日本大学アメリカンフットボール部でラインバッカーをつとめる選手が、関西学院大学のクォーターバックをつとめる選手に、「悪質」な反則行為によって傷害を追わせた事件が、世間を騒がせています。
傷害行為を行なってしまった日大選手は当然罪をつぐなう必要がありますが、傷害行為を示唆したと疑われるコーチや前部長、ひいては、その前部長の任命者である日大の経営陣にも重大な責任があることは明らかと言えましょう。
さらに言えば、この事件からは、日大のそのような体質を許してしまう日本社会全体の持つ非民主的な性格についても思いを巡らす必要を感じます。
そこで、女子レスリング界におけるパワハラ問題や、TOKIOメンバーによる強制わいせつなど、どこか似たようなにおいのする事件が世間を騒がせ続ける今日この頃の、日本が抱える息苦しさについて、この記事ではちょろっと書いてみることにしましょう。
日大選手によると、事件は それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば 一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 日大選手によると、事件は 傷害行為を行なってしまった日大選手によると、反則行為は元部長とコーチからの指示によって行われたということです。
記者会見の場で詳細に事情を明らかにし、十分に反省して、きちんと謝罪をした選手の姿はまったく誠実で謙虚なものであり、すがすがしさすら感じるものでした。
前部長やコーチを責めるような発言は一つもなく、ただ事実関係だけをしっかりと説明したことが、日大アメフト部の「暴力」的な負の遺産の解消につながっていけば、今回の反則行為で負傷した関学の選手や関係者の気持ちも報われるというものでしょう。
それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば さて、前部長やコーチが記者会見で、自分たちの「不法」な指示を認めることができず、監督責任以外は認めない姿勢を見せることに、多くの批判がなされています。
けれども、彼らが自分の「罪」を認められないのは、まったく当たり前のことにも思えます。
というのも、そこで非を認めて謝れるような人間ならば、最初からそんな指示を出すはずもないのですし、選手の会見を信じれば、前部長やコーチは「恐怖政治」としか言えない手法によってチームを操っていたわけで、その実行においてはいくらでも言い逃れができるように巧妙に振舞っていたことが、報道からも透けて見えてくるからです。
平気で「不法」な指示を出すような人たちが、その非を認めず、謝らないからと言って、一々腹を立てていたら、今の日本ではストレスが多くなりすぎて生きていくのも難しくなってしまうのではないか、とすら思ってしまいます。
つまり、この問題の責任の所在はどこにあるのかと考えれば、少なくとも前部長止まりではありえませんから、彼に対して怒りをぶつけても仕方がないということです。
問題は当然、日本大学の経営陣にあります。
これだけ大きく世間を騒がせているにもかかわらず、理事長や学長のコメントの一つもないという時点で、誠に残念ながら日本大学は「終わってるなー」というのが正直な感想です。
さらに言えば、そうした大学の体質という問題を十分に取り上げないメディアも、結局は同じ穴のむじな、ということなのではないでしょうか?
また、大学を管轄する文部科学省の責任も重大です。
これだけの重大事件が発生しながら、日大がお手盛りの第三者委員会で調査をすることによって事件をうやむやにしようとしているのを黙認するような無責任なことは、到底道義にかなうものとは言いがたいでしょう。
そして、そのような官僚を黙認し、その官僚に十分ものを言えない政治家を選び続けるわたしたち国民自体に最終的な責任があることも、論理的に考えれば明らかなのではないでしょうか?
なお、5月22日付のニューヨーク・タイムズの記事は、この事件について次のように書いています。
But this incident has highlighted “power hara” and the obedience to authority and unwavering loyalty to the team that are highly valued in Japan.
The Football Hit Felt All Over Japan - The New York Times 試しに訳してみれば、
「この事件によって、『パワハラ』と、日本では高く評価される『権力への服従』と『チームへの絶対的な忠誠心』の問題が注目を集めることになった」
とでもなりましょうか。
我々日本人としては、この事件を日大アメフト部の問題として考えるのではなく、日本の社会全体の問題として捉えて、大いに反省する必要を感じるものです。
無論こうした日本人の体質を一朝一夕に変えることはできません。
しかし、わたしたち一人ひとりが、こうした問題に目をつむることなく、きちんと向き合っていくことでしか、今回のような不幸な事件をなくすことはできないのではないかということを、多くの方に考えていただきたいと思うのです。
一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 今回の傷害事件が、多くの人の注目を集めることは、その事件性からして当然とは思うのですが、こうした「エンターテイメント」が世間に提供されることによって、政治を始めとするもう少し考えたほうがよい問題を考える時間が少なくなり、社会の趨勢というものが、なんだかなあなあに流されていくことについては、やはり一言言っておきたいと思います。
と、言いながら、この事件について書いてるんだから、
「お前だって同じ穴のむじなじゃないか」
国民的アイドルグループTOKIOのベーシスト山口達也氏が、酒に酔って、未成年の女性知人を自宅に呼び、無理やりキスをした事件が世間を騒がせています。
山口氏は今年46歳。「いい大人が何をやってるんだ」というのが「常識」的な反応のようです。
この記事では、この事件についてあれこれ感想を書いてみたいと思います。
第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 依存症について 山口氏には同情あるのみ 第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 今回の事件では、被害者の女性の方とは示談が成立しており、「強制わいせつ」事件として書類送検されたものの不起訴処分が決まっています。
ですから法律の枠組みとしては、すでに決着がついているわけです。
しかしながら、社会的には「はい、一件落着!」と言えるような状況には到底ないわけで、テレビやネットでは大騒ぎをしている人たちが目立つ状況です。
この事件は「強制わいせつ」ということで、未成年の女性が被害者となっていますが、この女性を特定しようという悪質な行動もネット上では取り沙汰されており、事件だけでも十分に心に大きな傷を追ったであろう被害者に、二次被害が出ることのないよう、心から祈るものです。
また、事件を起こしてしまった山口氏については、飲酒が原因で体調を崩してひと月入院していたにも関わらず、退院した当日に泥酔してこのような事件を引き起こしたことを考えれば、彼が「依存症」であることは明らかでしょう。
「依存症」は生まれと育ち、そして大人になってからの環境が複合して原因となるものであり、しかもそうした原因が「本人の弱さ」という見かけを通して「病気」として現れるものですから、そのとき「お前は弱いからダメなんだ」というような厳しい言葉を投げることは、回復につながりません。
「依存症」は、人間関係をうまく築くことができず、絶えず「孤独」を感じることから起こる病気です。ですから、この「孤独感」を乗り越え、周りとの信頼関係を育てていくことによってこそ、この「病気」は克服されえます。
山口氏は、今回の事件をいいきっかけとして、きちんと自分の「病状」と向き合い、回復を目指して十分な取り組みをしていただきたいところです。
また、周りの方々には、彼の「休養」を暖かく見守ってあげてほしいですし、もしも彼に復帰を急ぐ気持ちがあっても、周りはむしろそれを抑えることで、彼が十分「回復」できる環境を整えてあげてほしいものです。
山口氏は、大きなお金が動くビジネスに関わるスターとして、いろいろと取り沙汰されることを逃れられませんが、周りの雑音に心を惑わされてあせることなく、ゆっくり休養されたらいいなと思うのです。
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芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 「パンとサーカス」という言葉があります。
古代ローマの詩人ユウェナリスが、政治に関心を失った市民は「パンとサーカス」すなわち「食べ物と見世物」を求める、と言ったのですが、21世紀の報道はすっかり娯楽化して、政治や経済といった物事の本質から目をそらすための「サーカス=見世物」になってしまっているのではないでしょうか。
事務次官がセクハラをしたとか、大臣が「キャバクラ」ヨガに公用車で通っていたとか、それぞれに報道するに値する社会的意義があるかもしれませんが、テレビのワイドショーを見ていると、そうした「意義」を超えて、いわゆる「覗き趣味」であったり、誰かを叩いて「鬱憤を晴らす」といった、娯楽の役割ばかりが強調されているようで、しかも、それがまったく当たり前のことになっていることに、ある種の違和感を感じます。
スポンサーは視聴率を取れればいいのでしょうし、政治を支えて、経済を回す企業こそがスポンサーなのですから、こうした「見世物」によって大衆が政治から関心を失うのはまさに好都合というわけでしょう。
インターネットがどれだけ普及し、いかに多様化しようとも、「マスメディア」としてのテレビの地位は揺るぎないものと思われ、TOKIOのような国民的アイドルグループは、ニッポンの集合的意識を操作するためにまったく便利な道具になっているようです。
依存症について 山口氏の事件の報道を見ていて、一番感情を動かされたのは、「依存症に対する世間一般の理解のなさ」によるものでした。
ぼく自身がアルコール依存でクリニックにかかり、断酒薬を処方してもらった経験があるためもありますが、この問題について「だらしがない」とか「意志が弱い」とか、はたまた「酒が悪いのではなく、本人の意志の問題だ」というような言葉を聞いていると、どうしても怒りの感情が湧いてきてしまうのです。
ぼくはヴィパッサナー瞑想に出会うことによって、アルコールに振り回されることはなくなりましたが、「依存症」というものは、本人が「今度こそやめるぞ」と思ったからといってやめられるようなものではありません。
もちろん、本人に「やめよう」という気持ちがあることこそ出発点になるのですが、それを支える環境がない限りアルコールをやめることはできないのです。
(一部の例外はあると思いますが、それは本当に稀なケースに限るでしょう)
「酒を飲まずにはいられない」という、その「底なしの孤独」を知らない人が、
「自分はこうやって普通に酒と付き合えるんだから、お前だってできるはずだ、できないお前はダメ人間だ」 と烙印を押しても、問題は悪化するだけです。
「酒癖が悪い」ことは確かに問題でしょうが、「酒癖が悪い」ことを責め立てても、その問題の解決には役に立たないのです。
残念ながら、多くの「普通の方々」は、「底なしの孤独」なんてものは知りたくもないようですから、そういう方が何を言おうと、それはただ聞き流すしか仕方のないことです。
けれども、もしもあなたに、「依存症」を抱える方の友だちとして、その問題を解きほぐしていく手助けをしたいという気持ちがあるのでしたら、その「依存症」の方が、どんなに「ダメ」な人間だったとしても、許してやってほしいと思うのです。
ここで「許す」というのは、「酒に逃げるのを許す」ということではありません。
「酒に逃げてしまった弱いその人を許す」ということです。
そしてそれは、「前は酒に逃げざるを得なかったけれども、もう酒に頼らなくても大丈夫なその人を信じる」ということでもあります。
あなたは「ミステリ」って一体どういう小説のことをいうと思いますか?
のっけから唐突な質問で恐縮です。
鯨統一郎の連作短編小説集「邪馬台国はどこですか?」に狂言回し役として登場する気鋭の歴史学者・早乙女静香なら、
「それに答えるには上下二巻の本を書く必要があるわ」
という答えが返ってくるところでしょうが、ここではクールで常識を超えた主人公・宮田六郎を真似て言うことにして、
「ミステリとは謎解き小説のことさ」
とでもしておきましょう。
なぜそんな話をしているのかというと、「邪馬台国はどこですか?」というとぼけたタイトルを持つこの短篇小説集は、創元推理文庫から出版されているにも関わらず、常識的には到底ミステリとも推理小説とも呼びようのない奇妙奇天烈な作品だからです。
この作品の舞台は「スリーバレー」という名の小さなバー。そこで在野の歴史学者・宮田六郎が、常識に挑戦する突拍子もない奇説を展開して、ほかの三人の登場人物を煙に巻く、というのが全編を通して共通する単純明快なパターンの短篇集なのです。
日本古代史が専門の大学教授・三谷敦彦は落ち着いた聞き手役、お人好しでちょっとおとぼけのバーテン松永は、宮田の奇説に納得する役回り、そして気鋭の若き歴史学者・早乙女静香の毒舌全開の突っ込みが話を盛り上げます。
というわけで、この「人も死ななければ、事件も起きない」不思議なミステリについて、これから「できる限りネタバレ無し」で紹介してみたいと思います。
(内容について触れるだけで、一種のネタバレになりますので、各短編タイトルから分かる以上のことは、極力触れないようにしております)
収録短編を一挙紹介! 小説としての面白さと限界について一言。特に女性の読者の方への注意点 「悟りを開いたのはいつですか?」については、こちらの記事もどうぞ 収録短編を一挙紹介! さて、この「歴史謎解きトンデモ短編集」に収められた作品のタイトルを、まずは眺めてみることにしましょう。
「悟りを開いたのはいつですか?」 「どんな人物が、どんなふうに、いつ」悟りを開いたのか、まず読む前に想像をたくましくしてお楽しみください。
邪馬台国はどこですか? 表題作であり、文献を丹念に読み解き続けるだけで、「あっ」という結末を導き出す「ケッ作」です。
聖徳太子はだれですか? 最近では「聖徳太子はいなかった」という説も唱えられていますが、果たして聖徳太子は「だれ」だったのでしょう?
謀叛の動機はなんですか? 日本人なら誰でも知ってるあの「謀反」は、なぜ起こったのか。
歴史「探偵」宮田六郎が、心理学を駆使した華麗な謎解きで、あなたを唸らせます。
維新が起きたのはなぜですか? 維新が起きた理由を説明するには、もちろん「上下二巻の本を書く」必要がありますが、日本の近代史のターニングポイントであるあの「革命」が、ある一人の人物の「奇術」によってなされていたとしたら...... びっくり仰天しちゃいますよね。
奇蹟はどのようになされたのですか? 世に奇跡の種は尽きませんが、世界的にも有名なあの「奇跡」をなんとも合理的に「説明」してしまう、宮田六郎の華麗な文献読み解き術をお楽しみあれ!
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小説としての面白さと限界について一言。特に女性の読者の方への注意点 この短編集の第一の魅力は、なんといっても
常識をちゃぶ台返しにする、奇想天外でトンデモな「真説」を、 詳細な文献の読み込みと、アクロバティックな議論によって「もっともらしく」説明するところにある といって間違いないでしょう。
そのとき、大変残念なことなのですが、登場人物の設定と、その間での言葉のやりとりに関しては、「十分にうまくいっている」とまでは言えません。
もちろん「トンデモな謎解き」だけで、完全に楽しく読めますので、謎解きが好きで、歴史にも興味のあるあなたには、蝶おすすめ作品です。
ただし、一つだけ注意点があります。
というのは、狂言回しの役を果たす「早乙女静香」氏の設定が、かなりアナクロ感漂う、過度にヒステリックな「綺麗なだけで実力の伴わない若手女性学者」となっていることです。
男のぼくでも、このヒステリックな感じは「うるさいな」と思うくらいなので、あなたが「男女の不平等に敏感」な女性の場合には、これはちょっと読んでられないなー、くらいに思われるかもしれません。
みなさん、ホメオパシーという代替医療のことはご存知でしょうか。
現代医療の抱えるさまざまな問題に疑問を感じる人たちの間で、人気が高まっている代替医療と呼ばれるものの一つです。
実は、このホメオパシー、ネット上の科学重視派の人たちからは毛嫌いされるんですが、一体どんな内容のものなのか、さっそく見てみましょう。
GIGAZINE で紹介されたホメオパシー ホメオパシーって、なんか問題なの? GIGAZNE の記事についたコメントについて GIGAZINE で紹介されたホメオパシー 情報サイトGIGAZINEに、2018年2月23日付で次のような記事が掲載されました。
・現代医学に懐疑的な人々に人気の治療法「ホメオパシー」とはどのようなシステムなのか? - GIGAZINE
こちらでは、youtube に投稿されたビデオをもとに
ホメオパシーの「原理」 現代の科学では、ホメオパシーに科学的根拠はないと考えられていること けれどもプラシーボ効果によってホメオパシーには「実際の効果」があること が分かりやすく説明されています。
ホメオパシーは同種療法とも呼ばれ、「症状の原因となる物質を極限にまで希釈して使うことで症状を治療することができる」という「仮説」にもとづいています。
この考えにもとづいて、「毒」を希釈して作った砂糖コーティングの丸薬をホメオパシーではレメディと呼びます。
ところが、通常使われるレメディは、科学的に考えると原因物質が1分子も入っていないまでに薄められてしまっています。
もとの物質が入っていないのですから、普通に考えればこれは「砂糖玉」でしかありません。
けれどもおもしろいことに、この「砂糖玉」によって、実際に病気の症状は改善するのです。
これは医学的によく知られた事実で、「プラシーボ(偽薬)効果」と呼ばれます。
プラシーボ効果とは、「効果のない物質でも、効果があると思って飲めば、実際に効果があらわれる」という現象で、暗示の作用によって人間の自然治癒力を引き出すものです。
以上で、ホメオパシーには「科学的根拠はない」にも関わらず、「確実に効果」があることがお分かりいただけたでしょうか?
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ホメオパシーって、なんか問題なの? GIGAZINE の記事では、
ホメオパシー医療に対しては、「本当に現代医学の力を借りるべき時に、頼ることを躊躇させる」などの批判があります。
とさらりと触れているだけなのですが、日本の場合、大手の新聞も「医療忌避」につながるとしてホメオパシーに否定的な報道をしています。*1
これは日本におけるホメオパシーの普及に助産師の方々が関わっており、一部の助産師の間では、行き過ぎとも考えられる「現代医療否定」の傾向があることと関係があります。
ホメオパシーの原理自体は、決して現代医療を否定するものではありません。
現代医療を否定するかどうかは、最終的にはホメオパシー利用者の判断の問題です。
助産師さんたちの活動は、過度に医療化・男性化された現代の「お産」の形を、女性に取り戻すものであり、それには大きな意味がありますが、活動が先鋭化して「現代医療の否定」にまでつながれば、これは「カルト的」と言わざるをえません。
ホメオパシーを「カルト化」させないためにも、ホメオパシーを推奨する助産師のみなさんには、行き過ぎた「医療否定」に落ち入らないよう、十分注意していただきたいと思います。
GIGAZNE の記事についたコメントについて ・はてなブックマーク - 現代医学に懐疑的な人々に人気の治療法「ホメオパシー」とはどのようなシステムなのか? - GIGAZINE
学問としての哲学は、いろいろと込み入っていて、気軽には近づきがたい雰囲気があります。
でも、人生哲学みたいな使い方をするように、英語の philosophy は、人それぞれの「人生における考え方、生きる指針」くらいの意味だったりするんですよね。
てなところから、この記事では、giveus さんから話題をいただいて、気ままに哲学談義をしてみます。
哲学の現実の問題に対する応用と「変化する哲学」 「変化しない哲学」は古臭い哲学なのか? 「変化しない哲学」としての初期仏教 「無常の哲学」で軽々と世界観を切り替えるのもよし 哲学の現実の問題に対する応用と「変化する哲学」 giveus さんは、
・哲学ってなん?(この記事は哲学よくわかんないに始まり、よくわかんないに終わります。) - いのちばっかりさ
という記事で、自分にとっての哲学をこんな風に語ります。
哲学って原則というか、昔に誰かが考えたことや、今の人が考えて居ることをわかりつつ、でもそれを今言ってなんになるのか、何にもならんじゃん、残酷じゃん、という場面について自分なりに考えたり突っ込んだりすることなのかなって自然に思って居る
つまり、これまでに考えられてきた原則的な考え方が、直面する現実に対して、
どのような意味を持ちうるのか、あるいは 意味を持ちえないとすれば、どう考えたらよいのか といった態度が、現代における哲学的な態度である、ということになりましょう。
応用的な場面において、あるいは、メディアで「哲学」が取り上げられ、「哲学は古臭い学問ではなく、現代に生きている学問なのだ」といったニュアンスで語られる哲学は、確かにそのようなものだと思います。
こうした場面場面で、考え、答えを探っていくような現代的な哲学のあり方を、ここでは「変化する哲学」と呼ぶことにしましょう。
「変化しない哲学」は古臭い哲学なのか? 「変化する哲学」に馴染んでいた giveus さんは、
「マルクス・アウレーニウスはストア哲学を知ると生涯その思想を守り、変えなかった」
というような記述を目にしたとき、よく意味が分からなかったそうです。
アウレーニウスは基本的な原則としてストア派の考えを採用しただけなのに、「生涯その思想で」というような言葉で表される、宗教などのような
「かっちり」存在するものとして哲学はありえるか と思ったのだと。
(以上、言葉は giveus さんのものではなく、ぼくの勝手な解釈が入り込んだ記述です)
哲学というものが、新しい現実を前に、時々刻々と変化していくものだとすれば、確かに「生涯ストア哲学」というような書き方はちょっとおかしなことになります。
けれども、もともとの「哲学」というものは、徐々に発展し形を変えていくとは言え、ある時点では世界観として確立したものであり、しかもそれは倫理的な側面も含むものなのですから、アウレーニウスがそうした「確立した哲学」としてストア派の考えを採用し、それに基づいて生涯を生きたというのは、こちらの見方からすれば、どこにもおかしなことはありません。
ある人が環境保護の考えを知り、生涯を環境保護主義の考えで生きたとしましょう。その人は、あるときは、地球温暖化を防ぐために原発を推進すべきと考え、のちに放射能汚染の問題から、再生可能エネルギーを推進すべきと考えるようになるかもしれません。
けれどもこの人が、環境保護主義者として一生を生きたことに違いはありません。
アウレニーウスがストア派の考え方を生涯通したというのも、同じようなこととして考えられます。
まして、アウレニーウスの時代には、ストア派の思想は完成されたものとして存在したのですから、世界観、倫理観をそのもとで過ごしたということは、giveus さんが奇しくもおっしゃる通り
「宗教」と同様に「かっちり」したものだった ということになります。
さてここで、ぼくが問題提起したいのは、ストア派のような「かっちりした哲学」、「変化しない哲学」は古臭いものであって、もはや意味をなさないものなのか、という話です。
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この記事のひと言まとめ: ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。
この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。
* * *
みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。
今日は、wattoさんの
・漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ
という少し前の記事の中の、
我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか
という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。
「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。
漱石、三島、筒井 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術 漱石、三島、筒井 wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。
「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。
今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。
厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。
wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。
私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。
↓ ↑
私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。
定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。
この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、
二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。
ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。
親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。 掃除をしないと、なぐられる。 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。 子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。
多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。
親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。
*1
こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。
なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。
そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。
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厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。
(厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....)
「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、
個を超越して、集合意識に達すること であると言ってかまわないでしょう。
この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。
(「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども)
ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。
みなさん、こんにちわ。
今日は、カメキチさんのこちらの記事、
・2017.12.13 業 - kame710のブログ
を読んで、「業」というものについて考えたことを書きます。
重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カルマを落とす人生哲学としての仏教 話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カメキチさんは、こう書いてらっしゃいます。
「残酷」としか思えぬ事件の詳細を知ると、そう思ってはいけないと心で打ち消そうとしても、ごくごく…一部ではあっても「業」にとりつかれたような生き方をする人間が確かに存在する、と認めざるをえなくなる(どなたか、それはまちがっていると言ってください!)。
重い「業」にとり憑かれた人は、確かにいると思います。
でも、重さは違っても、みんなそれぞれに「業」を背負ってるんじゃないですかね。
「過去生のカルマ」というものがあるかどうかはともかくとして、生まれや育ちの中で、いろいろな影響を受けて、今のぼくたちの人生があるとき、その過去の影響が「業」というものではないでしょうか。
で、「業」という言葉は、「だから仕方のないもの」、みたいな「あきらめ」をともなって語られることが多い気がしますが、そこはちょっと違うんじゃないかと思うんですよね。
カルマを落とす人生哲学としての仏教 ぼくはここ数年、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をやっているもので、仏教の世界観、人生観というものをぼちぼち勉強しているのですが、「業=カルマ」に当たるものとして、「サンカーラ≒反応」という言葉が使われます。
日々の暮らしの中で、いいことや悪いことが起きたとき、それに喜んだり、悲しんだりという「反応」をすることが、心の中に「サンカーラ」を溜め込み、それが人の心をもつれさせていく、といった考え方です。
「業」というものは、結局、今までの人生の中で無意識的に作り上げてしまった「反応の集積物」でしかないので、瞑想をすることによって、日々の暮らしの中で生じる一つひとつの「反応」が、やってきては、やがて消えていくのを、観察してやることによって、「サンカーラ」のもつれを心の中に溜め込むという悪いくせをなくしてやれば、いずれすべての「反応の集積物」である「業」というものも、きれいに洗い流すことができる、というのが、仏教的な悟りへと至る道のあらましなんですね。
話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 ぼくたちはつい、人の悪いところを見て、「あの政治家が悪いから」とか「どの政治家もろくでもない」とか、批判することで満足してしまうようなところがあります。
けれども、人のことを言うより前に、自分の行ないを直したほうがいいよ、というのが仏教的な人生観です。
そして、自分の心が落ち着いたものになれば、周りの人にもよい影響を与えられるって話なんです。
まあ、そうはいっても、長い人生の中で背負ってしまった「業」を、はい今日でみんな放り出しちゃいましょう、というわけにもいきませんので、ぼちぼち自分のあり方を見つめなおしていく以外に方法はありません。
まずはゆっくり深呼吸をして、体に入ってる余計な力を抜いてみるところから。
いつの間にか背負ってしまった重たい荷物を、日々少しずつ下ろしていくことができれば、ふと気がついたときには、身も心も軽々となって、毎日を気持よく暮らしている自分に気づくことになるかもしれませんよ。
こちらに瞑想についての記事も書いてますので、気が向いたらご覧ください。
・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title]
てなことでみなさん、ナマステジーっ♬
meduium.com で知り合った「鰯」さんのこの記事、
・明治150年? – 岩下 啓亮 – Medium
ちょっと興味深く思ったので、今回はその話。
ニッポンの総天然色全体主義について書こうと思ったのですが、まとまってません(笑)。
鰯さんの記事によると、内閣官房「明治150年」関連施策推進室からの貼付依頼で、「明治150年」のポスターがやってきて、何枚貼ったか実績を報告するように、と通達文書に記してあるんだそうで。
鰯さんは、
単純に戦前回帰とは言いたくありませんが、なんとも強圧的な周知徹底ぶりではありませんか。
と書くのですが、これって多分町内会とかのレベルで「貼りなさい」そして「どれだけ貼ったか報告しなさい」って話ですよね。
鰯さんは東京ぐらしの経験がある人だから、「これって変じゃない?」って思うわけだけど、地方の「因習的日本」しか知らない人だったら、たぶん、何も考えずに貼りだしちゃうんでしょうかね。
安倍総理に代表される今のニッポンが、明治以来の近代化を誇りたがる気持ちは、まあ、分かるのですが、それってちょっと間違えれば、
「戦前のニッポンは正しくて、戦後の民主主義は間違ってた」
みたいな話に簡単に捻じ曲げられちゃうとことだと思います。
「戦後の民主主義」に行き過ぎや間違いは、確かにあったでしょう。
でも、それと、
「戦後の民主主義は全部間違い、戦前に回帰するのが最高」
というのは、また別の話で。
今の日本の政治状況って、ものすごい「右旋回」をしているのに、多数派の人は、そういうことに無頓着なところで、なんだか分からないままに、「まー、そんなもんかなー」と日本的に流してる気がするんですよね。
でも、そういう状況に、「なんかちょっとおかしくない?」と思っている方々も、少数かもしれないけれど、若老女男問わずいらっしゃるはずで、まーぼくとしては、そういうみなさまに対して、
「それ、合ってます。今の状況はかなりおかしいです」
と、主観にもとづいて伝えるだけのことなんです。
「今の状況がほんとにおかしいかどうか」ってことは、
これは、後世の人が判断するしかないことですからね。
とまあ、そんな話で、いまいちまとまりがつきませんけれど、今の「この日本の状況」に何か感じてらっしゃるみなさんにつきましては、「うーーーむ」という「気」だけでもかまいませんので、気持ちをおさえずに周りにちゃんと発してもらって、この時代の大きな流れを、ちっとでも変える方向で、「行動」していただけたらなぁー、みたいに思うわけなのでした。
てなことで、この記事はおしまいです。
ではまた、ナマステジーっ♬
しばらく前の medium.com にこういう記事が載っていました。
・The Myth of Independent Thought – The Polymath Project – Medium
直訳すると「独立思考の神話」というような意味ですが、「他の人に一切頼らないで考えることはできないよね」みたいな話です。
学校教育では、なんでもかんでも「自分で考えなさい」みたいに押しつけられますので、
うまく考えられない人は、自分がだめな人間になったような気がしますし、 上手に考えられる人は、自分ができる人間になったような勘違いをしたりする わけですが、ほんとにそんなふうに考えてて大丈夫なのかな? というおもしろい視点を提供してくれる話だと思うので、その内容を紹介するとともに、ぼくたちがどんなふうにすれば「集合知」を使いこなすことができるかを少し考えてみましょう。
地球は丸いってほんとに知ってますか? 自分だけで考えられる人なんて、どこにもいません あなたにとって「真実」って何? 自分の道を歩いてますか? 地球は丸いってほんとに知ってますか? ぼくたちは学校で教わったり、テレビやネットで見聞きしたり、たくさんのことを知っているわけですが、「知っている」という言葉は、実際のところどんなことを意味してると思いますか?
そんなことを突然聞かれても答えに詰まるかもしれませんね。
そこで質問です。
あなたは、地球は丸いってほんとうに知ってますか?
頭のいいあなたは、いろいろな状況証拠をあげて、だから「地球は丸いはずだ」ということができるかもしれません。
でも、だからって「地球は丸い」と知ってると言えますかね。
「確かに丸い」っていう実感はありますか?
サッカーのボールだったら、「丸い」のを知ってますよね。
それと同じ意味で「地球は丸い」っていう実感がありますかね?
千人に一人か、一万人に一人かは、「地球は丸い」って実感を持っている人もいるかもしれないとは思うのですけど、普通の人は、「地球は丸い」はずだって思ってるだけで、「知っている」はずのことでも、実際には「信じている」にすぎなかったりするわけです。
頭のいい科学者の人や、自分が信頼できる多くの人が「地球は丸い」と言っているから、あなたは自分も「地球は丸い」と信じることにしたのです。
自分は知らないのに、人を信じて知っていることにする。
これが「集合知」の一つの働きです。
そんなふうにしてあなたは、さまざまな「集合知」に頼って生きているわけで、それは人間が言葉を使う社会的な生き物である以上、当たり前のことなんですね。
というわけで、集合知を使いこなすための一つ目のポイントは、
あなたはすでに「集合知」を使いこなしている、 「集合知」なんて特別なものじゃない、 ということなのでした。
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みなさん、こんにちわー。
ほとんどペーパー日本語教師のとし兵衛です。
今回は、しんさんのこちらの記事
・日本語の助詞「は」と「が」の違いは小学生でも理解できるシンプルな一文で違いを説明できる。日本語教師を長年悩ませてきた問題に終止符を打つ。 - SINLOG
が、おもしろかったので、この話題に相乗りさせてもらいます。
日本人なら何気なく使っている「は」と「が」ですが...... 「が」は前が焦点、「は」は後ろが焦点 どこまで説明できるか考えてみよう その他の問題 「質問がありません」否定形の場合 対比の「は」 新しい対象と既知の対象、"a" と "the" 国文法、三上文法、日本語教授法についてちらりと 日本人なら何気なく使っている「は」と「が」ですが...... みなさんは、学校でならった国語の文法なんて憶えてますかね?
「は」は係助詞で、「が」は格助詞とかいうんですが、そんなこと憶えてなくても日本語くらい普通に使えますから、どうでもいい話ですね、はっきりいって。
外国の方が日本語を勉強する場合は、ぼくたちが学校で習う「国文法」とは違う「日本語文法」を使うので、係助詞とか格助詞とかいう言葉は出てこないんですが、たとえば、どうしてもひっかかるところといえば、
「は」と「が」の使い分け です。
マーク・ピーターセン氏の「続・日本人の英語」(1990 岩波新書)*1に、氏が日本語を勉強しているとき、先生が「は」と「が」の使い分けに厳しく、「雨は降る」と書くと「雨が降る」だと正してくる、というエピソードがあります。
ピーターセンさんは、「どうして『は』はだめで『が』なのか?」と聞くのですが、先生は「だめなものは、だめだ」と怒るだけ。
あるときピーターセンさんはアダモの「雪は降る」を聞いて、次の授業で先生をやっつけます。
「雪は降る。あなたは来ない」って歌ってるじゃないかって。
というわけで、一筋縄では説明ができない「は」と「が」の使い分けなのですが、しんさんの記事にあった説明がなかなかのすぐれものでしたので、まずはそれをご紹介しましょう。
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「が」は前が焦点、「は」は後ろが焦点 先に上げた記事で、しんさんがシンガポールの優秀な日本語学習者に教わったという「は」と「が」の使い分けの説明は、
「は」は「は」の直後が主題で「が」は「が」の直前が主題である。
というものです。
「主題」という言葉は日本語の文法においては、助詞「は」の機能を表すのに使われますから、この記事では「焦点」という言葉を使うことにして、
「が」は前が焦点、「は」は後ろが焦点 ということにしましょう。
すると、
雪が降る は、「が」の前の、今眼の前で「何」が降っているのかというところに話題の焦点が当たっていますから、「が」でいいことになりますし、
雪は降る、あなたは来ない の場合は、雪は「降って、私のところに来る」のに、あなたは「来ない」という意味で、「は」の後ろの「降る」に焦点が当たっていると説明できるわけです。