仏教の教えは、人生で出会うあらゆることが「苦」を生むという事実を確認することから始まります。 その上でその「苦」を乗り越えて「涅槃」という絶対的な安らぎの境地を実現する具体的な方法としての「八正道」が説かれます。 この記事では「苦」というものが、「どんなに満ち足りても満足することができない人間の限りない欲望」を原因とすることと、それを解決するためには「今ここをいつも意識する」というマインドフルネスの方法論が有効であることについて、 「予測・満足・制御の不可能性」という観点から説明します。 無常だから苦が生まれる。予測と満足の不可能性について。 自分と言えるものは本当はない。「無我」と「制御の不可能性」 八正道とマインドフルネス。「今ここを意識する」ことからすべては始まる。 今ここに意識をしぼることができれば、予測も満足も制御も、意識的にする必要はなくなる。 無常だから苦が生まれる。予測と満足の不可能性について。 仏教では、この世のすべての現象は「無常」であると説明します。 変化しないものはない、物事はやってきては去っていく、生まれたものはいずれは死ぬときを迎える、ということです。 そして、この「無常」の物事に執着することから「苦」が生まれると考えるのです。 恋人と過ごす時間は甘美で幸せなものですが、それが永遠に続くことはありません。 いずれは関係性は変わらざるをえないのに、いつまでも「今の幸せ」を握りしめて手放そうとしないとすれば、いつの間にかそれは変質して、幸せだった二人の時間が、互いに相手を支配しようとする苦痛の時間になりかねません。 この「無常」ということを別の視点から考えると、「将来を予想できない=予測の不可能性」ととらえることもできます。 今は幸せな恋人との関係が、将来どうなるかが分からないために、不安をいだき、今の状態に執着することにつながるわけです。 そして将来への不安や、関係性の悪化という「苦しみ」は、「現状に満足できない」ということでもあります。 今ある幸せな関係に満足できず、それが壊れたときにも、壊れてしまったという事実を受け入れることができないとき、そこには不満が生まれ、苦しみが生まれます。 「苦」という言葉の意味は、「この世では完全な満足は得られない」ということなのです。 自分と言えるものは本当はない。「無我」と「制御の不可能性」 「無常・苦・無我」の三番めの無我は、「これこそが自分と言えるものは本当はない」ということを意味します。 このことの一つの考え方として、「自分といえるものがあるなら、それを制御(コントロール)できるはずだ、だけれど本当に制御できているだろうか」という問いかけがあります。 仏教では生老病死を「苦」の代表として考えますが、あなたは生まれるかどうかを自分で決めて生まれてきたでしょうか。 老いることが嫌だからといって、老いないことにできるでしょうか。 病気になるかならないかを自分で決められますか。 そしていつか死ぬことは避けられません。 自分の行動は自分で決めている、とあなたは言うかもしれません。 けれども、それだって本当でしょうか。 あなたは怒りたいから怒るのですか。周りの状況に反応して怒っているだけではないですか。怒ってしまったときに、怒るのをやめることができますか。 喜びや悲しみなどの感情も同じことです。自分でコントロールできないのに、その感情は自分のものだと本当に言えるでしょうか。 ここで「自分が本当はない」という考えに納得がいくかどうかは、一旦置くことにしますが、「無我」という考えが「制御(コントロール)の不可能性」と大きく関連していることは理解していただけたことと思います。 さてそれでは「予測・満足・制御」が十分にはできない人生を幸せに生きるためには一体どうしたらいいのでしょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 八正道とマインドフルネス。「今ここを意識する」ことからすべては始まる。 仏教では「苦から逃れ、幸せに生きるためには八正道を実践すればいい」と考えます。 八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つです。 正見、正思惟は、正しい見解と正しい考え方のことで、この二つを合わせて、智慧とします。 正語、正業、正命は、正しい言葉、正しい行ない、正しい生計の立て方のことで、この三つを、倫理とします。 最後に、正精進、正念、正定は、正しい努力、正しい注意力、正しい集中力のことで、これが瞑想を意味します。 以上のように八つの道が、智慧(慧え)・倫理(戒かい)・瞑想(定じょう)の三つに分類されます(戒定慧の順番で呼びます)。 この八つの道がそれぞれに支えあって、幸せな人生が実現していくのですが、このうちの一番大切なものといってよいのが、瞑想(定)に分類される正念(しょうねん)、正しい注意力で、これがマインドフルネスのことです。 今ここで起こっていることを価値判断を加えずに観察すること、それがマインドフルネスであり、呼吸に注意を向けることがその第一歩になります。 今ここに意識をしぼることができれば、予測も満足も制御も、意識的にする必要はなくなる。 予測できない、満足できない、制御できない。 人生における困難や不幸はすべてこうした状況で起こります。 そして、こうした困難な状況を乗り越えるための基礎的な力として、マインドフルネスは役立ちます。

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ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンはマインドフルネスがアメリカの精神療法に取り入れられるきっかけを作ることになった人物である。 マインドフルネスと並んで彼が提唱している重要な概念がインタービーイングであり、日本語にすれば「相互存在」というところだろう。 インタービーイングという言葉は「この世界の中の存在は、個別に独立して存在しているのではなく、相互に依存しあって存在している」ということを意味している。 ティク・ナット・ハンは「一枚の紙の中に雲を見る」ということについて、インタービーをこう説明している。 もしもあなたが詩人なら、この紙のうえに雲が浮かんでいるのが、はっきり見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、木は育ちません。そして木がなければ紙はできないのですから、この紙がこうしてここにあるために、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったなら、ここにこの紙は存在しません。それで雲と紙はインタービー(相互共存)しているといえるのです。 interbeing | ともにあること (以上、『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』https://amzn.to/378RGIr の一節を孫引き) ティク・ナット・ハンは1966年にティエプ・ヒエン教団を立ち上げているが、ベトナム語のティエプ・ヒエンは漢字では「接現」となり、「接=接する、続く」、「現=現れる、今ここに現す」の意味で、これをナット・ハンは「インタービーイング」と訳した。そして、インタービーイングは仏教の教えのうちの「無我、十二縁起、中観」を意味すると説明している。 *1 漢語としての接現は、「今ここに現れ続ける」と解せるが、その背後に「相互存在として」という意味が隠されているということなのだろう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 先ほど「一枚の紙に雲を見る」という話は、実は般若心経の内容を説明するためのものである。*2 ナット・ハンはインタービーイングを「無我、十二縁起、中観」と説明しており、般若心経は「中観=空(くう)」を説く経典であるから、その意味では納得できる。 そして、「あらゆるものの本質は空である」ということと「十二縁起=この世の全ては因果の連鎖によってつながっている」ということを合わせたとき、「紙の中には雲がある=すべての存在は、相互に依存して存在している」という説明の意味も十分に理解ができる。 この説明の仕方は、般若心経に新たな光を当て、新鮮な風を送り込むものとして、すぐれた解説だと言える。 しかしながら、「納得」も「理解」もできるが、インタービーイングという言葉が「般若心経の心」を表し、「無我、十二縁起、中観」をまとめて表現するためには、もう一つの「補助線」が必要である。 それが華厳思想の一即一切(いち・そく・いっさい)という考え方である。 これは「一即多・多即一」とも言われるが、「一つのものにすべてのものが含まれ、すべてのものが一つのものとして統合されること」を意味する。*3 ナット・ハンは、この考え方をインタービーイングという言葉に込めたわけである。*4 上座部系の瞑想実践においては、「気づき=マインドフルネス」とともに、「慈悲=コンパッション」が強調されるが、ナット・ハンの場合には、インタービーイングという言葉を通して、「世界のすべての存在がともに平和にあること」の大切さを説くことで、慈悲と同等の価値を説明しているわけだ。 以上、インタービーイングと華厳思想の関係についてネット上で解説している記事が見当たらなかったので、覚書の作成まで。 ☆今回参照したティク・ナット・ハン師の著作 「微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践」 https://amzn.to/378RGIr 「仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす」 https://amzn.to/3nXTVVd ※誤字・脱字など乞う寛恕。連絡も歓迎。 *1:http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Interbeing より *2:http://www.ne.jp/asahi/bodhipress/way/news/kimoti.html 参照 *3:http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%8D%B3%E4%B8%80%E5%88%87 参照。なお、一即一切は華厳経の言葉ではなく、華厳経を解説した『華厳五教章』の言葉なので、厳密にはここで取り上げるべきは「相即相入」なる概念なのだが、次の注の参照ページ内の棚橋氏の説明に合わせるため、「一即一切」を説明した。相即相入については http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%9B%B8%E5%8D%B3%E7%9B%B8%E5%85%A5 参照。ティク・ナット・ハンは相即相入を英語で interconnectedness と説明していると思われる *4:『ビーイング・ピース』の解説で訳者の棚橋氏が華厳経について言及している。 http://blog.livedoor.jp/t2san/archives/50441740.html 参照

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仏教では「一切皆苦」といい、「生老病死のすべてが苦である」とも言います。 日本では仏教が葬式と結びついていることもあり、これだけを聞くと、 「仏教って悲観的で辛気臭いよな」 と思ってしまいがちです。 けれども仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが実際に言ったのは、 「この世のすべては苦しみの元になりうるが、正しいものの見方を身につければ苦しみを離れて、幸せな人生を送ることができる」 ということです。 実際のところ、ぼくたちの人生は思う通りにはならない、不自由なものです。 お金がもっとほしいと思ったからといって、お金が入ってくるわけではないし、素敵な恋人がほしいと思ったからといって、理想の恋人が見つかるわけではありません。 仏教における「苦」というのは、こうした「思い通りにはならないこと」からくる「不満足」のことであり、また、イヤでもやってくる「ストレス」のことでもあります。 そして仏教では、こうした「苦≒不満足≒ストレス」が生じる原因は、ぼくたちがこの世界の現実をよく理解していないからだ、と説明します。 この無理解のことを「無明」と呼びます。「真実を明らかに知っていない」という意味です。 ここで理解するべきだという「この世界の現実」というのは、 「この世のすべてのものは変化するものであり、不変のものは何もない≒無常」 という事実と 「すべてが無常であるとき、これこそが不変の自分であると言えるようなものも存在しない≒無我」 という事実の二つのことです。 ☆無常と無我についてはこちらの記事もどうぞ。 ・初期仏教における「無我」の考え方。あるいは、自分を体や感情と同一視しないこと。 - *魂の次元* ・「怒り」というやっかいな感情とどう向き合うか。あるいは、「怒り」についての私的考察。 - *魂の次元* 無常と無我の考え方を理解してかていないと、「変わりゆくもの」と「自分や自分のものと思い込んでいるもの」に対する執着が生じ、この執着が「苦しみ」原因になるというのが仏教の考え方です。 たとえば「お金がたくさんほしい」と思って、もしも実際にお金が得られても、使ってしまえばなくなってしまいます。 お金を使った得られた満足で、そのときは幸せな気持ちになれたとしても、過ぎ去ってしまえば、もうその満足はそこにはありません。 頭で思い描く「素敵な恋人」に出会えた場合も、恋い焦がれて夢中のときには、会うだけで幸せな気持ちになれるでしょう。 けれども逆に言えば、会えないときは不幸せな気持ちになりかねませんし、最初のときめきが過ぎてしまえば、そこには不満が生まれてくるおそれもあります。 変化するものに執着している間は、瞬間瞬間の満足は得られても、心の安らぎは得られないのです。 ここで発想を逆転させてみましょう。 無常と無我という考え方をよく理解した上で、無常で無我なこの世のものごとに執着することをやめてみるのです。 ほしいものを握りしめて「絶対手放さないぞ」と思ったり、逆にイヤなものを毛嫌いして「こんなものどこかへ行ってしまえ」と思ったりすることをやめます。 ほしいものを手に入れても、それがいずれはなくなることをはっきりと知り、イヤなものが現れても、それもいずれはなくなることもはっきりと知るのです。 そうすれば、ほしいものが手元になくても、イヤな気分にならず、いつも落ち着いた気持ちでいられます。 また、イヤなことが起こっても、それは永遠に続くわけではなく、やがて去っていくのですから、しばらくの間、辛抱してつき合うことにすれば、それによって心が乱されることもなくなります。 このように「選り好みも毛嫌いもしない≒執着心がない」状態になれば、どんな状況に置かれても、苦しみを感じず、不満も感じず、ストレスとも思わないような心境でいることができるようになるのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 人生から苦しみをなくしたければ、執着心をなくせばいい。 言葉にしてしまえば、簡単なことです。 けれどもこれを実際に実行するのは、なかなか難しいことになります。 ほしいものが手に入らなければ不満に思い、イヤなことが起これば不愉快に思う。それが人間というものです。 けれども、もしあなたが本当に幸せになりたいのなら、今この瞬間にも「執着心をなくすぞ!」と決意する必要があります。 「自分にはできる!」と信じて決意し、それを持続的に実行していくことができれば、あなたは少しずつ理想の状態に近づいていくことになるのです。 まずは鼻から三回深呼吸をして、体と心の余分な力を抜いてみてください。 力を抜いてリラックスすれば、今までは使えずに垂れ流しになっていた心の力が、意味のあることに使えるようになります。

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ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。 一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。 もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。 これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。 後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。 この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。 けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。 たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。 曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。 ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。 どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。 仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。 「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。 たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。 このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。 初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。 三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。 こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。 初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。 けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。 同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。 その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。 「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。 仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。 仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。 瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。

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前の記事では、仏教の「無我」という考え方について説明しました。 https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga 私的なことですが、今日は怒りを相手にぶつけてしまう体験をしたので、そのことを「無我」の考えともからめて書いてみます。 「怒り」という感情はやっかいなものです。 自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、それを抑え込んでも、あとあとに悪い影響を残しますし、相手に直接ぶつけたりすれば、これも大きな問題になりかねません。 そこで「怒り」という感情を押さえつけず、そして外に出しもせず、きちんと観察することで対処しましょう、というのが、ヴィパッサナー瞑想のやり方になるわけです。 もちろん、これは簡単なことではありません。 「怒り」に心が乗っ取られてしまっているときには、それを冷静に観察することなどできるものではありません。 けれども、瞑想の練習にある程度慣れてくれば、怒りが少し収まってきて、自分が怒っていることに気づいた時点で、「あ、今自分の中に『怒り』があるな」と観察し、「息が荒くなってるな」とか「頭に血が上ってるな」などの体の感覚を観察することができるようになります。 そうして「怒り」と、それに伴う体の感覚を観察し、それが次第に弱まっていき、やがては消えてなくなるところまで見届けることができれば、これが一番理想的と言えます。 「この世に起きることはすべて一時的なものであり、生じては消えていくものにすぎない」というのが、仏教において無我と並んで重要な「無常」という考えの意味するところです。 * * * さて、「怒り」のような強い感情が生じて、しかもそれを相手にぶつけてしまった場合、そのことがどうしても頭から離れない、というようなことが起こります。 今日のぼくの場合は、怒りを相手にぶつけてしまったこと自体は、それはそれで自然な反応であり、それを「悪いこと」と考える必要はないのだ、と頭では納得できていました。 けれども、「怒りを相手にぶつけるのは悪いことだ」という考えが染みついているもので、後味の悪さが残ってしまい、しばらくの間「怒りをぶつけてしまったこと」が、繰り返し頭に浮かんできました。 こうして思考がとらわれた状態になると、「自分は悪くない、相手がこうしたから悪いのだ」といった相手を責めて、自己正当化をすることになりがちです。 そうやって自己正当化をしてしまうと「本当は怒りをぶつけないほうがいい」のに、「怒りをぶつけても構わないのだ」と勘違いすることになります。 ですから自己正当化をしている自分に気づいたら、「あ、また自己正当化をしているな」と確認した上で、「でもやっぱり怒りはぶつけないほうがいいぞ」と正しい方向に考えておくことが大切です。 幸い今日はそうした自己正当化には陥らずに済み、何度も怒った事実が思い起こされることで「『自分は怒りをぶつけてはいけない』と強く思い込んでるんだなぁ」と確認することができました。 こうして自分のクセが確認できれば、時間はかかりますが、段々とそのクセをなくしていくことができます。 このようにして、そのときそのときに自分に起きていることを肯定も否定もせずに観察し、確認していくことが、いわゆるマインドフルネスの練習ということになります。 * * * 「自分は怒りっぽい」とか「自分は意志が弱い」とか、いろいろな思い込みをぼくたちは持っているものです。 けれども、自分というものも変化をし続けるものであり(無常)、「怒り」とか「意志の弱さ」とかいうものは、あるときのあなたの状態としては存在しても、それがあなただというわけではありません(無我)。 そして、無常で無我である様々なものに執着するとそれが苦しみを生むもととなるのだ、というのが仏教の世界観です。 逆に言えば、この世のすべてのものが無常で無我であると理解できれば、すべての苦しみはなくなってしまうのです。 すべての苦しみがなくなるなんて、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。 けれども、この大それた主張が仏教の第一原理になりますので、それについては次の記事で説明したいと思います。 てなことで、みなさんそれではナマステジーっ♬ ☆なお、マインドフルネスの背景にある仏教的世界観について知りたい方には、こちらの本がおすすめです。 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法」(1999 春秋社) https://amzn.to/2CdFQ2M

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「瞑想で一番大切なのは、物質や心理的現象を自分と同一視することをやめることだ」とビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師は言っています*1。 別の言葉で言えば、初期仏教における瞑想の大きな目的の一つは、「無我を体験的に理解すること」なのです。 そして「無我」という考え方が腑に落ちれば、人生における厄介ごとは格段に減ります。 「無我」というのは、「普段あなたが自分だと思っているものは、よくよく観察すれば自分だとは言えない。『これが自分だ』と言えるようなものは何もない」ということです。 「自分」とか「自分のもの」とかいう考えに慣れ親しんでいるわたしたちは、「自分は存在しない」などと言われたら、驚き、傷つき、がっかりしたり、否定したりするかもしれません。 けれども、落ち着いて検討してみれば、この考えは決しておかしなものではないことが分かります。 たとえば誰かが、あなたを傷つけるようなことを言ったとします。 あなたは不愉快に思い、何か言い返してやろうかと考えます。 つまりあなたは「怒った」のです。 ですが、これを「無我」の視点から眺めると、別のことが言えます。 イヤなことを言われたあなたの中に「怒り」の感情が起こります。けれどそれを自分と同一視する必要はないのです。 ただ「自分の心に『怒り』が生じたこと」を観察するにとどめ、それに反応して「相手に言い返す」ことはやめておきます。 言い返せば相手はさらにイヤなことを言ってくるかもしれません。 余計なことは言わないのが得策というものです。 こうして「自分が怒った」と捉えることをやめ、「自分の中に怒りが生じた」と考えるようにするのが、「無我」を理解する第一歩です。 この視点に慣れてくれば、自分と感情を同一視しないですむようになり、自分の体を自分だと勘違いすることもなくなっていきます。 いずれは、「自分は歩いている」と考える代わりに、「この体が歩くという動作をしている」というように、完全に自分を取り払った捉え方もできるようになるはずです。 そうなれば、自分を特別視することもほとんどなくなりますから、執着や怒り、好き嫌いなどの感情に左右されることも、格段に減ります。 ☆『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社) https://amzn.to/3k3Gvox こちらの本はウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。 中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。 *1:"snow in the summer" p.11, https://holybooks.com/snow-summer-sayadaw-jotika/

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書評家の冬木糸一氏が 薬物はどのように精神を変質させるのか?──『幻覚剤は役に立つのか』 - 基本読書 という記事で、幻覚剤のもたらす変性意識の医療的意義について紹介しています。 アメリカのジャーナリスト、マイケル・ポーラン氏が自らの幻覚剤体験を踏まえて書いた 「幻覚剤は役に立つのか」 https://amzn.to/2MRIwEW を通して、冬木氏の紹介は興味深くも的確ですが、残念ながら氏にとっては「LSDやマジックマッシュルームは『やばいドラッグ』」であって、氏自身はそうした薬物の経験をお持ちではありません。 この記事では、マジックマッシュルーム、大麻などの経験とともに、ヴィパッサナー瞑想も練習している者として、幻覚剤の効果と社会的意義を、その危険性も含めて素描してみます。 ガン患者の世界観変容 幻覚剤による変性意識の実際 バッドトリップの恐怖 幻覚剤は脳神経をどう活性化させるのか 幻覚剤の使用は倫理的に許されるのか? ガン患者の世界観変容 冬木氏はまず、ガンの末期患者に対して行なった、マジックマッシュルームの主成分サイロシビンの投与実験を紹介しています。 これは、余命宣告をされ、自分の死と向き合うことを余儀なくされた人たちが、幻覚剤による意識変容によってQOL(クォリティ・オブ・ライフ)を高めることができるか、という問いかけです。 それぞれが、身体によって認識する自己というものを超越し、自我からの解放を経験する。ジャーニーから戻ったとき、患者さんたちは新たな視野を手に入れ、すべてを受け入れる境地に至っている。 実験をした研究者はこのように述べたとニューヨーク・タイムズは伝えているそうです。 これについて「一時的にラリってハッピーになってるだけなのか」というのが、冬木氏の関心の置きどころです。 そして氏は、幻覚剤の投与による変性意識状態の脳科学的考察を経たのち、 「一時的に死の恐怖を忘れられるだけでなく、長期にわたって死に対する恐怖感などが減じ、世界観自体ががっと切り替わる(ことがある)のは確かなようである」 と結論しています。 ぼく自身の経験に即して言えば、マジックマッシュルームによる変性意識の体験*1は、理性的な思考だけでは届かない、体感と情動が一体となった深い認識への扉を開いてくれることになりました。 アルコールでしか変性意識の体験がない日本の多くの方は、薬物を摂取して得た、「歪んだ認識」にどんな価値があるのか、と疑問を感じるところでしょうが、人間がいつも経験している普段の認識こそが、「理性や習慣の枠に狭められて歪んだ色眼鏡越しに見ている、一種の催眠状態にすぎない可能性」をここで思い描いていただけたらと思います。 幻覚剤による変性意識の実際 マイケル・ポーラン氏はLSDによって、家族の顔が次々と浮かび、深い愛情に満たされる経験をします。 またサイロシビンによっては、 「私は確かにここにいるのだが、私自身とは別の何かになっている。そして、感情や感覚を持つ自分はもういないのに、なんとなく穏やかで満ち足りた感じは残っている」 と感じます。 そしてソノランデザートヒキガエルからとれる幻覚剤*2を摂取したときには、 「私が消失し、紙吹雪のごとく吹き飛ばされて、「私は存在する」という感覚すら消え、「死ぬとこんな感じがするのか?」 という問いが浮かんだとのことです。 ここに引用したポーラン氏の体験では、自意識の体験の変容が強調されていますが、人により、時により、体験は多様です。 マジックマッシュルームによるぼくの体験で印象的だったものの一つは、空に浮かぶ雲が、巨大で邪悪なマシュマロマンに見えたことです。 我々の理性は「空にマシュマロマンなどいない」と言ってそれを否定します。けれども自分の脳の神経回路がそこにマシュマロマンを見てしまっている以上、その体感を否定することはできません。 記憶や感情を司る領域が視覚情報処理領域とじかに交流するようになれば、希望や恐怖、先入観や感情が視覚に影響を与えはじめる。まさに、原初的意識の特徴であり、魔術的思考につながるレシピである。 とポーラン氏が書くように、魔術的思考が自分の身のうちに存在することを、幻覚剤は教えてくれるのです。 そしてこのような「幻覚作用」は、単に奇妙で興味深いものであるにとどまらず、普段の意識ではつながらないものをつなげることで、新しい科学的発見につながる可能性もあれば、世界観の変容をもたらす可能性も持つのです。 さて、サイロシビンなどの幻覚剤は、脳内のさまざまな神経伝達物質の作用に対してアクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりすることで意識の状態を変性させます。 こうした意識変性作用は、幻覚剤をどのくらいの量摂取するかによっても当然異なってきますが、同時にどういう気持ち(セット)で、どういう環境(セッティング)のもと摂取するか、によっても大きな影響を受けます。 ポーラン氏や実験を受けたガン患者の人たちは、安全かつ十分な効果がある量の幻覚剤を、落ち着いた気分で、安心できる環境のもと用いることで「よいジャーニー」をすることができたわけです。 逆に言えば、不安がある状態で幻覚剤を摂ることは、精神の安定をそこない危険を招くことにもなります。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ バッドトリップの恐怖 たとえば、世界最強の幻覚剤であるLSDを不用意に摂った結果、自分に体があるのかないのかが分からなくなり、自分に体があるのを確かめようとして、体を切り刻んでしまったというエピソードを何かの本で読んだことがあります。*3

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きみは幸せなの?それとも不幸せ? まあそれは、どっちでもいいんだけど。 問題はきみが今より幸せになりたいかどうかってことでね。 もしきみが今より幸せになりたいってんなら、ちょっとぼくの話を聞いてみてよ。 1. 自分も世界も、今のままで完璧である。 2. 自分も世界も、今よりさらに完璧になっていく。 3. 自分と世界の完璧さは、ここから周りに広がっていく。 1. 自分も世界も、今のままで完璧である。 きみは自分に自信があるかな?そしてこの世界を信頼してるかな? これもほんとは、どっちでもいいんだけどね。 今きみが自分に自信があってもなくても、世界のことを信頼していてもいなくても、きみが今よりも幸せになりたいと思うんのなら、まずは自分も世界も「今のままで完璧」なんだってことを知らなくちゃいけない。 きみは人生うまくいかなくてため息ばかりついているのかもしれない。そしたら、あっちにもこっちにも地獄のような落とし穴が散りばめられた世界が完璧だなんて、そんな話はありえないって思うかもしれない。 きみがそう思うのはまったく自由なことだけど、本当の幸せを手にしたいってんなら、そんなクソったれな思い込みは今すぐトイレにでも流しちまうんだ。 もちろん、この世界の完璧さが分かるようになるのには時間がかかる。 この世界が今のままで完璧だなんて、そんな途方もない考え方がすんなり受け入れらたら、その方がよっぽどおかしいってもんだ。 けどよ、そのおかしさが、ちょいとばかり今は必要なのさ。 疑い半分でもいい。騙されたつもりでもいい。 自分も世界もひょっとしたら完璧かもしれない、そういう可能性もゼロじゃないなって、まずはそのくらい思えたら上出来ってわけでね。 2. 自分も世界も、今よりさらに完璧になっていく。 それでだ、仮に今の自分も世界も完璧だっていうんなら、今以上に何かをする必要もないし、極端な話をすれば生きてる必要だってなくなっちまう。 そういう話だったら、ちょっとつまらないわな。 そこで次のステップに進もう。 自分も世界も今のままで完璧なんだが、実のところこいつらは、さらにその完璧さを深めていくことができるんだ。 きみが経験を積むごとに、そしてその経験を周りに伝えていくごとに、自分と世界の完璧さは深まっていく。 もちろん後戻りもあるさ。 世界の深化は直線的なものじゃない。藪の中をめぐって、山道を登り下りして、行ったり来たりを繰り返しながら、螺旋を描いて深化は進むんだ。 初めのうちは深化が進んでるなんて実感できないだろう。ただ堂々めぐりをしてるようにしか思えないに違いない。 でも万が一堂々めぐりだったとしても大丈夫。だって初めっからこの世界もきみも完璧なんだから。 完璧なものをわざわざ変える必要なんてないんだ。変えようとするまでもなく変わっていくんだ。その変化を楽しめばいいだけのことなんだ。 変化が苦しいときもあるだろう。だけど苦しさだって、前向きに受け止めることができれば、喜びを生むための肥やしになることに、きみはじき気づくだろう。 変化を怖れちゃいけない。変化することも完璧さの一部なんだ。世界と自分を信じて、思い切って変化に身を任すのさ。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 3. 自分と世界の完璧さは、ここから周りに広がっていく。 きみは自分がいつも宇宙の中心にいることに気づいてるかな? そんな突拍子もないことを言われても、どう答えていいか分からないかね? まあ、少しばかり常識の枠をぶっ壊して、右斜め後ろの上空あたりから世界を見直してやることにしようじゃないか。 まずはこの世界の秘密を教えよう。それはきみが意識そのものだってことなんだ。 意識の存在は科学では解くことのできない永遠の謎だ。 そしてその意識は、いつだって宇宙の中心にあるんだ。 つまりきみにとってはきみの意識が宇宙の中心になり、ぼくにとってはぼくの意識が宇宙の中心になるのさ。

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新型コロナが猛威を振るい、みなさん先行きに不安を抱えながら生活していらっしゃるでしょうか? 日本は独自路線で行動の制限はまだゆるい状況ですが、世界中で外出禁止が当たり前になり、「戦争状態」という言葉も決して大げさではありません。 けれども、こんな状況だからこそ心の落ち着きが肝心です。 まずは鼻からゆっくり「三回深呼吸」をして、肩から力を抜いてください。 そうして緊張を解いたところで、話を進めることにしましょう。 恐怖と不安が人類を進化させた 恐怖と不安に打ち勝つための「マインドフルネス=気づき」 体の感覚に気づくことの大切さ マインドフルネスの具体的な練習法 慈悲の瞑想で、あなたの落ち着きを周りの人にもおすそ分け 恐怖と不安が人類を進化させた わたしたち人類は、ほかの動物と比べると極めて大きな脳を持っています。 そしてこの大きな脳が持つ、危険を察知する能力が、わたしたちの抱える「恐怖と不安」に密接に関係します。 恐怖を避け、不安な状態から逃れることで、ヒトは危険を回避し、安全を確保し、その結果巨大な文明を創り上げることになったのです。 ですから「恐怖と不安」はわたしたちにとってまったく自然な心の状態であり、進化論上の必然なのです。 恐怖と不安に打ち勝つための「マインドフルネス=気づき」 マインドフルネスという言葉は、もともと仏教の「念(サティ)」を英語にしたものです。 日本語では「気づき」と理解したらよいでしょう。 この「気づき」は、今この瞬間に自分の体に起きていることに、価値判断を加えることなく、感じているままに気づくことを意味します。 例えば、新型コロナウイルスのことを考えて、「怖いな、不安だな」と思っていたら、「今自分の中に恐怖や不安の気持ちがある」ことをただそのまま意識するのです。 「怖がっちゃいけない」とか「不安に思ってちゃダメだ」というような価値判断をしないことがポイントです。 なぜこのような気づきが大切かというと、自分が恐怖や不安を抱えているのに気づかないまま行動すると、悪い結果に結びつくような行動をしてしまいがちだからです。 自分が感じている恐怖などの負の感情も、きちんと体のレベルで味わうことができれば、いずれ収まって心は落ち着きます。 心が落ち着いてからなら、冷静に良い結果に結びつく行動を取るのも、難しくないでしょう。 体の感覚に気づくことの大切さ あなたは自分が喜びや楽しさを感じていればそれに気づき、恐怖や不安、あるいは悲しさを感じていればそれに気づくことでしょう。 だからわたしたちは自分の感情にいつも気づいているつもりでいるのですが、実際には自分の感情を押し殺していてそれに気づかない場面も多々あります。 そういう埋もれた感情を確認するためには、自分の体に現れる変化に敏感になる必要があります。 マインドフルネスの一番ポピュラーな練習法は、呼吸に意識を向けるものです。 人間は驚けば息が止まるし、怒れば息が荒くなるし、悲しいときには息が弱々しくなるでしょう。 呼吸に意識を向けることで、そのような変化に気づけるようになると、いろいろな場面で感情が体の感覚として現れていることにも気がつけるようになるのです。 息を吸うときには、息を吸っていることを意識し、息を吐くときには、吐いていることを意識する。 息を吸うときに鼻の穴を通る空気が冷たいのを意識し、吐くときには少し暖かい空気が通るのを意識する。 息を吸うとお腹や胸が膨らむのを意識し、息を吐くとお腹や胸がしぼむのを意識する。 そうやって、体の感覚を意識し、気づきを保つことによって、心は徐々に落ち着いていくのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ マインドフルネスの具体的な練習法 マインドフルネスの練習は、価値判断という頭の働きを止めて、今自分の体に起こっていることに気づけばいいだけのことなので、例えば毎朝起きたら「鼻からゆっくり三回深呼吸する」だけでもかまいません。 夜寝る前にもやったらいいですし、昼間ちょっとした空き時間や、仕事や勉強で疲れたときにやってみるのもおすすめです。 緊張した状態で長時間作業をしていると、どうしても「頭」が疲れます。その「頭の疲れ」を取るためにも、呼吸に意識を向けることが役立ちます。 頭で考えるのをやめて呼吸に集中し、そのとき体に起こっている感覚に注意を向けるだけで、自然に体はリラックスし、頭の疲れも解消していくのです。 三回深呼吸に慣れてきたら、5分から10分呼吸に注意を向け続ける練習をするのもいいでしょう。 この場合は意識的に深呼吸をする必要はなくて、自然な呼吸を観察すればオーケーです。 初めのうちは、5分間呼吸を観察するのはとても長く感じるかもしれません。呼吸を意識しているはずが、いつの間にか考えごとをしている自分に気づくことでしょう。けれどもそれでかまいません。「いけない、呼吸に意識をむけなくちゃ」と思うのではなく、「あ、考えごとをしているな」と確認だけして、呼吸に意識を戻せばよいのです。 そうして練習を続けて慣れてくれば、5分間の練習のあとには心がすっかり落ち着いて、とてもすっきりした気持ちになっていることでしょう。 慈悲の瞑想で、あなたの落ち着きを周りの人にもおすそ分け マインドフルネスで心を落ち着けることができたら、慈悲の瞑想で周りの人にその落ち着きをおすそ分けすることもできます。

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タイのお坊さんアチャン・チャー師の悟りの説明が分かりやすかったので、自分の理解を書いておく。 仏教の目的は、苦からの解放であり、結果として心の平穏と幸せが得られると説明した上で、心が動くとき苦が生ずるとアチャン・チャーは説く。 そして苦が生じないようにするためには、心が動いた瞬間にそれに気づく必要があるというのだ。 この「鋭い気づき」を養うのが瞑想の目的である。 あなたの瞑想が深まって、気づきが最高に研ぎ澄まされたとき、心に生ずる動きは瞬時に気づきによって捉えられる。 そのとき、あなたは完璧な幸せを手にするのである。 参考: Ajahn Chah "Unshakeable Peace"より 引用はじめ --- Please clearly understand that when the mind is still, it’s in its natural, normal state. As soon as the mind moves, it becomes conditioned (sankhara). When the mind is attracted to something, it becomes conditioned. When aversion arises, it becomes conditioned. The desire to move here and there arises from conditioning. If our awareness doesn’t keep pace with these mental proliferations as they occur, the

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北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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