初期仏教の瞑想法であるヴィパッサナの練習を始めてから、そろそろ八年になります。
昨日までは西インドのプシュカルで、十日間の合宿コースにボランティアとして参加していました。
ぼくが練習しているのは、ビルマ生まれのインド人ゴエンカさんという人のやり方で、呼吸と体の感覚を丁寧に見ていくだけの単純明快な瞑想法です。
単純明快ではありますが、十日のコースではこれを朝から晩まで十時間あまりも練習することが推奨されていますので、実際に実行するとなると、これは本当に難しいことです。
ところでみなさんは、自分の人生が「もう少し楽しいものになったらな」とか、「もっと自分の思い通りに生きたいな」とか、そんなことを考えるときがないでしょうか。
つまり、
「自分の人生を変えたい!」
と思うときのことです。
ぼくは今年五十五になりましたが、もう三十年以上も自分の人生をなんとか変えようとして、切れ切れで散発的な努力を重ねてきました。
そうして最近気がついたのは、
「自分は今の人生に満足していない、なんとかこの人生を変えたい」
と思うときというのは、人生の最大のチャンスだということです。
このとき「変えたい」という強い気持ちは、必ずしも必要ありません。
「変わったら楽しいのにな」
というくらいの淡い期待でもいいのです。
変化を求める気持ちが起きたときにこそ、変化を実現するための第一歩を踏み出すことができます。
逆に言えば、自分がその気にならない限り、いくら人に尻を叩かれたって、人間変わることなんてできません。
そして変化を求める気持ちが起こったときに、
「変化に向けて正しい一歩を踏み出せるかどうか」、
これこそが重要なポイントです。
もちろん「何が正しい一歩なのか」は人によっても、時期によっても違ってきますから、それを見極める力を自分の中に育てることも大切なことです。
とはいえ、誰にとっても踏み出すべき一歩の方向性として、間違いなく大切なことがあります。
例えば、
「意志の力を育てること」
です。
なんでもかんでも意志の力で克服できるとか、努力すれば必ず成果が上がるとか、そういう話ではありません。
好きなことをやる場合にだって、物事の準備をし、何かをやりとげ、充実した時間を送るためには、そこには必ず意志の働きがあります。
人生を変えたいと思うのならば、意志の力を育てることは必須の条件といってもいいでしょう。
そこで意志の力を育てるために、この記事でみなさんにおすすめしたいのは、
「鼻から三回ゆっくり深呼吸をすること」 です。
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「鼻から深呼吸? それが変化を求める気持ちや意志の力とどう関係があるの?」と思われたでしょうか。
しかし、最近の心理学の研究では、
自分を変えるためには習慣を変える必要があり、 そのためには実際に何か行動を起こす必要がある ことが報告されています。
そしてその行動を起こす力こそが、意志の力なのです。
つまり「自分を変え、習慣を変え、意志の力を育てる」ためには、新しい行動を実際に起こすことが必要であり、
「鼻から三回ゆっくりと深呼吸すること」
はそのための打ってつけの練習になります。
「人生を変える」などと大上段に構えると、どうにも手に負えないものにも思えてしまいますが、「実際に変えること」こそが出発点としての大切な一歩になりますから、その一歩めは
「気がついたときに三回深呼吸すること」 といった実に簡単なことでかまわないのです。
だまされたつもりになって、まずは今これを読むのを一旦やめて、三回深呼吸をしてみてください。
今日はエルビスさんからのリクエストでインドの宗教の話です。
まず、バラモン教は初期のヒンズー教という理解でいいようです。
ヒンズー教は、インドの宗教の総称的なもので宗派により様々に異なるのですが、ここでは仏教と比べるために、アドヴァイタというインドの世界観を取り上げることにします。
アドヴァイタは不二一元論と訳されますが、この世界全体がブラフマーと呼ばれる単一の実在の現れであるという考え方です。
月も太陽も、あなたもわたしも、すべてはブラフマーという神あるいは宇宙原理の現れなのだと考えるのです。
そして現れているものは、いわば幻なのだとします。
ブラフマーがたまたまその形を取っているだけで、そこには物事の本質はないと考えるのです。
するとぼくたちが普段自分だと思っているものも幻にすぎないことになります。
このとき自分というものを詳細に見ていくと、自分の心の奥底に不変の実体が見えてきて、それが宇宙原理であるブラフマーと一つのものであると気がつく。
心の奥底の実体を真我=アートマンと呼び、ブラフマーとアートマンは一つのものであると捉えるのです。
これを梵我一如と言います。
(ここで、梵=ブラフマー、我=アートマン、となります)
アドヴァイタ派のお坊さんは、この梵我一如の境地を目指して修行することになります。
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仏教はどうかというと、この世界は法=ダルマによって成り立っていると考えます。
そしてこの世界に現れているものはすべて無常であると説きます。
また、普段自分と思っているものは、不変でもなければ、自分以外のものと必ずしも区別できるものではなく、それは自分と呼べないと説き、これを無我と言います。
また無常で無我であるこの世のものに執着することから苦しみが生まれるので、執着を捨てれば涅槃の境地に至り、すべての苦しみから逃れられると説きます。
仏教のお坊さんは、もともとはこの涅槃の境地を目指して修行を積むわけです。
ここでアドヴァイタと仏教を並べて考えると、
ブラフマー≒法(ダルマ) この世は幻≒無常 真我≒涅槃 という対応が見て取れます。
真我≒涅槃という部分は、それぞれの立場の方からすれば、「まったく違う」と言われてしまうところかもしれません。
けれども「あらゆる欲求を超越している」という意味では、真我も涅槃も同じですし、仏教で無我というのはいわゆるエゴを自分と同一視することを戒めているのであって、この世界や自分の心を意識している「存在」自体を否定するものではありません。
仏教では修行に関係ないものについては語らないという伝統がありますから、真我については語っていないだけだとも考えられ、涅槃の境地ではすべての欲求から離れて意識が法そのものを具現するのだ、と考えれば、涅槃即法、法即涅槃であり、結局は梵我一如と同じことを言っているように思えます。
ということで、表面的にはいろいろな違いがあるものの、根本的な世界観としては、ヒンズー教も仏教もほとんど一緒といっていいほどに似てるんじゃないですか、というお話でした。
それではみなさん、ナマステジーっ♫
仏教では「無我」を説きます。
ふだん自分と思っているものは、よくよく吟味すると、独立し ていて、恒常的に「自分」と呼べるようなものではない、というわけです。
ですから「ぼく」が考えたり、感じたりしていることも「ぼくの考え」、「ぼくの感覚」ではなく、客観的な表現をすれば「この体に起こっている考え・感覚」ということになります。
ヴィパッサナーと呼ばれる初期仏教の瞑想を練習していると、このような「理解」が体験的なレベルで生まれてきます。
ある程度まとまった時間、瞑想の練習をしていると、「さっき浮かんだ考えも、今感じてる感覚も、大空に浮かぶ雲のようなもので、ただやってきては去っていくもので、それが自分だと思う必要はないんだな」というような実感が生まれるわけです。
瞑想というものによって、自分に対するとらわれに気づき、そこから離れる自由に生きる可能性を生み出すような「実感としての理解」が得られることは、このこと一つを取っても十分に興味深いものです。
けれども、さらに瞑想が深まると、世界に対する「統一的な理解」というものが生まれてくる場合があります。
いわゆる「悟り」体験です。
「悟り」が降りてくると、
「『この世界』のすべてが分かってしまう」
ので、とても大きな満足感が得られます。
「世界が分かる」というのは、仏教の教えが個々に体験的に理解されるだけでなく、世界全体を説明する原理としての、仏教的な世界観に間違いがない、と確信が、体感として得られるということです。
ただし、ここで気をつけないといけないことが二点あります。
一つは、理解を得た『この世界』というのは「自分がその時点で把握できている世界」でしかないということです。
『世界』が完全に分かった! と思っても、その『世界』の外にまだ理解していない世界があることに気がつく必要があります。
もう一つは深い瞑想状態で得られた理解は、瞑想のレベルが浅くなって普段の意識に戻ると、夢の体験のように、遠くなって、おぼろなものになってしまうということです。
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ゴエンカさん方式の10日間の合宿コースなどで、集中的に瞑想の練習をすると、こうした「プチ悟り」が訪れる場合がありますし、ぼくも実際そういう体験を何度もしてきました。
するとその度ごとに、理解できる『世界』の大きさが広がっていくわけです。
その結果、
「これは凄い、今度こそ悟ったぞ!」
と思うのですが、やっぱりその意識状態を保つことはできなくて、コースを終えて日常の暮らしに戻り、しばらくしてみると、普段の平凡な意識状態に戻っていることに気づくわけです。
とまあ、今平凡な意識状態でこれを書いていて思うのは、
「ここまで理解できたオレってやっぱ凄いんじゃね?」
ってことです。
もう少し正確に言えば、
「このような理解がこの体に降りてきているとは、この世界の仕組みはなんと玄妙なものだろう!」
ということになります。
もちろんぼくの理解のレベルなど、まだまだ浅いものですから、ここではなるべく客観的に、我を離れた視点から書こうとしてはいますが、どうにも自慢話になってしまっている面についてはご容赦いただきたいと思います。
仏教で説かれる無常・苦・無我や、苦を滅する方法について、個々の体験的な理解が得られ、また世界全体についての統一的理解すら生まれうることは、ヴィパッサナー瞑想の最大の醍醐味だと思います。
しかしながら、その過程においては「オレ悟ったぞ」的な「大きな勘違い」が起きてしまうことも多々あるわけで、これはまったくダサくてかっこ悪いことです。
けれども、そのダサさ、かっこ悪さに気づくことができれば、更なる瞑想の深みへと足を進めていくこともできるわけで、ぼく自身もここに書いたようなことによく気をつけた上で瞑想の練習を続けていきたいと思いますし、これを読んでくださっている皆さんにも何らかな参考にしていただけましたら幸いです。
なお、念のため申し添えれば、瞑想によって得られる体験はまったく人それぞれです。
ここに書いたような経験がないからといって、瞑想がうまくいっていないということにはなりません。
瞑想がうまくいっているかどうかは、日常生活の中で、快不快や、怒り・悲しみなどの感情に振り回されることが少なくなっているか、といったことが目安になります。
「悟り体験」を目的として瞑想をするようなことは、瞑想の進歩を妨げることにつながりかねませんので、くれぐれもご注意ください。
てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
☆ヴィパッサナー瞑想にまつわる初期仏教の考え方については、こちらの本がおすすめです!
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(1999 春秋社)
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ニー仏さんこと魚川祐司氏が、こんな記事を書いてらっしゃいます。
・「自己肯定」という自己否定|ニー仏|note
「人の評価ばかり気にしてはいけませんよ。まず自分で自分を肯定できないと、人生なかなかうまくいきませんから」というような言い方で、自己肯定感の大切さが述べられているのを、あなたもどこかで見かけたことがあるのではないでしょうか。
確かに自己肯定感は重要です。
けれども自己肯定感が足りずに困っている人の中には、ある種繊細な人たちがいて、その人たちは「自分の否定的な面をよく分かっているからこそ、人に言われたからといって簡単には自己肯定感を高めることはできない」とニー仏さんは言うのです。
この記事では「自己肯定感を高めるためには信仰の力が役立つことがある」というニー仏さんの主張を確認した上で、「信仰」の一つの表れとも言える瞑想について、「自己肯定感を高めるために瞑想は使えるか」ということを考えてみることにします。
自己否定をこじらせて、自己肯定ができないあなたへ 自己肯定感を努力で育てるには時間が必要。でも「信仰」の力を借りられれば? なぜ瞑想で自己肯定感を高められるのか? 自己否定をこじらせて、自己肯定ができないあなたへ ニー仏さんはこう言います。
自分の否定的な面を誰よりも自分自身が認識しているからこそ「自己肯定感」がもてないのに、その自分が「自分で自分を肯定する」などというのはまさに自己否定そのものではないか
つまり「自己否定している自分を肯定しても、自己否定しか出てこない」というわけです。
これに対して「見方を変えて、否定的な面を否定と感じないようにする」という対処法が一般にすすめられるのですが、自己肯定ができずに困っている人たちの中でも繊細なタイプの人は、「見方を変えたくらいでは、否定的な面を無視することはできない」ので、そうした対処法は役に立たないというのです。
確かに論理のレベルでは「否定の肯定」は「否定」にしかなりません。
また、言葉のレベルで「あなたが否定しているものは否定する必要のないものですよ」と言われても、「ああ、そうですね、否定はもうやめます」という具合に簡単にはいかないでしょう。
例えばあなたが、自分のやることをすぐ人と比べてしまい、周りの優秀な人よりもできない自分が気になってしょうがないととします。
このことが自己肯定感を持てない大きな理由になっているとすれば、これを一発で治すような対処法は確かにありません。
「人と比べて自分をダメだと思う」というような「こじれた自己否定」を持っている場合は、「その自己否定する自分を受け入れて、その上で自己否定のクセを手放しましょう」と言われたって、「そんなこと、どうすればできるのよ?」と思ってしまうのも当然です。
自己肯定感を努力で育てるには時間が必要。でも「信仰」の力を借りられれば? 「こじれた自己否定」であっても、根気よく時間をかけてつき合えば、自己努力によって悪いクセを減らし、自己肯定感を育てることは可能です。
自分を人と比べているのに気がついたとき、そして人と比べて自分はダメだと思ってしまったときに、そのことを「またやってるな」と確認し、否定しないことが大切です。
初めのうちは「またやってる、これじゃダメだ」と否定してしまうかもしれませんが大丈夫、「自己否定してる自分を、また否定しちゃったな」ともう一段引いて構えればいいのです。
「自己否定を否定」せず、「自己否定を肯定」することに慣れていくと、そもそもの「自己否定」は次第に薄れて消えていくことになります。
初めはぴんとこないかもしれませんが、実際に時間をかけてやってみれば納得がいくはずですので、気が向いたらぜひ試してみてください。
けれども、「そんなことに時間はかけてられないよ」という人もいるでしょう。
そういう人でも、もし「信仰心」があれば、というのがニー仏さんの主張の一つなのです。
つまり、自己肯定の場合は、「自分で主体的に肯定する」必要があるために、古い否定のパターンに邪魔されてなかなかうまく自己肯定できる状態になりにくいのですが、「信仰心」があれば、自分ではない「超越的絶対者」の肯定に頼ることができるため、劇的な効果を得られることもしばしばだ、というのです。
しかし残念ながら、こうした信仰心は「自己否定こじらせ組」のぼくたちが獲得することはかなり難しいものでしょう。
そのとき、「自己努力」と「信仰心」の中間的とも言えるやり方として、瞑想という実践法があなたの役に立つかもしれません。
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なぜ瞑想で自己肯定感を高められるのか? ニー仏さんは
・なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて|ニー仏|note
というご自分の記事をあげて、自己肯定感を持つためのもう一つのルートとして、瞑想をすすめています。(こちらは有料記事ですが、自己肯定感と関連する一部を引用・紹介させていただきます。座禅や瞑想によって経験しうる「無心」と呼ばれる意識状態について、丁寧に説明されていますので、ご関心のある方には是非ご一読をおすすめします)
ただしそこには、「瞑想はこの世における具体的な問題を直接的に解決する手段ではない」という留保をつけてらっしゃいます。
つまり、
自己肯定感を高めるために瞑想をするのは邪道、 ということになります。
ではなぜニー仏さんは、自己否定してしまう人に瞑想をすすめているのかというと、
自己否定で悩んでいる人ならば、生きている以上は逃れられない「終わりのない不満足」に対する究極の解決法としての瞑想に関心があるはずだ、 ということになります。
つまり瞑想は、「個々の具体的な問題」を解決するためではなく、「説明しがたい生きづらさ」や「生きることの無意味さ」といった『人生そのもののに伴う構造問題』の解決策として役に立つものなのです。
確かに瞑想は、自己肯定感を高めるというような目的のためにするべきものではありません。
けれども、ゴータマ・ブッダが「苦」と呼んだ「人生における終わりのない不満足」に終止符を打つことを目指して、あなたが瞑想の練習を続けるとすれば、やがてあなたは「以前のようには自分を否定することがなくなった自分」に気がつくことになるでしょう。
というのも瞑想を通してあなたは、自分が無意識にしていること(たとえば、自分と人を比べて、自分はダメだと否定すること)にはっきり気づくようになり、また気づいても、それを否定しないあり方を体験を通して学ぶからです。
社会学者の宮台真司氏が、「言葉の自動機械」になってしまった現代人について警鐘を鳴らしています。
あまりにも周囲の目を気にしすぎるわたしたち日本人は、現状を客観的に観察し、「承認欲求を超える」自由な生き方を手にすることができるのでしょうか。
あなたも「言葉の自動機械」? 自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 「承認欲求を超える」自由な生き方って何? あなたも「言葉の自動機械」? 「言葉の自動機械」とは耳慣れない言葉ですが、これは社会学者の宮台真司氏の使う言葉で、現代の人間が無意識的に刷り込まれた言葉の構造にしたがって自動的に行動するあり方を批判的に表したものです。
自分が自動機械だと言われたら、あなたはどう感じるでしょうか。
「自分は自由な存在で、行動だって自由に決めている。機械呼ばわりされるおぼえはない」そんなふうに思いますか?
もしあなたが自信を持ってそう言えるのならば、この記事でこれから書くことは、あなた以外の多数派の人の話ということになります。
でも多くのみなさんは、あなたが多数派に属するか、少数派に属するかに関わらず、自分が周りの意見に大きく影響されていること自体は否定ができないはずです。
たとえばネットで流れるニュースを見たとき、あなたの心の中で起きる反応は反射的なものであり、自動的なものです。
そこで感じたことにもとづいて「スキ」をしたり、シェアしたりするとき、あなたは自動的に反応しているのではなく、それをするべきかしないほうがよいか、一つ一つ判断しながら行動しているでしょうか。
誰もが自由意志にもとづいて行動しているのは間違いがないとしても、このように自分の行動を確かめていくことによって、人間の習慣的な行動の多くが自動機械化していることも、また確かな事実であることが分かってくるはずです。
行動を自動的に行なえるようになることには、大きなメリットもあります。
たとえば車の運転は、多くの人にとったかなり難しいことであり、習い始めにはたくさんのことを意識しなければできません。
ところが練習と経験を重ねることによって、初めは意識しなければできなかったことが、無意識にできるように自動化されて、いとも簡単に運転ができるようになるわけです。
問題は自動機械化した行動が、時代の変化によって役に立たなくなったときです。
日本人は自分が属する集団を優先することで、敗戦から素早く立ち直り、経済的な発展をとげることができましたが、この集団優先という自動機械が今や機能不全を起こしています。
機能不全を起こした自動機械化を正すには、一体どうしたらいいのでしょうか。
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自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 宮台氏は、無意識的に行なわれる自動機械的な行動は、意識的に観察することによって是正することができるのだと言っています。
つまり自動的に行なわれる行動を変えるためには、まず自分が無意識のうちに何をやっているかに気づかなければなりません。
自分の行動を観察することがすべての出発点となります。
宮台氏はラカンの思想などを援用して、自己観察による意識の高次化を言うのですが、ここでは瞑想による自己観察をおすすめしたいと思います。
映画監督の想田和弘氏はスリランカの僧侶スマナサーラ氏の『怒らないこと』という著作を「わが人生最高の10冊」の一冊めに挙げています。*1
自動反応的な感情で誰もが悩まされるものとして、怒りは一番大きなものでしょう。
この感情の自動機械から逃れるには、抑えようとしてもうまくいきません。とにかく観察することが必要なのです。自分が起こっているときに、呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察し、心の中で湧き上がる思考や感情を観察できるようになったら、あなたはあと一歩で怒りのコントロールに成功するところまで来ているのです。
普段から呼吸に意識を向ける練習を少しずつ重ねていけば、自分を客観的に観察することができるようになり、自動機械的な行動に悩まされることもだんだんと減っていくことになります。
☆呼吸から始める瞑想法についてはこちらの記事もどうぞ。
たった三回の深呼吸で、マインドフルで充実した日々があなたのものに! - *魂の次元*
「承認欲求を超える」自由な生き方って何? 宮台氏は、物質的な豊かさが飽和し、経済成長が望めない現代の日本においては、sns上でのコミュニケーションに典型的に見られる「承認欲求満たし」という行動様式が問題となっていることを指摘します。
社会的な閉塞感が大きなストレスとしてのしかかる中、ネット上では「承認欲求」をベースにした「相互承認ゲーム」や「相互否定ゲーム」が無間地獄のように繰り返されています。
この状況から抜け出すために「俺ってやっぱダメだな」と自分を笑い飛ばすことを彼はすすめます。
才能や成果を喧伝する社会の中で、あえて自分の「ダメさ」を認めることは、勇気のいることですが、そこで一歩踏み出すことが、社会の圧力が押しつけてくる息苦しさから逃れることにつながるわけです。
宮台氏は「世の中は無意味だ、でもそこそこ楽しい」という考え方ができれば生きていくことができるのだと言います。
*2
これにならって言えば、
「ダメだってかまわない、そこそこ楽しく生きられれば」
ということができるでしょう。
ぼくたちは周りの評価を気にしすぎるあまりに「承認欲求満たし」のゲームにはまり込み、ありもしないゴールを目指して、目の前にぶら下げられた透明のニンジンを追いかけて走り続けます。
けれどもそれが社会から気がつかないうちに刷り込まれて作り上げてしまった「無意識の自動機械」のなせる技なのだと知ることさえできれば、あなたはその「泥沼のゲーム」の土俵から降りることもできるようになるのです。
人類の過去と未来を「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の二冊で書き切ったイスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、毎日二時間の瞑想を欠かさないヴィパッサナー瞑想の実践者であることはご存知でしょうか。
この記事ではハラリ氏の体験と言葉を通して、ヴィパッサナー瞑想の持つ大きな可能性を紹介します。
瞑想は迷信? それともカルト? 瞑想で身につく第一の力は「注意力」 二つ目は、物語と現実を見分ける力 21世紀で一番重要な資源は「注意力」である ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも 瞑想は迷信? それともカルト? ハラリ氏はもともとは瞑想に関心はなく、迷信かカルトだと考えていました。
それが変わったのは、オクスフォード大学で博士課程の勉強をしていたときのことです。
中のよい友だちにヴィパッサナー瞑想をすすめられたのですが、初めは断っていました。けれど一年にも渡ってすすめてくれるので、試しにやってみたのだそうです。
すると彼が受けた瞑想のコースにはまったく神秘主義的な要素がなく、まったく実際的な指示があるだけなのでとても驚いてしまったのだそうです。
その瞑想のやり方はどんなもので、どんな効果があったのでしょうか。
瞑想で身につく第一の力は「注意力」 ハラリ氏は、ヴィパッサナー瞑想に出会っていなかったら、「サピエンス全史」を書くことはなく、今でも中世の軍隊の歴史を研究するだけで精一杯だったろうと語っています。
その彼が、瞑想によって身につく第一の力として上げているのが「注意力」です。
ハラリ氏が実践している瞑想法では、まず自分の呼吸に意識の焦点を当てる練習をします。
そして呼吸に意識を向けることに慣れたら、次に全身の感覚を頭のてっぺんから足のつま先まで順番に観察していきます。
こうして呼吸と体の感覚を対象にして観察を続けることで、意識の焦点をコントロールする力を養い、注意力を高めることになるのです。
呼吸のように身近で分かりやすいものに対して焦点を当てる練習を続けることによって、もっと重要なものに焦点を当てることができるようになるのだと言います。
歴史を研究するとき、無数のディテールの中で何が大切なのかを常に意識し続けるのは難しいことです。あるいは、現代社会について考えるとき、日々起こり続ける膨大な事件の中で何が重要かを判断するのも簡単ではありません。
溢れ返る情報の中で迷子にならず、大切なことがらにきちんと焦点を当て続ける技術を養うために、瞑想は非常に役立っているのだとハラリ氏は言っています。
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二つ目は、物語と現実を見分ける力 瞑想によって身につくもうひとつの大きな力が、物語と現実を見分ける力です。
人間が現実だと思っているもののうち、99%までが心が作り上げたお話にすぎないのだとハラリ氏は言います。
ハラリ氏が実践しているゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想では、基本的に呼吸と体の感覚を観察することしかしません。
そうして自分自身の感覚を見続けることによって、不快感や怒りなどの感情も体の感覚としてとらえられることを経験を通して学びます。
そうして感覚にもとづいて自分の心の動きを確かめられるようになると、この世界について自分が現実だと思っていたことの多くが、実際には物語でありフィクションでしかなかったことが分かってくるのです。
わたしたちの人間のほとんどが、宗教的な物語やナショナリズムの物語、あるいは流行りの経済の物語などに飲み込まれ、それが現実であると錯覚してしまいます。
その錯覚に気がつき、現実をありのままに見るために、ヴィパッサナー瞑想が役に立つというわけです。
そしてハラリ氏は、自分の歴史家としての仕事は、人類が数千年に渡る歴史を通して作り出してきた物語と現実との違いを明らかにすることにあるのだと言うのです。
21世紀で一番重要な資源は「注意力」である 意識の焦点をどこに向けるかをコントロールすることこそが瞑想の技術であるとハラリ氏は考えています。
この「注意力(attention)」をきちんと重要なものに向けなければなりません。何が重要かといえば、現実こそが重要なものです。
そして現実の中でも分かりやすい呼吸から始めることで、間違いなく注意力を養い、物語と現実を見分ける力をつけることができるのです。
言葉によるコミュニケーションを身につけ、やがて書物を生み出し、新聞やテレビというマスメディアが発達し、インターネットが登場しスマートフォンが普及することによって、わたしたちの注意力は「社会的な物語」に吸い寄せられ、呑み込まれてしまうようになりました。
この「注意力」という有限な資源をメディアとテクノロジーに無条件に手渡してしまうことなく、自分できちんと手綱を取ることは、あなたが人生をよく生きるために大きな意味を持つはずです。
「注意力」を自分でしっかりコントロールし、社会が作り出す「巨大な物語」とは距離を取って、感情的になることなく、現実をありのままに見ることは極めて難しいことです。
この難事業をやり遂げるためにヴィパッサナー瞑想は大いに役立ってくれるはずです。
ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも ハラリ氏が実践するゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想は、初めての人でも朝から晩まで座りっぱなしで、10日間の合宿期間中、先生への質問以外は無言で、夕方一時間の講話を聞く以外は、読み書きもできないという、かなりシリアスなコースです。(外部との連絡も緊急時以外はできません)
ゴエンカ式の実践者は、朝と晩にそれぞれ一時間の瞑想をするようにすすめられており、ハラリ氏も2000年に初めてコースを受講して以来ずった続けているとのことです。
また、ゴエンカ式では、初心者向けの10日コース以外に、20日・
マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想に興味のあるあなたに朗報です。
瞑想って実はとっても簡単で、しかも効果抜群なんです。
なにしろ、
気が向いたときに「鼻から三回深呼吸する」、 たったこれだけのことを続けていけばいいんですから。
簡単すぎて、信じられませんか?
それではもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
※なお、この記事ではマインドフルネスもヴィパッサナーも含めてすべて瞑想と呼ぶことにします。
なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 判断せずに今を受け入れる。瞑想の長期的な目標は「好き嫌い」をなくすこと。 「好き嫌い」がなくなったら、人生味気なくない? なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 瞑想の効果にはいろいろなものがありますが、たとえば、
頭がスッキリする、 頭の回転がよくなる、 気持ちが落ち着く、 自分に自信が持てるようになる、 といったことが挙げられます。
どうしてこういう効果があるかというと、
頭の中を空っぽにすることで、 悩みごとが少なくなり、 余計なことに頭を使わなくてすむようになるから なんですね。
悩みごと、考えごとが減れば、頭はスッキリし、スッキリした頭は回転もよくなります。
頭がスッキリすれば、気持ちも落ち着くし、気持ちが落ち着けば、自分に自信が持てるようになるわけです。
それで、実際の瞑想のやり方ですが、
鼻から胸いっぱいに、ゆっくりと息を吸う、 同じくゆっくりと長く、全部の息を鼻から吐き出す、 このとき吸っている息と吐いている息に意識を集中する、 これを三回繰り返す、 というだけの簡単なものです。
(できれば吸う息も吐く息も鼻からがいいのですが、やりにくければ、吐く息は口からでもかまいませんし、鼻が詰まってしょうがないときは口からでもいいでしょう)
3番目の吸う息と吐く息に意識を集中する、というところが大切です。
何か考えごとをしながら呼吸をするのではなく、
鼻の穴を入っていく空気は冷たいか、 鼻からのどを通って肺にまで入っていく空気が感じられるか、 肩や胸、お腹はどんなふうに動いているか といった自分の体の感覚や動きをよく意識して観察してみてください。
こうして意識を今自分の体に起こっていることに向けることで、頭を空っぽにして、心と体のバランスを取り直すことが可能になります。
わたしたちは過去を思い悩み、未来を心配することで、知らず知らずのうちに頭を使いすぎてしまい、体も緊張して、リラックスできない状態になっています。
体には本来、自分の元気を回復させるための仕組みがあるのですが、緊張しすぎるとその仕組みがうまく働かなくなってしまいます。
三回深呼吸の瞑想によって頭を空っぽにしてやることで、体が本来持っている元気を回復させるためのプロセスを活性化してやれば、心と体のバランスも自然に回復することになるのです。
気がついたときに三回の深呼吸をするだけでも、それが一週間、二週間、そして、ひと月、ふた月と経っていくうちには、瞑想の効果がはっきりと感じ取れるようになるでしょう。
また、余裕があれば、三回に限らず、時間の許す限り何回でもやってみるとさらに効果が上がります。5分から15分もすると、かなりはっきりと心が落ち着くのが分かってくるはずですし、1回30分から1時間程度を自然にできるようになれば、あなたはすでに瞑想の中級コースに足を踏み入れたことになります。
無理をせず自分のペースで、瞑想を楽しんでみてください。
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グーグルが研修プログラムとして採用したため、現代のアメリカのビジネス界で非常に有用視されるようになったマインドフルネスですが、ネット上であれこれ見ていると、日本でも静かなブームがやってきているのが分かります。
映画監督の想田和広さんは、スリランカのお坊さんスマナサーラさんとこんな本
観察 「生きる」という謎を解く鍵 単行本 – 2018/1/25
アルボムッレ・スマナサーラ (著), 想田和弘 (著)
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を出していますし、このサイトでも何度か紹介したビジネスマン・ブロガーのふろむださんは、こちらの記事でご自身の瞑想方法を紹介しています。
・意外と知られてない、おっさんでも頭のキレと集中力が一日中続くようにする方法 - ふろむだ@分裂勘違い君劇場
この記事では、マインドフルネスについて簡単に紹介したあと、その大本になった初期仏教のヴィパッサナー瞑想についても少し細かい点まで説明しますが、マインドフルネスについてよく知りたいと思っているあなたなら、読んでおいて損はないはずです。
マインドフルネスとは 仏教におけるマインドフルネス 呼吸を使ったマインドフルネスの実際 ゴエンカさん方式とその他のヴィパッサナーとマインドフルネスの関係 マインドフルネスとは マインドフルネスという言葉は、今この瞬間に起こっていることを、知的に判断することなく、客観的に観察することを意味します。
日本では「念」という言葉で知られる仏教の言葉を英語に訳したもので、現代の言葉で言い直せば「気づき」ということになります。
ベトナムのティク・ナット・ハンさんというお坊さんなどのもとで禅の修行をしたジョン・カバット・ジンというアメリカの学者が精神療法に取り入れたことが、アメリカのビジネス界にマインドフルネスが広まるきっかけとなりました。
マインドフルネスの練習では、今起こっていることに意識を向ける練習をします。
人間というものは、昨日のことを思い悩み、明日のことを心配し、あれやこれやと考え続けることで、自分にストレスをかけ、苦しみを作り出すやっかいな動物です。
その苦しみが、
今ここで起こっていることにきちんと注意を向けることができさえすれば、時間はかかってもだんだん解消していく、 というのがマインドフルネスの基本原理なのです。
そうしてさまざまな苦しみに悩まされる時間が減っていけば、勉強もはかどり、仕事もうまく生き、人生も楽しく生きられるようになるというわけなのです。
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仏教におけるマインドフルネス 漢訳の仏典の中に大安般守意経というものがあり、これはアナパナ・サティというインドの経典名を「アナパナ→安般(音を当てた、呼吸の意味)」、「サティ→守意(意味を当てた)」として訳したものです。
このサティという言葉が、「マインドフルネス=念=気づき」のことなのです。
そして「アナパナ=呼吸」こそが、気づきの対象として意識するべき一番大切なものということになります。
呼吸は自律神経によって制御されていますから、みなさんもよくご存知の通り、自分では意識しないでも自動的に行なわれるようになっています。
同時に意識することによって、止めることも出来れば、ゆっくりすることも、速くすることもできます。
呼吸には無意識と意識の両方で制御されうるという性質があるため、呼吸を意識することで、自分の無意識的あり方に気づき、ストレスを減らしていくことが可能になるのです。
普段から呼吸を意識して行なうだけで、「今自分に起こっていることを判断せず客観的に見る」というマインドフルネスの力を養うことができるようになるということです。
呼吸を使ったマインドフルネスの実際 マインドフルネスの練習は慣れてしまえば、いつでもどこでも気がついたときにできるようになるのですが、はじめのうちは朝起きてすぐや、夜寝る前など時間を決めて、五分程度からやってみるといいでしょう。