「牛乳は有害である」みたいなことを書いてますので、牛乳好きの方にはもうしわけないです。でも、「牛乳は有害だから飲むな」と言いたいわけではありません。「有害かもしれないから、注意したほうがいいかもしれませんよ」という程度の話です。
みなさん、こにゃにゃち・はーーっ。
この記事は
・「科学至上主義」のみなさんは、どうしてEM菌がそんなに嫌いなんですかね? - *魂の次元*
へ頂いたブックマーク・コメントに対するお返事集です。 (途中、dfk3さままでコメントを書いて力尽きました。あとは大体論点変わらないような気がしますので、この辺でご勘弁願います)
貴重なお時間を割いて、コメントをいただいた方々には平にひらに感謝いたします。
id:tanizakura さま:
UFO好きで幽霊も怖いしパワースポット巡りも楽しいけど、EM菌は嫌い かなり分かります。幽霊やパワースポットは、バックに政治家がついたり、行政からお金が出たりしませんもんね。
id:ublftbo さま、
言いたいことが良く分からなかった。簡単な話で、効果の確かめられていないものを「実践的に」使うべきでないということです。後、医療問題と分けてとありますけど、水質浄化って、相対的にそんな軽い話なんですか? 話が分かりにくくてすみません。頭の中が歪みまくってるもんで。
「実践的に」使うべきでない、という意見は、それはそれでいいと思います。
水質浄化が軽い、ということではなく、医療問題は法律的にもいろいろ別の論点が必要になってくるので、あの記事では扱わなかった、という話です。
id:ad2217さま、
偽ブランド商品は、本物のブランドからすれば滅ぶべきものでしょう。本物の方のブランド価値が下がるから。
経済主義的な解釈は、分かりやすくていいですね。
でも、進化論的に言えば、模倣が出るのも当たり前。
そのうえ、心理主義的に言えば、模倣を不愉快に思うのも当たり前。
ですから、ぼくの書いてることは、単なる自己肯定にすぎず、「科学至上主義」の人を批判しているわけでないのは、最初にお断りした通りです。
id:flowing_chocolateさま、
根拠がない話を基にあれこれ動き回るってのは、実際のところ社会にとって有害なのよ。問題解決にならない方法を覚えてもらっちゃ困る。
世に溢れる「有害さ」に困ってらっしゃるのですね。ぼくも「原発」を迷信的に推進するような「有害さ」には困っていますので、その「お気持ち」よく分かります。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
id:Fushiharaさま、
科学にタダ乗りするな。根拠があるような宣伝をするな タダ乗りしてらっしゃるのはFushiharaさまでは? ぼくは根拠があるような宣伝はしてませんよ??
id:kamakiri3さま、
EM菌撒くような人は苦手だけど、どちらかというと中立ぶりたがる人間の方が、より苦手かな。 ぼくはEM菌は撒きませんし、中立ぶってもいません。お互いに立場があさっての方を向いているようで、申し訳ありません。
id:giyo381さま、
疑似科学やら呪いを信じたりするメンタリティがわかる ご高説ありがとうございます。ぼくは疑似科学も呪いも信じませんけど。
id:LethalDoseさま、
おとなになってから個人的に実践する分にはあまり何も言われないとおもう。
「子どもに押しつけるべきでない」というのは、まったくその通りと思います。
id:photostudio9さま、
効果のはっきりしないものをあたかも効果があるように広める、使うというのが良くない。科学とか教育以前の問題。EM菌は水質浄化に効果があるのか?をテーマに教育現場に取り入れるなら良いんじゃない? まったくです。
id:turanukimaru
そもそも「ない」ものを「ある」と言うのは嘘であり、「有るかもしれないし無いかもしれない」というのは何も言ってないのと同じ。教育ってのは嘘を教えたり無意味なことを教える事なの?本当にそれでいいの? 「有るかもしれないし無いかもしれない」ことを伝えた上で、その見分け方を自ら見極める方法を伝えるのは、とても意義のあることだと思います。
id:powerbreathingさま、
EM教育の問題点は、天羽先生の記事を読んでほしい。http://www.cml-office.org/pseudoscience/topics/EM/em07.html 朝日新聞青森のEMの記事を、裁判で負けたEM側の主張を元に批判しているのも疑問です。
水質浄化にEM菌が有効かどうかいうことと、そのほかの比嘉氏の主張は分けて考えるべきべきだと思います。
また、裁判についても、水質浄化の問題とは別の問題と考えます。
id:K-Onoさま、
広告に万田酵素出てきてその相乗効果で途方にくれた。 ありゃ、そうでしたか、すみません。
この記事の内容に共感し、100円でも200円でも寄付をしたいという人がいらっしゃったら、広告の表示をなくす手を打ちますので、ぜひご連絡ください。
「科学至上主義」な立場から、学校教育においてはEM菌を使用するべきでない、という主張がネット上では散見されますが、EM菌の効果が証明されていないからと言って、水質浄化問題に関する限りは、そんなに目くじら立てなくていいんじゃないでしょうか。
みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか?
魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。
この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、
・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない
というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。
結論を先に言うと、
「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」
てな話です。
で、本日のお品書きはこんな感じ。
阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 追記: id:yuki_2021さんより、ブックマークにてコメントいただきました。 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。
・[:title]
阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。
とりあえず、主人公まどかの立場を大乗仏教の阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。
この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。
これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、
その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。
というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。
最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。
けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。
というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。
まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。
かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。
初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。
今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。
マミさんへのご提案と言う形で
初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。
この口上、大変気に入りました(笑)。
このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。
件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。
しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。
ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。
もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。
でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。
おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。
なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。
[マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編]
キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。
けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。
石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。
もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。
とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。
むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。
......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。
今言いたいのはこういうことです。
「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り)
あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り)
いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、
「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」
はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。
神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。
って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、
「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」
みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか?
魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。
この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、
・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない
というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。
結論を先に言うと、
「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」
てな話です。
で、本日のお品書きはこんな感じ。
阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。
・[:title]
阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。
とりあえず、主人公のまどかの立場を阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。
この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。
これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、
その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。
というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。
最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。
けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。
というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。
まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。
かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。
初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。
今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。
マミさんへのご提案と言う形で
初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。
この口上、大変気に入りました(笑)。
このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。
件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。
しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。
ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。
もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。
でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。
おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。
なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。
[マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編]
キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。
けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。
石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。
もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。
とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。
むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。
......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。
今言いたいのはこういうことです。
「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り)
あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り)
いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、
「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」
はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。
神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。
って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、
「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」
ですって。
アニミズムと伝説に毛を生やし、文書として一つにまとめたのが、古事記であり日本書紀であり、それがのちに天皇を神と仰ぐ国家神道になるんでしょうから、教義の部分はもっぱら仏教から借りる形で済ませて、神道独自の部分は「祓って浄めて」それだけでオッケーだったってことでしょうかね。
[xevraさん、間違えてzevraさんにしちゃってました。ごめんなさーい]
この記事では、xevra さんの
・神は居る でも宗教は無力である事は証明されてる - xevra's blog
について、納得のいく点と、そうでもない点についてつらつらと書いてみます。 xevraさんが書くに、
人間、より良く生きていく上で現実を正しく認識する事は大切だ。
まったく同感です。
今我々が生きているのは、今から138.2億年前にビッグバンと言う大爆発があって宇宙が出来上がったからであるが、もし、神が居るとするならばここに関わった存在以外には考えにくい。
これは、ビッグバン仮説を信じるならば、という前提で、納得します。
しかし、こういう考えはどうでしょうか?
たとえば、ニュートンが考えるように、4000年前に全能の神がこの宇宙を無から創り出したとしたら?
もちろん全宇宙の従う物理法則から何からと、初期値としての世界のあり方もすべて含めてです。
あたかも宇宙全体が、138.2億年前のビッグバンから始まったかのような初期設定で、また、地球は45億年前に生まれ、その上で生物が生まれ、進化し、人間が誕生したかのような、精密な初期状態で世界を創り出したとしたら?
全能の神が、そのように世界を創り、しかも全能の神のみを信じるものを救うような、人類には計り知れない計画を持っていないと、論破する根拠はありうるでしょうか?
これは別に、ぼくがそのような世界観を信じるという意味ではありません。ただ、例えば、アメリカのキリスト教根本主義の方々が、このような信仰を持っていたとしても、ぼくには論破できない、という話です。
* * *
人生において大切なのは、いい人生を形作るために合理的なアクションを重ねる事だ。科学的に運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい効果を持ち、脳の動作が安定する事は判明している。であれば、これらを徹底する事が一番重要であり、でっち上げられた宗教に入れあげる事など止めるべきだ。
「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい」ということは、概ねその通りだと思います。
しかし、前節で述べたように宗教的観念には一定の合理性がありますから、それを「でっち上げ」というのは、かなり「片寄った」考え方に思えます。
xevraさんの、「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底」という考え方自体は悪くないと思いますし、ぼく自身、日頃大切にしていることです。
しかし、「宗教よりも睡運瞑菜がいい」というのは、事実というよりもxevraさんの信念でしょうし、とすれば、それを他者に「強要」するかのような言説は、ただの「原理主義的」言説にしか思えません。
xevraさんが「睡運瞑菜」を信じることで「心の安定」を計っているように、宗教によって「心の安定」を計っている方もいるわけですし、あるいは、「原子力」を信じることによって「心の安定」を計っている方もいらっしゃるわけですから、残念ながらxevraさんの「強弁」には説得力がない、としか言いようがありません。
とはいえ、人は自分がしたいことをすればいいわけですから、xevraさんが「睡運瞑菜」原理主義を貫くことは誰にも否定できないことです。
願わくば、瞑想を通じてxevraさんが「原理主義の限界」を体得していただけますように。
以上、中途半端な瞑想の心得しかないものが、余計な口出しをしてもうしわけありませんでした。
最後まで読んでいただいたみなさん、いつもありがとうございます。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
今日もインターネット密林(ジャングル)にお集いのみなさま、元気にやってますかー。
ところで、あなたは、ひょっとして、
働かないのは「悪いことだ」
と、思ってませんか?
そう思って「いけない理由」もないのですが、どちらかと言えば、窮屈な考え方じゃないかなあ、と思いまして。
というわけで、今回は、政治学者・栗原康さんの著書「はたらかないで、たらふく食べたい」をネタにさせていただき、このページでは何度も現れるテーマ「働かなくてもいいじゃん」の変奏曲をお送りします。
「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた栗原康さんは、大杉栄や伊藤野枝の評伝を書いている政治学の研究者です。
東北芸術工科大学で非常勤講師をしてらっしゃるのですが、これはいわばアルバイトに近い仕事ですよね。
いわゆる定職についていないわけです。
そして、定職にもつかず、実家で好きなように勉強し、好きなように本を書き、稼ぎは少ないけれども、自由に生きている。
そうした彼の「自由な生き方」をこちらの本に書かれているわけです。
* * *
まあ、「プチブルの高等遊民」といってしまえば、それまでなのですが、そして、ぼく自身が「プチブル高等遊民の失敗事例」みたいなものでありますから、「そういう非生産的なあほうは大概にしなさい」という声がどこかから聞こえてきそうな感じです。
でありますが、というよりは、ですからこそ、
「プチブル高等遊民」でもいいじゃないですか
とアジの開き直り的に私は主張したいのです。
* * *
栗原さんのインタビューがこちらにあります。
・【訊いてみた】いま最注目の政治学者、栗原康さんに訊いてみた【前編】 | ひき☆スタ - ひきこもりから『社会』にメッセージを。
インタビューで、「はたらかないで、たらふく食べたい。これがあたらしい格言だ」という言葉について、どうしたらそんなふうに強く思えるか、と聞かれています。
それに対する栗原さんの答えは、もともと強く言えていたわけではない、というものです。
大学院博士課程を満期退学後、五年ほどほぼ仕事がなく、週にひとコマだけ非常勤講師をしていて、年収10万、という時期があったそうです。
月収10万、じゃありませんよ、年収10万です、年収!!
そして、実家にいて、好きなように本を読んだり、ものを書いたりしていたわけですから、親や近所の人や親戚から当然いろいろ言われます。
特に最初のうちは親から相当いろいろ言われたため、栗原さんは「とにかく謝る、土下座する」という技を身につけた、というんですね。
栗原さんの言葉を引用します。
なにか言われたら、とりあえず謝る。土下座して、「もうちょっとしたら稼げるようになるから、もうちょっと、もうちょっと」なんて言いながら、お小遣とかもらったりして。案外それを何年間も続けていくと、親もだんだん折れてくるんですよ。
だから、最初から強かったわけじゃなくて、謝ればいけるぞと、少しずつ思えるようになっていったんです。それを続けていたら、やりたいことがあるからお金にならなくてもやるぞといったふうに、開き直れるようになって、そしてそのほうが意外と楽だなと思えるようになりました。
恥ずかしながら、この私も、五十を過ぎた身で、ロクに収入がないままインド辺りを漂っている人間ですから、日本に帰国する旅費にもこと欠いて、母親に無心するような人生を送っています。
しかし、老齢の母に無心することを「悪いことだ」と思うのか、それとも、そうやってお金を送金してもらうことを「ありがたいことだ」と思えるのか、これは人生の分かれ目になるものだと思います。
ぼくは自分のことを、五十になっても独り立ちのできない「情けない」人間だ、と思うのと同時に、そんな「情けない」人間を支えてくれている母をはじめとする様々な人たちに対して、本当にありがたく思うのです。
昭和の文豪・太宰治は、結婚してからもなお、実家の長兄からの仕送りによって生計を立てていました。
太宰が「仕送り」によってようやく生計を立てていたことを「悪いことだ」としか思えなかっただろうことは想像に難くありません。
芸術というものは、得てしてそのような「困難と苦悩」の中から生まれてくるのでしょうから、それはそれで仕方のないことでしょう。
けれども、世の中には、「社会の多数派」の流れには乗れない人間というものが必ずいるわけで、そうした少数者の居場所があるほうが、社会全体としても健全なもののように思えます。
「社会的」にダメ、と言われる人間が「本当にダメ」なのかどうかを、少し考えてみたほうがいいのではないかと、思うのです。
* * *
栗原さんは、そうやって実家に暮らし、好きな読書と文筆を続けることで、現在では八冊の著書を出し、ご両親との関係も落ち着き、それなりに安定した生活をしているようです。
しかしながら、収入の方は、世間的にいって十分な額があるわけではなく、
いまお金になることをやらないでいると、率直にあまえているとか、遊んでいるとか言われたり、いい歳をしてお金もかせげていないのに恋愛とかをすると、無責任なやつとか言われるのが現状だとおもいます。だからこそ、あえてわがままになりきって、おもうぞんぶん遊びたい、モテたい、楽しみたい、うまいものが食いたいって、声をあらげてみたいなと。
本日発売!『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 後編 | タバブックス と大胆にもおっしゃっています。
今の日本社会は、景気が悪いと言われ続けていますが、決して社会全体が貧しいわけではありませんから、
「お金を稼がなくても、人生を楽しみたい」
という主張も当然ありうるでしょう。
また、お金を稼ぐのが当たり前だと思い込まされて、お金を稼ぐのが立派な人、そして、お金を稼いでないのは「人としておかしい」と思われてしまうところが、今の経済社会の怖いところだともおっしゃっています。
OECDの報告によると、日本におけるニート*1は170万人、推計32万人が引きこもり状態であるとも言われます。
そうした若者たちが、社会からの圧力で、「働いていない自分は人としておかしい」と思い込んでいるとしたら、これほど不幸なことはありません。
「働いていない」のはちっとも悪いことではありません。働きたいと思うような職場が少ない、日本の労働環境のほうがむしろ問題でしょう。
働かないでも食べるのに困らないのならば、無理に働く必要はないではありませんか。
そして、
たぶん、いまおなじような境遇にいる人たちって、けっこうたくさんいますよね。そのうち、一人でも二人でもいいんです。この本をつうじて、だれかがすこしでも生きやすくなってくれたら、自分ももっともっとわがままに生きてやるんだって、そうおもってもらえたらいいなとおもっています。
と、菅原さんもおっしゃる通り、必ずしもお金を稼ぐということにとらわれる必要はありません。
ここでの「わがまま」というのは、「好き勝手にすればいい」ということとは違うでしょう。
きちんと自分の欲求に忠実に生きて、自分の好きなことを自分の責任の中で行なえば、道は開けるものだよ、というメッセージだと思います。
多くの人が、社会に広い目を向けて、様々な関心を持ち、自分が思うような生き方ができるようにお祈りして、この記事はおしまいにします。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」
ハンプティ・ダンプティ - Wikipedia ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」おもしろいですよね。
「鏡の国」に出てくる、このハンプティ・ダンプティの、一見奇妙に思えるセリフにヒントを得て、今日は言葉が持つ「呪文」としての性質を、「21世紀的」な視点から考えてみようと思います。
ここで「21世紀的な視点」というのは、「コンピュータが暮らしの中に入り込んだ文脈の中で」という程度の意味です。
*1
プログラミング言語も言葉なの? 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 ぼくたちが毎日使っている「呪文」のこと コトノハ 2.0 、あるいは言葉を「呪文」として使いこなす方法 プログラミング言語も言葉なの? みなさんはプログラミング言語を使ったことがありますか?
プログラミング言語というのは、コンピュータに何かをやらせるために、命令を組み立てるための「言語」ですよね。
これはぼくたちが日常使っている「言葉」とはちょっと違います。
「日常言語」は、「命令」だけで成り立ってるわけじゃないですもんね。
けれども、プログラミング言語も「人間が機械に指令を与える=人間と機械がコミュニケートする」ためのものなのだ、と考えれば、「言葉」の一つとして捉えることができるでしょう。
ここではまず、プログラミング言語というのがどんなものなのかを、ごく初歩的な部分だけ、紹介します。
たとえば、python というプログラミング言語があって、これには、print という命令があります(「命令」ではなくて「関数」というんですけど)。
そこで、
print(1+2+3) と、pythonに指示してやると、
6 という結果を表示してくれるわけです。
(print といっても印刷するわけではなく、画面に表示するんですね)
これだけだと、計算機を使うなり、手で計算するなりしても特に変わりませんが、仮に学校の宿題で、
「1 から100までの数の自乗(ある数同士を二回かける)のを計算してきなさい」
という宿題が出たら、どうでしょうか。
計算機を使うにしても、これをいちいち、
1x1, 2x2, 3x3 ....
と100までやるのは大変ですよね。
コンピュータだったら簡単にできそうです。
これをpythonでやるには、
for i in range(1,101): print(i*i} という「呪文」を使ってやることになります。
ここで、
「for 〜」は「〜の間くりかえす」 「range(1,101)」は「1から100まで」(指定するのは101なんですけど、100までになります) 「*」は掛け算 を表していて、結果として、
「i という変数が 1 から100になるまで、i x i の結果を表示しなさい」
という「呪文」を表すことになるわけです。
お仕事で excel をお使いの方などは、こういったタイプの「呪文」が使えると、手作業をコンピュータにまかせられて便利なことは、よくご存知のことと思います。
「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 さて、コンピュータというのは融通が効かないものですから、先ほどの「呪文」は、単語を一つ、記号一つ、打ち間違えても、せっかくの「命令」は実行されなくなってしまいます。
「ひらけー、ゴマ」と言えば、秘密の扉が開くのに、「ひらけー、コマ」では開いてくれないのと、これはよく似ています。
みなさん、こんにちわー。
以前の記事、
・新卒で「プログラマ」として入社した一部上場精密機器メーカーを、ぼくが2年足らずで辞めた「理由」: #00 販売実習をやめたいと言ったら上司に呼び出された話 - *魂の次元*
では、入社時の新人研修で、販売実習があり、あまりに向かないので「やめたい」と上司に相談したものの、「丸め込まれて」やめられなかった話を書きました。
今日は、少し話をさかのぼって、どうしてぼくがその会社に勤めることになったかを書いてみます。 ぼくは東京の大学でコンピュータの勉強をしていたのですが、コンピュータや勉強が大好き、というほどのことはありませんでした。
それで、学部四年のとき、修士課程に進むかどうか迷ったのですが、同じ研究室の修士二年の先輩で、いい感じの方がいて、自分もあんなふうにやれたらなあ、みたいな「雰囲気だけ」の気持ちで、修士に進む方向で考えてみました。
とりあえず内部推薦の制度があったので、それに申し込み、また、大学院の入試も受けることにしましたが、実のところ、大学の成績は特によいわけではなく「内部推薦は通ったらもうけもの」くらいのいい加減さで、しかも入試に向けての勉強などもまったくしていませんでした。
それで、内部推薦の面接のときのことなのですが、ぼくの所属していた研究室の先生が、こんなことを聞くんですね。
「きみは成績がずいぶん悪いけれど、これはどういうことかね?」
いやー、身も蓋もない、サイコーの質問じゃないですか!!
しどろもどろに何を答えたものか、さっぱり覚えていませんし、ほかに何を聞かれたのかもすっかり忘れてしまいましたが、当然推薦は受からず、そのうち、大学院の入試の日付が迫ってきました。
自分がそのとき、何をどう考えたのかは、あまりよく覚えていないのですが、結論だけははっきりしていて、
「やっぱ入試はやーめた」
と思って、誰にも相談せず、一人勝手に就職することに決めました。
ぼくは実家が世田谷なので、渋谷あたりが行動範囲だったのですが、たまたま渋谷の本屋で高校のときからの友だちとばったり出くわしたので、
「いやー、おれ、大学院受けるのやめようと思って」
とか軽い調子で話したら、その友だちは、
「それはやっぱり受けといたほうがいいんじゃない?」
と親身に忠告してくれたのですが、ぼくは人の話が耳に入らないほうなので、「そんなこと言われてもなー」と思ったくらいのもので、結局そのことは誰にも告げないまま、入試当日ばっくれてしまったのです。
あとから研究室の同級生に、「先生かなり怒ってたよ」とか聞きましたが、別になんとも思いませんでしたから、ぼくという人間の「非社会性」が知れるというものです。
* * *
さて、これで大学院に行く道は断たれましたから、就職口を考えなければなりません。
この頃ぼくは、高校時代の同級生が先輩とともに立ち上げたソフトウェアハウスでプログラマのアルバイトをしておりました。
某通信関係大手の研究所の孫受けで、マルチウィンドウ端末*1用のソフトウェア開発環境をコーディングする仕事で、ぼくはそのシステムにエディタのソースコードを埋め込むのを担当しました。
で、そのソフトウェアハウスをやっている友だちが、
「きみはうちに就職する気はないか? プログラマとしてのきみの能力はまだまだだが、十分将来性はある。今うちの会社は小さいから、きみが来てくれるかどうかは、うちにとっては大きな問題だ。
さあ、どうだ、来てくれるのか、来てはもらえないのか。
はっきり答えてもらおうじゃないか!
さあ、さあ、さあ!!」
というような文面ではありませんでしたが、かなり熱気のあるお誘いのお手紙をもらいました。
しかし、ぼくは薄情な人間で、友だちの会社に就職するつもりは全くなかったので、あっさり断りました。
どこかの会社の下請けで何かをやる、というようなタイプの仕事には興味がなかったのです。
こんな選り好みをしていたら、仕事なんてできないよなあと、今は思いますけどね。
それで結局どうしたかというと、修士の人たちの就職活動におまけでついていって、某精密機器メーカーの中央研究所の見学に行っていたぼくは、
「ぼくはそもそも会社勤めがしたいわけじゃないし、この機会を逃したら、大企業に勤める機会なんてないだろう。社会経験としてあの会社に入れてもらって、中央研究所で働かせてもらおう。まあ二年くらいが目処かな」
とまったく自己本位に勝手なことを考えました。
(会社側の立場で働いているみなさん、ごみんね、許してねっ)
世間知らずの自己中心的な人間にのみに可能な、「妄想感」溢れる考えとしかいいようがありませんが、ここでも幸いなことに、当時はバブルの全盛期で引く手あまたの時代でしたから、形式的な集団面接を一回受けるだけで、簡単に内定は出ました。
今の時代、就職を決めるのも大変で、就職してからもさらに大変なみなさんのことを考えると、全く申し訳ないようなものですが、そういう時代の、そういう人間の話ですので、どうかご寛恕いただけたらと思います。
* * *
とまあ、そんなようなことで、就職先は簡単に決まってしまいました。
とはいえ、人生そんなに甘くないのは当たり前のことで、配属先の希望には「中央研究所」と書いたものの、いつの時点で分かったのか、忘れてしまいましたが、そうは問屋が卸すはずもなく、レーザープリンタのファームウェアを開発する部署に配属されることが分かったときは、一人がっくりとうなだれたものです。
ぼくのようなただ「世間知らず」なだけの脳天気な人間の場合、一人がっかりするくらいですみましたが、今のようなご時世ですと注意が必要です。
「世の中」のことが分かっていない「生真面目」な人は、就職先を間違うと体や心を壊したり、ひどい場合には「死」に至る場合もありえますので、若い皆さんには、よくよく注意をしていただきたく思います。
というようなところで、今回の記事はおしまいとさせていただきます。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
*1:なんていっても今の人にはなんだかさっぱり分かりませんよね。
はてな村のみなさん、おはようございます。
今日も一日元気にやってまいりましょう。
さて、人気沸騰寸前、当「weblog 時代の仏教術」シリーズも、
・ブッダはどこまで悟ったか、インドでこいつも考えた - *魂の次元*
・たった一生で涅槃に到達できる!! 4つの真理と8つの方法をお教えします♬/ そして、蝶おもしろSF小説「星を継ぐもの」のご紹介 - *魂の次元*
に続き、本日で三回目を迎えることとなりました。
この記事では、今、世界中*1で水蒸気爆発的にメガワット*2級のブームとなっている
サーチ・インサイド・ユアセルフ *3
の源流であるマインドフルネスの、さらに大もとである
ヴィパッサナー瞑想
をブログ運営に応用し、「苦」もなく百万読者を獲得する方法を、期間限定*4にて特別に、この記事をご覧になっている「あなただけ」*5にお教えします。
このブッダ直伝の瞑想法を利用すれば、いとも簡単に「百万読者」を獲得することができるのです。
さあ、みなさん、心の準備はいいですか。
最後まで読んで納得いかなくてもお代は返金できませんよ。だってお代はいただいてませんもんねぇ。
それでは、さっそく本題に入りましょう。
* * *
「苦」もなく「百万読者」を獲得するのに必要なもの、それは、
深呼吸
だけなんです。
これは、お釈迦さんがそう言ったってわけじゃなくて、ぼくが勝手にアレンジしたものなんですけどね。
今、あなたの中には、「疑い」の心が浮かんでいるはずです。
隠さないでいいんですよ。
「深呼吸」だけで、「百万読者」が獲得できるわけないじゃないか。
あなたの心に浮かんだ、その疑問が、〈H1〉タグにイタリック装飾つきで、くっきりぼくの目には見えるんです。
これもヴィパッサナー瞑想を六年間続けたおかげでしょうか。
それとも、
アメリカ国防総省内の国防高等研究計画局の、冷戦時、核攻撃にも耐えられる通信技術の研究開発に端を発する、 インターネット技術の粋であるハイパーテキスト・マークアップ・ランゲージ*6 のおかげでしょうか。
話を戻しましょう。あなたのその疑いも、確かにもっともなものと思います。
しかしです。
ここは一つ、だまされたつもりになって、まずは、
ひー、ひー、ふーーー
と深呼吸をしてください。
きちんと、やってますか?
これ、大切ですよ?
ここ飛ばしたら「百万読者」は無理ですからね?
ひー、ひー、ふーーー
ラマーズ法でどかーーん
これがあなただけに特別に授ける真言(マントラ)です。
おれのブログはこれでいいのか。
どうしてこんなに書いてるのに読者が30人しかいないのか。
せめて毎日100PVは欲しい...... 。
そんなふうに、「疑い」、「あせり」、「切ない思い」が起こったときに、この真言(マントラ)を唱えながら、深くゆっくりと、息を吸って、そして吐いて、繰り替えしてみましょう。
ひー、ひー、ふーーー ラマーズ法でどかーーん
ひー、ひー、ふーーー バズーカ砲でどかーーん
ひー、ひー、ふーーー 波動砲でどかーーん
さあ、あなたの疑いが収まってきたところで、次の説明に移りましょう。
* * *
なぜ、「深呼吸」だけで、「苦」もなく「百万読者」が獲得できるのか。
それは、「深呼吸」こそが、あなたが見失っている、この世界のリアリティを再発見するための入り口だからなのです。
ぼくが練習してるゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想ってのは、話としては、ほんとに簡単でしてね。
呼吸をよく見ること。 体に起こる感覚をよく見ること。 実際にやるのはこの2つだけなんですよ。