牧野信一『「悪」の同意語』を読んでいる。 牧野は大正から昭和初期にかけての、太宰より一回りちょっと歳上の「ダメ作家」の先輩で、『「悪」の同意語』にも、思わず苦笑せざるを得ないようなダメ人間ぶりが、主に家族との関係を通して徹底的に描かれている。 これを読むと、ぼくのダメダメな人生など、まったく中途半端なものでしかないことを思い知らされ、21世紀初頭のインドの片隅でぷちブル的貧乏生活を送っている自分自身に、限りない幸福を見い出せるような気持ちになるから、可笑(おか)しなものだ。 ☆牧野信一『「悪」の同意語』 (2002 青空文庫オンデマンド) https://amzn.to/3xxhFUC

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作家になりたいと、いくらかでも思っているあなたなら、村上春樹の成功について、まったく知らないということはありえないでしょう。 彼が「なぜ世界中でこれほどまでに読まれているのか」という理由を、合理的に説明することなどできるわけありませんが、春樹が「なぜこんなに成功することができたのか」を少しばかり考えてみることは、あなたが作家になる可能性をきっと高くしてくれることでしょう。 そして、もののついでではありますが、世間で取りざたされるように、春樹がノーベル文学賞をとる可能性があるのかどうかについても、せっかくだから一緒に考えてみようじゃありませんか。 村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 作家になりたかった *わけではない* からこそ。 「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 第22回群像新人賞を受賞したデビュー作「風の歌を聴け」と、受賞第一作の「1973年のピンボール」が、全体を断章で構成する形式の点で、アメリカの作家カート・ヴォネガットの模倣であることはよく知られた事実です。 おまけに「風の歌を聴け」では、デレク・ハートフィールドなる架空の作家を登場させています。 これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトというSF作家を登場させていることの模倣あり、ここまでいくと「バクリ」という言葉も使いたくなります。 当時の群像新人賞の選考委員は、佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介の諸氏で、 ・村上春樹 第二十二回群像新人文学賞 というページに選評が載っているので読んでみると、アメリカ文学の影響を強く受けてはいるが独創性が高いということで、満場一致の受賞となったことが分かります。 この「模倣」の問題は本人も気にしていたと考えられ、長らくこの二作は2015年になるまで、海外での翻訳出版はされていませんでした。 ・ようやく英訳が出た村上春樹氏の初期作品に世界が熱中! | クーリエ・ジャポン という記事には、 デビュー作『風の歌を聴け』と二作目の長編小説『1973年のピンボール』については、長い間、日本国外で英訳が刊行されていなかった。村上氏自身が「未熟な作品だと思っていたから」だという。 と、2015年になってようやく海外での出版がなされた事情を説明しています。 多くの作家がはじめは優れた作家の模倣から始めるのですから、春樹の作品がアメリカ文学の模倣から始まっていたとしても、何も悪いことはありません。 みなさんが作家を目指して小説を書くのならば、好きな作家をいくらでも真似してみればいいでしょう。 ただし、プロフェッショナルとして作家になりたいのならば、そこに模倣以上の何かを生み出さなければならないことは言うまでもありません。 作家になりたかった *わけではない* からこそ。 村上春樹という作家のおもしろいところは、彼は別に作家になりたかったわけではない、というところにあると思います。 千駄ヶ谷でジャズ喫茶をしていた春樹は、野球の観戦中にふと小説を書いてみようと思い立ち、そして実際に書き始め、じっくりと書き上げた作品を新人賞に応募したところ、これが一発で見事に受賞してしまったのです。 それが1979年、30歳の年です。 こんなことは普通の人間に起こることではありません。 しかも同じようにして自然に淡々と書き続けた結果、5作目の長編「ノルウェイの森」は、上下巻合わせて430万部の大ベストセラーとなります。 1987年、38歳で押しも押されぬ有名作家となったわけです。 真似しようと思っても真似のしようがない人生の軌跡ですが、作家になりたいあなたがここで学ぶべきことは、あなたが本当に書くことが好きならば、春樹のようにはなれなくても、自分なりの方法で書き続けていくことで、自分なりの形を作ることはできるはずだ、ということです。 春樹自身も、デビュー作と二作目の形式からは離れて、新しいスタイルで本格的な長編を書くことで、「これこそ村上春樹だ」と言える作風を確立していきました。 あなたもプロになれるかどうかとは関わりなく、書くことが好きで、書き続けることができれば、自分らしい作風を確立し、数は少なくても読者を獲得することもできるでしょう。 今の世の中では、誰にでも手の届くところに、ネットという表現媒体があります。 じぶんなりのメディアを用意して発表をし続けることで、明日を夢見るアマチュア作家たちは数知れません。 あなたが本当に書くことが好きならば、そうした人たちの仲間に加わることは、きっとあなたの人生を豊かにしてくれるに違いありません。 そして、運がよければ、あなたにもプロとしてのデビューの道が開けるかもしれないのです。 「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 村上春樹という作家の天才性は、「生き方自体が作家」であるということに尽きると思います。 書くことが好きで、走ることが好きで、走ることについても書いて、翻訳もして、とにかく彼は好きなことをして生きていて、それが「作家として成立」しています。 それはまったく幸運なことしか言いようがありません。やろうとしてやれることではなく、天が与えた運命としか言いようがないでしょう。 その上、彼の書くものは「商品」としても優れているのですから、これは奇跡以外の何ものでもありません。 この奇跡の秘密こそが彼の成功の秘密であるわけですが、それは彼の執筆方法が「無意識の力」を利用しているところにあるのではないでしょうか。 彼はストーリーがどのように進んでいくかを自分でも知らないまま書き進め、一旦書き終われば、すべてを打ち込み直しながら推敲していくという作業を、何度も繰り返すのだといいます。 このようにして村上春樹本人の意識すら知らないことを書いた結果が、世界の読者に受け入れられているのですから、不思議と言えば、まったく不思議なことです。 言ってみれば彼の無意識は、今の地球の時代精神とつながっているのでしょう。 もちろん彼の書くものが万人に受けるというわけではありませんから、そのとき、春樹ではないあなたが書く作品にも、出番があるわけです。 実のところ、あなたの無意識だって、今の地球の時代精神とつながっているのです。 ただしそのつながり方は、春樹ほど太いつながりではなく、ごく細いものかもしれません。 けれど、それがいかに細いものであっても、同じチャンネルでつながっている人にはあなたの表現が届くはずですし、創作を続けていく中で、そのつながりを太いものにしていくこともできるのです。 ぼくも非力ながら、こうして記事を書いていくことで、少しずつでも時代精神とのつながりというものに磨きをかけて、流れのよいものにしていこうと心がけています。 願わくば、あなたのもとに文芸の神さまが降りてきて、あなたをこの地球時代の集合無意識と太く結びつけてくれますように。 春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹がノーベル文学賞を取る可能性はどのくらいあるのでしょうか? これについては、はっきりは分からないというのが、もちろん正直なところで、まったく神のみぞ知るということです。 けれどもここで大胆な予想をしてみましょう。 村上春樹がノーベル賞を取るのは、日本の全体主義化が進んで、日本がふたたび戦争を始めたときである、という予想です。 ノーベル文学賞に政治的な意図が込められていることは、みなさんもご存知の通りです。 ソビエトのソルジェニーツィン、中国の高行健など、政府に抗議した人物の受賞に、それなりの意図があるのは明らかですし、ミュージシャンであるボブ・ディランの受賞も、表立っては言われていなくても、その政治的な姿勢が受賞の背景にあることは否定できないでしょう。 春樹の小説が、ノーベル賞に値するものかどうかは、スウェーデンアカデミー外部の人間には判断できません。また、大江健三郎氏がノーベル賞を取ってからの期間や、日系のカズオ・イシグロ氏が受賞したことも春樹受賞には不利や要素として働く可能性があります。 そうしたことを考えると、当分の間、春樹の受賞はなさそうに思えますが、今後十年単位のスパンで考えたとき、日本が軍事大国となり、戦争を始めたときに、それを諌めるメッセージとして、村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性が高まると思えるのです。 以上、最後は勝手なぼくの妄想となりましたが、この記事はこの辺でおしまいにします。 それではみなさん、ナマステジーっ♬

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みなさんは「魔術」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。 魔法使いのお婆さんが鍋でぐつぐつ秘薬を煎じているところ、なんてのは、ちょっとレトロすぎますかね。 何しろアニメの魔法少女がダークファンタジーの世界で活躍する時代ですもんね。 あれ、でも、魔術と魔法って、同じものなんでしょうか? この記事では、その辺りの言葉の使い方を入り口にして、SF作家、森下一仁氏の「魔術師大全」という本を肴に、魔術を巡る駄法螺を吹くことにしましょう。 魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! 魔術とは果たして何なのか、それは本当に存在するのか 魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 魔術とか魔法とかいうのは、たぶん英語のマジック magic の訳語として作られた言葉なんでしょうね。 マジックの語源は、古代ササン朝ペルシアの神官を意味するマギ magi からきていて、西欧世界の人々がペルシアという東洋の異教の儀式を「魔術」として捉えたということのようです。 日本語でマジックと言ったら、奇術や手品のことになってしまいますが、これはアメリカあたりから見世物として入ってきたマジックショーの影響でしょうか。 試しにアメリカのフリーの辞書アプリを引いてみますと一番最初に「呪文や特別の身振りによって不可能なことを実行する不思議な力」といった意味のことが書いてあります*1。 ちなみにマジック以外に魔術に当たる言葉としては、ソーサリー sorcery というのもあります。 異世界ファンタジーの分野で「剣と魔法もの」というのがあって、これは sword and sorcery の訳ですね。英雄が剣を振り回し、魔法を使って活躍する物語のことです。 また、ぼくが好きなカルロス・カスタネダの「呪術師と私」というノンフィクション・ノベルでは、メキシコの呪術師に弟子入りしたアメリカの人類学者の姿が描かれますが、この呪術師は sorcerer の訳ですから、魔術師と言ってもかまわないはずです。 この辺の使い分けは、西洋的な魔術師に対して、それ以外のアジア・アフリカ世界などの場合は呪術師になるといった感じでしょうか。 ここで改めて魔法と魔術の違いを考えてみると、 魔法は、おとぎ話やファンタジーに出てくるもの、 魔術は、西洋世界で現実に誰かが実践しているもの、 というニュアンスの違いがあるような気がします。 というところで、森下一仁氏の「魔術師大全」の話に入ることにしましょう。 森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! さて、森下さんの「魔術師大全」ですが、副題が「古代から現代まで究極の秘術を求めた人々」となっています。 アマゾンのページで内容を見ると、 魔法・魔術は奇跡を生む技であり、古くから魔術を実現するため人々は試行錯誤を続けてきた。錬金術、テレパシー、占星術、未来予知、不老不死、テレポーテーションなど、人間が古代から求め続けた魔術の真髄を解き明かす。 とあります。 つまりこの本は、古代より現在に至るまで、西洋において実践されてきたとされる「魔術」について、様々な文献からその実像を解き明かす書物ということになります。 例えば古代ギリシアのビタゴラスといえば、ピタゴラスの定理でお馴染みですから、幾何学を研究した哲学者くらいに思っている方が多いかもしれませんが、彼が数学を研究したのは、神の持つ神秘の力が数字に現れるという数秘学の思想があったからこそなのです。 現代の数学観、科学観からすれば、不思議に思えるかもしれませんが、自然を統べる法則こそ神の力の顕れであり、古代においてはその研究はまさに魔術だったわけです。 SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない」という意味のことを言いましたが、こうした歴史を鑑みれば、そもそももともとは魔術と科学の間に区別などなかったことが分かります。 * * * さて、時代は下って17世紀、中世のフランスの話です。 太陽王ルイ14世の愛人モンテスパン夫人が起こしたとされる黒魔術の事件は、なんともおどろおどろしいものです。 この時代、魔術はキリスト教社会では当然のように禁じられていたにも関わらず、実際にはカトリックの神父が黒ミサと称される魔術的儀式をとりおこない、世俗の人間の欲望を叶える手伝いをしていたのでした。 モンテスパン夫人はルイ14世に見初められ寵愛を受けるのですが、やがて年月が流れば、王の心は更に若い愛人へと移っていきます。 その王の心を繋ぎとめようと、夫人は黒魔術に手を染めてしまったのです。 夫人の依頼を受けて、ギブールという神父が初めに行なったのは、夫人の希望が叶うように祈る程度のまだまだ常識的な範囲のミサでした。 しかし王の心を失うことを恐れた夫人の不安は収まることがなく、ギブール神父と彼を手引きした魔女ヴォアザン夫人に、更なる魔術や惚れ薬を要求していくことになります。 やがて鳥を生贄にする怪しい儀式を行なうことになり、それでも飽きたらずついには自らの体を祭壇とする黒ミサを行なうまでに至ります。 この血に染まった黒ミサでは、モンテスパン夫人は全裸になって自らの体を祭壇としたばかりでなく、なんと人間の赤子を生贄としたというのです。 しかしそうした儀式の甲斐もなく、王の心は夫人から離れてしまい、逆上した夫人は、王の呪殺、毒殺までをも依頼しますが、当局の手がヴォアザン夫人とギブール神父に及んだためにこの暗殺計画は頓挫します。 この事件で逮捕された関係者は360人を超えたにも関わらず、その顧客に宮廷内の有力者が多かったことから、実際の告訴は110人にとどまったとのことで、有罪となった者たちは、流刑、終身刑、死刑などに処されたのですが、ギブール神父は終身刑、ヴォアザン夫人は主犯として火炙りの刑を受けることとなったのでした。 王の寵愛を受けたモンテスパン夫人には特段のお咎めはなく、その後10年の間王との親交は続き、敬虔なカトリックの信仰に戻った夫人は、16年後にひっそり息を引き取ったとのことです。*2 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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今までぼくは、吉本ばななの小説のどこが面白いのか、よく分かっていませんでした。 けれども今回、彼女の「体は全部知っている」という短篇集を読んで、ようやくその「魅力」が分かったので、この記事ではそのことをちょっと書いてみます。 「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり 「ミイラ」になれなかった少女のちょっとだけエログロな空想のお話 13編の短編が収められたこの短篇集の、ちょうど真ん中、7番目の小説が「ミイラ」という題名の作品です。 大学に通う日常に退屈するはたち前の少女が、近所に住むエジプトおたくの青年に突然「軟禁」されてしまう様子を描いた不思議な小説です。 「軟禁される」というくらいですから、「ビデオで勉強したようなしつこいセックス」とか「しばられたままもらしたりした」とか、それらしいことが書いてはあるのですが、ちっともいやらしさは感じられなくて、「これはエッチな妄想のお話なんですよ」という記号として散りばめられているだけ、という感じなんですね。 こういう吉本ばなな独特の書き方を「リアリティがないよなー」と、今までぼくは思っていました。 でもこの短篇集を読んでようやく分かったのは、こうやって記号を散りばめて雰囲気だけ表現するような書き方というのは、ばななファンにとって、えげつなく書き込まれた他人の感性を押しつけられることなく、自分の空想の余地が残されることで、かえって共感を持って読むことのできる表現になっているのだろうな、ということです。 ばななの作品は、言ってみれば「少女マンガ的ファンタジーとしての文学」ということになるでしょう。男どもが読むようなえげつない劇画と比べると、少女マンガは日常の風景を描いてはいても、どこか実際の日常からはかけ離れた空想世界を描写しているわけで、ばななという作家は、小説の世界でこれをやっているのかな、と思うのです。 好きでもない青年に軟禁されてセックスの快楽に酔うという妄想が小説の中の「現実」として書き表さられ、その男に自分で作った猫のミイラを見せられた主人公は、自分がミイラにされるところを空想し、あるいは息ができなくなるほどの愛情から相手の頭を打ち砕く自分の姿を空想します。 しかし物語は、危険な領域に決して踏み込むことなく、青年の優しさと身勝手さが表現されたあとで、切ない別れの場面が描かれて終わりを迎えます。 後日譚として青年が作家になりきれいな奥さんをもらったこと、自分は普通に恋愛をして、普通に暮らしている様子がつづられますが、最後にその普通の生活は「正しくて幸せなのか」という問いかけがされます。 ミイラにされた自分や、頭を打ち砕かれた彼を想像するとき、「それはそんなに悪いことにはどうしても思えなかった」のだ、といってこの掌編は閉じられます。 平凡な日々の中で、その平凡さに満足できず、静かに別の現実にあこがれる若者たちが、ばななさんの小説を大切に思う気持ちが、この不思議な読後感の物語によって、ようやく分かったような気がするのです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ アロエと友だちになったり、胸のおできとの別れを惜しんだり、子どもやじじいに恋されたり さて、もう何編か簡単に紹介しておきましょう。 巻頭の「みどりのゆび」は、植物を愛するおばあちゃんを通して、アロエと友だちになる女性の話です。 中ほどの「小さな魚」は、胸にできた小さな魚の形をしたおできとの別れの物語で、長年連れ添ったそのおできに対して、旅先でふと出会った大切な友だちに対するような深い気持ちを持っていた様子が描かれます。 巻末の「いいかげん」では、小学生や老人に見初められる女性が、いかにもばなな的な空想世界の中で「活躍」し、物語の結末では「ちょうどいい年頃の伴侶に恵まれますように」と神社でお祈りをします。「何かがどうしようもなく偏っている」自分を意識しながら……。 もしあなたが、周りのみんなの価値観とどこかずれている自分を感じ、「何かがどうも偏ってるなー」と思うようなタイプの方だったら、たまには吉本ばななの小説を読んで、ささやかな空想の世界に心を遊ばせるのも、いい気分転換になるに違いありません。 ☆紹介した本 吉本ばなな「体は全部知っている」(2002 文春文庫) てなわけでご精読ありがとうございました。 それではみなさん、ナマステジーっ♬

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イタロ・カルヴィーノは、20世紀のイタリアの作家のうちでもっとも有名といっていいくらい各国に翻訳されている作家であり、日本語でもほとんどの作品を読むことができます。その作風は、作品ごとにさまざまで、初期の代表作『木のぼり男爵』は寓話風の物語、日本では早川書房から出版されている『レ・コスミコミケ』はSF的ほら話の連作短編、ポストモダンの教科書とも呼ばれる『冬の夜一人の旅人が』はその本を読んでいるあなたが主人公になるメタ・フィクションです。

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男女平等が行きすぎて、 女も男もなんでも同じようにやらなければならない というようなことを言う人がときどきいて、それは少しおかしな話に思えます。 女性と男性には、身体的にも、心理的にも大きな違いがあり、一般的に言って、女性が向く仕事や、男性が向く仕事、という区別がありうるからです。 もちろんこれは一般的な区別であって、「女性が向く仕事」に向く男性もいますし、その逆もありますから、「この仕事は女性のもの、この仕事は男性のもの」というような決めつけはよくありません。 また、「男性に比べて女性は劣っている」という偏見も根強く残っていますから、この点については、わたしたちはまだまだ認識を改める余地があるでしょう。 こうした男女問題や女性の社会参加の問題について、言葉によって論じることも大切なことですが、アニメというエンターテイメントの分野にもこのテーマを盛り込んだ作品があります。 今回は朝日新聞のこちらの記事 ・男女に差なんて、ない プリキュア生みの親、秘めた信念:朝日新聞デジタル を参照させていただき、女の子に大人気アニメ「プリキュア」シリーズの初代プロデューサー・鷲尾天さんの言葉を紹介し、アニメに代表されるサブカルチャーと女性の社会参加の関係を肴に書いてみようと思います。 「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 男は火星人、女は金星人 「男女平等社会」を作り出すサブカルチャーの力 [追記] プリキュアの最近の作品についての疑問 「女の子がりりしく、自分の足で地に立つことが一番」 現在、東映アニメーションの執行役員であり、プリキュアシリーズの初代プロデューサーである鷲尾天さんは、プリキュアという女の子向けのアニメ作品に込めた思いをこう語っています。 女の子がりりしく、自分たちの足で地に立つということが一番だと思って、プリキュアを作ってきました。子どものときには、意味がわからなくてもいいんです。テレビで見ていた女の子が成長して、思い返したときに「こういう意味だったのか」と気づいてもらえれば。 プリキュアシリーズは、2004年の「ふたりはプリキュア」で始まって以来、2018年現在放映中の「HUGっと!プリキュア 」に至る、大人気のアニメシリーズです。 このシリーズのお話は基本的に一年ごとに完結しますが、ごく普通の中学生の少女が、異世界からやってきた妖精に頼まれて「伝説の戦士プリキュア」に変身し、妖精の世界の支配し、地球を我がものとしようとする悪の組織を倒して、平和を取り戻すというパターンを持っています。 プリキュアに変身した少女たちは、悪の組織が送り込む怪物と戦ってやっつけます。 怪物の名前は、ザケンナー、ウザイナー、ジコチュー、サイアーク、オシマイダーなどなど。 人間の心に潜む黒い部分や、社会の矛盾をキャラクター化することによって、正義と悪の対峙という神話的なストーリーが展開されるのです。*1 プリキュアの戦闘には、男の子のキャラクターは参加しません。イケメンの男の子も登場するけれど、非力な存在です。女の子が主役で、自分たちで物事をとにかく突破することを見せたかった。どんなに巨大なものに立ち向かうときも、自分たちで解決する気持ちが一番大切だろうと思っていました。 平和な社会を破壊しようとする「悪の組織」に立ち向かい、男の力を借りずに、それを解決する少女たち。 この物語が若い世代の女性に与えつつあるインパクトには、計り知れないものがあるに違いありません。 こうして、アニメなどのサブカルチャーを通して、女性の自立、ひいてはさらなる女性の社会参加につながるような「意識の革命」が静かに進行しているのかもしれません。 企画書に書いたコンセプトは「女の子だって暴れたい!」 鷲尾天さんは、東映アニメーションに入る前は、秋田朝日放送で報道記者やドキュメンタリーの制作をしていました。 修業軌間を経てアニメのプロデューサーとなり、「金田一少年の事件簿」や「キン肉マンⅡ世」などの男の子向けの作品を手がけたあとで、鷲尾さんは、初めての原作なし・女の子向けの作品として「プリキュア」に取り組むことになります。 そして、「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」という考えをもとに、その作品コンセプトを 「女の子だって暴れたい!」 とし、ヒロインが変身して、「アクションによって悪役をやっつける」という、ユニークなアニメ・シリーズを生み出しました。 アニメーション監督を担当した西尾大介さんとの間では、「嫌な映像を作るのはやめよう」と話をし、 「食べ物の好き嫌いをする」とか、「親に口答えする」といったシーンは入れないようにしました。子どもが夢中になって見ているアニメ作品にそうした場面があれば、子どもにすり込まれてしまうと考えたからです。 男女の差についての話も決して盛り込まず、「女の子だから」「男の子だから」といったセリフも入れませんでした。 また、「親が『あの子は、これできてるじゃない』」というような場面もないのだそうです。「比較されること」は子どもが一番嫌がることだから、と鷲尾さんは説明します。 こうして作られた「プリキュア」シリーズは、3歳から8歳の女の子に絶大な人気を誇る長寿アニメ・シリーズとなりました。 このシリーズがこうして小学校低学年までの年齢層の女の子の心をつかんだことは、 「小さな子どもは、男の子も女の子も変わらない」、 「女の子だって暴れたい!」 という鷲尾さんの考えがずばり的中した結果に違いありません。 同時に、小学校高学年になってくると、生物的・社会的性差が広がってきて、女の子の関心が「戦い」から別のものに向かっていく様子も想像されます。 大人になっていくことで、女と男にはどんな違いが出てくるのか、そしてそこから生まれる社会的な役割分担について、ここで少し考えてみましょう。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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はてなのみなさん、こんにちわ。 昨日の記事 Google Adsense 戦史 - あるいは、ネット上で小遣いを稼ぐまでの遥かなる道行き - *魂の次元* では、すっかり放ったらかしていたグーグルアドセンスのページを久しぶりに見にいったら、収入が 1,000 円を超え、グーグルからの支払い準備のための住所確認の段階に達したという、ささやかな報告をさせていただきました。 今日は、こちらもまたまた、ごっそり放っぽらかし状態のアマゾン・アソシエイトを覗いてみたところ、今年に入ってから 300 円ほどの収入が確認されましたので、防備録がてらの記録ついでに、お買い上げのあった商品を紹介してみることにします。 1. 紹介して売れた本 ・EARTH GYPSY(あーす・じぷしー)[ 2点お買い上げ] こちらは、双子の姉妹、なほとまほが、普通の社会人をやめて、世界を旅しながら自由に人生を生きるようになるまでの姿をつづったノンフィクションの物語です。 「アウト・オン・ア・リム」や「アルケミスト」をご存知で、精神世界・スピリチュアル方面に関心のある方には蝶お勧め、アヤワスカ体験の記述もすぐれもので、日本発のサイケデリックノベルとしても大変おもしろく読めます。 もう少し詳しい紹介はこちらの記事をどうぞ。 魂の次元: [本の紹介]不思議な双子の物語、Naho & Maho「あーす・じぷしー」 ・なまけ者のさとり方 (PHP文庫) [ 3点お買い上げ ] こちらも精神世界系の本で、古典的といってもよい作品ですが、楽に、快適に人生をすごすための、世界観と心構えを書いた本とてほもいったらよいでしょうか。 ややオカルトめいた記述もありますが、広い意味では自己啓発本といってもよい内容で、そういった系統の本に興味のある方にも、少し毛色の変わった本として自信を持っておすすめいたします。 2. その他、ぼくのリンクを辿ったのち買っていただいた商品 (お買い上げは各 1 点ずつ) ・オカルト探訪マガジン 怪処 3号 -特集 西日本異景/即身仏/ソウルフード ・オカルト探訪マガジン 怪処 5号 - 特集 奇怪なるハコモノ/つくりびと知らずアートの世界 世の中にはこんな雑誌もあるのですね。アメブロつながりの知人が買ってくれたもののような気がするのですが、なかなかディープで楽しいラインアップです。 ・思いが伝わる、心が動く スピーチの教科書 佐々木繁範さん、元ソニーCEOスピーチライターの方の著書です。 話ベタなぼくに、この本を読んで勉強するべしとの、神様のお告げでしょうか。 ・マイ・ウーマン エンジェル・オルセンというアメリカの女性シンガーソングライターのアルバム。不勉強にしてまったく知りません(笑)。 てなことで、本日もご精読ありがとうございました。 それではみなさん、ナマステジーっ♪

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夜中たわしさんが、 親族により70余年封印された本『悪魔を出し抜け!』オーディオブック版感想 - 夜中に前へ という記事で、ナポレオン・ヒルの「悪魔を出し抜け!」を紹介しているので、ぼくも便乗してちょっと書いてみます。 この本はいわゆる自己啓発本ですので、「お金を儲けたい」あなたや、「有名になりたい」あなた、そして、「とにかくネット上でビッグになりたい」あなたなどには打ってつけの本ということになります。 そして、さらに言えば、「ニートな悟りを決めたい」あなたにこそ、ぜひ読んでいただきたい一冊だったりもするのです。 ぼくはどちらかというと、マイナー「指向」にしてマイナー「思考」な人間ですので、題名に「悪魔」という言葉が入っていなかったら、この本を本屋で手にとることもなかったでしょう。 そうです、この本のとっても面白いところは、悪魔があなたに「ビッグになる」方法を教えてくれるところなんです。 ナポレオン・ヒルは、アメリカにおける自己啓発本の本家本元みたいな人ですが、その彼が「ある精神的な危機を経て、悪魔とコンタクトを取れるようになった」というのが、この本に書かれている文字通りのいきさつです。 たわしさんは、悪魔とコンタクトを取ったというのは方便であり、刺激的すぎる内容を直接自分の言葉として語るのは差し障りがあるので、悪魔の言葉として語ることにしたのだろうと、書いています。 確かにそうかもしれません。 けれども、「命に関わるような精神的な危機」を経験することによって、普段は入ることのない「変性意識状態」に入るということは、十分ありうることでして、ナポレオン・ヒルが「実際に悪魔と対話した」と思っていたとしても、これはなんらおかしなことではありません。 少し時代はさかのぼりますが、イエス・キリストさんだって、神の声を聞いたと思ったわけだし、周りの人たちもそれを信じたわけですから。 さて、そこで悪魔が何を教えてくれるか、ということなのですが、それは 「いかにして悪魔が人間をコントロールしているか」 という方法なんですね。 で、ナポレオン・ヒルさんは、どういうわけか悪魔と友だちになってしまい、悪魔のやり口を教えてもらってしまいましたから、これを逆転することによって、「悪魔を出し抜く」ことが可能になるわけです。 悪魔を出し抜きさえすれば、ほら簡単、あなたはあっという間にビッグになれるという次第です(嘘)。 で、いかにして出し抜くかということですが、これを一言でまとめてしまうと、 「ヒプノティック・リズムにはご用心」 ということになります。 たわしさんはそれを 「悪魔にコントロールされないためには、周囲に流されず、自分の頭で考えろ」 と表現なさっています。 はしょって説明すると、悪魔の目的は「自分で考えない、周りのいいなりになる人間を作ることで、この世界を堕落させる」ことにあるわけです。 そのとき悪魔は、「ヒプノティック・リズム」という人間を催眠状態に落とし入れる波動によって、人間をコントロールしているとのこと。 そのことを十分に意識していない限り、人は簡単に「周りに流される、いいなり人間」になっちゃうって話なんですね。 そしてこの「十分に意識する」っていうのが、めちゃめちゃ難しい。いろいろなエピソードを通してその「難しさ」についてもきちんと書いてありますので、あなたが本当に「悪魔を出し抜きたい」のだったら、役に立つことは間違いないです。 この本は自己啓発本ですから、全体のストーリーは「流されない人間になって、ビッグになろう」というふうなものなのですが、基本的な考え方は、お釈迦さまの説く、初期仏教ともそっくりだなと、ぼくなどは思います。 ぼくの場合、涅槃・寂滅を目指す、仏教的なストーリーの方に、どちらかといえば惹かれるわけですが、キリスト教的でビジネス畑のナポレオン・ヒルさんの書く「真実の書」が、「世間に流されない人間になろう」という主張において、仏教とほぼ同じ結論に達していることには、とても興味深いものを感じます。 というわけで、「ビッグになりたい」あなたにも、「ニートな悟りを決めたい」あなたにも、蝶おすすめの一冊ということなのでありました。 ほいでは、気になる方は、ぜひアマゾンでチェックしてくださいねー。 ナポレオン・ヒル「悪魔を出し抜け!」きこ書房2013

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あけましておめでとうございます。 今年一年が、地球上のすべてのみなさんにとって、すばらしい年になるよう、つつしんでお祈り申し上げます。 さて、昨日の記事は、いい加減なところでぶっ千切って終わってしまいましたので、今日はその続きを書きますが、その前にまず、マインドフルネスとしても知られるヴィパッサナー瞑想の話をしようと思います。 なお、この記事は、無駄に 6,000 字以上あります。 マインドフルネスとかグーグルのサーチ・インサイド・ユアセルフとか マインドフルネス、ヴィパッサナー、禅 ぼくの朝瞑想 ようやく「ジュリアとバズーカ」のアンナ・カヴァンの話。 そしてカヴァンの「ジュリアとバズーカ」 ついに諸星大二郎の「ど次元世界物語」だ。 おまけは amazon associates のぷちネタ そして、最後に読者の皆様への御礼です。 マインドフルネスとかグーグルのサーチ・インサイド・ユアセルフとか みなさんは、マインドフルネスというのはご存知ですか? マインドフルネスって、今の日本で、どのくらい一般的な言葉なんでしょうね? 長らく日本を離れてると、そういう「常識的」感覚がなくなってくるんですけれど、まあ、今はとにかく情報が溢れかえってる時代なので、「一般的」なんて考えること自体が無意味になりつつあるのかもしれません。 それはともかく、グーグル生まれの「サーチ・インサイド・ユアセルフ」という研修プログラムのおかげで、ネット上にはマインドフルネスの情報が溢れかえってます。 マインドフルネスとは何かを、ものすごく簡単に説明すると、 余計な考えを棄てて、今ここを生きること と言ったらいいでしょう。 禅で言う、無念無想の境地ですね。 もちろん、そういう境地に達するまでには、長い時間と努力がいるわけですが、グーグルのプログラムは、別に悟りの境地を目指すものではありません。 無念無想を心がけると、 健康にもいいし、仕事もはかどるよ って話です。 で、そのマインドフルネスを具体的にはどうやるかって話ですが、これまたごく簡単に説明すると、 まずは、呼吸をよく見る それになれたら、自分の体の状態もよく見る これだけのことです。 これがどうして心身の健康に役立つかは、また別の機会に書きますが、興味が湧いた方は、朝起きたあとと、夜寝る前に、五分間ずつ呼吸を見つめてみてください。 寝床の中で横になったままでかまいませんので、息を吸うときには、今自分は息をしているということをしっかり意識します。「あー、今自分は息を吸ってるなー」という感じです。 同じように、息を吐くときは、息を吐いてることをしっかりと見ます。 これを五分間やるだけです。 たったの五分ですが、はじめのうちは長く感じるかもしれませんが、これを毎日なり、思い出したときなりに続けていると、ある日、以前とは違って、体と心から力みがなくなっている自分に気づくこと請け合いです。 ものは試しですから、ま、騙されたと思って♬ マインドフルネス、ヴィパッサナー、禅 さて、マインドフルネスというのは、アメリカのお医者さんが、ベトナムのお坊さんに学んだ禅の手法を、マインドフルネス・ストレス低減法 Mindful-based stress reduction: MBSR という名前で、認知療法に取り入れたことで、アメリカに広まった考え方です。 禅の言葉では「念」に当たり、仏教で悟りに至る八つの方法として知られる八正道のうちの一つ、「正念」のことと言ってもいいでしょう。 正しく気づくこと、といった意味です。 そして、正しく気づく、ということの中身が、 ごちゃごちゃ考えるのはやめて、自分が感じているままの世界をきちんと感じる ということであり、そのためには、 まず、自分の呼吸を見て、自分の体の状態を見る ということになります。 そうやって、今起きていることに正しく気づいている状態が「マインドフルネスな状態」であり、マインドフルネスを心がけることで、心が楽になり、体からは力みが抜け、仕事も洗濯も掃除もはかどるというわけです。 で、ヴィパッサナーとはなんぞや、という話なのですが、ぶっちゃけて言えば、マインドフルネスとヴィパッサナーは同じものと思ってもらってかまいません。 一般的にはマインドフルネスといい、上座部仏教の人はヴィパッサナーといい、日本では禅と呼ぶ、といったくらいの話です。 なお、日本の仏教では、「止観」と呼ばれる瞑想法があり、これはサマタ・ヴィパッサナーを漢訳した言葉で、 心を鎮めて、正しく見る という意味になります。 つまり、サマタは「心を鎮めること」、ヴィパッサナーは「正しく見ること」です。 「止観=サマタ・ヴィパッサナー」という瞑想をすることで得られるのが、「正念=正しい気づき」ということになります。 ぼくの朝瞑想 今ぼくは、西インドのプシュカルという田舎街にいるのですが、ここからバスで 20 分ほど行ったところに、ヴィパッサナー瞑想をやっているセンターがあります。 先日そこでやっている十日間泊まり込みのコースに参加しました。五年ぶり二度目のことです。 朝四時半から夜の九時までほとんど座りっぱなしに近いので、一回目は地獄でした。 けれど、二回目の今回は、どちらかと言えば、天国に近い感じで、とてもいい時間が過ごせました。 この十日間のコースについては、またいずれ書こうと思いますが、コースが終わってから 12 月の頭から朝一時間ほどの瞑想を毎日続けています。

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「レイア姫」ことキャリー・フィッシャーの著書 Carrie Fisher, Wishful Drinking より わたしが映画でずっと着てた白いドレスは憶えてる? 撮影の初日にジョージがやってきて、あのドレスをちらっと見て言ったの。 「あのドレスを着るときは、ブラジャーは着けちゃだめだからね」 それで、わたしは言ったわ。 「ええ、いいけど。でもどうして?」 そしたら、こう言うの。 「それはね...... 宇宙には下着なんかないんだ」 その言い方が、確信に満ちていてね、ほんとうに宇宙にいるみたいに辺りを見回して、ブラジャーもパンティーもどこにもないだろうって、感じなの。 そして、説明を続けて、 「宇宙に行ったら無重力になるだろ。そしたら、きみの体はふくらむんだ。ところがブラはふくらまない。ブラなんかしてたら、絞め殺されるからね」 私が思ったのは、これはすごく幻想的な死亡記事になるなってこと。で、若い友だちに、何が起こることになるか分からないけど、ちゃんとこう報告してねって言ったの。 「月明かりに溺れて、ブラジャーにより窒息死」って。 「スター・ウォーズ」で一斉を風靡した、「レイア姫」ことキャリー・フィッシャーさんが亡くなりました。 冒頭、紹介したのは彼女の回想記の一つCarrie Fisher, Wishful Drinking の一節です。 (ただし、原本は持っていないので、今日送られてきた ello.co の告知メールの引用から翻訳しています) 「キャリー・フィッシャー、月明かりに溺れ、ブラジャーにより窒息して亡くなる」と新聞に載せてくれ、というわけです。 アメリカの人の冗談は、気がきいてますよね。 「スター・ウォーズ」の第一作は、中一のときに見ました。兄の影響もあり、すっかり SF ファン気取りだったぼくに、強烈な印象を与えてくれた映画です。 その中で、レイア姫の着る白いドレスは、忘れろと言われても忘れられないくらいの強い印象がありますよね。 当時は宇宙をリアルに描いた映画と言うと、キューブリックの「2001年宇宙の旅」くらいしかありませんでしたから、宇宙での冒険物語をリアルに描いた「スター・ウォーズ」の第一作が、大きな歓声を持って世間に受け入れられたことは、ある意味、当然のことだったと思います。 あれからほぼ 40 年が経ち、宇宙物の映画は、まったく当たり前の世の中となりました。 それでも、「スター・ウォーズ」の持つ、哲学神話的・宇宙冒険物語としての輝きは、まったく色あせていないと思います。 最近も「ローグワン」というスピンオフ作品が作られていますが、「スター・ウォーズよ、永遠なれ」という気持ちが湧いてきます。 最後にキャリー・フィッシャーさんのご冥福をお祈りして、この記事は終わりにしたいと思います。 いやー、映画ってホントにいいですねぇーー。 それでは、さいなら、さいなら、さいなら。 - おまけ。Truck Torrence さんによるかわいいレイア姫: https://ello.co/trucktorrence/post/pafd_ts_uiaqpqle58ftfw ☆http://ello.co/tosibee はアカウント取っただけで、ほとんど使ってません。でも、そろそろなんかやろうかなぁ......。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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宇宙のど真ん中