この段落では、自分の成績の優秀さをはっきりと述べた上で、けれども自分の大学生活が決して順風満帆ではなかったことが述べられています。
彼女のように自己主張の強い人が、周りから様々な圧力を受けることは、日本社会では当たり前のことでしょう。
そうした逆風状況の中で、支えてくれた人の存在に言及しているにも関わらず、その人にすら感謝の言葉を述べることができない彼女の姿には、痛々しさを感じざるを得ません。
けれどもそうした逆風を跳ねのけて、これだけの主張を続けることができる彼女のパワーには感服します。
眠った世界の否定と言論の自由 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
次の段落では再び、日本の形式的社会への厳しい批判の言葉が繰り返されます。
日本社会の保守的なあり方に心底うんざりしている気持ちがありありと伝わってきます。
私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。
言論の自由という言葉を使ってまで、卒業生の謝辞としてこのような過激な主張を展開した彼女の心の深い闇を思います。
昨日は北インドの山の州ヒマチャル・プラデシュのナハンという小さな街から、おんぼろバスに揺られて、ガンジス川の聖地ハリドワルへ移動しました。
インドの人ばかりが乗っている長距離バスでしたが、たまたま始発のマナリから乗ってきた日本の女の子が一人いて、久しぶりに日本語をたくさん話しました。
そのときのぼくは、ナハン近郊の小さなお寺で肝っ玉ばあちゃん的女行者と、どうにも濃厚な数日を過ごしたあとだったので、いつになく饒舌でした。
体の中に溜まっていた強烈なあくを、しっかりと吐き出してしまう必要があったようです。
その女の子は、インドは三回目ということで、新しい土地に行って新しい体験をすることが楽しくてしょうがない様子でしたが、日本の控えめすぎる言葉や感情のやりとりとは違う、インドの人たちの極めてあからさまなコミュニケーション・スタイルに、戸惑うと同時に大きな魅力を感じていることを話してくれました。
インドの人たちは本当に素直に感情を表現していて、喧嘩をするかと思うと仲直りをして、実にハッピーな時間を過ごしているのがうらやましいというわけです。
それでぼくは思ったのですが、結局のところ人生というものは、いかにハッピーにすごせるか、ということにすべてがかかっているのだし、あらゆる人は、人生を幸せなものにするために、最大限に自分の持つ力を使っているに違いないのです。
これを読んでくださっているみなさんの中には、毎日の生活がなかなか思うように回らず、なんでこんな人生を送らなきゃならないんだと思いながら、お金を稼ぐタメに必要な仕事を渋々とやっているような方もいらっしゃるかもしれません。
あなたがもしそんなふうに「人生をいやいやながら生きている」方であったとしても、それは生き延びるために自分にできる限りの努力をしてきた結果のはずです。
生き延びて幸せな時間をすごすために、誰もが一所懸命に努力をしているはずなのです。
そして、残念ながらその結果に今は満足できていないかもしれませんが、それがいつか幸せな瞬間につながることを信じられるからこそ、人間は生きていられるのだと思うのです。
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バスで乗り合わせた女の子にぼくが話したのは、人生というのは、どうやってハッピーな時間をできるだけ多く過ごすか、そしてそのハッピーな感覚を大きなものにできるか、にかかっている、ということでした。
そしてそれは、無理なく自然にできなければなりません。
素直な自分のままでいて、無理をしないで、自然に行動して、ありのままの気持ちを表わすことができて、それがハッピーな時間につながっていくことこそが、本当に幸せな生き方だと思います。
その女の子は、インドの人のようには生きられない自分をなんとか変えられないかと思って真剣な眼差しでした。
インドの人と比べて、自分はハッピーに生きていない、もっとハッピーに生きたいと、真剣にそう思っているのが感じられました。
それでぼくは言ったのです、あなたは十分にハッピーですよ、働くことばかりで精一杯の周りの日本の人たちを見て、どうしてこの人たちはこうなんだろうと思うから、今こうしてインドという日本とは非常に違う国に来て、まったく別の世界を見て、人生を楽しんでるんじゃないですか、あなたは10人中1人のハッピーな人ですよと。
すると、それまでの生真面目な表情が一瞬でほころんで、
「あたしハッピーですか!本当ですか!!」
というので、10人に1人か、100人に1人かはともかくとして、ハッピーなのは間違いありませんよ、とぼくは答えたのです。
インドで伸び伸びハッピーに過ごしている子どもたちを見ると、ああ、幸せってこういうことなんだな、と思います。そして、あまり幸せそうには見えない日本の子どもたちを思い出したりもします。
けれども、日本には日本の幸せと不幸があり、インドだってそれは同じことです。インドには日本にはない厳しい現実があり、例えば足のない物乞いの姿などインドではまったく当たり前の現実です。
そうした厳しい現実の前では、ぼくたちのくに日本のとてつもない物質的な豊かさと、そこで暮らすぼくたちの生活の圧倒的な「生ぬるさ」は、実に驚くべきものに感じられるのです。
でも「生ぬるい」などといういじけた言葉を使うのはやめにして、むしろ日本の暮らしの豊かさに目を開くことにしましょう。
景気は悪く、仕事はきつく、人生が灰色にしか見えないとしても、日本に生まれたというだけで、ぼくたちは「大きな幸せ」を手にしているのです。
その幸せをどう生かすかは、あなた次第です。
周りの人たちの鬱屈した思いに流されて、なんだかぱっとしない人生を送るのか、それともきちんと自分の世界を自分の中に作って、人生を楽しみながら生きるのか、それは結局あなたの気持ち次第なのです。
あなたが自分の人生をしっかりと歩み、あなたの毎日が輝きに満ちたものになることをお祈りして、この小文を終えることにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
[初出: https://note.com/tosibuu/n/ne7095846c2f5 ]
みなさん、新型コロナウイルスの騒動で、不安を感じながら日々をお過ごしでしょうか。
また、トイレットペーパーが手に入らず困っている方もいらっしゃるかもしれません。
今や、政府の発表もメディアの報道も、眉に唾をつけて疑わざるをえない時代です。
そんな時代の中で、賢く生きるための一助になることを祈って、この記事では
「なぜデマや噂は広がるのか」
そして、
「それに対してどう向きあえばいいのか」
を考えてみたいと思います。
なぜトイレットペーパーなのか? あなたの落ち着きがデマを防ぐ最大の武器です ** デマはなぜ広まる? 不安の心理と人間行動
今回の「コロナ騒動」では、マスクとトイレットペーパーが店頭から消えるということが起きました。
マスクはウイルスを防ぐためにはあまり役立ちませんし、トイレットペーパーがなくなるというのは完全なデマです。
どちらも不安にかられた多くの人が、必要性の低いものをたくさん買うことによって、本当に必要な人が手に入れることが難しくなり、社会問題になってしまったわけです。
いつもは理性的に行動している人でも、強い不安・怒り・恐怖を感じると理性的な行動ができなくなります。
これを扁桃体ハイジャックと言います。
脳の中で感情を担当している扁桃体という部分が、その人の行動全体を支配してしまうことを、飛行機のハイジャックに例えた表現です。
※扁桃体ハイジャックについて詳しく知りたい方はこちらの本をどうぞ。
ダニエル・ゴールマン 「EQ こころの知能指数」
https://amzn.to/2IAokVS
ふだんから不安感の強い人は、「トイレットペーパーがなくなる」と聞いただけで、その情報の正しさを確認する前に「今のうちに買っておいたほうがいいのかな」と考え始めてしまいます。
ここで追い打ちをかけるのがテレビなどの報道です。人間は視覚的な情報を重視するし、映像に反応しやすいからです。
アメリカの心理学者メラビアンが提唱するメラビアンの法則は、非言語コミュニケーションの重要性を説くもので、その実験結果によると、
「言語情報は7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%」
となっており、視覚情報が最大です。*1
これは対面でのコミュニケーションを想定した実験ですので、誰かがあなたに
「トイレットペーパーがなくなるらしいよ」
と話しかけてきたときに、その人の
・「表情や動作」が一番重要で、
・「声の調子」が二番目、
・「言葉の内容」は一番あとになる、
というものです。
これを一般化して考えれば、同じ「トイレットペーパーがなくなる」という話を聞くにしても、
1. ツイッターで見る
2. ラジオで聞く
3. テレビで見る
の三通りの場合、1. < 2. < 3. でテレビで見る影響が一番大きいことになります。
ツイッターでたまたま「トイレットペーパーがなくなる」というデマを見かけて不安に思っていた人は、テレビを見てさらに不安を煽られれば、自分も買い占めに加担してしまいかねないわけです。
というわけでテレビ関係のお仕事の方にお願いです。
こうした心理学的情報を踏まえ、人の不安をあおりかねない報道はどうか控えてください。
「トイレットペーパーが売り切れ」を強調する画像を流すことは、誰のためにもなりません。「工場や倉庫にはたくさんのストックがある」ことを、映像ではっきりと伝えるようにしてください。
こうした倫理的な報道基準がきちんとなされるような社会になってほしいなと、切に願うものです。
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「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」*1
とある落語家の方がテレビで発した言葉です。
「ひとりでしね」なんて言ってほしくなかった。
「ひとりでしね」と言わないで! 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ 「ひとりでしね」と言わないで! こういう言葉を、発言力のある方がメディアで発することは、絶対にやめてほしい。
また、ネット上での個人的な発言であっても、感情のままに発信する前に、少し立ち止まってほしい。
心からそう願います。
弱い立場にある人が追い詰められて、自暴自棄になったりしてほしくないのです。
川崎市登戸で起きた連続殺傷事件の犯人に向けて、こういう発言をしたくなる気持ちは分かります。
襲われた子どもたちやその親の気持ちを考えれば、犯人にこう言いたくなるのは当然でしょう。
けれども、こういう大事件を引き起こす少数の例外的な人の陰には、決して少なくない数の引きこもりの人たちがいて、「ひとりでしね」という言葉は、そういう人たちの心に突き刺さります。
また日本は自殺が多い社会でもあります。「ひとりでしね」という言葉は、一人で悩んでいる人に対して、周りに迷惑をかけるくらいなら自殺しろというメッセージにもなってしまうでしょう。
そして病的な心理状態にある人に対しては、こういた言葉が更なる凶行を煽る可能性があることもきちんと考える必要があるでしょう。*2
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「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ メディアやネットには、社会的弱者を安易に批判する言葉が溢れかえっています。
本当はそうした「弱いものいじめ」の言葉は誰のためにもならないから、そんな言葉はなくなったほうがいい。
けれども現実はむしろ逆で、多分これからも「弱いものいじめ」はむしろ増えていくでしょう。
だから「弱いものいじめ」なんて気にするのはやまてしまえばいいのです。
「ひとりでしね」なんて言葉は聞き流してしまえばいいのです。
人間には生きている限り可能性があるのだし、生きているだけで大いに意味があるのです。
ひょっとしてあなたは、自分なんか生きていることに何の意味があるんだろうと思っているかもしれません。
でも生きてる意味なんて、誰にもありはしないのです。
お金があろうと地位があろうと、恋人がいようと家族があろうと、そんなものはみんな社会的な形式にすぎません。どんなに社会的にうまくやっていても、それだけでは決して生きている意味にはならないのです。
ほかの人の基準で自分の人生を測るのはやめにしなければ、そして自分が現に生きているそのあり方を認めることができなければ、自分の人生の可能性を本当に信じることはできません。
生きるということは、しんどいことです。しんどいことをみんななくして、楽に生きたいと思ってもそうはできません。
しんどいことに向き合うことも必要です。
だからといって、嫌なことを我慢すればいいというものでもありません。
あまりにも嫌なことがあれば、そこからは距離を取ればいいのです。どうしようもなければ、逃げ出せばいいのです。
人の言うことに振り回されすぎず、自分なりのバランスをつかむ必要があります。
それが人生に意味を感じることにつながるのです。
社会がどんなに息苦しくても、自分なりの生きる意味を見つけることができれば、あなたの人生は輝きを失うことはないでしょう。
もし苦しくて、一人で答えが出せないでいるのなら、メッセージをください。
答えは出せなくても、一緒に考えたいと思いますので。
☆次のリンクからマシュマロの機能を使って、誰でも匿名でメッセージを送ることができます。極端にネガティブな言葉を含むメッセージは届きませんのでご注意ください。
https://marshmallow-qa.com/tosibee
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この記事では「東大卒」という烙印が、人生にどんな影響を与えるかを、主に負の側面から、特に文系女性の場合において考察します。
「『東大生』というと人間扱いされない!」という、ぼくの男友だちの悲痛な叫び 東大卒文系、一般企業就職の女性が受ける「受難」の日々 東大卒、文系、一般企業就職の女性をどうすれば「地獄」から救えるのか? 「『東大生』というと人間扱いされない!」という、ぼくの男友だちの悲痛な叫び まずは個人的な話から入りましょう。
ぼくは東京の人間で、私立の中高一貫制の男子校を卒業して、1980年代の半ばに大学生活を送りました。
そのときの同級生で東大卒の友だちが何人かいますが、ぼく自身はそんなに勉強はできなかったので、別の国立理系大学に進学しました。
大学時代も高校からの友だちとつき合いを続け、よく酒を飲みましたが、その中に、仲間のうちでも一番頭のよい、そして感受性も人一倍強い奴がいました。そいつは東大で数学を専攻していました。
彼は酒の席で、同じ店にいる見知らぬ人とも平気で喋る、ちょっと変わった奴だったのですが、その彼があるときこう言ったのです。
「『東大生』だと分かると、人間扱いしてもらえないから、酒の席で見知らぬ人と喋るときは、『千葉大に通ってる』と話すことにしている」のだと。
当時のぼくは彼が少し過敏すぎると思っていたので、そんなことまでしているとは「こいつはホントに変わった奴だな」くらいにしか思わなかったのですが、今となれば、感受性の強い彼が、実際の経験から相手の反応をよく確かめた上で、「実質のある」会話をするためにはそうせざるをえないと考え、わざわざそのような手の込んだフェイクを使っていたのだな、ということがよく分かります。
つまり、世間一般の人間というのは、それほどまでに「東大生・東大卒」というものを
恐れ、敬い、軽蔑し、バカにしている ということです。
こんなふうに書いても、そうした経験のないみなさんにはにわかには信じがたいことかもしれません。
現役の東大生が書いた
・東大を舐めている全ての人達へ|tonoike19950604|note - (1) tonoike
という記事や、東大卒の20代女性が書いた
・それでも世の人は、東大を舐めずにはいられない|桂|note - (2) 桂
という記事を読んでいただければ、
東大生の特殊性と、 それに対する周りの人たちの特別な反応について、 いくぶんかは納得していただけるのではないかと思います。
東大卒文系、一般企業就職の女性が受ける「受難」の日々 次に上に挙げた (1) の桂さんの記事から引用して、東大卒の女性が社会において受ける「差別」のひどさと、その錯覚資産*1ならぬ錯覚負債について少し見ることにしましょう。
まず、桂さんの子ども時代の経験から、彼女がいかに精神的に「虐待」され、屈折した「エリート意識」を持っているかを確認します。
私は小学校からエスカレーター式の私立高校から東大に進学しました。なのでこれを書いた彼のように中学受験こそしていませんが、東大に入学するために同じだけの苦痛を強いられてきた自覚があります。テストや模試の点数が最高点やAランクでないと、既に東大現役合格していた兄と比べられ「お兄ちゃんと同じように育てたのに、どうして同じに育たないの?」「妹は産まない方が良かったのかな」と母から言葉の暴力を受ける毎日。そんな中で「勉強しないと/東大に行かないと生きている意味がない」という謎の強迫観念に迫られ「起きている時間はずっと勉強」状態となり、なんとか現役合格しました。
「謎の強迫観念」と冗談めかして書いていますが、「起きている時間はずっと勉強」をしているとは、「ほとんど病気」としかいいようがありません。
この方はこのような「地獄」を切り抜けられて、現在は健康に過ごされているようですが、
一歩間違えれば人生が破滅しかねないレベルのストレスを受けていた といっても言いすぎではないでしょう。
この「苦痛を乗り越えた」という実感が、「屈折したエリート意識」につながります。
新入社員として自己紹介をし、学校を聞かれて「東大」と言った瞬間、周りの人の目から光が消えたのを覚えています。
「まあ、仕事には勉強は関係ないからね」
東大、と言ったそのすぐ後に、その場にいた一番偉い役職者の方が仰いました。私は「東大だから仕事ができます」のようなことは一切口にしていません。ただ、学校を聞かれたから、東大です、と事実を答えただけでした。
その場にいた一番偉い人がそんなこと言うもんだから、周りの先輩がたも次々に同調しました。「仕事は人と人との関わりですからね、勉強できることは関係ない」「ですよねー、俺の同期の高学歴のやつも全然営業できなくて」「経験の方が大事ですよね」・・・。私は、東大卒というプロフィールを持っているだけで、なぜこんなに怒られているんだろう、そういう違和感をその時、初めて抱きました。
ここまでは、世間を知らなかったお嬢様が、初めて現実世界の冷たい風に晒されたときの実感が、実に率直に述べられています。
私は一般企業に入社して最初の一年、東大を卒業したことを心底後悔しました。
大学名を聞かれ、言った瞬間に構えられる。
マウントを取っていないのに逆にマウンティングされる。
人より苦手なことがあると、人の数倍バカにされる。
東大を出て、一般企業でいいことなんて何もなかったです。
この最後の一文に、彼女の「屈折したエリート意識」が見え隠れしています。
つまり、
「東大を出たのだから、一般企業でもいいことがたくさんあると思っていたのに、こんな目に合うのはおかしい。みんなはもっと自分の優秀さを認めてくれていいはずだ」
という
「虐待」されて育った 可哀想な「子ども」の 悲しい「自意識」が見て取れる ということです。
これを「エリート意識」という言葉で説明するのは、少し誤解を招くところかもしれませんが、うまい言葉が思いつきませんもので、「屈折したエリート意識」とさせていただきました。
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現役の東大生がご自分の受験の経験を書いた記事がネットの片隅で話題になっています。
・東大を舐めている全ての人達へ|tonoike19950604|note
今日はこちらの記事を題材に、わたしたちが
東大に対して抱(いだ)く幻想と錯覚について 少しばかり考えることにします。
平均してみれば、東大生は頭はいいものの、あなたやわたしと変わらない、
利己的かつ偽善的で、欺瞞に満ちた愛すべき愚者である というのが一つの結論です。
なお、これは上にあげた記事を書いたtonoike氏がそのような人間であるといっているわけではありません。氏はむしろ、率直で自分の限界を心得た、極めて謙虚な人物であると感じます。
東大お受験狂騒曲 - ぶんなぐられながら勉強する子どもたち 東大を「舐めている」人たちへの伝言 - どんどん「舐めて」やってください 東大お受験狂騒曲 - ぶんなぐられながら勉強する子どもたち 「これはまったくヒドイことになっているな」 というのが、tonoike氏の中学受験の体験談を読んで真っ先に浮かんだ感想です。
母親がPS2を餌に子どもに勉強をさせる。
「そんなやり方はやめといたほうがいいのに」とこのことについても思いますが、それは序の口です。
子どもが勉強をするまでつきっ切りで干渉し、あげくの果てには手を上げてまで勉強を強要する。
それでも子どもがやらないと父親まで動員して暴力を振るわさせるとは、
このお母さんは気が狂ってるのだろうか、 と正直ぼくは思いました。
けれども、それを書いている東大生のご本人は、そのときは地獄だったけれども、「今は家族関係は良好だ」というし、「そんな程度の話は周りでいくらでもあるんだ」というのですから、このお母さんがおかしいというわけではなく、日本の社会そのものが「異常」であるというべきか、あるいは、
人間自体が「標準」を常に逸脱し続ける「異常」な存在なのである、 とでも考えるしかないのでしょう。
けれども、世のお母さんにここで一つだけ考えていただきたいのは、
暴力を使うかどうかに限らず、子どもの意志をねじ曲げてまで勉強させようとすれば、あなたの大切な子どもが死んでしまう場合だってある、 という冷酷な事実です。
tonoike氏が書いている
部活を親が半ば強制的にやめさせようとしたら人生の方をやめてしまった人もいました。
というのは、ぼくの読み間違いでなければ、彼のごく身近にもそのような形で亡くなった方がいるということですよね。
あるいはしばらく前に社会的な大問題にまでなった「電通過労死事件」についてはどうでしょうか。
東大卒の女性が「過労死」したあの事件も、見方を変えれば、お母さんがわが娘を「殺してしまった」事件なのだと見ることはできないでしょうか?
これは娘の死に関して、お母さんに責任があると言っているわけではありません。
お母さんの期待に答えて、一所懸命に勉強して東大に入り、世間知らずだったために電通という「魑魅魍魎」の会社に入社してしまい、嫌ならやめればいいだけなのに、「よい子」でいなければならないので会社をやめることもできずに「死んでしまった」彼女に、期待をかけすぎ、その自由をしばってしまっていたのはお母さんなのではないのか、という推測にもとづく仮説を述べているだけのことです。
彼女がお母さんを思っての言葉を残して亡くなっているだけに何とも不憫ですし、このような形で娘に先立たれたお母さんの気持ちを考えると言葉もありませんが、もしも彼女とお母さんとの関係が、もう少しだけ素直に気持ちのやりとりができるものだったならばと考えると、本当に心が痛むのです。
もし、これを読んでくださっているみなさんの周りで、自分の子どもに勉強を無理強いしているのではないかと思われるような親御さんがいらっしゃったら、どうかそのお子さんに声をかけてあげてはいただけないでしょうか。
そういう親御さんに考えを改めてもらうことは非常に難しいと思いますが、お子さんに暖かい理解の言葉をかけることは、そのお子さんの苦しい心情を救う大きな力になりえます。
うまく声をかけられなくても、気をかけてあげ、微笑んであげるだけでもお子さんにとっては力になるでしょう。
「東大」に行かさせられるために、肉体的、精神的な虐待を受けるなどということは、極めて特殊な事例ではありますが、言われない苦痛を受ける子どもたちが少しでも楽に生きられるようにと願ってやみません。
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