みなさんは、狼に育てられた少女「アマラとカマラ」の話をご存知ですか。 学校の道徳の教科書にも載っているらしいし、ちょっと興味を惹かれる話ですから、知ってる人も多いんじゃないかな。 でも、この「狼に育てられた」っていう話は、どうやらお金目当てで「でっち上げられた」話だったようなんです。 この話がどうして世間に広まったか、そして今でも実話と思っている人がなぜ多いのか、ちょっと考えてみることにします。 アマラとカマラは実在するけど、狼が育てたわけじゃないみたい 「狼に育てられた子ども」という神話は、なぜ「魅力的」なのか 信じる人がいるのはいいけど、教育で使われるのはおかしくない? アマラとカマラは実在するけど、狼が育てたわけじゃないみたい アマラとカマラは1920年にインドの西ベンガル州ミドナプルで保護された二人の少女です。 ミドナプルで妻とともに孤児院を運営するジョセフ・アムリート・ラル・シン(Joseph Amrito Lal Singh )牧師*1によって二人は保護されました。 二人は、狼の巣穴となったシロアリ塚の中から保護され、言葉は話さず、四つ足で狼のように振舞ったのだといいます。 そして、シン牧師は、この二人の「狼に育てられた少女」との、十年近くに渡る日々をつづった日記を出版します。 ・J-L-シング「野生児の記録 1 - 狼に育てられた子」 ここに書かれた内容が事実であれば、動物に育てられた「野生児」が人間の社会に戻る過程が描かれた貴重な記録ということになります。 けれども、この本の信ぴょう性は多くの学者から疑われ、スキャンダルに発展します。 日本においても、 狼は人間の子どもに授乳できない 人間の子どもは狼の群れの行動についていけない 暗闇で目が光る、犬歯が異常に発達しているなど、 生物学的にあり得ない記述が多々ある などの理由から、日記の内容を疑問視する声があります。*2 また、シン牧師の日記に「お墨付き」を与え、"Wolf-Children and Feral Man (狼に育てられた子どもと野生児)" という本をシン牧師と共著で出版したロバート・ジング教授は、シン牧師の記述をきちんと検証しなかったことから、デンバー大学の教授職を失うことになってしまいました。 *3 ジング教授が、「日記」の金銭的価値をシン牧師に強調してその共同出版を持ちかけ、孤児院のために資金が必要だったシン牧師が出版後に500ドルの印税を受け取った事実も報告されています。 *4 こうした「証拠」は他にもいろいろあるのですが、それでもこの話を実話と受け止める人は、英語圏を含め今も多いようです。 けれども素直に考えれば、シン牧師の日記はノンフィクションとは言いがたい、多分に誇張がなされた「フィクション」ということになりそうです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「狼に育てられた子ども」という神話は、なぜ「魅力的」なのか シン牧師の日記はおおむね「フィクション」であると考えられるのに、今でもそれを「実話」と考える人がたくさんいます。

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ネット民のみなさん、ナマスカル・ジー。 今日もわたくしこと那賀乃とし兵衛は、インドの西方の梵天の聖地、プシュカルという小さな街の安宿で、日がなタブレットに向かって、気の向くままに言葉をつづっております。 「悟り」というと、ずいぶん大げさな言葉になりますが、若いころから心理学やSFに興味があり、歳をくってからは宗教的な関心も出てきまして、 この世界って一体何なんだっ! と、ぼんやり想いを巡らし続けてウン十年、なんとなくその「理解」に形がついたきがするので、この記事ではそんなことについて書いてみたいと思うのです。 なお、結論としては、いつも書いていることと大して変わらず、 みんな自由に生きていい というような話になります。 てなわけで、こちらが今日の見出しです。 「しなければならない」ことなんて何もないのが「実感として」分かった この世には「絶対悪」はないという、ちょっと認めがたいかもしれない話 「悪いこと」をした自分を「責める必要」もなければ、「変えようとする」必要もない 「いやな気持ち」になるのも、ぼくたちの自由 ぼくたちは「初めから自由」なんです 「自由に生きようとするきみ」を、ぼくは応援するぜ 「しなければならない」ことなんて何もないのが「実感として」分かった もうずいぶん前から「しなければならない」ことなんてないのだと、頭では考えていました。 えっ、「しなければならない」ことだって、あるに決まってるだろうって? 多くのみなさんがそう考えるのは理解できますし、それを「変えたほうがいい」って言ってるわけでもないんです。 だって、ぼくにとっては「しなければならない」ことはないんですから、「あなたは考えを変えなければならない」なんて言う必要も当然ないんです。 ここではとりあえず、ぼくの話につき合ってほしいのですが、たとえばあなたが、 明日は会社や学校に行かなければならない としましょう。 それでぼくが言っているのは、このときあなたは「絶対に会社や学校に行かなければならない」のではなくて、「会社や学校に行かない」という選択をする自由を持っている、という話なんですね。 「そんなの当たり前だ」というかもしれませんが、 考えた上で「当たり前だ」と思うのと、 「いつも別の選択をする自由があると知っている」 のとではかなり違いがあるとは思いませんか? つまり、あなたは 「明日会社や学校に行かなくてはならない」 のではなくて、 「行かないとデメリットがあるので行くという選択をしている」 というのに、いつの間にか勘違いして、 「行かないなんてことは自分にはできない」 と思い込んでいるわけです。 それでです、ぼくはこの考えにはもう何十年慣れ親しんでいますから、話をするときには、 「しなければならない」ことはないなんて何もないんだよ としたり顔で言えるのですが、現実には 今日はこれをしなきゃ、明日はあれをしなきゃ と平気で思っているわけです。 そう思っていることに気がつけば、 「あっ、ほんとは『しなきゃいけないことなんて、ないんだよな』」 と思えるのですが、無意識的に反射的に「しなきゃ」と思ってしまうことは、どうしてもやめられないまま生きてきたんですね。 それが、最近少し変わってきました。 というのは、「しなきゃ」と思うことで、自分で選んでしてることなのに、いやいややってる気持ちにどうしてもなるわけなんですけども、今では「あれをしなきゃ」っていうのが浮かんだ途端に、「あっ、また思ってる」って素早く気がつけるようになりました。 そうすると、「あれをしなきゃ」と思ったときに、 自分はそれをすることを自分で選んでいるんだ と思えますから、「いやな気持ち」になることが、ほとんどなくなったんです。 それが、 「しなければならない」ことなんて何もないのが「実感として」分かった ということの意味なんです。 この世には「絶対悪」はないという、ちょっと認めがたいかもしれない話 さて、この世界を理解するためにどうしても避けては通れないのが、 この世にはなぜ「悪」があるのか という問題です。 ところが、この問題は本当は単純な話で、 実は「悪いこと」なんて、この世には何もない というのが答えなのです。 これまた、「そんなアホな」、「ばかも休み休み言ってくれ」と思われることでしょう。 このことは、ほとんどの人が分かってくれないでしょうから、 このおっさん、ヘンなこと言ってるな くらいに受け止めてもらえばいいのですが、とにかく説明しておくと、 「悪い」とか「いい」とかいう判断は、社会的な必要から人間が勝手に区別しているだけのもので、 自然界には「いい」も「悪い」もないし、 人間界の「いい・悪い」も、「時代・場所・文化」によって変わってくる相対的なものにすぎない、 ということです。 ここで勘違いしないでほしいのは、これは 「善悪など考えずになんでもやればいい」ということとは違う ということです。

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みなさんは巨大ロボットものって好きですか? 古くは「鉄人28号」から「マジンガーZ」をへて、「ガンダム」、「エヴァンゲリオン」と、巨大ロボット物のアニメも進化を続けてきました。 さて、今日も例によっての相乗り記事で、わっとさんのこちら ・巨大ロボットを操縦する方法あれこれまたは主人公に感情移入させる方法について - しいたげられたしいたけ が、いろいろとタメになり、刺激をいただいたので、さらっと書いてみようと思います。 見出しはこちらです。 〈ネタばれ注意〉巨大ロボットアニメの元祖はフランス産ですと!? 鉄人は二本のレバーで操縦できるのか エヴァンゲリオン、心のメタファーとしてロボット操縦 〈ネタばれ注意〉巨大ロボットアニメの元祖はフランス産ですと!? わっとさんの記事にはいくつものおもしろい話があるのですが、ぼくが一番驚いたのは、巨大ロボットアニメの元祖がフランス産のシリアスな作品だったことです。 その作品については、「やぶにらみの暴君」というタイトルだけは知っていましたが、1952年公開のこの作品が、アンデルセン原作のファンタジックな物語なのに、操縦者が搭乗するタイプのロボットを、世界で初めて扱ったものだったとは、まったく意外なことでした。 というのはこの作品は、スタジオジブリの宮崎駿氏や高畑勲氏などに影響を与えたことで知られ、「ルパン三世 カリオストロの城」には宮崎氏本人も認めるオマージュ的表現が散りばめられているものだからです。 だって、「やぶにらみの暴君」なんていかにも「文学っぽい」タイトルだし、「カリオストロの城」から巨大ロボットものは、ちょっと想像できないじゃないですか。 (もちろん、宮崎氏には「ナウシカ」の巨神兵があり、それがのちの「エヴァンゲリオン」とつながってくることにもなるわけですが) 「やぶにらみの暴君」の原作となったアンデルセンのお話はこちらで読めます。 ・ひつじ飼いの娘と煙突そうじ人|たくのブログ ただし、この場合、「原作」というよりは「原案」というほうが正しいようで、「やぶにらみの暴君」の監督ポール・グリモーさんは、次のように言っています。 元の物語から残っているのは、羊飼い娘と煙突掃除人の登場人物だけと言ってもよいですね。 1980年、監督ポール・グリモーが語る「王と鳥」 - 映画『王と鳥』公式サイト ちなみに現在では、このアニメを見ることはできないようです。 というのは、「やぶにらみの暴君」という作品は、共同制作者の意向により、資金回収をはかるために公開された作品で、監督には不本意なものだったんです。 そこで監督のグリモーさんは、 作品の権利とネガを買い戻し、製作資金を10年がかりで集め、『やぶにらみの暴君』を『王と鳥』として改作することにした 王と鳥 - Wikipedia というわけなんです。 制作スタッフも声優も変わり、音楽も別のものが加えられてまったく別の作品といってもいい形に仕上がった新作は、「王と鳥」のタイトルで1980年に公開され、フランス国内での評判もよく、興行的にも成功を収めます。 そうした経緯から改作前の「やぶにらみの暴君」は監督の意向によってお蔵入りしてしまい、現在は見ることができないのです。 そのストーリーはというと、 砂漠の真ん中に聳え立つ孤城に、ひとりの王が住んでいた。その名も、国王シャルル5+3+8=16世。わがままで疑心暗鬼の王は、手元のスイッチ一つで、気に障る臣下を次々に「処分」していった。 望みさえすれば、なにものでも手に入れることが出来るはずの王シャルルは、ひとりの美しい羊飼い娘に片思いをしている。 城の最上階に隠された秘密の部屋の壁に掛かった一枚の絵の中にその娘はいて、隣合わせた額縁の中の煙突掃除屋の少年と深く愛し合っていた。 嫉妬に狂う王を後に、ふたりは絵の中から抜け出し、一羽のふしぎな鳥の助けを借りて城からの脱出を試みる。 王と鳥 - Wikipedia とのことで、この一羽の鳥が主人公の役割を果たし、鳥と王との対決が物語の主軸をなすのです。 そして最後はロボットが暴れて、城や街が破壊されちゃうんだそうで、どんな描き方がされているのか興味津々です。 改作前のものも、新作も、機会があってたらぜひ見てみたい、実に面白そうな作品だと思います。 ・ポール・グリモー「王と鳥・ディレクターズカット DVD」 鉄人は二本のレバーで操縦できるのか さて、日本における巨大ロボットの元祖といえば、横山光輝氏の「鉄人28号」です。 この作品の特徴は「巨大ロボットをリモコンで操縦する」というところにあります。 wikipedia によると、 鉄人は小型の操縦器( リモコン )によって操縦される。ある程度の命令の範囲内での独立稼働が可能な自律思考回路も備えてはいるが、格闘戦や災害救助活動時等の精密で多様な判断が必要な場面では目視操縦が基本である。 鉄人28号 (架空のロボット) - Wikipedia とのことなので、敵はリモコンを奪おうとしたり、リモコンを操縦する金田正太郎くんを狙ったりすることで「攻撃」をしかけてくることで、スリリングなストーリーが展開するというわけです。 さて、この「鉄人28号」が1980年にリメークされたとき、視聴者の間から、 「正太郎くんが、リモコンの二本のレバーを操作するだけで、鉄人にあんなに複雑ことをさせられるのはおかしいじゃないか」 という声が上がりました。 一見もっともにも思えるこの意見、みなさんはどう考えますか。 この疑問に対して、 「あの二本のレバーは、『がんばれ鉄人』と『負けるな鉄人』の二つのメッセージを送っているだけなのだ」 という「お笑い」の答えがあって*1、これはおもしろいと腹を抱えて笑ったものですが、よくよく考えるとこれって、必ずしも「お笑い」ではないんですよね。 ネット上でこの問題を書いている人も、いっぱいいるんじゃないかと思いますが、たとえばこちらのページ。 ・◇鉄人28号のリモコン;自律性と制御: 万象酔歩

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全国推定 8,000 万人の三日坊主のみなさん、朗報です。 根気がなくても、習慣づけができなくても、この方法を使えば、あなたの人生、大成功になること請け合いです。 それは、あなたの持っている「分散力を発揮すること」です。 集中力がなくて困っているあなた、そんなことで困る必要はもうありません。 集中力がないということは、裏返して言えば、 素晴らしい分散力を持っている ことに他なりません。 この記事では、あなたの持つ「分散力」という素晴らしい力を使ってネット上でお小遣い稼ぎをする方法を書きますが、 勉強や仕事の効率を上げたり、 人間関係を円満にしたり、果ては、 分散力によって集中力をつける ことまで、なんにでも応用できますので、ぜひ試してみてくださいね。 それではこの記事のお題目です。 分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ ぼくのネット上でのお小遣い稼ぎ 今のところグーグル・アドセンスが一番有望 アマゾン・アソシエイトについて noteってなんなの? 儲かるの?? ※8,000文字以上の長文ですので、おひまなときにどうぞ。 分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? (お断り: 化学用語のロンドン分散力とはなんの関係もない造語ですのでご了解ください) 分散力とは、文字通り集中力とは反対の、意識を分散させる力です。 意識を分散させる力? そんなものが、なんの役に立つのでしょうか?? 人間、何かをやるときには、集中が必要です。 集中してやるべきときに、意識が分散してしまっては、気が散ってやることもやれなくなってしまいます。 これはまずい。 でも、本当にそうでしょうか? 「やらなければならない」仕事や勉強でも、ある程度の時間続けたら、集中力が切れるのは、むしろ当然です。 その状態で無理に続けても、作業の効率は下がってしまうでしょう。 このときこそが「分散力」の出番です。 集中力が途切れ、気が散り始めるということは、あなたの中で分散力が動き出したことを意味します。 無理に続けることはやめて、一旦別のことをしてみましょう。 ただし、フェースブックを見るとか、ゲームをするとか、ついつい時間を浪費してしまうようなことは、ぐっと我慢をします。 その代わりに、机の片付けをするとか、洗濯物を洗濯機に放り込むとか、普段つい後回しになってしまうけれども、やっておいたほうがいいことをします。 (頭を使わずに、体を動かす単純作業のほうがベターです) そして、それが一段落したら、またもとの作業にとりかかるのです。 一時間仕事をしたら10分の休憩を、というようなやり方もありますが、集中力が切れたら分散力を発揮して、ほかの作業をする、こうすれば休み時間中に別の仕事ができるのですから、こちらのほうが、全体としての効率が上がることは明らかでしょう。 ☆目次 分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ ぼくのネット上でのお小遣い稼ぎ 今のところグーグル・アドセンスが一番有望 アマゾン・アソシエイトについて noteってなんなの? 儲かるの?? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ 上に書いた例は、作業効率を上げる方法として、どこかで見かけたことがあるかもしれません。 けれども、分散力の使い方はそれだけではありません。 たとえばあなたが、IT のスキルを身につけたいとします。 学校に行って習うにしろ、自分で独学するにしろ、とにかく時間をかけて練習と実践を繰り返すことが必要です。 なにしろ、一つのことをきちんと身につけるのは、並大抵のことではありません。 それに、学校に行ってひと通りは覚えても、使わなかったらすぐに知識は錆びついてしまいます。 せっかく専門の学校に行ったのに、その知識を役立てることができず、別の分野の仕事をしている人も多いことでしょう。 けれども、こうしたことも別に問題でもなんでもないのです。 ひとつのことが続けられない、というのは、まったく普通のことだからです。 ぼくは大学でコンピュータのソフトについて学び、大手企業に技術職として就職しましたが、二年弱で退職し、その後は技術職にはついていません。 今は趣味のレベルでネットを使い、それにまつわるプログラミングを時々する程度ですので、専門職として仕事をするような知識はありませんが、大学で学んだことは十分に役に立っているという実感があります。 学んだことをそのまま放り出さず、時折それに関連する情報をネット上で更新したことがものを言っていると思います。 つまり、何かのことを継続的に学んで、それを仕事としてもずっとやっていく、というようなことは、「集中型」の人にとっては当たり前のことなのですが、そうではない多くの「分散型」の人の場合、決して当たり前ではないのです。

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みなさま、今日もネット上であれこれと、検索をなさったり、交流をなさったり、お元気でお過ごしのことと思います。 今日の元気のもとは、みなさま一人ひとり、いろいろ違うこととは思いますが、今日まで生きてこられたからには、みなさん、いろーんなスキルを身につけてきたことかと存じます。 「読み書きソロバン」はちょっと言葉が古いですが、日本語だけでなく、英語もやらなきゃとか、コンピュータのプログラミングくらいやってみたいとか、 いろいろなスキルが要求されちゃう ようなグローバルな時代にわたしたちは生きているわけです。 そこで今日は、スキルを身につけるためのスキルである、メタスキルのうちでも、こいつは最強とぼくが思っている 「習慣を変えること」の習慣化 について書こうと思います。 (なお、この記事ではスキルという言葉を使いますが、「やせたい」とか、「タバコをやめたい」とか、「習慣を変える」ことならなんにでも、この技は使えます) それからついでに、ブログ関係の技術的な話題で、pico cms というシステムについての簡単な紹介もしちゃいます。 新しいスキルを身につけるためには、どうしたらいいのか あなたの人格の99%(当社測定値)は、「習慣」でできているにすぎない 習慣は変えられるということを、身を持って知るためには? とりあえず左手で箸を持ってみる pico cms というphpベースのフラットなシステムをxrea で動かしてみた アップロードするだけで動くはずなのに動かない! phpのバージョンを7.0から5.3に下げたら動きました、まる 新しいスキルを身につけるためには、どうしたらいいのか あなたが何か新しいことを始めようとしているとしましょう。 たとえば、英語がもう少し喋れるようになりたいとします。 すると、英語を勉強し、練習する必要があるわけですが、どんなふうにしたら、効率よく英語を喋れるようになるのでしょうか? ここでは具体的な方法は書きませんが、とにかく自分にあった方法を探すことが大切です。 多くの人にとって有効な方法が、あなたにも有効とは限らないからです。 そして、まずは「この方法でいこう」と決めた上で、 十分な時間その方法で練習をする 必要があります。 この「十分な時間、何かをする」というのが、新しいスキルを身につけるためには「不可欠」であると同時に、一番むずかしい「関門」ということになるでしょう。 あなたの人格の99%(当社測定値)は、「習慣」でできているにすぎない あなたは自分のことをどんな人間だと思ってますか? 飽きっぽい? それとも我慢強い? 柔軟性がある? それとも一つのやり方にこだわる? どんなふうに思っていても、それを否定的にとらえる必要はありません。 そして、今あなたが「自分はこうだ」と思っていても、 それは変えられるんだ と知ることが、新しいスキルを効率よく身につけるための第一歩です。 あなたの人格というものは、もちろん、生まれたときから決まっている部分もあるのですが、 99%(といっても言い過ぎでないくらい) ほとんどの部分が「変えられる」もの なんです。 というのも、あなたの人格のほとんどは、あなたがこの世に生まれ落ちた瞬間から、周りの人のあり方を真似ることによって、あなたが身につけてきた「習慣」にすぎないからです。 「でも、待ってよ、ぼくは人見知りで、初めての人とぱっぱと話すなんで絶対できないよ」と、例えばあなたは言うかもしれません。 確かに「いきなり変えろ」と言われても、それはできない相談でしょう。 でも、順を追って、少しずつできることを増やしていけば、あら不思議、 いつの間にか、初めてあったどんな人とでも、自信を持って、しっかり話せます、 という人間に、あなたが変身することも、決して夢ではないのです。 習慣は変えられるということを、身を持って知るためには? と、上のような話を読んでいると、「まあ、そうかもしれないな」と思うかもしれませんが、実際には習慣を変えるということは、そう簡単なことではありません。 「三日坊主」という言葉がありますが、やろうと決めたことを、三日もしないうちに忘れてしまうことは、多くの人が経験するところでしょう。 逆に「石の上のも三年」というように、一つのことを三年も続ければ、かなりのスキルを身につけることができます。 そこで、今まで「三日坊主」で終わってしまっていたあなたが、習慣を変え、新しいスキルを身につけるためには、「三年もあれば、なんでも変えられる」ということを 身を持って体験する ことが、まず重要になるのです。 とりあえず左手で箸を持ってみる 「習慣を変える」ためには、簡単なことから始めるのが一番です。 あなたが右利きだったら、箸を左手で持ってみましょう(左利きの人は右と左を入れ替えて考えてください)。 箸を左手で持つのが初めてだったら、右手のように器用には動かせません。 左手で全部ごはんを食べるのは大変でしょうから、最初の一口を左手を使って食べるだけで、あとは右手に持ち替えてかまいません(余裕のある人は、全部左手だけで食べてみるのもいいでしょう)。 はじめのうちは、うっかり右手に箸を持って食べ始めてしまうかもしれません。 それはそれで別にかまわないので、気がついたときに左手に持ち替えて、とにかく一口食べてください。 周りの人が何を言っても、気にする必要はありません。 「頭の体操」だ、とでも説明すればいいでしょう。 そうして、いつでも普通に左手に箸を持ってごはんを食べ始めることができるようになったら、このミッションは終了です。 そのまま続けてもいいし、もうやめてもいいし、好きなようにしてください。

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はてな村のみなさん、こにゃにゃちわ。 以前、有料サービスはてなブログProに申し込んで、独自ドメインの設定をした話を書きました。 ・[解決ズバット]サーチコンソールのアドレスの変更、やっとできた三日目の正直 - *魂の次元* その記事で、グーグルのサーチ・コンソールのアドレス変更方法について書いたことがきっかけで、「救世主」認定していただくことができましたので、今日はその承認欲求の喜びを報告させていただきます。 承認欲求が大充足、ブログに記事を書けばあなたも「救世主」になれます!? ついでに承認欲求とマズローの欲求段階説 承認欲求が大充足、ブログに記事を書けばあなたも「救世主」になれます!? みなさんは、どんな理由でブログをやってますか? 「書くのが好きだから」とか、「人とのやり取りが楽しいから」とか、「お小遣いを稼ぎたいから」とか、いろいろあるとは思いますが、自分の書いた記事が人の役に立ったり、人からほめられたりしたら、すごく嬉しくなって、 ブログやってて、よかったーー って思いますよね。 ぼくは、住所不定無職で、インド方面を放浪中、ゆえに始終金欠気味なんですが、しばらく前に、清水の舞台から飛び降りるつもりで、はてなブログPro を二年コースを14,400円で申し込んだんです。 ドメインは、以前取得してあまり使っていなかったものを流用して、独自ドメインの設定もしました。 で、グーグルの検索アクセス解析サービス・サーチコンソールも使っていたので、これのアドレス変更をすることになるのですが、いやー、こいつには苦しめられました。 もともとの「はてなドメインのアドレス」と、新しい「独自ドメインのアドレス」の両方が自分のものであることを「確認」しなければならないんですが、他の人がネットに書いてある方法だと、これがどうにもうまくいかなかったんですよね。 あれこれ試して、苦労して、やっとできたのが、「ドメイン名プロバイダ」を使った方法です。 あなたがこの問題で困ってたら、ぜひこちらの記事を見てください。 手順はやや面倒ですが、きっと解決するはずです♬ ・[解決ズバット]サーチコンソールのアドレスの変更、やっとできた三日目の正直 - *魂の次元* 本筋からやや話がそれてますが、とにかくそういうわけで、自分の困った経験を、ネット上で共有していたところ、きまぐれねずみさんの次の記事で言及していただくことになりました。 ・サーチコンソールのアドレス変更できない場合は別の方法を試そう - きまぐれねずみのきまぐれ帖 そこで現れた救世主様がこちらのサイト。 本当にお世話になりました。ありがとうございます!!神です(ノД`)・゜・。 とまで、書いていただき、 ブログやっててよかったー、 おれが今まで生きてきたのは、この記事を書いて、この瞬間を味わうためだったんだーーっ(←蝶おおげさ) というような、とってもとっても大変とっても暖かい気持ちが胸中に拡がり、いつもは満たされない承認欲求がばんばん充足される素晴らしい経験となりました。 はてなブログの場合、星やブックマークがいっぱいついたりするのも、もちろん嬉しいのですが、少数の人でも、こうやって本当に役に立つことができると、これはまた格別なものです。 いやー、ブログってほんとうに素晴らしいものですね。 (水野晴郎風でお願いします) ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ついでに承認欲求とマズローの欲求段階説 ところで、ネット上でのやりとりなどをいろいろ見ていますと、「承認欲求」という言葉を見かけることがあります。 この言葉の原点はアメリカの心理学者アブラハム・マズローの欲求段階説というものなんですね。 マズローは人間の心理的成長というものを、五段階に分けて考えました。 生理的欲求 - 食事、睡眠など一番基本的な欲求 安全の欲求 - 経済的なものや、健康など、安心して生きるための欲求 社会的欲求 - 愛情や所属など、人間関係に関する欲求 承認(尊重)の欲求 - 他者や集団からの評価を求める欲求 自己実現の欲求 - 自分の持つ能力や可能性を発揮して生きる欲求 この四番目の「承認欲求」というのが、ネット上ではよく使われるようになったわけです。 ちなみに、もともとの英語は esteem という言葉なので、評価や尊重の意味になります。 で、マズローは他人からの評価よりも、自己尊重を重視しているので、「承認」という言葉は、ちょっと違う気もするんですが、まあ、ネット上で使われる「承認欲求」という言葉は、マズローの欲求段階説とは「もはや別物」と考えたほうがいいのかもしれませんね。 子どもの「ほめて、ほめて」とか「かまって、かまって」というようなものが「承認欲求」の一番単純なものなわけですが、「ネット上に言葉を放つ」という行為が、この「承認欲求」にもとづいて行なわれることがよくあり、場合によってはそれが、「うるさい」ことになったりしますので、その結果あれこれ取り沙汰されることになり、そんな文脈でこの言葉が人の評価を下げるために使われることも、ままある、とまあ、そんな次第です。 (あいつは「かまってちゃん」だからなー、みたいな言い方とほとんど一緒ですね) マズローはこの欲求段階説だけでなく、至高(絶頂)体験 (peak experience)という概念を提唱したことでも有名です。 これは、ごく普通の人々にときおり訪れる「神秘的」な体験のことなのですが、 世界がいつもとは違った輝きを放っているのを感じたり、 不思議な幸福感に包まれて、自分にはなんでもできるという気持ちになったり、 といった経験をしたことのある人が、案外多くいる、みたいな話なんですね。

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wattoさんの記事、 ・[自炊の余禄]創作を推進する最重要エネルギーの一つはパクリじゃないかということ(その1) - しいたげられたしいたけ と、そこについたブックマークコメントがなかなか面白かったので相乗りさせていただきます。 題して「創作における模倣問題」。 見出しはこんな感じです。 創作に模倣はつきものだよね 模倣とパクリの違いはどこに? 模倣に寛容なのはアジア的文化? オマージュは模倣ではないし、ましてパクリではない インスパイアされるということ おまけ、「創作ができる人」と「できない人」の違い [追記]デレク・ハートフィールドのモデルはロバート・E・ハワードだったのか 創作に模倣はつきものだよね すべての作品が模倣とまでは言えませんが、オリジナルでユニークなストーリーや形式がそうそう生み出されるわけもないのですから、たいていの作品はどこかしら他の作品を思わせたりするものです。 意図的に模倣するか、無意識的な模倣なのかはともかく、歴史的に培われた人間の発想自体の「型」ということまで考えれば、「模倣かもしれない類似」をいちいちパクリという言葉で指摘して、その作品の価値を貶めようとしても、あんまり意味はないですよね。 ちなみに、wattoさんの記事は、「パクリ」という言葉を否定的に使っているわけではなくて、「創作を推進するエネルギー」ととらえているわけですから、ブックマークコメントに散見される「パクリ≒否定」という解釈は、wattoさんの意図に対しては誤読ということになるかと思います。 まあ、「パクリという否定的ニュアンスのある言葉をわざわざ使わなくてもいいのに」という意見は、ごもっともでありますが。 模倣とパクリの違いはどこに? というわけで、模倣自体はなんら否定するべきものではないはずなのですが、世の中には「パクリ」としかいいようのない、つい何かを言いたくなるような作品が存在するのも事実です。 たとえば、これはタイトルのパクリになりますが、片山恭一氏の「世界の中心で、愛をさけぶ」。 これの原典は、SFファンにはおなじみのハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」ですが、実際には「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」からの孫引きの可能性もあるようです。 (参照: 世界の中心で、愛をさけぶ - Wikipedia) ここで、「エヴァ」における「模倣」は「オマージュ」として理解されますが、片山氏の小説は言い逃れのしようのない「パクリ」ですよね。 というのは、「エヴァ」は、最終話にそのタイトルをつけたから売れたわけではありませんが、片山氏の作品は、「人から借りてきたタイトルで売れた」と言っても言い過ぎではないと思われるからです。 ただし、片山氏の名誉のために付け加えておけば、氏がもともと用意したタイトルは「恋するソクラテス」というもので、編集者の助言によって「世界の中心で愛を叫ぶ」になったとのこと。 そして、その結果、村上春樹氏の「ノルウェイの森・上巻」を上回る、日本の小説における最大のベストセラーになったというのですから、「パクリ商法・大成功」の稀有な例とも言えるでしょう。 模倣に寛容なのはアジア的文化? 欧米においてこうした「明らか」なパクリが許されるかというと、たぶん許されない気がするのですが、残念ながらそれをきちんと資料で裏打ちするほどの知識はありません。 ですので、この項は単なる個人的印象に過ぎませんが、どうも日本に限らず、アジア各国は模倣に寛容なような気がします。 ブランド品の模倣や音楽CDの海賊版なども含めれば、模倣ビジネスは切りがないですよね。 ぼくの印象に残っているのは、タイの超有名ロックバンド・カラバオのケースなのですが、あからさまにボブ・マーリーのコピー的ライブビデオを出しているんですよね。 もちろん、全部タイ語で歌っている、カラバオのオリジナル曲ですから、ボブ・マーリーに対するオマージュだと言えば、確かにそうも言えるのですが、コーラスの入れ方から何から、ふだんのカラバオのスタイルではなくて、ボブ・マーリーのパクリとしかいいようがないレゲエの演奏になってるんですから、さてこれはどういうもんだろう、みたいな感じで。 聴いていて十分楽しめますから、タイの人はこれでOKなんだなと納得するだけですし、確かに作品として成立しているので、文句をいう筋合いもないのですが、ここまであっけらかんとパクってもいいのかと、なんとなく不思議な感覚を覚えたという話でした。 オマージュは模倣ではないし、ましてパクリではない というわけで、カラバオの場合もボブ・マーリーに対するオマージュと考えればまったく問題ないわけですが、模倣やパクリとは異なるオマージュというのは、どういうものなのでしょうか? オマージュにおいては、題材を拝借する作品・作家に対する敬意があるということが、まずはポイントでしょう。 また、オマージュを表現する作家と読者の間に、それがオマージュであるという共通理解が生まれうるだけの何ものかが、そこに表現されていることも重要です。 作家の側はオマージュとして書いているつもりなのに、読者からするとただのパクリ、ということは実際ありがちな話ではないでしょうか。 また、日本の文学には「本歌取り」という形がありますが、これもオマージュの一種と考えることができると思います。この場合は教養としてすでにみんなが知っている過去の作品に題を取るわけですもんね。 ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 インスパイアされるということ さて、wattoさんの元記事は「創作の原動力としての模倣」に言及していたわけですが、ここでちょっとだけ、村上春樹氏の最初期の二冊「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」について考えてみましょう。 村上春樹氏が、どういう動機で小説を書くことになったのかは知りませんので、ここに書くことも個人的な印象にもとづくものにすぎませんが、氏がアメリカ文学を好んで読んでおり、翻訳も手がけていることはよく知られるところです。 そのとき、村上氏は「アメリカ文学にインスパイアされて小説を書くことになったのではないか」という仮説は容易に立てることができます。 であるからといって、村上氏の小説は「アメリカ文学の亜流」にすぎないのかといえば、その小説の翻訳が世界中で受け入れられいることを考えれば、それ以上のものであることは、多くの人の認めるところでしょう。 というわけで、「創作の原動力としての模倣」ということは、村上氏の場合にもあてはまるのではないかと、思うわけです。 そして、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」なのですが、この二つの作品は、それ以降の氏の長編作品とは異なる形式上の特徴を持っています。 それは、細切れの文章をつなぎ合わせる形で、全体が構成されている点です。 この手法は、村上氏のオリジナルというわけではなく、アメリカの作家カート・ヴォネガットが得意とするものであり、これはパクリと言われても仕方がない種類の模倣に入ると言えましょう。 また、「風の歌を聴け」にはデレク・ハートフィールドという架空の作家が登場しますが、これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトという架空のSF作家を登場させていることを連想させます。 村上氏はオマージュのつもりでこういう表現方法を取ったのかもしれませんが、この辺りのことを勘案すると、 アジア的模倣文化が村上文学を生んだ といってもよいかもしれない、と思ってしまうのでした。 なお、ぼくは「風の歌を聴け」も「1973年のピンボール」も、ヴォネガットを知った上で読んで、日本にもおもしろい作家が出てきたもんだな、と思った口ですので、カラバオがボブ・マーリーを真似てもOKなように、村上氏のヴォネガットの真似もOKな部類だと思っています。 けれども、氏自身は必ずしもそう考えていなかったようで、「村上自身が初期の長編2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価していたため」この二作品の英訳は講談社英語文庫から英訳が出版されていたにも関わらず、長らく海外では出版されていなかったというんですから、おもしろい話ですよね。「日本人的な謙虚さ」とでもいうべきでしょうか。 (参照 1973年のピンボール - Wikipedia) おまけ、「創作ができる人」と「できない人」の違い wattoさんが記事の冒頭で、 「創作ができる人」と「できない人」の違いについて、それは「才能のある人」と「ない人」の違いである、 という意味のことを書いています。 ご本人が「それを言っちゃあおしめえよ」と注意書きをしてますけれど、まあ、同義反復というやつですね。 それに対して、

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前の記事 ・文化の盗用問題と経済的支配構造、あるいは、中心と周辺、そしてランクという概念について - *魂の次元* において、「おかしな日本語」を使ったことについて、マミーさん(id:mamichansan)から次のようなご指摘をいただきました。 なぜ関西弁に廓言葉が含まれているのか…そういうのが大阪人としてはちょっと傷つく。 http://b.hatena.ne.jp/entry/347374030/comment/mamichansan ぼくの書いたケーハクな文章によって、不愉快な気持ちにさせてしまったこと、誠に申し訳ありません。 と同時に、日本文化音痴のぼくがよく調べもせずに書いた表現に、東の「廓言葉」が含まれていることをご指摘いただいたことは、大変ありがたく思っております。 「大阪と東京」という地域文化の間の「優位性=ランク」の問題だけでなく、「女と男」という性別の違いの「ランク」についても無自覚なまま、いい加減な言葉使いをすることで、二重の意味で「文化の盗用」と「ランクの乱用」という間違いをしでかしたことは、まったく面目ない話です。 まー、ぼくという人間は、そんなようなアホウなやからにすぎませんので、頭で理解したつもりになっていただけだった「文化の盗用」や「ランクの乱用」という問題を、こういう場を通して勉強させていただいており、今後は多少ともまともな文章を書いていけるように努力いたしますので、今回の不始末につきましては、ご寛恕いただければ幸いです。 ちなみに、id:tztさんからは、 文化なんて盗み盗まれ豊かになってくもんだろう。文化の盗用おおいに結構。みんな積極的に盗用してこうな。 http://b.hatena.ne.jp/entry/347374030/comment/tzt というコメントをいただいており、ぼくの中のケーハクな部分は、大いに納得してしまったりもするのですが、現実に「盗用」が人を傷つけることを考えれば、よくよく考えた上での「盗用」であっても、問題が生じうることを理解してからでなければ、「盗用」のおすすめはできないなと、改めて考える次第です。 てなわけで、みなさん、ナマステジーっ。

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アメリカのファッションモデル、カーリー・クロスさんが日本の「芸者風」の衣装で撮った写真がファッション誌「ヴォーグ」に掲載されたことについて、これが「文化の盗用」として批判され、カーリーさんはTwitter上で謝罪したことが報道されています。 ・カーリー・クロスが炎上謝罪 日本文化を盗用と指摘、米VOGUE誌で「芸者スタイル」披露 アメリカの人たちが気にしている「文化の盗用」って何なんでしょうか? そして、どうして、白人女性モデルが「芸者風」の格好をするのが問題になるのでしょうか? 「人種差別と経済的支配」という視点を通して、日本においてこの問題がどんな意味を持つのか、少し考えてみることにしましょう。 「文化の盗用」は、文化的多数派が少数派の文化的スタイルを不用意に用いることから生じる アメリカにおける人種差別との関連 日本においての先住民族問題との関連 中心と周辺という視点 ランクと経済的支配構造の問題 「文化の盗用」は、文化的多数派が少数派の文化的スタイルを不用意に用いることから生じる カーリーさんの「文化の盗用」事件は、ファッション誌における「日本文化の盗用」として批判を招くことになりました。 日本とは縁もゆかりもない白人女性であるカーリーさんが、表面的に「日本文化」を真似たことが、少数者の文化を勝手に商業利用することにあたり、日本の文化を侮辱するものだ、というのです。 神社に立ったカーリーさんが、得体のしれない「和服もどき」を着ている写真や、相撲取りのような人と並んで黒と赤のドレスを着ている写真は、ステロタイプな「日本表現」であり、「ばかばかしく」は感じますが、これを見て「日本文化を侮辱している」と思う日本の人は、たぶんあまりいないのではないでしょうか。 とはいえ、日系のアメリカ人がどう考えるかは、また別の話ですし、アメリカにおいてはこの「文化の盗用」問題は、常識の範疇としてきちんと考えて然るべき、「差別」につながる問題なのです。 アメリカにおける人種差別との関連 アメリカ合州国の歴史は、先住民族であるアメリカン・インディアンの虐殺の歴史であると同時に、労働力としてアフリカから連れてきた黒人奴隷に対する差別の歴史でもあります。 そして、たとえば白人の*1ジャズの歴史は、見方によっては「黒人文化の盗用」そのものとも言えますし、アメリカン・インディアンの物語を白人が描いて著作とするときにも、そこには文化的多数派の人間が「少数者の文化を登用して商業利用する」という構図が当てはまるわけです。 こうした状況の中、少数者自身が「文化を盗用するな」という主張をするのも当たり前ですし、多数派の中でも良識的な人たちは、「文化の盗用」を快く思わないということになるわけです。 東雲さんが、こちらの記事 ・文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所 で述べているように、カーリーさんの問題だけを見ると、「行き過ぎたポリティカルコレクトネス」という捉え方ももできなくはないのですが、「豪右翼政党の党首の議場でのブルカ着用によるイスラム文化への侮辱」(http://www.asahi.com/articles/ASK8K4RC5K8KUHBI016.html) といった極端な例を持ち出さなくても、アメリカの言論の状況から言えば、「文化の盗用」は大きな問題になりうるわけです。 日本においての先住民族問題との関連 日本では、アメリカのような問題は起こらないのかというと、そうではありません。 大きな問題にこそなっていませんが、先住民族であるアイヌ民族の人たちの中には、「文化の盗用」に類する問題を指摘する声があります。 明治以降、アイヌ名やアイヌ語を禁止し、文化的抹殺政策を取ってきた「日本人」が、そうした「迫害の歴史」を十分反省することもない状況の中で、「先住民族の知恵に学ぶ」といった内容の本が出版されることに対する違和感の声です。 この辺りの話は国際先住民年であった1993年頃にいくつかの記事があるはずなのですが、残念ながら手元に資料がなく、ネット上でも該当するものが見当たりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただきたく思います。 また、国連の委員会は沖縄の人々を先住民族として認めるよう勧告を繰り返しており、今後は日本でも「文化の盗用」が大きな問題となってくる可能性もありえます。*2 ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 中心と周辺という視点 さて、東雲さんの記事 ・文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所 では、「文化の盗用」という問題を、「悪意のあるなし」という観点と、「パブリックとプライベート」という軸で、考えていらっしゃいます。 「政党の党首がブブカというイスラム教の格好をする」のは、悪意があるので問題である、 モデルのカーリーさんの場合、アメリカン・インディアンの格好をしたときのほうが、和服を着たときよりも問題になったのは、日本の文化のほうがパブリックで、アメリカン・インディアンの文化のほうが、プライベートなものだったから、 というわけです。 それに対して、wattoさんは、 ・「文化の盗用」を論じる補助線としての「中心(的)文化」と「周辺(的)文化」 - しいたげられたしいたけ という記事で、「パブリックとプライベート」ではなく、「中心と周辺」という見立てをしています。 東雲さんがおっしゃっていることも、ほぼ同じことだと思うのですが、「中心と周辺」という切り分け方のほうが、問題がはっきり浮かび上がるように思います。 ある地域において、優勢ないしスタンダードである中心的文化は、当たり前に周りの文化から模倣の対象となるが、中心的文化の側がそれ以外の周辺文化を真似る場合、文化の盗用の問題が生じる という説明です。 ちなみにwattoさんは「中心文化と周辺文化」という概念は、すでに存在するものだろうか、それとも新しい考え方だろうか、と問うてらっしゃいます。 ぼくが思い当たるものとしては、 柳田國男の方言周圏論があります。 方言周圏論 (ほうげんしゅうけんろん)は、 方言分布の解釈の原則仮説の一つ。 方言周圏説 (ほうげんしゅうけんせつ)とも呼ばれる。 方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの。見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝播したとする。 柳田國男が自著『 蝸牛考 』(かぎゅうこう、 刀江書院 、 1930年 )において提唱し [1] 、命名した。 これは言語の伝搬とその保存や変化に関する仮説ですので、wattoさんの問題意識とは少しずれるかもしれませんが、「中心と周辺」という捉え方が有効な枠組みとなることの一つの例示としては使えるのではないでしょうか。 法華経の話題や「文化の盗用」問題などを取り上げることになるであろう、wattoさんの「中心と周辺を巡る哲学的冒険の物語」、いつか読ませていただきたいものであります。

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英語が上達できずに悩んでいる百万人のみなさんに朗報(!?)です。 イギリスとオランダの大学の研究者の共同研究によって、 「適度にアルコールを摂取すると外国語を話す能力が向上する」 という結果が得られたというのです。 「英語を上達するために、どんどんアルコールを飲もう!!」 という話ではありませんが、この研究結果からどんなことが言えるのか、ちょっと考えて見ることにしましょう。 適度のアルコールで外国語初心者の話す能力、特に発音が向上 適度な飲酒で発話能力が上がるのは当たり前? 飲酒で会話能力が向上? いいえ、リラックスによって向上するのです。 適度のアルコールで外国語初心者の話す能力、特に発音が向上 ニューズウィークの記事 ・「酒に酔うと外国語がうまくなる」:欧州の研究者らが実験で確認 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト によると、この実験は次のように行なわれたそうです。 研究チームによるテストは、ドイツ語を母国語とし、最近オランダ語の会話と読み書きを学んだマーストリヒト大の学生50人を対象に実施。被験者は、無作為抽出によりアルコール度数5%のビールかノンアルコール飲料を飲んでから、実験者とオランダ語で会話した。ビールの量は被験者の体重によって調整され、たとえば70kgの男性には460mlが提供された。 この会話は録音され、オランダ語を母国語とする2人が採点した。採点者は被験者がビールを飲んだかどうかを聞かされなかったが、ビールを飲んだ人のほうがしらふの人よりも採点が高くなる有意の傾向がみられ、特に発音が向上したという。なお、被験者にはオランダ語の能力の自己採点もしてもらったが、自己採点にアルコールの影響はみられなかった。 「アルコールは認知機能と運動機能を損なうことが知られている」ことから、飲酒によって外国語の能力が低下する場合もありえるのに、実際には発話能力が向上したことから、研究者は、 アルコール摂取量が少ないことも重要な点であり、飲み過ぎてしまうと外国語能力にプラスの効果は見込めくなりそうだ と指摘し、 外国語の会話力の向上がみられたのは、「不安を軽減するアルコールの作用が有効にはたらいた可能性がある」としている とのことです。 適度な飲酒で発話能力が上がるのは当たり前? このニューズウィークの記事についた、はてなブックマークのコメント(http://b.hatena.ne.jp/entry/www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8722.php)を見ますと、「適度な飲酒で口がなめらかになるのは、外国語に限らず、当たり前だろう」という意見が散見されます。 それはそれで、もっともな意見です。 けれども、こうした心理学的な実験では、「直感的」には明らかな話を、きちんと「実験的」に明らかにすることも重要ですし、この研究結果についていうと、「発話能力」のうちでも、 「発音能力」が向上した という点は注目に値するでしょう。 飲み過ぎれば、舌の運動能力は低下して、ロレツは回らなくなるのですから、この研究の意味するところは、 適度な飲酒によって、「外国語に特有の発音」に対する心理的違和感が低減して、「発音能力が向上した」 ということになるでしょう。 また、普段の意識では、どうしても「発音が母語に引きずられる」というふうにも言えますから、英語などの外国語の学習の際には、意識して 「大げさなくらいに真似た発音」 を心がけることも、有効だと言えるでしょう。 飲酒で会話能力が向上? いいえ、リラックスによって向上するのです。 この研究によって、 「適度のアルコールで外国語初心者の話す能力、特に発音が向上した」 という報告がされているのは、確かに事実なのですが、この研究結果をどう読み、どう利用すれば、現実の外国語能力の向上に役立てることができるでしょうか? それは、 能力を十分発揮するには、適度なリラックスが重要だ ということにつきるでしょう。 英語などの外国語をしゃべる場合、場面によっては、アルコールを利用することもできるかもしれませんが、なかなかそうはいかない場合も多いでしょう。 練習の場面では、アルコールを利用して「自分も案外英語が話せる」という自信をつけるのも、もちろん役に立ちます。 そうして自信をつけた上で、本番のときには、自分が緊張していないか確かめ、緊張をしていれば深呼吸をしてリラックスするなど、打つ手を用意しておくことが、肝心でしょう。 リラックスには、呼吸法や瞑想も役に立ちます。 ☆こちらに瞑想の記事を書いていますので、よろしければお読みください。 ・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編 - 24 時間の瞑想術 てなところで、この記事はおしまいです。 それではみなさん、ナマステジーっ!! ☆こちらでも英語の話を書いてますので、気が向いたらお読みください。 ・英語の勉強法で悩んでいるあなたへ -- 「よく聴いて、よく喋る」それが語学の王道です - *魂の次元* ・Facebookのニュース動画で英語を勉強しよう。リスニングもおしゃべりもこれでばっちり、しかも無料です。 - *魂の次元*

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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