高知新聞の2018.08.17付けの記事
・高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却 貴重な郷土本、絶版本多数|高知新聞
を見ると、高知県立大学が図書館の新設にともない、社会的に問題となるような「愚行」を行なったかのような印象を受けます。
ネット上には、この「愚行」を高らかに批判する人が、少なからず存在しました。
ところが実際には、この大量の図書処分に関して高知県立大学は、批判の余地はあるにしても、適切と呼びうる範囲の運営を行なっているようです。
この件について少し詳しくみた上で、「叩きやすいモノを叩くヒトたち」との付き合い方について考えてみましょう。
高知新聞の主張と、それに対する反論 「分かりやすい悪役を見つけた時はちょっと立ち止まった方がいい」 「叩きやすいモノを叩くヒトたち」とどう付き合えばいいか 高知新聞の主張と、それに対する反論 高知新聞によれば、
約3万8千冊に及ぶ図書や雑誌を焼却処分にしていたことが8月16日までに分かった。中には戦前の郷土関係の本をはじめ、現在は古書店でも入手が難しい絶版本、高値で取引されている本が多数含まれている。焼却せずに活用する方策をなぜ取らなかったのか、議論になりそうだ。
ということで、この記事を見る限り、
高知県立大学では適切な図書の管理がなされず、貴重な県民の財産が不用意に処分されてしまった、 という印象を受けます。
この件について、しんざきさんという方が、
・「考え無しに愚行を行う組織」という物語と、それに魅惑される人たち: 不倒城
という記事を書いており、高知県立大学側の説明も検討した上で、
(除却書籍の選択についての是非などで)批判の余地が全くないとまでは言えないが、大学図書館の業務としては普通に考えられる範疇であり、間違っても愚行とまでは言えない
という結論を出してらっしゃいます。
そして、
どうも、「組織は考えなしの愚行を行うもの」という先入観というか、「愚行を行う組織に対する強い攻撃意識」みたいなものがどっかにあって、高知新聞もそれを煽ることを狙ってああいう記事を書いたんじゃねえか、という感触があります。
ともおっしゃっています。
また、地方で10年以上古書店勤めをする閻魔堂さんという方は、
・高知大学蔵書の処分は適切だったのではないか|閻魔堂|note
という記事で、処分された書籍について詳しく検討した上で、
現在は古書店でも入手が難しい絶版本、高値で取引されている本が多数含まれている という高知新聞の主張に疑問を投げかけています。
さらに匿名で、
・高知県立大焚書記事問題を元大学図書館の人視点から
という記事を書き、図書館における蔵書の扱いを丁寧に解説してくださっている方もいます。
この方は、
高知新聞の記事見出しを見たとき、ツタヤ図書館的なことを
大学図書館がやるなんて世も末だなと衝撃受けたけど
記事読んだら通常業務してるだけじゃねーか!と二度びっくりした
と書いています。
そして、高知新聞は2018.08.22付けで ・プロセス入念に焼却 図書3万8000冊処分の高知県立大|高知新聞
という「訂正」といってもいい内容の記事を出すに至ります。
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ZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの創業者社長である前澤友作さんの記事、
・僕が考える世界を平和にする方法|前澤友作|note
がなんともユニークです。
僕が考える世界を平和にする方法は「世の中からお金をなくす」ことです。
(中略)
お金がないと生きていけない、という洗脳的な固定観念から人々が解放された時、人々は改めて生きる意味や働く意味を再考するでしょう。
本来の人間らしさを取り戻すのです。
というのです。
この意見は「空想的な理想論」でしょうか。
それとも人を欺く「詐欺師の弁」でしょうか。
一抹の真実が含まれると思われる「お金をなくせば世界は平和になる」という意見について、少しばかり考えてみることにしましょう。
お金をなくしてしまったカンボジアのポル・ポト政権 「お金の副作用」をなくすためには、あなたの感じ方を変えればいい 世界を平和にすることはできなくても、自分の心を平穏にすることはできる お金をなくしてしまったカンボジアのポル・ポト政権 20世紀の社会主義国家はさまざまな「実験」を行ないましたが、カンボジアのポル・ボト政権が行なった「実験」の中には「通貨の廃止」も含まれていました。
ポル・ポトという特殊な例を元にして、「だからお金をなくしても平和にはならない」という一般論を引き出すことはできませんが、
「お金をなくせば平和になる」 と言えるほど簡単な話ではないことは、このことからも分かってもらえるでしょう。
前澤さんが言うとおり、
お金を増やす経済活動こそが、それを最優先しない国の人々にとっても正義なんだという押し付けのもと、戦争が仕掛けられ、人や建物がことごとく爆撃され、戦勝国にとって都合の良い再生が繰り返されてきました。
というような、「お金の副作用」というものは確かにあります。
けれども、強権的にお金をなくすことでは、こうした人間の「欲望」を抑え、そこから起こる「人類の不幸」をなくすことは、どうやらできそうにありません。
それでは「お金の副作用」をなくすには、どうしたらよいのでしょうか。
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「お金の副作用」をなくすためには、あなたの感じ方を変えればいい 実は前澤さんは、すでに答えを述べてらっしゃいます。
お金がないと生きていけない、という洗脳的な固定観念から人々が解放された時、人々は改めて生きる意味や働く意味を再考するでしょう。
「お金の副作用」をなくすためには、
お金がないと生きていけない、という洗脳的な固定観念から解放されればいい だけのことなのです。
「でも、お金がないと生きていけないじゃない?」
とあなたは思うかもしれません。
けれども、考えてみてほしいのは、たとえば現在の日本では、社会保障の制度の中に「生活保護」というものがあり、事情によりお金を稼ぐことができない人でも最低限の収入は保障されていて、制度上は
「お金がないから死ぬ」 ということはありえません。
現実には、経済的な困窮のために命を落とすことが、わずかとはいえ存在することも事実です。
こうした方が亡くなるのは、制度を知らないことにもよりますが、困ったときでも「他人に頼ってはいけない」という
「洗脳的な固定観念」によるものだ と言ったら、言いすぎに感じるでしょうか。
こうした「洗脳的な固定観念」を、少しずつはずしていくことができれば、あなたは一歩いっぽ、「お金の副作用」を減らしていくことができるはずです。
あるいはこんな話はどうでしょうか。
ヤフーニュースで流れているプレジデント・オンラインの記事、
・通勤電車でバレる「幸福な人、不幸な人」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
に200ほどのブックマークされているのですが、そこについたコメントが記事の内容と「スレ違い」まくっているところが興味深いので、「エビデンス重視」と「ストーリー重視」という価値観の違いに関連して、一言書いてみます。
「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 自己肯定感の大切さについて、一言 「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... 記事で紹介されているのは、心理カウンセラーの大嶋信頼さんが書いた
『「自己肯定感」が低いあなたが、すぐ変わる方法』(2018 PHP研究所)
という本です。
大嶋さんは、
自己肯定感とは「自分で自分のことをOKだ!」と思えることであり、生活のあらゆる場面で意欲や幸福感に影響を与えます。
というのですが、ここでどうしてそのように言えるのかという「エビデンス」については一切触れないという、「文系」の本ではありがちなアプローチをとっています。
そして、「混雑した電車の中で、周りの人を観察する」というシチュエーションで、自己肯定感の低い人の実例がいくつか示されます。
まずは、
「偉そうな態度を取っている人」 です。
「偉そうに見える」から「自己肯定感が高いかも」と思ってしまいがちですが、自己肯定感が高い人は「俺はすごいんだぞ」という態度をする必要はないので、こういう人は「自己肯定感が低いのだ」と主張します。
ここでもエビデンスはゼロです。
以下、
「混雑している電車の中でもゲームに没頭できる人」は、「ゲームに没頭していなかったら、将来の不安とか人間関係の問題が次から次へと浮かんでくるから、何も見ないようにしている」のであり、やはり自己肯定感が低い、 「同僚のフォローができる人」は、「同僚のフォローの形を取って、自分のアピールをしてるだけ」だから、これも自己肯定感が低い、 という具合に、「主観」だけで、話を進めていきます。
自己肯定感が高い人についても同様で、
「自然体」でいられる人からは「不快感」を覚えないのですぐに興味を失ってしまうのだけれど、そういう人は「威嚇もしないし、ビクビク感もなく、過剰に何かに集中している必要もない」から、自己肯定感が高いのだと、「散文的」に結論づけて、この記事は終わってしまいます。 これでは「エビデンス重視」の人が
「この記事なんなの?」 と思ってしまうのも当然ですよね。
プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 上に見た通り、プレジデント・オンラインの紹介記事は、エビデンスの点からは内容ゼロですし、ストーリーの点から見ても、続きを読みたくなるようなものではありません。
(内容としては特別間違ってるとは思いませんけど)
この紹介記事を書いたライターさんは、たぶんまだ修行中の方なのでしょう、がんばってください、としか言いようがありません。
(と、初め思ったのですが、ライターさんは指定の場所をただリライトしただけなのかもしれません。その場合、エディターさんのセンスの問題ですね。沈みゆく出版業界で、目の回る日々を送ってらっしゃるのだろうとは思いますが、エディターさんもがんばってんださいねー。)
でも、問題はそこじゃないんです。
その記事にわざわざ否定的なコメントをつけていらっしゃるあなたの「自己肯定感の低さ」が気になってしまうじゃないですか。
(余計なお世話の話しであり、ぼく自身の自己肯定感の低さがなせるわざでしょうけれども :-)
大嶋さんにならって言わせてもらえば、
「ネット上で目についたダメな記事にわざわざ文句をつけるような人」 は、みずから「自己肯定感」の低さを宣伝しているようなものです。
あなたのような人こそ、大嶋さんの本を読んで「自己肯定感」を高めてほしい......
......と言いたくなるところなのですが、そういう「エビデンス重視」のあなたには、大嶋さんの本は向きそうにありません。
あなたにおすすめの本は、「分裂勘違い君劇場」でお馴染み、ふろむださんの
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
です。
この本を読めば、自己肯定感なんて高めないでも、実力以上のあなたを演出できますし、なによりきちんとエビデンスつきですから、100%納得できること請け合いです。
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はてな村の名エッセイスト、フミコフミオさんの
・なぜ仕事に好き/嫌いを持ち込むの? - Everything you've ever Dreamed
が、なかなか素敵に心を揺さぶる文章だったので、感想を書きます。
仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんに共感するはてな村の人々 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんは件の記事で、
仕事に「好き・嫌い」を持ち込み、 「このクライアントは好き」とか「あそこは苦手」とか言う 部下のことを、「なんでそんなアッピールをするの?」と不思議がっています。
「どうせやらなきゃならない仕事なんだから、言うだけ無駄だろ」と言うわけです。
そして、「好き・嫌い」を仕事に持ち込む人の心理が自分には分からないのは、自分は仕事のすべてが嫌いで、嫌いだからこそ、「効率的に、うまく、短時間で」やろうとするのだ、とおっしゃっています。
フミコさんに共感するはてな村の人々 ブックマーク・コメントを見ると、フミコさんの気持ちにうったえかけつつも、抑えた独特の筆致に、はてな村の少なからぬ人々が共感していることがよく分かり、興味深いところです。
「あのクライアントは好きだ」とか「こっちのは苦手だ」とかいうような、世間ではありがちな「気持ち優先」な人たちに対して、違和感を抱くようなタイプの方がフミコさんのファンには多いということなのでしょう。
もちろん一部の人は、そんなフミコさんを「人の気持ちが分からない非人間」のように類型化して捉えて「揶揄」の言葉を投げかけるのですが、百戦錬磨のフミコさんにとっては、そんな小さな「悪意」など、特に気にするほどのものではないようです。
仕事が嫌いすぎるので出来るだけ楽にやりたいと言いたいだけの文章です。好きなことを仕事にしてる人を揶揄するつもりは全くございません。
というコメントをご自分で書き込んで、誤読による否定的コメントに対応してらっしゃいます。
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仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? クライアントが「好き」か「嫌い」か、を口に出すことで気分が楽になる人は、確実にいます。
ですから部下がそういうことを言っている場合には、上司は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
同じように「仕事の好き・嫌いを持ち込む部下に疑問を感じる」という人が、そうした考えをブログに書いていたら、それでその人は気分が楽になっているはずですから、外野の人間は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
そして、仕事に「好き・嫌い」を持ち込まないほうがすっきりしていい、と言うあなたの場合、いっそのこと
人生からも「好き・嫌い」をなくしてしまったほうがいい かもしれません。
これは冗談でも皮肉でもありません。
マインドフルネスという名前で現代に蘇った、お釈迦さまことゴータマ・シッダールタさんの瞑想法というのは、実のところ、
「好き・嫌い」なんてなくしたほうがハッピーに生きられるよ、 っていう話なんですから。
マインドフルネスの基本的な考え方は、
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」 にあります。*1
つまり、瞑想の練習をすることでマインドフルネスの状態に慣れ親しみ、「好き・嫌い」という生まれたときから無自覚に作り上げてきた「重い鎖」を手放すことができれば、人生、すんごく楽になれちゃうって話なんですよ。
というわけで、瞑想について興味のある方は、こちらの記事をお読みください。
・効果・実感もばっちり、とっても簡単な瞑想の方法おしえます - 24 時間の瞑想術
反航路 (id:giveus) さんの記事
・机の上にある絵 - いのちばっかりさ
を出発点に、つれづれに考えたことをしるします。
メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する ぼくには三つ年上の兄がいるのですが、その兄が中学の工作で、ドクロと "memento mori" という文字を彫った小さな木箱を作っていたのを、四十年以上たった今でもよく憶えています。
反航路さんが、「メメント・モリ=死を想え」というフレーズに、どんな想いを込めているのかは知る由もありませんが、その言葉が「いつも手を伸ばせば届くところ」にあるという共通点に、いくばくかの「縁」というものを感じて、そこを出発点に文章をつづってみている次第です。
ぼくが好きなアメリカの作家カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズには、"death as an advisor" という言葉が出てきます。死を助言者にしろ、というわけです。
カスタネダが弟子入りしたメキシコの呪術師ドン・ファンは、「死」というものが、いつでも左後ろを振り向くと「そこにいるのだ」と言います。
そして、その存在を忘れず、「死」を助言者とすることで、よりよく生きることができるのだ、と。
この言葉が第一に意味するところは、
人間というものは、いずれ遠からず死んでしまうのだから、今を精一杯生きるべきだ、 ということです。
日常というものに慣れ親しんでしまい、日々をのんべんだらりと生きてしまいがちなぼくたちにとって、一瞬一瞬を十分に味わってしっかりと生きるために「死」を意識することは、確かに大切なことでしょう。
一方で、仏教的な「無常」という観点から見ると、
やがては「死」で終わるのだから、「無常」でしかないこの世の価値観にとらわれることなく、自由に真実の命を生きよ、 という解釈も成り立ちます。
自分で望んで生まれたわけでもないのに、わけの分からない世間のしがらみに縛られて、砂を噛むような毎日を過ごしていると、なんのために生きているのかも分からなくなり、
さっさとこの世から消えてなくなりたい、 というような思いも湧いてきます。
そんなとき、自分が縛られていると思っている「世間のしがらみ」というものが、本当のところは実体のない、ただ移ろいゆく「観念」の集まりにすぎないことを思い出すことができれば、その「観念」を手放して、肩から力を抜き、全身をゆるめて、
心も体もゆっくりと休めるだけの「小さなゆとり」を持つこと だってできるはずです。
ぼくらを縛っている「観念」というものが移ろいゆく「無常」のものであるのと同様、ぼくらの「命」自体もまた移ろいゆく「エネルギーの流れ」にすぎません。
それはやがては「死」によって終わることになる「他愛のない自然現象」にすぎないのですから、それにまとわりついて今ここにある「しんどさ」もやはり「どうということのない」移ろいゆく自然現象にすぎません。
雨降りが嫌いでも、降る雨を止められないように、「しんどさ」を嫌っても、それを止めることはできません。
雨が降ったら、降り止むのを待ち、あるいは濡れないように傘をさします。
同じように、今ここにある「しんどさ」も毛嫌いすることなく、ただ認めてやり、それが自然に消え去っていくだけの時間と注意を与えてやればいいだけのことです。
そうやって「不快な感覚」を毛嫌いすることをやめられれば、そのもととなっている「観念連合」も弱まり、やがてはほどけていきますから、今はあなたを執拗に縛っている(としか思えない)「観念連合」の全体ですら、いずれはまったくなくしてしまうことだって、理論的には可能なことなのです。
こんなことを書いているぼくの頭の中にも、自分を縛りつけている「観念連合」はまだまだたくさんあるのはもちろんですが、こうして「死を想え」という言葉を思い出すことで、少しずつ心の奥底に溜まった澱をきれいにしていけたらなー、などと思いながら、こんな文章を書いているわけでして。
ですから、「人生を謳歌する」というような境地には、なかなか達することができないのですが、いつかはそんな境地に達することを願って、「一歩いっぽ歩いていくしかないのよね」という当たり前の結論を書いて、この短い記事はおしまいにします。
なお、カスタネダのドンファン・シリーズのうちでは、四冊目の
☆「力の話(新装・新訳版)」(2014 太田出版)
https://amzn.to/2nHNO9B (←アマゾンでご覧ください)
がおすすめです。
これ一冊で十分完結していますので、西洋的な合理主義とも、東洋的な世界観とも違う、また別の価値観に興味のある方は、一読してみると必ず得るところがあるものと思います。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
今(2018年8月)アマゾンでバカ売れしている
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
みなさんはもう読まれましたか?
著者のふろむださんは、「分裂勘違い君劇場」という知る人ぞ知るモンスターブログの書き手なのですが、この本では、大学で専攻した心理学の知識をもとに、さまざまなデータを駆使し、
社会で成功するためには「錯覚資産≒人を勘違いさせる能力」がものをいうのだ、 ということを、実社会での豊富な経験も交えて、大変わかりやすく解説してくださっています。
「錯覚資産」というのはふろむださんの造語で、心理学の世界では有名な「ハロー(後光)効果」に代表される、自分が有利になるように「人に錯覚してもらう」能力を経済学的な「資産」に見立てたものです。
人間なら誰でも落ち入ってしまう「思考の錯覚」が「資産」になりうるとすれば、どうしてそんなことが可能なのか、そしてそれをどうやって使えばいいのかを知ることは有意義に違いありません。
「錯覚資産」を十分理解し、使いこなすことの重要性については、ふろむださんの著書
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を読んでいただくとして、この記事では、
錯覚資産の裏に隠されている、 あなたの人生を根底から変える力を秘めた、 錯覚負債とは何なのか、 を簡単に書いてみたいと思います。
錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 人はなぜ「錯覚資産」に魅力を感じてしまうのか。プロスペクト理論の恐ろしさについても一言 「『錯覚負債』の棚卸し」こそがあなたの人生を幸せにする 「錯覚負債の棚卸し」のための基礎体力をつけよう - 呼吸と瞑想とマインドフルネスの科学 まずは三回の深呼吸から。奥深いマインドフルネスと瞑想の世界へのご招待 錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 「錯覚資産」とはある意味「はったり」の力とも言えます。
あなたにどんなに実力があっても、その実力を他の人に認めてもらえなければ「宝の持ち腐れ」ですから、そのためには「はったり」を使ってでも、あなたの実力を誰かに「使ってもらう」必要があります。
あなたが社会的に「成功」したいと思い、その「成功」のために自分のスキルを上げようと真剣に願うのであれば、この「はったり」の心理学と経済効果をよく知ることは、素晴らしい武器となることでしょう。
けれどもここでよく考えてほしいのは、
「社会で成功する」って、そんなに簡単なことじゃないよね、 っていう、すんごく当たり前の話なんです。
あなたは「成功するために毎日努力するタイプ」の方ですか?
もしそうなら、
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を今すぐ買って勉強し、実践したら、役に立つこと請け合いです。
そうでないならば、あなたにとっては錯覚負債について知ることのほうが、「はるかに重要」になってくるかもしれません。
「錯覚資産」は、
「自分が有利になるように『人』に錯覚してもらう能力」 のことでした。
これに対して「錯覚負債」は、
「自分が不利になるように『自分で』錯覚してしまう『負の能力』」 のことです。
ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、
あなたの人生、「自分にとって損な思い込み」でいっぱいじゃないですか? ということです。
自分の能力に限界を設定して、現状に甘んじたり、 自分が変われば改善できる人間関係を、相手が悪いんだと思い込んで、そのまま放っておいたり、 変えちゃったほうがいい「損な思い込み」って、相当あるんじゃないでしょうか。
というようなところから、どうして錯覚資産を増やすよりも錯覚負債を減らすほうが大切なのか、もう少し詳しくみていきましょう。
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脚本家・石井飛鳥さんのツイート(https://twitter.com/ishiiasuka/status/1028196483709820929)、
電子書籍、便利なんだけど「親の本棚」が家に構築されないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。
が13,000ものリツイートを受け、話題になっています。
「親の本棚」の役割を否定するわけではないのですが、個人的には
「親の本棚」? そんなもん、さっさと「粗大ごみ」にでも出したら? と思ってしまったので、その理由を少しばかり書いてみましょう。
「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 「旧人類の寝言」は気にせず、新しい時代の波の間を漂って生きよう。 追記: 石井飛鳥さんへのお詫びと「文化資本を奪おうとする者」についての考察 「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 まず、個人的な話をしましょう。
ぼくには「親の本棚」はありませんでした。お袋も親父もあんまり本を読むような人間じゃなかったもんで。
けれども三つ年上の兄がいましたので、本も音楽も多大な影響を受けました。
ですから「誰かの本棚が与えうる影響」という意味では、「親の本棚」に恩恵を受けた人が、
「親の本棚」がなくなったら寂しいなー、 と思う気持ちは分かります。
たぶん石井飛鳥さんは、聡明で自由闊達な親御さんをお持ちで、「親の本棚」のおかげで、すばらしい人生を歩むための豊かな糧を得ることができたのでしょうから、
あー、それはよかったですねーー、 と大きく同意してあげて、「親の本棚」が消える未来をぼくも一緒に憂いたいところです
けどですよ、「親の本棚」\(^o^)/的言い方からは、なんだか
世襲制のいやらしさ がプンプンにおってきませんか。
そんな「本棚」から、親の世代の古臭い価値観を押しつけられるくらいだったら、むしろそいつを
ナタでぶっ壊して、ぜーんぶ景気よく裏庭で燃してしまいたい、 というもんじゃありませんか。
多くの人にとって「親の本棚」が何を意味するだろうかということを少しばかり想像してみると、そんな感想も浮かんでくるというわけなんです。
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電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 ・ネットでの新刊購入は全体の1割、「文字もの」電子書籍は「紙」の4%、縮みゆく出版業界の明日はどっちだ!? - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、書籍全体が縮みゆくマーケットであることに加え、ネット上での新刊書の購入も全体の一割程度だし、「文字もの」の電子書籍に至っては「紙」の書籍の4%ほどしかないのが現状で、ちょっと意外な気もします。
長い目で見れば、紙の本は電子書籍に置き換わっていくでしょうし、そのとき書籍というフォーマット自体が衰退していくことも、避け得ない未来でしょう。
そうはいっても、書籍に対する欲求は人類の歴史が続く限り、消え去りそうもありません。
となれば問題は、
「親の本棚」がなくなる人類の将来はヤバイかも、 みたいな主観の話よりは、
古来より蓄積されてきた無数の書籍に対するアクセス方法をどう構築するか、 という方法論の話になるはずです。
世の中には、
好きなことを仕事にして、楽しく生きよう、とか、 好きなことを仕事にするなんて夢のようなことは考えるべきじゃない、 とか、いろいろな意見がありますが、みなさんはどんなふうに考えて、仕事をやったり、やらなかったりしてますか?
今日は、はてな村の秀逸な書き手ふろむださんが十年以上前に書いた文章、
・「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
を肴に、「幸せに生きるために知っておくべき二、三のことがら」について書いてみようと思います。
なお、本当に幸せに生きるためには、
あなたの幸せはあなたにしか分からないのだし、 したがって人の考えを鵜呑みにしてはいけない、 のだという、ごく当たり前の結論が十分分かってらっしゃる方は、本文をわざわざ読むには及びませんので、念のため。
頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? 本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? それでも「おれは好きでこんな仕事をしてるわけじゃない」と思うあなたへ - 自分の無意識との賢いつき合い方 あなたが「今の仕事にすっかり疲れ切っている」のならば あなたの幸せはあなたにしか分からない - 自分だけを頼りに世界の幸せを願う 頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 テレビや新聞、様々な書籍、もちろんネット上の各種メディアにも、どんなふうに生きたらいいとか、どんなふうに生きるべきだとか、いろんな意見が溢れています。
頭のよさそうな人や、大成功してるように見える人の意見は、どれも「もっともらしく」思え、そうした考えをうまく真似して、自分の人生を充実したものにしたいと思うのは、ごく当たり前のことでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、たいていの人の意見というのは
自分はこうやったらうまくいった、 というだけの「個人的な体験談」にすぎないのに、
こうするとうまくいく、 という「一般論」の形で語られるため、読み手が注意深くないと、簡単に間違った方向に誘導されてしまう危険があることです。
ですから、もしあなたが、人の文章を読んで、「確かに言えてるなー」と納得しやすいタイプの方だったら、
「おっと、また納得しちゃったけど、これが本当かどうかは、少し判断を留保しておくか」 と思うくらいのほうが、真実に迫れる可能性が増すというものです。
現実には様々なメディアで、「好き」と「稼げる」が一致して成功している人がたくさん発言していますので、結果として「好きを仕事にするべきだ」といった言説が「真実」であるかのように流布することになります。
しかし、それを「鵜呑みにしてよいのか」ということが問題です。
これについては、ふろむださんが、
・「好きを仕事に」という欺瞞に騙されず、心の底から気持ちよく好きなことをやる方法 - 分裂勘違い君劇場
という記事で、十分に分析してくださっています。
窮屈な日本の社会では「匿名ブログでしか書けない」本音が読めますので、一読をおすすめします。
自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? そもそも「好きを仕事にする」といっても、仕事にしたいほど好きなことがある人って、どのくらいいるんでしょうかね?
あるいはぼくのように、「ぐうたら寝て過ごすのが好き」な人間は、どうやったら、それを仕事にできるのでしょうか?
一生をかけて一つのことを仕事としてやり続けて、それをずっと好きでいられる人って、ごく少数の幸せな人でしかないのが、現実というものでしょう。
どちらかといえば、現実に「自分ができる職」について、その仕事を「楽しくできるように工夫する」、というのが多くのみなさんにとっては、有効な方法論になるはずです。
このとき、日本のさえない社会状況の中では、「楽しく仕事をする」ことが難しくなっていることが、大きな問題になるわけですけれども。
本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? さて、みなさんは「好きでもない仕事を、生活のために仕方なくやっている」と感じているかもしれません。
けれども、その状況は
「あなたが好きこのんで選んでいるものなのだ」 と言われたら、どう思うでしょうか。
「いや、自分は好きでこんな状況を選んでるわけじゃない、状況さえ許せば、もっと自由に他の道を選ぶに決まってるじゃないか」 と考えるでしょうか。
もしもそうお考えでしたらば、ここで少し検討していただきたいのは、いくらかの限定はあるにしても、
あなたの今の人生は、あなたが選んできたことの結果としてあるのではないか、 ということです。
みなさんの中には本当に地獄のような状況を生き延びてきて、生き延びるためには他の選択肢はあり得なかった、という方もいるかもしれません。
そうであったとしても、死を選ぶか、生き延びることを選ぶか、という究極の選択に対して、「生き延びる」という選択をしたのは当然あなたなのです。
みなさんが自分の人生において「何を基準に選択してきたか」は人それぞれでしょう。
ときには「打算」で、ときには「自分の欲求」を最優先して、ときには愛する人のために「自分を犠牲にして」、あなたは様々な選択をし、その結果として、あなたの人生の今があるのです。
その選択はどれをとっても「あなたが好きで選んだもの」です。
たとえそれが「親に強制された選択肢」であったとしても、「親に逆らわない」という選択を好きでしたのは、あなたなのですから。
このように考えれば、「好きを仕事にする」という夢のような話も、実はみんなが普通にやっていることになってしまいます。
「こんな仕事やりたくない」とあなたが思っているとしても、現にあなたがその仕事をやっている以上、それは「好きでやっている」ことに決まってますもんね。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
数々の含蓄ある記事を生み出してきた「分裂勘違い君劇場」で、はてな村のみなさんにはおなじみの、ふろむださんのデビュー作
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』
は、みなさんもう読まれましたか?
9月16日(日)22時、TBS系列の「林先生が驚く初耳学」で取り上げられて、いよいよ人気沸騰してますね。
ようやく購入してぼくも全部読みました。
めちゃくちゃ面白いです。[以上2段落 2018.9.17追記]
親切なふろむださんは、ネットで最初の五章を読めるようにしてくれていて、それだけ読んでも彼の主張の面白さは十分伝わってきます。
ふろむださんは、
人生は「実力」よりも「運」よりも「錯覚資産」によって決まってくる、 というのですが、一体これはどういう意味なのでしょうか。
というわけで、今日はふろむださんの説く「錯覚資産の活用」についてのお話です。
成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 錯覚資産の有効活用について。 あとは蛇足ですが、「錯覚資産に頼らず生きるのもいいんじゃない」って話 成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 「あなたの判断は、大抵の場合、錯覚にもとづいているのだ」 と要約できるふろむださんの主張は、シンプルにしてラディカルです。
心理学の世界で「ハロー効果」と呼ばれる現象があります。
ハロー halo というのは「後光」のことで、まったく同じことを主張しても、
立派そうに見え、地位のある「後光の差している」人が言えば、「本当のこと」に思え、 さえない外見の、どこの馬の骨とも知れない人が言っても、「説得力がない」と感じてしまう、 これがハロー効果というものです。
たとえば、「採用面接で、身だしなみが、どのような影響を与えるか」という研究がある。
その結果、「仕事に必要な資格よりも、身だしなみのよさのほうが、採用決定に大きな影響を与えていた」ということがわかった。
そして、ここでも、面接官自身は、「外見は、ほとんど採用決定には影響しなかった」と考えていたのだ。
つまり、面接官は、「外見で採用したわけじゃない」と、自分では思っていたが、実際は、外見で採用していたということだ。
(画像、文章とも、ふろむださんのページ https://www.furomuda.com/entry/2018/08/04/011000 より)
このとき面接官が「外見で採用したわけではない」と思っていたことは、面接官が「ウソを言ったわけでもなく、バカだったからでもない」というところが、この話のポイントです。
これは、ぼくたち人間の「判断」というものの、そのかなりの部分が「無意識的」に行われており、言葉によって説明される「理由」というのはあと付けのものにすぎず、実際の理由とは違う場合が多々あるのだし、それは「知能が高い」とされる人でも普通に起こることだ、ということです。
ふろむださんはこれを「脳のセキュリティホール」と呼び、
「自分は大丈夫」と思っている人ほど危ない、 と書いています。
この「脳のセキュリティホール≒思考の錯覚」は、「人を外見で判断してしまう」ということだけでなく、物事のあらゆる「判断」に関わってきます。
というのは、
「プラスのイメージを引き起こすもの」であれば、
なんでも「全体的に優秀」という思考の錯覚を引き起こしてしまうから
です。
そして、学歴であれ、経歴であれ、「プラスのイメージ」につながるものなら、どんなものでも「思考の錯覚」を引き起こす力を持ちますから、
「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」は、一種の資産として機能する
というわけです。
これがふろむださんのいう「錯覚資産」というものです。
また、「全体的に優秀」という錯覚は、思考の錯覚のほんの一部にすぎないので、様々な種類の錯覚を掛け合わせることで「とんでもない威力の錯覚資産が作り出される」とも書かれています。
そして、
「自分の得になるような、他人の勘違い」(=錯覚資産)は、生涯賃金に換算して、何千万円、何億円ものお金を生む。
のだから、錯覚資産は大変重要なものだし、他人に騙されないためにも、この錯覚資産についてよく知っておく必要があるのだ、というわけです。
なかなか面白い話ではありませんか。
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omion さんの7月7日のツイート*1、
オウムでサリンつくった人たちだって蒔いた人たちだって「人を殺す犯罪」をしようとしたんじゃなくて「理想の社会を作る正義」のための戦いをしようとしてたんですよ。良かれと思っての行動なんですよあれ。
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
が、25,000件以上リツイートされており、そこについたリプライを見ると、多くの方が「絶対的な正義はない」という健全な理解をしていることが分かります。
この記事では、「絶対的な正義はない」と考えるとき、ぼくたちはどのように判断の基準を持てばいいのか、また人間の振る舞いを「権力ゲーム」と見たとき、そこで「幸せなプレイヤー」になるためにはどんな資質が重要なのかを「自己肯定感」というキーワードを使って考えてみたいと思います。
結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 権力ゲームの遊び方 「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる 結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと 「絶対的な正義」という確実な判断基準がない中で、幸せに生きるためのぼくなりの「三つの指針」をまず明らかにしておきます。
それは、
人の意見を鵜呑みにしないこと、 分からないことは分からないままに判断を保留すること、 きちんと自分に自信を持つこと(自己肯定感) の三つです。
それぞれの意味するところについては、順に説明していくことにして、まずは、「正義のやばさ」に話を戻しましょう。
なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 omionさんがオウム事件に関して、
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
と言っているのは、
宗教は全部やばい、とか あらゆる正義がやばい、 という意味ではおそらくないでしょう。
宗教にしろ、正義にしろ「盲信することは恐ろしい」ということが言いたいのだろうと思います。
けれども、ゆっちさんが引用するドラえもんの言葉、
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
https://twitter.com/Yutti114514/status/1015882463514537984
を見ても、国家が「正義」と呼ぶものですら、十分吟味する必要があることは明らかでしょう。
とすれば、
「オウムのような狂信的な正義がやばい」 というよりは、
「どんな正義も、それが場合によっては他者を抑圧しうることを考えれば、ある程度のやばさを隠し持っている」 と考えたほうがいいでしょう。
ですから、三つの基準の一つ目に挙げた、
「人の意見を鵜呑みにしないこと」 ということが大切になってきます。
どんなに偉い人や、どんなに頭のいい人が言うことでも、またどんなにたくさんの人が信じていることでも、
いつでも確実に正しいと言えるわけではない、 のですから、なんとなく信じて、鵜呑みにしてしまうようなことには、危険がともないます。
もちろん、一人の人間が自分の経験からあらゆることについて正しい意見を持つことなどできませんから、信頼できる人の言うことを「多分そうなんだろうな」と少しだけ疑問を残しながらとりあえず信じておくことは、生きる上で役に立つことです。
けれども、偉い人や、賢い人が、あるいはたくさんの人が言っていることだからと言って、
「きっとそうに違いない」 と条件反射的に思ってしまうとしたら、非日常的で重要な局面では命を落とすことにもなりかねません。
2011年3月11日の津波で「大人の常識」にしたがったために命を落とすことになった宮城県石巻市の大川小学校の子どもたちのことを考えれば、ぼくが言っていることの意味は分かってもらえるでしょう。
リチャード・ロイド・パリーの「津波の霊たち」によれば、教員の指示で子どもたちが校庭にとどまっていたとき、二人の子どもが「危険だから山に逃げるべきだ」と言っていたことが記されています。
このとき大人たちに「子どもの直感」に耳を貸す知恵の持ち合わせがなかったために、「児童・教職員合わせて84名が死亡・行方不明」という大惨事を引き起こすことになってしまったのです。
この二人の子どもが「健全に教師を疑って」裏山に逃げていたら、命を落とさずに済んでいたのに、と残念でなりません。
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