4年前に開設された学習院大学の国際社会科学部は今年度はじめて卒業生を送り出しました。
第一期生の卒業式は3月20日に予定されていましたが、新型コロナウイルスの流行により中止され、当日卒業生代表として謝辞を述べるはずだった2人の学生の謝辞がホームページで公開されています。
*1
その2人の卒業生のうちの小堀奈穂子さんの謝辞が、日本の形式主義にあからさまな「攻撃」を加える内容であることから、
「超パンク!*2」という賛辞と共に、
「ネオリベの申し子。教育の失敗*3」という否定的な意見が並んで見うけられます。
称賛と失望が渦巻く台風の目となった小堀さんの謝辞とはどんなものなのか、確認して見ることにしましょう。
日本社会の形式主義を痛烈に批判 経済的自由の大切さと自分への感謝 いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー 眠った世界の否定と言論の自由 大学側の注釈 権利は何かの対価なの? (2020.3.27 追記) 頑張ってる女性同士が励まし合える世の中であってほしい (2020.3.29 追記) 「歴史」を知り先達をリスペクトすることの大切さ 批判の投げ合いではなく、建設的な提案が増えてほしい 日本社会の形式主義を痛烈に批判 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
これが問題の謝辞の第一段落です。
日本社会の形式主義を痛烈に批判しています。
横並びを大切にする主流派のみなさんは眉をひそめるに違いありませんが、自由な表現を愛するぼくとしては、ここでの主張にはまったく同感です。
強いていえば言葉の選び方が強すぎる気はしますが、それもあまりに大人しすぎる日本の若者へのアンチテーゼとして考えれば、十分理解できるものです。
経済的自由の大切さと自分への感謝 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
第二の段落では、経済的な自由の大切さを述べた上で、その実現のために努力をした自分にこそ最も感謝すべきだ、という極めて利己主義的な主張がなされています。
上級国民は犯罪を犯しても優遇され、下級国民はこき使われるだけで、その上でヤルヤル詐欺で税金を取られっぱなしという日本の現実を考えれば、この主張も本音を隠さずさらけ出したというだけのことであり、必ずしも「エゴイスティックな最低の意見」とは言えない気がします。
たとえばこれを、次のように言い換えてみたらどうでしょうか。
「現在の日本の状況では、国民への社会的な保障は決して十分とは言えない。そんな状況を変えて社会に貢献したいからこそ、まずは自分の経済的自立が大切だと考え、そのために私は勉強してきた。勉強する環境を用意してくれた大学関係者にはもちろん感謝するが、その環境を使ってしっかりと勉強してきた自分にこそ一番の感謝をしたい」
つまり「誰だって自分がかわいい」という当たり前のことを、小堀さんのようにストレートな表現でいうか、それとも社会に受け入れられるような形でいうか、という話にすぎないと思うのです。
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いかに自分は成績優秀だったかと逆風を跳ねのけるパワー すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
この段落では、自分の成績の優秀さをはっきりと述べた上で、けれども自分の大学生活が決して順風満帆ではなかったことが述べられています。
彼女のように自己主張の強い人が、周りから様々な圧力を受けることは、日本社会では当たり前のことでしょう。
そうした逆風状況の中で、支えてくれた人の存在に言及しているにも関わらず、その人にすら感謝の言葉を述べることができない彼女の姿には、痛々しさを感じざるを得ません。
けれどもそうした逆風を跳ねのけて、これだけの主張を続けることができる彼女のパワーには感服します。
眠った世界の否定と言論の自由 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
次の段落では再び、日本の形式的社会への厳しい批判の言葉が繰り返されます。
日本社会の保守的なあり方に心底うんざりしている気持ちがありありと伝わってきます。
私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。
言論の自由という言葉を使ってまで、卒業生の謝辞としてこのような過激な主張を展開した彼女の心の深い闇を思います。
昨日は北インドの山の州ヒマチャル・プラデシュのナハンという小さな街から、おんぼろバスに揺られて、ガンジス川の聖地ハリドワルへ移動しました。
インドの人ばかりが乗っている長距離バスでしたが、たまたま始発のマナリから乗ってきた日本の女の子が一人いて、久しぶりに日本語をたくさん話しました。
そのときのぼくは、ナハン近郊の小さなお寺で肝っ玉ばあちゃん的女行者と、どうにも濃厚な数日を過ごしたあとだったので、いつになく饒舌でした。
体の中に溜まっていた強烈なあくを、しっかりと吐き出してしまう必要があったようです。
その女の子は、インドは三回目ということで、新しい土地に行って新しい体験をすることが楽しくてしょうがない様子でしたが、日本の控えめすぎる言葉や感情のやりとりとは違う、インドの人たちの極めてあからさまなコミュニケーション・スタイルに、戸惑うと同時に大きな魅力を感じていることを話してくれました。
インドの人たちは本当に素直に感情を表現していて、喧嘩をするかと思うと仲直りをして、実にハッピーな時間を過ごしているのがうらやましいというわけです。
それでぼくは思ったのですが、結局のところ人生というものは、いかにハッピーにすごせるか、ということにすべてがかかっているのだし、あらゆる人は、人生を幸せなものにするために、最大限に自分の持つ力を使っているに違いないのです。
これを読んでくださっているみなさんの中には、毎日の生活がなかなか思うように回らず、なんでこんな人生を送らなきゃならないんだと思いながら、お金を稼ぐタメに必要な仕事を渋々とやっているような方もいらっしゃるかもしれません。
あなたがもしそんなふうに「人生をいやいやながら生きている」方であったとしても、それは生き延びるために自分にできる限りの努力をしてきた結果のはずです。
生き延びて幸せな時間をすごすために、誰もが一所懸命に努力をしているはずなのです。
そして、残念ながらその結果に今は満足できていないかもしれませんが、それがいつか幸せな瞬間につながることを信じられるからこそ、人間は生きていられるのだと思うのです。
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バスで乗り合わせた女の子にぼくが話したのは、人生というのは、どうやってハッピーな時間をできるだけ多く過ごすか、そしてそのハッピーな感覚を大きなものにできるか、にかかっている、ということでした。
そしてそれは、無理なく自然にできなければなりません。
素直な自分のままでいて、無理をしないで、自然に行動して、ありのままの気持ちを表わすことができて、それがハッピーな時間につながっていくことこそが、本当に幸せな生き方だと思います。
その女の子は、インドの人のようには生きられない自分をなんとか変えられないかと思って真剣な眼差しでした。
インドの人と比べて、自分はハッピーに生きていない、もっとハッピーに生きたいと、真剣にそう思っているのが感じられました。
それでぼくは言ったのです、あなたは十分にハッピーですよ、働くことばかりで精一杯の周りの日本の人たちを見て、どうしてこの人たちはこうなんだろうと思うから、今こうしてインドという日本とは非常に違う国に来て、まったく別の世界を見て、人生を楽しんでるんじゃないですか、あなたは10人中1人のハッピーな人ですよと。
すると、それまでの生真面目な表情が一瞬でほころんで、
「あたしハッピーですか!本当ですか!!」
というので、10人に1人か、100人に1人かはともかくとして、ハッピーなのは間違いありませんよ、とぼくは答えたのです。
インドで伸び伸びハッピーに過ごしている子どもたちを見ると、ああ、幸せってこういうことなんだな、と思います。そして、あまり幸せそうには見えない日本の子どもたちを思い出したりもします。
けれども、日本には日本の幸せと不幸があり、インドだってそれは同じことです。インドには日本にはない厳しい現実があり、例えば足のない物乞いの姿などインドではまったく当たり前の現実です。
そうした厳しい現実の前では、ぼくたちのくに日本のとてつもない物質的な豊かさと、そこで暮らすぼくたちの生活の圧倒的な「生ぬるさ」は、実に驚くべきものに感じられるのです。
でも「生ぬるい」などといういじけた言葉を使うのはやめにして、むしろ日本の暮らしの豊かさに目を開くことにしましょう。
景気は悪く、仕事はきつく、人生が灰色にしか見えないとしても、日本に生まれたというだけで、ぼくたちは「大きな幸せ」を手にしているのです。
その幸せをどう生かすかは、あなた次第です。
周りの人たちの鬱屈した思いに流されて、なんだかぱっとしない人生を送るのか、それともきちんと自分の世界を自分の中に作って、人生を楽しみながら生きるのか、それは結局あなたの気持ち次第なのです。
あなたが自分の人生をしっかりと歩み、あなたの毎日が輝きに満ちたものになることをお祈りして、この小文を終えることにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
[初出: https://note.com/tosibuu/n/ne7095846c2f5 ]
日本の政治状況に少しでも関心のある方なら、安倍政権が現在、どれほど戦後民主主義を破壊しているのか、もう十分にお分かりでしょう。
もはや瀕死の状態にある日本の民主主義体制を守るために、一体何が出来るのでしょうか?
「守ることなどできないのだ」というのが私の答えです。
「守れないとはどういうことだ?」という声が聞こえきます。
けれども私は守らないでいいと言っているわけではありません。
どういう意味か説明しましょう。
3.11がきっかけとなり、第二次安倍政権の成立によって、戦後民主主義の破壊は避けようのない既定路線となった 最後まで日本国憲法と戦後民主主義を守る意志が大切、しかし「暴言」はいただけない 私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがある 怒りの気持ちは吐き出して、落ち着いて「未来へつながる言葉」を発しよう 3.11がきっかけとなり、第二次安倍政権の成立によって、戦後民主主義の破壊は避けようのない既定路線となった 73年前に産声をあげ、否定的な空気がいつもありながらも、十分な追い風を受けてすくすくと育ったのもつかの間、やがて逆境にさらされて、長い年月を苦闘することになり、それでも73年の時を生き抜いてきた日本の戦後民主主義ですが、「ついに終わりを告げようとしている」と思われるこの命を、守れるものならば私だって守りたいのです。
けれども、人間にも寿命があるように、国家の制度にも寿命があるのではないでしょうか。
3.11の震災と原発事故があり、第2次安倍政権が成立し、安倍政権の横暴が止めようもなく続く今、全く悲しいことですが、もはや戦後民主主義を救う手立てはないと思っている識者の方々も多いのではないかと思われます。
最後まで日本国憲法と戦後民主主義を守る意志が大切、しかし「暴言」はいただけない けれども瀕死の状況にあるからこそ、日本国憲法に基づく戦後民主主義を守るために、最後の最後まで努力を続ける必要がありますし、たとえ安倍政権を倒すことができなくても、安倍政権に反対の声を上げ続ける必要があります。
その時、私は聞きたいのです。
あなたは 何のために安倍政権に反対しているのですか? あなたは日本国憲法を守り、戦後民主主義を守り、世界の平和のために、日本の人々の幸せのために、安倍政権に反対している。そうではないのでしょうか?
もしあなたが、この世界の平和を本当に望んでいるのなら、政権を批判するときも、そこには愛の気持ちが必要です。相手を尊重する心がなければなりません。
マスメディアにおいても、ネット上のソーシャルメディアにおいても、安倍政権を攻撃し、あざ笑い、馬鹿にするような「暴言」が溢れています。
相手を攻撃し否定するような態度は、対立を生むだけであり、平和な社会を作る役には立ちません。
アメリカの民主党と共和党の悪口合戦が、今まで世界平和の役に立ってきたと言えるでしょうか?
日本の現状をよしとする主流派の人たちが、卑劣な手口で反対派を抑圧しようとする、その愚かな手法を私たちが真似する必要はありませんし、アメリカの姿はむしろ反面教師とするべきものでしょう。
私たちは正々堂々と、論理的な思考と落ち着いた気持ちを持って、全体主義化していく日本の現状に否を唱え続ければよいのです。
その結果、私たちの考えに賛同してくれる国民が増え、街に出て直接的な行動をするようになれば、安倍政権が倒れることだってないとは限りません。
残念ながら力及ばず、安倍政権がこのまま続いて改憲がなされ、憲法に緊急事態条項が盛り込まれるようなことになったとしても、それはそれで受け入れざるをえないのです。
しかしこれは決して敗北主義ではありません。
ただ冷静に未来を予測しているだけのことです。
73年前に戦争があのような形でしか終わりを迎えることができなかったことを考えれば、今の安倍政権がどれほど無茶なことをやっていようと、おそらく日本の社会にはそれを自浄的に止める力はないのだと思えるのです。
私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがある 今ここで憲法改悪を止めなければ、日本に明日はない。これが「最後のチャンス」だ。
そういう言い方は勇ましくはありますが、真実を伝えるというよりはただ人の尻を叩こうとするだけの、空騒ぎのアジテーションに感じられます。
アメリカの意向で日本に育ち始めた戦後民主主義が、これまたアメリカの勝手な都合で歪められ、ねじくれて、ついに末期的状況を迎えたのが現在の日本だとすれば、その過程でいったい何度の「最後のチャンス」があったのでしょうか。
反体制派が「最後のチャンス」と叫べば叫ぶほどに、その「最後のチャンス」のとき、破れれば破れるほどに、多くの人たちは民主的な考え方に絶望し、長いものに巻かれるしかないのだと落胆し、多数派に帰依せざるを得なかったのではないでしょうか。
今、安倍政権の目指す憲法改悪に反対することは、日本の戦後民主主義を守るための「最後のチャンス」などではありません。
仮にここで憲法が改悪されたとしても、本当の民主社会が実現する日を願う人々の心は、決して打ち負かされることなく、たとえ一旦は人の目に触れづらくなったとしても、未来永劫続いていきます。
私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがあるのです。
怒りの気持ちは吐き出して、落ち着いて「未来へつながる言葉」を発しよう 急速に雪崩を打って崩れ落ちてゆく日本の政治状況を見るときに、
「いったいこれはどうなってるんだ、どうにかする方法はないのか」 と絶望的な気持ちになり、口汚く罵りたくなるのも分かります。
その気持ちを押し殺す必要はありません。きちんとわかってくれる人の間で そうした気持ちも共有し、心のもつれを解いていくことも大切です。
ただ、そうした気持ちを吐き出すのは、安全な分かり合える人同士の間でのことにしたほうがよいでしょう。
そして、一旦公の場で言葉を発する場合には、それがネット上の気安く言葉を投げられる場であったとしても、どうか、感情的になって怒りの言葉を発する前に、少しの時間をおいて、大きく息を吸って、そして吐いて、心を落ち着けたあとで、冷静に論理的な言葉で、あなたの気持ちを語ってほしいのです。
「安倍のバ○野郎!」というのではなく、せめて「安倍首相のこのやり方には呆れ返る」といったくらいの落ち着いた言葉で語ってほしいのです。
あるいはあなたがユーモアのある方なら、あざ笑いをぶつけるのではなく、みんなが心から笑える、素敵なジョークで批判してみてほしいのです。
対立を煽る言葉ではなく「未来につながる言葉」をお願いしたいのです。
一人でも多くの皆さんが、こうしたことを胸に留めて「未来につながる言葉」を発するようになれば、日本の民主主義がそう遠くはない将来に息を吹き返す可能性も高まるというものではありませんか。
ネット上で、憲法と平和を守るために発言してらっしゃるみなさんのうちに、この文章を見て、もし不愉快に思われる方がいらっしゃったら、あらかじめ謝らせていただきます。
けれども、ぼくが言いたいのは
「ネット上で暴言を吐くな」ということではない ということだけは確認させてください。
「強い言葉」を使いたいときにそれを使うことは、言論の自由によってみなさんに保障される権利です。
ただ、その自由を行使される前に、そのとき「強い言葉」を使うことが本当に必要なのかどうかを、どうかご一考していただきたい、ということなのです。
最後まで長文におつき合いいただき、ありがとうございました。
日本と、そして世界の平和のために、今日も一日を楽しく生きることにしましょう。
それでは、またお会いできる日まで、さようなら。
2018年9月7日、九州大学の法学部で憲法を学んだ男性(Aさんとします)が、九州大学箱崎キャンパスの研究室に放火して自殺するという悲しい事件が起きました。
Aさんは経済的な困窮が原因で、自死を選ぶ結果になったものと思われますが、他に道はなかったのか、また、今後このような事件が起きないようにするために、わたしたち一人ひとりに何ができるのかを考えてみたいと思います。
中卒で自衛官、そして九大の法学部へ。Aさんの人生を想像する。 これ以上の悲劇を防ぐために。制度の利用と人生の枠組みの切り替えが重要 「東京」的お気楽さから「地方」の息苦しさを想う。 ネットは居場所として機能しうる。けれども、余力があれば現実の世界にも目を向けてみよう。 中卒で自衛官、そして九大の法学部へ。Aさんの人生を想像する。 フリーランスライターのみわよしこさんの記事、
・九大箱崎キャンパス放火・自殺事件~「貧困」という切り口から見えてくるもの(みわよしこ) - 個人 - Yahoo!ニュース
が、Aさんについて比較的詳しく伝えています。
Aさんは中学を卒業して自衛隊に入隊していることから、家庭環境にも恵まれなかったことが想像されます。
1998年、26歳のときに九州大学大学院の修士課程に進学し、その後博士課程に進みますが、博士論文の提出はせず、2010年、38歳で退学。
ドイツ語は堪能で、県内の二つの大学で非常勤講師を務た経験があり、教授の研究補助もしていたといいます。*1
2015年以降は、一人で大学の研究室を使用していたが、顔を出すのは夜間のみのため、ほかの院生との接触はなかったとのこと。
こうした孤立した状況の中、職を失い、アルバイトをするものの研究との両立が難しくなり、住居も失ってしまいました。
寝泊まりしていた研究室が大学の移転のため使えなくなることが引き金となって、今回の事件を起こすことになってしまったと考えられます。
大学での研究といった環境に縁のない方から見れば、
「どんな仕事でも自分にできることをやって、真っ当に生きればいいのに」 と思われるかもしれませんが、苦労した人生の中でやっとつかみかけた「研究職」という夢があきらめきれず、孤独な思考の中で、絶望的な道筋しか見えなくなってしまったAさんの気持ちを考えると、どうにもやり切れない想いが残ります。
これ以上の悲劇を防ぐために。制度の利用と人生の枠組みの切り替えが重要 みわさんは、Aさんが奨学金の返済で経済的に困窮したのではないかと指摘し、生活保護を受給すれば、奨学金の返済も猶予されるので、生活の立て直しが可能だったはずだと述べています。
Aさんが経済的に困難な状況にあったことは明らかですから、生活保護を受給する権利があったこともまた当然です。
問題は、権利があっても「生活保護を受けたくない」と思う場合があることと、行政が生活保護の出し渋りをする可能性があることでしょう。
Aさんの場合は、結果として自死を選んでしまったわけですから、医療機関を受診すれば、うつ病などの診断がなされ、そうすれば、生活保護の受給も問題なくできたはずです。
「生活保護を受けたくない」のと同様に、「精神の病気として診断されたくない」という気持ちもありえますが、「自死を考えざるを得ない状態」に至る前に、誰か相談する人はいなかったのか、そして医療機関の受診をすすめてくれる人はいなかったのかと考えると、Aさんが孤立していたことが今回の悲劇を産んだ大きな要因だったと思えてなりません。
孤立してしまった人を助けることは、現実問題として大変むずかしいことでしょう。
Aさんについては、残念ながらなんらかの助けを得られた可能性は低いように思えますが、Aさんほどではないまでも、経済的な困難を抱えて将来に希望を持てないでいる方は多数いらっしゃることでしょう。
病理専門医かつ科学・技術政策ウォッチャーの榎木英介さんの記事、
・九大「オーバードクター」の死にみる「夢のソフトランディング」の重要性(榎木英介) - 個人 - Yahoo!ニュース
では、Aさんの事件を取り上げて、「夢のソフトランディング」の重要性が説かれています。
Aさんは「研究職に就く」という「夢」に取り憑かれてしまったために、悲劇の最期を迎えてしまいました。
けれども、彼の才能を活かす道は研究職以外にもあったはずです。
榎木さんは、
いわゆる「プロボノ」として、専門性を地域社会の問題解決に役立てる
ことをすすめています。
NPOなどの市民活動が活発に行なわれている今の社会では、Aさんの憲法など法律に関わる専門的な知識は大いに役立ったはずです。
市民活動といった対人的な行動が苦手な人であっても、ネットを通じて情報を発信するなど、ほかにもいろいろなやり方が考えられるでしょう。
緊急避難的な生活保護や医療制度の利用を考えるとともに、人生設計自体を旧来型の単線的なものではなく、複線的な枠組みで捉える柔軟性を持つことで、悲観的な視野狭窄に落ち入ることなく、充実した人生を送ることが可能なはずです。
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脚本家・石井飛鳥さんのツイート(https://twitter.com/ishiiasuka/status/1028196483709820929)、
電子書籍、便利なんだけど「親の本棚」が家に構築されないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。
が13,000ものリツイートを受け、話題になっています。
「親の本棚」の役割を否定するわけではないのですが、個人的には
「親の本棚」? そんなもん、さっさと「粗大ごみ」にでも出したら? と思ってしまったので、その理由を少しばかり書いてみましょう。
「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 「旧人類の寝言」は気にせず、新しい時代の波の間を漂って生きよう。 追記: 石井飛鳥さんへのお詫びと「文化資本を奪おうとする者」についての考察 「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 まず、個人的な話をしましょう。
ぼくには「親の本棚」はありませんでした。お袋も親父もあんまり本を読むような人間じゃなかったもんで。
けれども三つ年上の兄がいましたので、本も音楽も多大な影響を受けました。
ですから「誰かの本棚が与えうる影響」という意味では、「親の本棚」に恩恵を受けた人が、
「親の本棚」がなくなったら寂しいなー、 と思う気持ちは分かります。
たぶん石井飛鳥さんは、聡明で自由闊達な親御さんをお持ちで、「親の本棚」のおかげで、すばらしい人生を歩むための豊かな糧を得ることができたのでしょうから、
あー、それはよかったですねーー、 と大きく同意してあげて、「親の本棚」が消える未来をぼくも一緒に憂いたいところです
けどですよ、「親の本棚」\(^o^)/的言い方からは、なんだか
世襲制のいやらしさ がプンプンにおってきませんか。
そんな「本棚」から、親の世代の古臭い価値観を押しつけられるくらいだったら、むしろそいつを
ナタでぶっ壊して、ぜーんぶ景気よく裏庭で燃してしまいたい、 というもんじゃありませんか。
多くの人にとって「親の本棚」が何を意味するだろうかということを少しばかり想像してみると、そんな感想も浮かんでくるというわけなんです。
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電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 ・ネットでの新刊購入は全体の1割、「文字もの」電子書籍は「紙」の4%、縮みゆく出版業界の明日はどっちだ!? - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、書籍全体が縮みゆくマーケットであることに加え、ネット上での新刊書の購入も全体の一割程度だし、「文字もの」の電子書籍に至っては「紙」の書籍の4%ほどしかないのが現状で、ちょっと意外な気もします。
長い目で見れば、紙の本は電子書籍に置き換わっていくでしょうし、そのとき書籍というフォーマット自体が衰退していくことも、避け得ない未来でしょう。
そうはいっても、書籍に対する欲求は人類の歴史が続く限り、消え去りそうもありません。
となれば問題は、
「親の本棚」がなくなる人類の将来はヤバイかも、 みたいな主観の話よりは、
古来より蓄積されてきた無数の書籍に対するアクセス方法をどう構築するか、 という方法論の話になるはずです。
※オウム真理教が起こした事件によって亡くなった方のご冥福と、その親族の方およびさまざまな被害者の方の心の安寧を心よりお祈りします。
今日2018年7月6日、オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑が執行されたとの報道がありました。
この記事では、地下鉄サリン事件を頂点とするオウム真理教が引き起こした事件と、それがわたしたちの社会に投げかけた問題点について、簡単に振り返ってみたいと思います。
地下鉄サリン事件の恐怖 可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 2018年7月7日追記: 智津夫氏の精神状態などについて 地下鉄サリン事件の恐怖 1990年3月20日の午前8時ごろ、通勤ラッシュ時の現東京メトロの5つの車両において、猛毒の神経ガス・サリンが大量に散布され、13人が死亡、被害者は6300人にものぼる、未曾有の無差別殺傷事件が発生しました。
どうしてこのような事件が起こってしまったのか、これを防ぐ術はなかったのか、同じような事件が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか。考えるべきことは多岐に渡りますが、簡単に答えが出る問題ではありません。
この事件についてはさまざまな書籍が扱っていますが、作家の村上春樹氏が事件に遭遇した多数の方々にインタビューした
・「アンダーグラウンド (1999 講談社文庫)」
をここではおすすめしておきます。
事件を体験した一人ひとりの方の恐ろしさが伝わってくる良質のノンフィクションと言えます。
可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 ネット上ではウィキペディアの
・麻原彰晃 - Wikipedia
というページによって、麻原彰晃こと松本智津夫氏の人生を概観することができます。
智津夫氏が、兄弟ともども水俣病の認定されなかった被害者であった可能性も分かり、また、その家庭の貧困の影響もあって、さまざまに屈折して育ったであろうことを読み取ることもできます。
氏は日本在住のチベット人政治学者ペマ・ギャルポ氏を通して、ダライ・ラマ14世と何回かの接見をしていたようですから、チベット仏教の理解について、相当に評価されていただろうと考えられます。
また、現実にオウム真理教という教団をあれだけの規模にするだけの、ある種のカリスマがあったことも間違いなく、そうした彼の宗教的才能が「歪んだエゴ」と結びついたとき、日本史上類を見ない、恐ろしい事件が起こることになったのでしょう。
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松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ 地下鉄サリン事件の前年1994年6月27日には、松本サリン事件が発生していました。
・松本サリン事件 - Wikipedia
ところが長野県警は、この事件がオウム真理教によって起こされたものであることをまったく察知できず、無実の市民を冤罪で苦しめることしかできませんでした。
オウム真理教が公安によって捜査されていたことも考えれば、警察の発表を鵜呑みにして冤罪報道を繰り返したマスコミも含め、この事件をオウム真理教と結びつけることができず、地下鉄サリン事件の発生を許してしまった日本の危機管理体制の甘さにはなんとも言葉がありません。
日本社会のこうした危機意識の薄さが、のちの福島第一原発事故にまでつながっているのではないかと考えるとき、これからの日本でどんな事件が起こることになるのか、はなはだ不安にもなってくるところです。
オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 松本智津夫氏が死刑になったと聞いて、悪人が処刑されてよかったと思う方も多いかもしれません。
日本大学アメリカンフットボール部でラインバッカーをつとめる選手が、関西学院大学のクォーターバックをつとめる選手に、「悪質」な反則行為によって傷害を追わせた事件が、世間を騒がせています。
傷害行為を行なってしまった日大選手は当然罪をつぐなう必要がありますが、傷害行為を示唆したと疑われるコーチや前部長、ひいては、その前部長の任命者である日大の経営陣にも重大な責任があることは明らかと言えましょう。
さらに言えば、この事件からは、日大のそのような体質を許してしまう日本社会全体の持つ非民主的な性格についても思いを巡らす必要を感じます。
そこで、女子レスリング界におけるパワハラ問題や、TOKIOメンバーによる強制わいせつなど、どこか似たようなにおいのする事件が世間を騒がせ続ける今日この頃の、日本が抱える息苦しさについて、この記事ではちょろっと書いてみることにしましょう。
日大選手によると、事件は それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば 一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 日大選手によると、事件は 傷害行為を行なってしまった日大選手によると、反則行為は元部長とコーチからの指示によって行われたということです。
記者会見の場で詳細に事情を明らかにし、十分に反省して、きちんと謝罪をした選手の姿はまったく誠実で謙虚なものであり、すがすがしさすら感じるものでした。
前部長やコーチを責めるような発言は一つもなく、ただ事実関係だけをしっかりと説明したことが、日大アメフト部の「暴力」的な負の遺産の解消につながっていけば、今回の反則行為で負傷した関学の選手や関係者の気持ちも報われるというものでしょう。
それに比べて、前部長とコーチ、そして日大経営陣の態度はと言えば さて、前部長やコーチが記者会見で、自分たちの「不法」な指示を認めることができず、監督責任以外は認めない姿勢を見せることに、多くの批判がなされています。
けれども、彼らが自分の「罪」を認められないのは、まったく当たり前のことにも思えます。
というのも、そこで非を認めて謝れるような人間ならば、最初からそんな指示を出すはずもないのですし、選手の会見を信じれば、前部長やコーチは「恐怖政治」としか言えない手法によってチームを操っていたわけで、その実行においてはいくらでも言い逃れができるように巧妙に振舞っていたことが、報道からも透けて見えてくるからです。
平気で「不法」な指示を出すような人たちが、その非を認めず、謝らないからと言って、一々腹を立てていたら、今の日本ではストレスが多くなりすぎて生きていくのも難しくなってしまうのではないか、とすら思ってしまいます。
つまり、この問題の責任の所在はどこにあるのかと考えれば、少なくとも前部長止まりではありえませんから、彼に対して怒りをぶつけても仕方がないということです。
問題は当然、日本大学の経営陣にあります。
これだけ大きく世間を騒がせているにもかかわらず、理事長や学長のコメントの一つもないという時点で、誠に残念ながら日本大学は「終わってるなー」というのが正直な感想です。
さらに言えば、そうした大学の体質という問題を十分に取り上げないメディアも、結局は同じ穴のむじな、ということなのではないでしょうか?
また、大学を管轄する文部科学省の責任も重大です。
これだけの重大事件が発生しながら、日大がお手盛りの第三者委員会で調査をすることによって事件をうやむやにしようとしているのを黙認するような無責任なことは、到底道義にかなうものとは言いがたいでしょう。
そして、そのような官僚を黙認し、その官僚に十分ものを言えない政治家を選び続けるわたしたち国民自体に最終的な責任があることも、論理的に考えれば明らかなのではないでしょうか?
なお、5月22日付のニューヨーク・タイムズの記事は、この事件について次のように書いています。
But this incident has highlighted “power hara” and the obedience to authority and unwavering loyalty to the team that are highly valued in Japan.
The Football Hit Felt All Over Japan - The New York Times 試しに訳してみれば、
「この事件によって、『パワハラ』と、日本では高く評価される『権力への服従』と『チームへの絶対的な忠誠心』の問題が注目を集めることになった」
とでもなりましょうか。
我々日本人としては、この事件を日大アメフト部の問題として考えるのではなく、日本の社会全体の問題として捉えて、大いに反省する必要を感じるものです。
無論こうした日本人の体質を一朝一夕に変えることはできません。
しかし、わたしたち一人ひとりが、こうした問題に目をつむることなく、きちんと向き合っていくことでしか、今回のような不幸な事件をなくすことはできないのではないかということを、多くの方に考えていただきたいと思うのです。
一人の人間が負傷し、一人の若者の未来が閉ざされたとすれば、確かにそれは大きな事件なのですけれども 今回の傷害事件が、多くの人の注目を集めることは、その事件性からして当然とは思うのですが、こうした「エンターテイメント」が世間に提供されることによって、政治を始めとするもう少し考えたほうがよい問題を考える時間が少なくなり、社会の趨勢というものが、なんだかなあなあに流されていくことについては、やはり一言言っておきたいと思います。
と、言いながら、この事件について書いてるんだから、
「お前だって同じ穴のむじなじゃないか」
国民的アイドルグループTOKIOのベーシスト山口達也氏が、酒に酔って、未成年の女性知人を自宅に呼び、無理やりキスをした事件が世間を騒がせています。
山口氏は今年46歳。「いい大人が何をやってるんだ」というのが「常識」的な反応のようです。
この記事では、この事件についてあれこれ感想を書いてみたいと思います。
第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 依存症について 山口氏には同情あるのみ 第一に被害者の方の安全、次に山口氏の「弱さの問題」と「病状の回復」を考えたい 今回の事件では、被害者の女性の方とは示談が成立しており、「強制わいせつ」事件として書類送検されたものの不起訴処分が決まっています。
ですから法律の枠組みとしては、すでに決着がついているわけです。
しかしながら、社会的には「はい、一件落着!」と言えるような状況には到底ないわけで、テレビやネットでは大騒ぎをしている人たちが目立つ状況です。
この事件は「強制わいせつ」ということで、未成年の女性が被害者となっていますが、この女性を特定しようという悪質な行動もネット上では取り沙汰されており、事件だけでも十分に心に大きな傷を追ったであろう被害者に、二次被害が出ることのないよう、心から祈るものです。
また、事件を起こしてしまった山口氏については、飲酒が原因で体調を崩してひと月入院していたにも関わらず、退院した当日に泥酔してこのような事件を引き起こしたことを考えれば、彼が「依存症」であることは明らかでしょう。
「依存症」は生まれと育ち、そして大人になってからの環境が複合して原因となるものであり、しかもそうした原因が「本人の弱さ」という見かけを通して「病気」として現れるものですから、そのとき「お前は弱いからダメなんだ」というような厳しい言葉を投げることは、回復につながりません。
「依存症」は、人間関係をうまく築くことができず、絶えず「孤独」を感じることから起こる病気です。ですから、この「孤独感」を乗り越え、周りとの信頼関係を育てていくことによってこそ、この「病気」は克服されえます。
山口氏は、今回の事件をいいきっかけとして、きちんと自分の「病状」と向き合い、回復を目指して十分な取り組みをしていただきたいところです。
また、周りの方々には、彼の「休養」を暖かく見守ってあげてほしいですし、もしも彼に復帰を急ぐ気持ちがあっても、周りはむしろそれを抑えることで、彼が十分「回復」できる環境を整えてあげてほしいものです。
山口氏は、大きなお金が動くビジネスに関わるスターとして、いろいろと取り沙汰されることを逃れられませんが、周りの雑音に心を惑わされてあせることなく、ゆっくり休養されたらいいなと思うのです。
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芸能人が起こした「女と酒」の事件についてのいくつかの考察 サーカスとしての報道について 「パンとサーカス」という言葉があります。
古代ローマの詩人ユウェナリスが、政治に関心を失った市民は「パンとサーカス」すなわち「食べ物と見世物」を求める、と言ったのですが、21世紀の報道はすっかり娯楽化して、政治や経済といった物事の本質から目をそらすための「サーカス=見世物」になってしまっているのではないでしょうか。
事務次官がセクハラをしたとか、大臣が「キャバクラ」ヨガに公用車で通っていたとか、それぞれに報道するに値する社会的意義があるかもしれませんが、テレビのワイドショーを見ていると、そうした「意義」を超えて、いわゆる「覗き趣味」であったり、誰かを叩いて「鬱憤を晴らす」といった、娯楽の役割ばかりが強調されているようで、しかも、それがまったく当たり前のことになっていることに、ある種の違和感を感じます。
スポンサーは視聴率を取れればいいのでしょうし、政治を支えて、経済を回す企業こそがスポンサーなのですから、こうした「見世物」によって大衆が政治から関心を失うのはまさに好都合というわけでしょう。
インターネットがどれだけ普及し、いかに多様化しようとも、「マスメディア」としてのテレビの地位は揺るぎないものと思われ、TOKIOのような国民的アイドルグループは、ニッポンの集合的意識を操作するためにまったく便利な道具になっているようです。
依存症について 山口氏の事件の報道を見ていて、一番感情を動かされたのは、「依存症に対する世間一般の理解のなさ」によるものでした。
ぼく自身がアルコール依存でクリニックにかかり、断酒薬を処方してもらった経験があるためもありますが、この問題について「だらしがない」とか「意志が弱い」とか、はたまた「酒が悪いのではなく、本人の意志の問題だ」というような言葉を聞いていると、どうしても怒りの感情が湧いてきてしまうのです。
ぼくはヴィパッサナー瞑想に出会うことによって、アルコールに振り回されることはなくなりましたが、「依存症」というものは、本人が「今度こそやめるぞ」と思ったからといってやめられるようなものではありません。
もちろん、本人に「やめよう」という気持ちがあることこそ出発点になるのですが、それを支える環境がない限りアルコールをやめることはできないのです。
(一部の例外はあると思いますが、それは本当に稀なケースに限るでしょう)
「酒を飲まずにはいられない」という、その「底なしの孤独」を知らない人が、
「自分はこうやって普通に酒と付き合えるんだから、お前だってできるはずだ、できないお前はダメ人間だ」 と烙印を押しても、問題は悪化するだけです。
「酒癖が悪い」ことは確かに問題でしょうが、「酒癖が悪い」ことを責め立てても、その問題の解決には役に立たないのです。
残念ながら、多くの「普通の方々」は、「底なしの孤独」なんてものは知りたくもないようですから、そういう方が何を言おうと、それはただ聞き流すしか仕方のないことです。
けれども、もしもあなたに、「依存症」を抱える方の友だちとして、その問題を解きほぐしていく手助けをしたいという気持ちがあるのでしたら、その「依存症」の方が、どんなに「ダメ」な人間だったとしても、許してやってほしいと思うのです。
ここで「許す」というのは、「酒に逃げるのを許す」ということではありません。
「酒に逃げてしまった弱いその人を許す」ということです。
そしてそれは、「前は酒に逃げざるを得なかったけれども、もう酒に頼らなくても大丈夫なその人を信じる」ということでもあります。
男女平等が行きすぎて、
女も男もなんでも同じようにやらなければならない というようなことを言う人がときどきいて、それは少しおかしな話に思えます。
女性と男性には、身体的にも、心理的にも大きな違いがあり、一般的に言って、女性が向く仕事や、男性が向く仕事、という区別がありうるからです。
もちろんこれは一般的な区別であって、「女性が向く仕事」に向く男性もいますし、その逆もありますから、「この仕事は女性のもの、この仕事は男性のもの」というような決めつけはよくありません。
また、「男性に比べて女性は劣っている」という偏見も根強く残っていますから、この点については、わたしたちはまだまだ認識を改める余地があるでしょう。
こうした男女問題や女性の社会参加の問題について、言葉によって論じることも大切なことですが、アニメというエンターテイメントの分野にもこのテーマを盛り込んだ作品があります。
今回は朝日新聞のこちらの記事
・男女に差なんて、ない プリキュア生みの親、秘めた信念:朝日新聞デジタル
を参照させていただき、女の子に大人気アニメ「プリキュア」シリーズの初代プロデューサー・鷲尾天さんの言葉を紹介し、アニメに代表されるサブカルチャーと女性の社会参加の関係を肴に書いてみようと思います。
「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 男は火星人、女は金星人 「男女平等社会」を作り出すサブカルチャーの力 [追記] プリキュアの最近の作品についての疑問 「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 現在、東映アニメーションの執行役員であり、プリキュアシリーズの初代プロデューサーである鷲尾天さんは、プリキュアという女の子向けのアニメ作品に込めた思いをこう語っています。
女の子がりりしく、自分たちの足で地に立つということが一番だと思って、プリキュアを作ってきました。子どものときには、意味がわからなくてもいいんです。テレビで見ていた女の子が成長して、思い返したときに「こういう意味だったのか」と気づいてもらえれば。
プリキュアシリーズは、2004年の「ふたりはプリキュア」で始まって以来、2018年現在放映中の「HUGっと!プリキュア 」に至る、大人気のアニメシリーズです。
このシリーズのお話は基本的に一年ごとに完結しますが、ごく普通の中学生の少女が、異世界からやってきた妖精に頼まれて「伝説の戦士プリキュア」に変身し、妖精の世界の支配し、地球を我がものとしようとする悪の組織を倒して、平和を取り戻すというパターンを持っています。
プリキュアに変身した少女たちは、悪の組織が送り込む怪物と戦ってやっつけます。
怪物の名前は、ザケンナー、ウザイナー、ジコチュー、サイアーク、オシマイダーなどなど。
人間の心に潜む黒い部分や、社会の矛盾をキャラクター化することによって、正義と悪の対峙という神話的なストーリーが展開されるのです。*1
プリキュアの戦闘には、男の子のキャラクターは参加しません。イケメンの男の子も登場するけれど、非力な存在です。女の子が主役で、自分たちで物事をとにかく突破することを見せたかった。どんなに巨大なものに立ち向かうときも、自分たちで解決する気持ちが一番大切だろうと思っていました。
平和な社会を破壊しようとする「悪の組織」に立ち向かい、男の力を借りずに、それを解決する少女たち。
この物語が若い世代の女性に与えつつあるインパクトには、計り知れないものがあるに違いありません。
こうして、アニメなどのサブカルチャーを通して、女性の自立、ひいてはさらなる女性の社会参加につながるような「意識の革命」が静かに進行しているのかもしれません。
企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 鷲尾天さんは、東映アニメーションに入る前は、秋田朝日放送で報道記者やドキュメンタリーの制作をしていました。
修業軌間を経てアニメのプロデューサーとなり、「金田一少年の事件簿」や「キン肉マンⅡ世」などの男の子向けの作品を手がけたあとで、鷲尾さんは、初めての原作なし・女の子向けの作品として「プリキュア」に取り組むことになります。
そして、「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」という考えをもとに、その作品コンセプトを
「女の子だって暴れたい!」 とし、ヒロインが変身して、「アクションによって悪役をやっつける」という、ユニークなアニメ・シリーズを生み出しました。
アニメーション監督を担当した西尾大介さんとの間では、「嫌な映像を作るのはやめよう」と話をし、 「食べ物の好き嫌いをする」とか、「親に口答えする」といったシーンは入れないようにしました。子どもが夢中になって見ているアニメ作品にそうした場面があれば、子どもにすり込まれてしまうと考えたからです。
男女の差についての話も決して盛り込まず、「女の子だから」「男の子だから」といったセリフも入れませんでした。
また、「親が『あの子は、これできてるじゃない』」というような場面もないのだそうです。「比較されること」は子どもが一番嫌がることだから、と鷲尾さんは説明します。
こうして作られた「プリキュア」シリーズは、3歳から8歳の女の子に絶大な人気を誇る長寿アニメ・シリーズとなりました。
このシリーズがこうして小学校低学年までの年齢層の女の子の心をつかんだことは、
「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」、 「女の子だって暴れたい!」 という鷲尾さんの考えがずばり的中した結果に違いありません。
同時に、小学校高学年になってくると、生物的・社会的性差が広がってきて、女の子の関心が「戦い」から別のものに向かっていく様子も想像されます。
大人になっていくことで、女と男にはどんな違いが出てくるのか、そしてそこから生まれる社会的な役割分担について、ここで少し考えてみましょう。
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