山田ノジル@スピリチュアル百鬼夜行さんのツイートが ・「子宮はお宮、膣は参道、だから女性のカラダはパワースポット」 2018年夏の子宮系ニセ医学トンデモ怪談 - Togetter としてまとめられ、345件のブックマークがつき、あきれるやら、あざわらうやら、様々なコメントのオンパレードとなっています。 「スピリチュアル≒詐欺商法」と考える「はてな系純朴科学オタク」の皆さまとしては当然の反応だなと了解するのですが、「子宮系ニセ医学」とでも呼びたくなるような「オカルト」な言説にも、幾ばくかの存在意義があると考える者といたしましては、科学的リテラシー豊かなみなさまに 「オカルト的」言説の有用性 についてもう少しご理解いただけたらなー、と考えて、余計なお世話の解説を試みる次第です。 「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 科学と非科学を分けるという極めて難しい問題 助産師さんたちのホメオパシー信仰も含め、お産を女性が取り戻すことの意義について少し 「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 ブックマーク・コメントで、id:kasekiiさんが、 冗談じゃなく女性誌ってほんとこの手の女性の体や医療に関する嘘情報が蔓延している。生理痛や片頭痛など女性特有の悩みに絡めて根拠ゼロの嘘がずらずら並べられた雑誌をローティーンのころから読まされる。有害 と完結に「嘘情報」の有害性についてまとめてくださっています。 「ニセ医学」とか「ニセ科学」とかがもっともらしく「嘘情報」を書き立てて、人の不安を煽ったり、不安につけ込んだりして高額商品を売りつけたりすることは、倫理的にグレーな領域に入るものであり、そうした「被害」を防ぐための啓蒙活動が大切だいうことについては、ぼくも異論はありません。 こうした問題は「女性」に限ったことではありませんが、「女性特有」の問題もあることから、そうした点に配慮することも大切でしょう。 しかしながら、こうした一見「嘘情報」と思えるものも、「100%嘘」と言い切ることはできないことには注意が必要です。 科学的には「眉唾もの」の説明であり、医学的には「無効能」であったとしても、プラシーボという暗示の効果を利用した「科学的にも説明が可能な効能」によって実際に「症状」が改善する人がいる以上、「その効能」を説く人や、それを素朴に信じる人に対して、 あざ笑ったり、バカにしたり、感情的に非難しても、大して有効ではない、 だろうなー、と思うわけです。 どうして「非科学的な言説」を信じる人がたくさんいるのか、どうしたらその状況を変えられるのか、そして、それはそもそも悪いことなのか、いろいろな問いかけが必要なように思われます。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 山田ノジルさんの 【第14話】子宮系女子をはじめとする一部スピ界隈による主張→「子宮はお宮を表している!」「膣は参道」だから「女性のカラダはパワスポ」。本職(神職)曰く「神社の全体構造は女性器を模したものだなんて教義、聞いたこともなければその根拠もわからない」。 というような書きっぷりを見れば、おもしろおかしく人の言説を取り上げて、娯楽を提供する以上の意図はないのでしょうから、それについては別に言うこともありません。 「子宮をお宮に見立てるなんてバカバカしいことだ」 と思うみなさまは、仲間同士で「そうだ、そうだ」と盛り上がっていればいいというだけのことです。 けれどもたとえば、長野の善光寺などでは「戒壇巡り」というお参りがあり、別名を「胎内巡り」ともいうことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。 母体を豊穣の象徴と考えたり、世界の力の根源として男根を信仰したりすることは、世界中で普通に見られる、人間にとってごく自然な世界観です。 太古の昔より、様々な疫病などで苦しんできた人々が、こうした宗教的な世界観や儀式などを使って暗示による自然治癒の効果を活性化し、生活に役立ててきたことは、「非科学的」でもなんでもなく、人間の歴史が生み出した生活の知恵であるのは明らかなことです。 もちろんそうした「信仰による治療」が、鎮痛解熱剤や抗生物質などに象徴される、劇的な効果を持つ近代的な薬物や治療法には遠く及ばない面も多いことは言うまでもありません。 けれども、現在の行き過ぎた近代医療による多大な「副作用」を考えれば、「スピリチュアル」な方法論は、決して嘲笑っていればいいような性質のものではなく、むしろその中の「有効な部分」を今後どのように近代医療に取り入れていくかが問われる時代になっているものと思われます。 その片鱗は、仏教的な瞑想の手法を取り入れた精神療法であるマインドフル・ベースド・認知行動療法 Mindfulness-based Cognitive Therapy (MBCT) の普及で注目された「瞑想の科学とその意義」が、精神療法にとどまらず、精神的な健康法や創造的な能力の育成法として、ひろくビジネス界に広っているアメリカ社会などのあり方を一瞥すれば、分かっていただけるのではないかと思います。

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仲俣暁生さんというフリー編集者の方が、 ・出版業界は沈みゆく泥舟なのか « マガジン航[kɔː] という刺激的なタイトルで、日本における出版の現状について記事を書いています。 こちらの記事の内容を紹介するとともに、そこについたブックマーク・コメントも眺めながら、出版社と書籍の未来について考えてみることにしましょう。 インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 書籍に未来はあるのか、あるいは、書籍なんて必要ないのか インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 ネットをよく使い、アマゾンで本を買うのは当たり前、電子書籍もそれなりに購入する、というみなさんからすれば、 インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度で、 「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度、 というのは、 「えーっ、たったそんだけなのーー!!」 という意外な数字かもしれません。 とはいう、書籍という商品の性質と、出版業界のあり方を考えると、この程度の数字なのは当たり前のことかもしれません。 仲俣さんは、出版業界全体が縮小傾向にある中、漫画は電子書籍化が進んでいることも踏まえ、「文字もの」についても 「完全に曲がり角に来ている出版流通自体をなんとかしなければいけない」 という意味のことを述べています。 残念ながら、仲俣さんにも妙案はないようですが、まずは ネット経由の新刊購入を伸ばすために、ネット上での書籍紹介の場が必要、 ということで、ご自分の関わっている ・Socrates(ソクラテス) – 世界を生きる知恵 というサイトを紹介しています。 こうした試みが出版の活性化にどの程度有効かは未知数ですが、ネット上に流れる書籍情報が多様化することはまったく歓迎すべきことです。 日本の出版界という「泥舟」の輝かしい未来に期待が膨らみますよね。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 ブックマーク・コメントでは id:satomi_hanten さんが、 コミックは紙と同発が増えたのに対し(遅くても1か月遅れが多い)文庫は同発はまずないし1か月遅れは早い方。※ラノベは除く 且つ、電子嫌いの大物が多く品ぞろえもコミックに比べかなり悪い。トリガーが引けてない と書いています。 また、id:PEH01404さんは、 「文字もの」電子書籍が未だに紙の4%なのは、コストパフォーマンスがわるいからだ。用紙代・印刷代・流通経費が不要なのに価格がたいして変わらない。コミックでは頻繁にあるセールも少ない。要は売る気がない。 と書いています。 id:ykhmfst2012さんは、 メジャー作家だと ハードカバー → 文庫 → 電書と来るから、電書で読めるようになるのは初出から3年後くらいでしょ。それで値段がハードカバー並とか表紙デザイン全カットとか基本的に客を舐めてる。売る気がない。

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「月商600万円のメディア運営者」であるタクスズキさんが、 ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」--これはブログも同じ。「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ という記事を書き、この記事のお知らせツイートが10,000件以上もリツイートされています。 タクさんのこの意見は「本当に正しい」と言えるのかどうか、少しばかり考えてみることにしましょう。 ちなみのこの記事の結論は、 成功者の意見だからといって、鵜呑みにしちゃダメだよ、 という平凡至極なものです。 「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね ブロガーとして成功したいあなたがまず考えるべきことは「自分なりのスタンスの確立」じゃないでしょうか 「自分なりのスタンスの確立」の実例としてオレノ・ユイゴンさんのこと 「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? 「月商600万円ブロガー」タクさんは、 「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ と軽やかに言い放つのですが、ちょっと考えれば、これってかなりの「嘘」ですよね。 「内容が薄くなる」のを気にせず、たとえば、「毎日ほかの人の興味を引くはずがない個人的な日記」を続けたところで、多少はアクセスが増えても、売上なんて「伸びる」わけないじゃないですか。 もちろんタクさんは、他の「有用で有料」な記事も書いてらっしゃっていて、どんな内容を書けばいいかのノウハウを提供してくださってるわけですから、そちらでお勉強をして「内容は薄くても需要のある」記事を毎日書き続ければ、きっとアクセスも売上も伸びるのでしょうから、「真っ赤な嘘」呼ばわりはできませんけどね。 タクさんの指導通りにできる方は、アクセスも売上も伸びること間違いなしですから、安心してタクさんを信じて、毎日「内容の薄い」記事を量産してくださったらいいと思います。 というようなわけで、 「毎日続ければいいってもんじゃないでしょ!!」 という線で、この話題をもう少し検討してみましょう。 そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね さて、タクさんの引用だと、 ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」 となってるんですが、元のインタビュー記事 (2015/05/22 付け https://toyokeizai.net/articles/-/70187) を見ると、 「毎日アップするのは時間的にきつくて内容も薄くなるから」と言ってペースを落とした人ほど見かけなくなって、無理してでも毎日続ける人の方がずっと第一線でやっています。 (強調、筆者。以下同) となっています。 これって、 「質が低くても、毎日続ける」んじゃなくて、 「がんばって質を維持して毎日続ける」 って意味ですよね。 おまけにヒカキンさんのこのインタビューは2015年のもので、今年3月の新しいインタビュー( 2018.3.20付け https://www.froggy.money/8584/) では、 ――ユーチューバーってたくさんいますが、人気が出てから長く残っていく人と、すぐ消えちゃう人の違いってなんでしょう。 残るのは、研究熱心な人ですね。いまはどういう時代で何が流行っているか、ファンが見たいのは何か。そういうことを常に研究して、視聴者のニーズと動画が、ちゃんと噛み合っている人。別に、毎日動画をアップする必要はないんです。週に1本でも、ニーズを外さずにコツコツ投稿して、うまくいっている人もいます。 といっていて、「毎日更新する必要はない」と言い切っています。 こうやってみてくると、人気ユーチューバーのヒカキンさんの言葉を「誤読」して、ツイッターで上手にアクセス数を稼ぐタクさんは、確かに「月商600万円のメディア運営」をなさってるんでしょうけれども、その内容は一体どんなものなんだろうなー、とかいう余計な疑問まで湧いてくるというものです。 いや、でも、みなさん、こんなことを書いてるからっていって、別にタクスズキさんに恨みがあるわけでもなんでもないんですよ。 タクさんは、せっかく大勢の読者を持つ人気ブロガーさんなんだから、もっと高品質の記事を書いて、ビッグになってほしいなー、と思って応援として書いてるんですから。 あっ、でもこれじゃ応援にならないのか。 だって高品質の記事をしっかり書くんじゃなくて、 低品質の記事をどんどん書けばいい ってご意見なんですもんね。 こりゃまた失礼いたしましたーーっ wW ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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先日某所にて、著作権法で保護されているデータを私的なコピーとして「限定的」に公開したところ、id:typex2さんから、「それってまずいんじゃない」という意味のコメントをいただきました。 そこで今回は著作権の問題を題材に、さまざまな法規制と賢くつき合う方法を考えてみることにします。 著作権法でも私的コピーは認められているという立場 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? 法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義 著作権法でも私的コピーは認められているという立場 著作権法を厳密に解釈すれば、確かにぼくの行なった「限定公開」は「問題」をはらんでおり、「技術的には誰もがコピーできる」場所に他人の著作物を保管することは、賢いやり方とは言えません。 typex2さんのおっしゃる通り、「公開」をとりやめにしたほうが波風立てずに「安全なセーカツ」が送れるというものです。 けれども法律というのは所詮「ニンゲンが便宜的に定めたもの」としか考えないぼくの立場からすれば、 著作権法で保護されたものであっても、私的なコピーを取ることは個人の自由として当然認められている、 と考えますから、行為の結果起こることの責任は自分がとることはこれも当たり前の前提として、「限定公開」と称してオープンな場に私的コピーを保管することくらい、 「別にいーじゃない、カラスの勝手でしょ」 と言いたくもなるところなのです。 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ typex2さんが「あなたのしていることは著作権の侵害に当たるのでやめたほうがいいですよ」と善意で言ってくださっているのは痛いほど分かるのですが、 「xxxさんの著作物を勝手に公開するのは問題だ」 というような書き方をしている点については、そのような形で著作権者の名前をオープンにすることは、 かえって著作権の侵害を助長することになる ので、 「そういうやり方は、やめといたほうがいいでしょう」 と思います。 ぼくは「限定公開」をお知らせする記事で、 不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開である ことを断っています。 そのため検索流入がおこらないように、タイトルや作家名などは明示していません。 それなのに、あー、それなのに、それなのに、typex2さんはご丁寧にも作家名を明示してくださってしまったので、これによってぼくの友だち以外の誰ともしれない人々が、大量の違法コピーをすることになって著作権者の方に多大な損害を与えた場合、保管者としてのぼくの責任はもちろん生じますが、違法コピーを助長する行為を行なったtypex2さんもその法的責任をまぬがれえないだろうことを考えると、せっかく善意からの助言をしてくださったtypex2さんには、今後はそのような「危険」な発言はなさらないように、くれぐれもご注意いただきたいと思うのです。*1 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? さて、typex2さんのような生真面目に法律を遵守され cdの一枚も違法コピーをしたことがないような方 には、ぼくのやっている「超法規的行為」の意味がまったく分からず、社会の存在基盤が揺らぐような危機感すら覚えるかもしれませんので、どうして一見「おろか」としか思えない「パブリックな場に私的コピーを保管する」ような無謀な行為をわざわざ行なっているのか、その考え方について少しばかり説明してみましょう。 著作権の保護期間が50年から70年に伸ばされることの是非が取り沙汰される昨今ですが、その延長を否定する論の根拠として、多くの著作者の出版物について、そもそも死後に発行されること自体が少ないことを調査したデータがあります。*2 であるにもかかわらず、保護期間を50年から70年に延長することは、ごく少数の力のある著作権者の権利ばかりを保護して、人類の共有財産である多様な著作物へ多数の者が自由にアクセスする権利を侵害ずるのは、「よろしくない」法律であると言いうるわけです。 同じことが現行の著作物の保護に関しても言えるはずだ、というのがぼくの個人的な見解です。 たとえ有名な作家であっても、うん十年前のもはやほとんど「売れない」作品というものはあるわけです。 とは言え、そうした作品も著作物として権利が保護されますから、これを勝手にコピーして販売するとなれば、それはもちろん取り締まりの対象となるでしょう。 けれどもそうした「古い作品」を、私的コピーの範囲で少数の「友だち」の便宜を図るために、パブリックではあるが目立たない場所に保管する程度のことは、わざわざ法律で取り締まる必要があるほどの大きな権利侵害には当たらず、多くの「善良な市民」が行なったことがあるはずの「cdを友だちにコピーしてあげる」ことと同じくらいの 軽微な法律違反にすぎない、 と考えるわけです。 図書館で本を借りて読むにしろ、古本屋で本を買って読むにしろ、「著作権者にお金が入らない」という意味では、「ネット上でデータを『借りて』読む」場合となんら変わりはありません。 「多数派の規範の押しつけ」が強くなっていることをひしひしと感じる今だからこそ、

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※事情により、この記事に対するブックマーク・コメントは非表示にしております。 ジモコロのナカノヒトミさんの記事 ・せどりから古本屋で年商16億円!? amazonでよく見る「バリューブックス」の正体 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」 を読んで、 「おー、バリューブックス、たまたまこの間はじめてアマゾンでここから本を買ったけど、そんなにすごかったのか!!」 と軽く驚かせていただきました。 一日に二万冊の本が送られてきて、一万冊の本を販売、年商は16億円とか。 今日はそんなバリューブックスの話から、書籍や書店の未来について妄想してみたいと思います。 本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 株式会社バリューブックス代表の中村大樹さん(34歳)は、東京電気大学を卒業後、就職せずに初めの二年間は個人事業主として古本のせどりを商売にしました。 「せどり」とは、ほかの古本屋で価値ある安い本を仕入れ、高額で売ることで差額を利益にする商売です。 その二年間で、最終的には仲間五人ほどで事業を行ない、年商8,000万円ほどだったというのだから、見事なものです。 そして会社を立ち上げ、今に至るわけですが、その活動はただ本を仕入れて販売するだけにとどまりません。 買取・販売ができなかった本を、老人ホームや児童施設に寄付したり、NPO法人の資金集めに協力するために本の買取をしたり、また、古本の販売時に提携した中小出版社の本については、出版社に利益を還元するなど、ユニークな取り組みをしています。 古本関係では、福島の会津で「本と森を交換する」古本屋さん『たもかく』も古くからとても面白い試みをしていますが、出版業界の先行きが不透明な今、新しい流れが生まれ、変化が続いていくことには、心躍るものを感じます。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 さて、ナカノさんの記事のブックマーク・コメントでid:typex2さんという方が、 このビジネスは出版業界の利益を横取りしているだけで何も生み出さないから、最終的には出版業界を殺して終わりなんだろうな。。 と書いてらっしゃって、まあ、言わんとすることは分かります。 けれどもバリューブックスさんは「提携出版社への利益還元」を行なっているわけですし、そうした提携が一般化していけば、「利益の横取り」とは言えなくなります。 また、出版業界がそう簡単に「死んでしまう」かというと、そこのところも、必ずしもそうは言えないだろうな、と思うのです。 今の出版業界は多種少量販売になっているからこそ、新しい形の古本屋が生まれうる余地があるわけですし、その多種少量販売の中でどんな本が売れるかについても、いくらでも新しい可能性がありえます。 キンドルなどの電子書籍の販売が今後さらに一般化していくことも間違いありませんが、紙の書籍の利便性には相当程度の優位がありますので、出版業界の再編は起こるでしょうし、長期的な低迷は避けがたいでしょうか、業界自体が簡単に死滅するとは到底思えません。 また、cd 全盛の現代においても塩ビのレコードの需要が決してなくならないこととも似て、十分な未来においてほとんどの人が電子書籍しか読まなくなったとしても、好事家は紙の書籍を愛し続けるに違いありません。 そうなれば、古本の希少なものは今以上にプレミアムがついた価格で取引されることも予想されますから、古本屋というものも存在形態は変わっても文明の滅びない限り、人類と運命を共にすることになるのではないでしょうか。 というわけで、出版というものの未来がどんなものになるのかについて、未来図をはっきり描くようなことはできませんが、若い頃より本を愛してきた者として、書籍の未来に想いを馳せながら、そろそろこの記事を終わることにしましょう。 なお、本稿は、id:A1rironさんの ・本とヒトに優しい古本屋さん『バリューブックス』の世界観は「古本屋界のサードウェーブ」だと思った! - A1理論はミニマリスト に刺激を受けて書かせていただきました。 id:A1rironさん、ありがとうございましたー。 てなとこで、この記事は一旦おしまいです。 それではみなさん、ナマステジーっ♬

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はてな匿名ダイアリーに投稿されたほんのイタズラ程度の短い書き込み ・ニセ科学には怒り狂うけど「ネコは人語を解する」には寛容なはてなー に330以上のブックマークがついているもので、今日も今日とて「ニセ科学」ネタで「ネット上での意見表明」というものについて考えてみようと思います。 「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について 「批判という名のストレス発散」にはもちろん存在意義がある 「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 件の匿名記事のタイトルを素直に受け止めれば、この記事を書いた匿名さんは、 猫が人語を解するわけがない、 と言いたいのでしょう。 「言葉を理解する」ということを「一つ一つの単語の指すものを理解し、全体としての文章の意味を理解する」というように考えれば、「猫には人の言葉が理解できる」という主張には、無理があるように思えます。 けれども、恋人にふられた飼い主がペットの猫に「くやしい、悲しい」といった意味のことを言ったときに、猫がそれを「理解」してくれて「優しく寄り添ってくれる」というようなことならば、猫好きの人なら当然「あるある」と思うに違いありません。 それは厳密には言葉を「理解」しているわけではないかもしれませんが、飼い主からすれば、「確かに自分の気持ちを理解してくれている」と思って当然の経験ですし、これをして「猫は人の言葉が分かるのだ」という人がいるとき、「科学的な分析」に基づいて、「猫に人の言葉が分からない」などとわざわざ言う人がいるとしたら、無粋の極みと言えましょう。 というわけで、「猫が人語を解するかどうか」という問題は、自然科学の問題というよりは心理学的な問題であり、「科学的真実の前には人間関係なんてどうでもいいのだ」という超原理主義的科学オタク以外の人が、わざわざ「猫・人語」問題にケチをつけるなどということは、実質的にあるわけもない「戯れ言」ということになりましょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について さて、件の匿名記事の全文は次の通りです。 まあ猫様はヒトカスの上にあるから仕方ないよね! ……正直にいうと、騙されたり金儲けでない程度の与太話ならいいんでないの。なのでEM菌商法は滅びるべき。 つまり、「ネコは人語を解する」という話題は、この書き込みをした匿名さんからすれば、ただの「ツリ」にすぎないわけで、 はてな界隈の人たちが好きそうな「ニセ科学批判」のネタをちょっと突っ込んでみました、 という書き手の意図は、まったくはっきりしています。 そこで「ニセ科学批判」とは何のことで、それにはどういう意味があるのかについて少し考えることにしましょう。 この場合についても、科学原理主義者の方々が「科学的におかしな言説が世の中に広まることはけしからん」という観点から、さまざまな「疑似科学」についてそのどこが「非科学的」なのかを啓蒙するために、意見を表明するということは、社会的にもそれなりの意味があるものと思います。 けれども、はてな界隈の言説をしばらく観察していて分かったことは、「ニセ科学批判」をする多くの人は、そうした「科学的真実」について語りたいわけではなくて、科学的な言説が詐欺的な商法に使われることに嫌悪感を感じているために、いわば社会正義の観点から「ニセ科学『商法』批判」をしているのにすぎなかったんだな、ということです。 「猫が人語を解する」という話題をネタにした匿名さんもまさにこうした主張の持ち主であり、 人を騙して、金儲けをするために「ニセ科学」を使うな、 ということをおっしゃっているわけです。 これも、確かにそれなりに意味のある意見表明と言えます。 というわけで、ここでは「ニセ科学批判」と言われているものは実質的に「ニセ科学商法批判」なのであり、それには確かに社会的意義も十分ある、という立場で話を進めていくことにします。 しかしながら、 EM菌やホメオパシーは「ニセ科学利用の詐欺商法」であるからけしからん、 というような個別の事例についての意見を考えるときには、「EM菌」や「ホメオパシー」といったものが、はたして本当に「詐欺商法」なのか、ということを、自然科学的見地だけからでなく、社会科学的見地からも検討する必要があるでしょう。 それでなければ、せっかくの批判も、単に自然科学オタクの人たちが仲間同士で「仮想敵」を攻撃するだけのごっこ遊びの域を出ないだろうことに、十分注意が必要なのではないかと思うのです。 EM菌やホメオパシーを信じて、現に救われる人がいるからこそ、そうした「擬似」科学を元にした経済行為が成り立つわけであり、それがプラシーボ効果でしかないとしても、そうしたサービスを喜んで利用する人がいる以上、そこに効用以上の明らかな害悪がないかぎりは、社会がそれを禁じることなどありえません。 ですから、 EMもホメオパシーも、そんなん信じてる奴はアホや というような言説をネット上で発するだけで、社会正義の実現に役に立つとナイーブに思っている方々には、 なぜニセ科学を信じる人は多数いるのか、 それを是正するためにはどういう言説が有効なのか、 といった基本的なことがらを、今一度ご深慮願いたいと思うのでありました。 ある言説が「ニセ科学」であるかどうか、という社会正義に関わる判断には多分に「恣意性」があることを考慮した上で、しっかりとその言説の問題点を指摘するのならば、社会的にも大いに意義あるものとなりにちがいありません。

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「だわ」「なのよ」「かしら」といった、文章表現として今も多用される女性特有の語尾について、「そんな言い方しないよ」と感じる女性の方って、きっと多いはずですよね? 関東学院大学で言語学を研究している中村桃子さんのインタビュー ・なぜ翻訳でステレオタイプな「女ことば」が多用される? 言語学者・中村桃子さんインタビュー - wezzy|ウェジー が、女ことばを巡り、言葉と政治の関わりについて興味深い内容だったので、「無意識に行なわれるステロタイプのおしつけ」という視点から、差別の問題や言語による思想統制の問題を考えてみます。 女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない 書き言葉としての役割語 ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 ジェンダーを表現する武器としての女ことば 「言語による思想統制」という政治的物語 女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない インタビューの冒頭で、中村さんはこう語ります。 みなさん「日本語には女ことばがある」ということはご存知ですよね。しかし、「女ことばってなあに?」と聞くと、「女の人が話してる言葉でしょ」って答えが返ってくるんですね。学生さんに尋ねてみても、昔から日本の女性はなにか共通した「女らしさ」を持っていて、それは「男らしさ」とはちがっていて、言葉を通じて自然にその女らしさがにじみ出た言葉づかいが「女ことば」だ、と理解している人が多いんです。しかし、果たしてそうなんだろうか? と。女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない。 文章表現として使われる「女ことば」が、喋り言葉として使われる「女ことば」と違うことは、まったくその通りです。 そこで、この記事では、 「女ことば」とは書き言葉において話し手が女性であることを示す表現法 を意味することにし、 喋り言葉としての女性特有の表現は「女性口語」 と表すことにします。 中村さんは、国語というものが政治的に作られてきた歴史に注目し、女ことばの持つ政治性について語るのですが、その前に文章表現における役割語としての女ことばのことを少し見てみましょう。 書き言葉としての役割語 「そうじゃ,わしが博士じゃ」としゃべる博士や「ごめん遊ばせ,よろしくってよ」と言うお嬢様に,会ったことがあるだろうか.現実には存在しなくても,いかにもそれらしく感じてしまう日本語,これを役割語と名づけよう.誰がいつ作ったのか,なぜみんなが知っているのか.そもそも一体何のために,こんな言葉づかいがあるのだろう? これは、金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」という本の紹介文句です。 このような役割語がなぜ存在するかというと、 文章表現において「誰が」喋っているかを強調し、 読者にキャラクターの個性を強くアピールするため、 ということになるでしょう。 「女ことば」についても、純粋な意味での役割語としての機能を考えれば、「話し手が女性である」という事実を表すだけのことですから、そこには必ずしも政治的な意味合いはないことになります。 役割語についてもっと知りたい方は、 金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(2003 岩波書店) をぜひ読んでみてください。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 マンガやアニメで使われる役割語は、キャラクターの明確化するために、作り手が意図的に使用するわけですから、新しい表現を生み出すこともあり、創造性も秘めています。

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中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] H氏について、実のところぼくはほとんど何も知らないまま、この記事を含めて三本の記事書きました。 それは彼がネット上で「危険な」挑発をした結果、命を落とされたことに関して、彼の死を無駄にしないためには、早い時点でその意味を明らかにしておいたほうがいいと思ったからです。 ぼくの記事を読んで、H氏を批判していると思い、遺族や関係者の方々に配慮が足りないと思った方もいらっしゃったかもしれません。 それについてはここで改めて謝りたいと思います。つたない文章で気分を害していたとしたら、本当に申し訳ないです。 中川淳一郎氏の書かれたブロゴスの追悼記事を読んで、H氏はとても有能な方であっというだけでなく、人間的にも素晴らしい方だったんだなということがよく分かりました。 H氏のご冥福を改めまして心よりお祈りいたします。 中川氏の追悼記事には、H氏の直截で忌憚ない人柄と、裏側もしっかり確認するきちんとした仕事に対する姿勢が描かれると同時に、 だからといって彼による揶揄を正当化する気は毛頭ない と冷静な筆致でしるされています。 このような素晴らしい追悼記事を書かれた中川氏にも敬意を表して、この追記を終わります。 ・ ・ ・ 2018年6月25日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こった。 警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)は、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、Hさんと面識はなかったにも関わらず、犯行に及んだものと見られている。 この件についてはすでに二つの記事を書いた。 ・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元* ・はてな殺人の深層 - きみの一言が容疑者を焚きつけていたとすれば - *魂の次元* この記事では、亡くなったHさんのご冥福を改めて祈るとともに、ロマン優光氏の記事 ・福岡セミナー講師刺殺事件に思うこと:ロマン優光連載112 - ブッチNEWS からいくつかの論点をお借りして、この事件について再度考えてみることにする。 中川淳一郎氏によるH氏への追悼記事に寄せて [2018.12.17 追記] 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ 我慢できない人は勝手にやってればいいと思うけど、報復は報復を生むだけでしょ? 救うことはできなくても、自分の考えや行ないを改めることはできる 他者を見下すような発言、特に弱者を見下すような発言は「危険」なんだってばさ ロマンさんは H氏が、彼に何をしたかというと、彼の荒し行為と彼に対する通報に関する株式会社はてなの対応をblogに書いたこと、程度の低いことに関するたとえとして「T先生」の名を出したこと、それぐらいだ。容疑者を運営会社に通報したり、そのことを公言してた人間は他にもいるだろう。そればかりか、容疑者に対する酷い罵倒を書いていた人たちだって何人もいることだろう。別にH氏が彼を必要以上に攻撃していたというようなことは、特にないのだから。 (被害者と容疑者の名前に関わる表現は、通称の頭文字に置き換えた) と言って、今回の事件の「通り魔性」を主張してて、まあ、それは一理あります。 だけど、Hさんが記事で、Tさんのことをおもしろおかしくネタとして書いてるのもまた事実で。 (参照 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/02/112825 http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/10/132154) それがTさんの神経を逆撫でしないわけもないよね。 もちろん、「その程度」の発言があんな事件を引き起こすなんて予想できるわけもないから、それを理由に「Hさんに落ち度があった」と言うわけにはいきません。 そして、逆に「あの程度の発言はしていいんだ」というわけにも、もはやいかない。 現にこういう事件が起きちゃった以上、 「あんなふうに人を見下して笑いものにするのは危険なことなんだ」 という認識を多くの人が持つべきだと思います。 弱者を見下すのは特に危険ですよね。 失うべき何も持ってない弱者だったからこそ、Tさんは今回の事件を引き起こしてしまったわけで。 ページビューを稼ぐために特定の弱者を笑いものにするようなことは、絶対やめたほうがいい、 というのが今回の事件から得られる一番大きな教訓でしょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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前の記事 ・なぜブロガーH氏は殺されなければならなかったのか - 批判と侮辱の心理学 - *魂の次元* で、ブロガーのH氏がネット上での発言から「逆恨み」され、凶刃に倒れることになった事件について考え、安易に「批判・非難・からかい」の言葉を発信することの危険性を述べたわけだが、もう少しだけつけ加えて書きたくなった。 「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします 「攻撃的」なあなたにこそ考えてほしい、人を見下して優越感に浸ってもいいことないよ!? 良識と想像力のある多くの人にとって、今回の事件は、 「あんなことをやっていれば、こんなことにもなるよな、ちょっと想像を超えてるとこはあるけど」 というようなものだと思う。 けれども、一部ではあるが決して少なくはない「攻撃的な」はてなユーザのみなさんは、 「おれたちの発言は常識の範囲であって、まったく問題ない。今回の事件はキ○ガイが起こした通り魔的殺人にすぎない」 くらいの感想をお持ちのことだろう。 そのような考え方が間違いだ、というつもりはない。 けれども、今回殺人事件の被害者となった故H氏が、法律的には問題ないであろう範囲で記事を書いていたことが、かえって容疑者Tさんの恨みと妬みを増幅し、仇となった可能性を考えれば、 「常識の範囲内の発言」が持つ危険性 というものを、「合法か違法か」といった枠組みとは別の視点で考えることが大切に思えるのだ。 結論から言ってしまえば、 人を見下すような発言は慎むべきだ ということに尽きる。 今回の事件は、H氏が「見える」存在だったから標的にされたのであり、Tさんの「うらみ」はH氏だけに向けられたものではなく、ネット上でTさんを見下す発言をしていた不特定多数の人間に向けられたものと考えるのが妥当だろう。 そうであれば、今後類似の事件が繰り返されるのを避けるためには、 ネット上では人を見下すような発言は慎むべきだ ということを「常識」として広めていくことが重要に違いない。 以上の述べたことが、「愉快犯的」に暴言やからかいを繰り返すみなさんにとっては余計なお世話にすぎないことは分かっている。 けれども、周りに流されて「歪んだ発言」を繰り返すことになっているものの十分良識を持つ方々には、どうか今回の事件を自分の発言を考えなおすきっかけにしてほしいと思い、あえて書いているのだ。 ネット上で匿名性に守られて鬱憤を晴らしたくなる気持ちは分かるし、人を批判することで優越感に浸りたくなる気持ちも分かる。 また、容疑者のTさん自体がそのような行為を繰り返していたことを考えると、複雑な気持ちにならざるを得ないのだが、そうしたストレスの解消をはかるはずの行為が、今回のような事件を通して、かえって社会を息苦しいものとし、さらに大きなストレスとして自分に降り掛かってくるという悪循環の構図を、一人でも多くの方に共有していただくことができたら本望である。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ はてなさんには、ブックマーク・コメントでのNGワードの設定を是非お願いします ここで、はてなさんへのお願いを一つ書いておく。 今回の事件の発端が、Tさんのブックマーク・コメントでの「暴言」にあったことを考えると、事件への対策として コメント欄におけるNGワードの設定 は必須であろうと考える。 ブックマーク・コメントで、 idコール付きで、 見知らぬ人から 「低能」呼ばわり されて不愉快に思わない人はないだろう。

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2018年6月24日、福岡市で開催されたネット関係のセミナーで、講師のHさん(41歳)が殺害されるという事件が起こりました。 警察の調べなどから、容疑者のTさん(42歳)はHさんと面識はなかったにも関わらず、ネット上での言葉のやりとりによるトラブルから、犯行に及んだものと見られています。 この記事では、亡くなったHさんのご冥福を祈るとともに、わたしたちが日々何気なく使っている言葉の持つ、危険性と可能性について考え、この不幸な事件から何を学ぶべきなのか、書いてみたいと思います。 (なお、事件の当事者お二人の名前については、ネット上での通称の頭文字を使うことで、プライバシーに配慮させていただきます) 罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? 閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 罵詈雑言と通報とアカウント凍結。そして事件は起こった。 ネット上の情報によりますと、容疑者のTさんは自分の意見と合わない記事を見つけては、相手に対する罵詈雑言を頻繁に投げつけていたようです。 こうした行為はネット上での発言のルールにもとるものですし、Hさんをはじめ、Tさんからの「被害」を受けていた方々は、ネットサービスの運営会社に「問題」を通報し、その結果Tさんのアカウントは凍結され、Tさんは新しいアカウントを作っては「暴言」を繰り返すといういたちごっこになっていた模様です。 この経緯だけを見れば、殺害されたHさんの行動にはまったく問題がなく、容疑者であるTさんが「逆恨み」した挙句、一方的に「犯行」に及んだようにも思えますが、本当にそういう判断で問題の本質が見えてくるのか、もう少し細かく状況を見てみましょう。 正当な批判なのか、感情的な非難なのか。からかって笑いものにすることはどこまで許されるのか? ネット上で暴言を繰り返すことはほめられる行為ではありません。 それをたしなめることは、大いに意味のあることでしょう。 けれども、暴言を「批判」する時点で「批判者」は相手の恨みを買う危険を犯しているのだということを十分認識する必要があります。 まして感情的に「非難」するとなれば、喧嘩を売っているのと区別はありません。 またストレートな批判や非難でなく、「からかい」の表現としておちょくるというやり方も、度が過ぎればやはり同じことです。 お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタさんが「言葉には気をつけなさい。人を傷つけるような言葉は慎みなさい」と言ったのは、実にもっともなことです。 ネット上の正義のために暴言をいさめているのだ、という大義があったとしても、余計ないさかいを引き起こすような言葉使いは避けた方が安全というものではないでしょうか。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 閲覧数、視聴率、稼いでナンボ。そして、ストレスの発散が逆にストレスを生み出す悪循環。 Hさんはネットウォッチャーと称して、ネット上の有名人をネタにおもしろおかしくからかう記事を提供して、人気を集めていました。 今回の事件に関して、「からかい」の対象になっていたネット有名人のはあちゅう氏やイケダハヤト氏は、からかわれていたことの不快感よりは「同業者」として同情する由のコメントを発しています。 ネットに書いた言葉を理由に殺されるとなれば、いくら命があっても足りませんから、同情するのも無理のないことです。 しかしながら、今回のような「事件」に至らなくても、「書き込まれた言葉」を原因にしてさまざまな軋轢が日々起こっていることは事実です。 ネットやテレビで幅を効かせる「閲覧数・視聴率第一主義」やそれを支える「稼いでナンボ」という行きすぎた経済主義のあり方を、この辺で少し見直してみる必要があるのではないでしょうか。 * * * Hさんの2018年5月2日付けの記事がTさんの犯行のきっかけになったのではないかと取り沙汰されていますが、記事の内容は「暴言を投げつけるTさんを通報して凍結してもらった」というものです。 この記事に事件後につけられたブックマークコメントを見ると、多くの方はここでのHさんの発言には特に問題はないのに、そのために殺されてしまったとは、と思っていることが分かります。 けれども、事件前についたコメントをよく読むと、わざわざTさんを名指しで記事を書くことの危険性を指摘しているものがありますし、その他の多くのコメントはTさんからすれば「笑いものにされている」としか受け取りようのないものです。 Hさんはネット上でのやりとりの経験が長く、Tさんをおちょくるようなコメントが多数つくことを予測していたでしょうから、殺意を引き起こすことまでは想像できなかったとしても、逆恨みを買う危険性は予想ができたはずです。 とすれば、「人を笑いものにしようが何をしようが、とにかくブックマークをたくさんつけてもらって閲覧数を稼ぐ」というような安直な方法論が今回の悲劇を招いた可能性について、ネット上で発言をするみなさんは、十分考慮するべきでしょう。 また、ブックマークコメントでお気楽・お気軽に人を否定し、笑いものにしてストレス発散している方々にも、自分の何気ない一言が、巡り巡って社会の緊張度を上げ、かえって自分に大きなストレスとして降りかかってきているのではないかということに、少しばかり想像を巡らせていただけたらなあと、勝手なお願いをさせていただきたくもなる次第なのです。 罪なき人の死を悼み、罪を犯した人の更生を願う。 人の気持ちを逆撫でし、逆恨みを買うような言葉をネット上で書いたからといって、それを理由にその人を殺していいということには、もちろんなりません。 人を傷つけるような言葉は慎むべきと考えますが、そのような言葉をすべて法律で取り締まることはできませんし、H氏の発言にはその意味では罪はなかったと言えるでしょう。 H氏のご冥福を心から祈ります。 同時に人を殺すという、大変重い罪を犯すところにまで追い込まれてしまったTさんについても、自分が犯した罪を冷静に振り返り、その罪を償うことができるよう、お祈りしたいと思います。 ネット上でどんなにバカにされたとしても、それを理由に人を殺すことは許されません。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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