みなさん、こんにちわ。
2017年6月15日は、いわゆる「共謀罪法」が成立した日として、戦後ニッポンの歴史の一つの転回点になったと思われます。
そこで。
改めまして「共謀罪法」の問題点を簡単に説明するとともに、今後の総天然色全体主義国家ニッポンを生きるヒントを考えてみたいと思います。
共謀罪法のどこが「凶暴」なのか 共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない 雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法のどこが「凶暴」なのか テロ等準備罪こと共謀罪法ですが、名前に「テロ」とあるにも関わらず、「テロ」とは全く関係のない、さまざまな行動を取り締まりの対象にしているところが、大変「凶暴」なんですよね。
・共謀罪(テロ等準備罪)の3つの問題 : 東京法律事務所blog
という記事で東京法律事務所の弁護士・今泉義竜さんが具体例を上げています。
・会社の社長が税理士に節税の相談(所得税法、消費税法違反の共謀)
・住民団体が高層マンション建築に反対する座り込みを計画(組織的威力業務妨害の共謀)
・消費者団体が不買運動を組織しようと相談(組織的業務妨害の共謀)
といった具合で、この法律の対象になるのが「長期4年以上の刑を定めている犯罪」であることから、およそテロとは関係のない、あなた自身が巻き込まれかねない、様々な行動が対象になりうるわけです。
おまけに「そうした計画をした疑い」だけで「捜査機関が逮捕や捜索・差押えをすることができる」ようになってしまいましたので、身に覚えのない話で、突然あなたのうちに警察が家宅捜索にやってこないとも限らない世の中の「いっちょ上がり」というわけです。
また、そうした「共謀の証拠」をつかむためとして、盗聴、メール・SNSの監視や各種団体への捜査官の潜入捜査などが、これまで以上に広範に行なわれるようになることも予想され、社会的な息苦しさが増し、一般市民の自由な行動が、だんだんとしずらい世の中になっていくことも想像されます。
以上、簡単に共謀罪法の「凶暴」さを見ましたが、普段そういうことを考えたことのない方には、いまひとつピンとこない話かもしれません。
共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない ・衆院通過した「共謀罪」、何が問題なのか? – 田原総一朗公式サイト
という記事で田原総一朗さんが指摘してらっしゃいますが、この共謀罪法は、戦前の治安維持法を現代に蘇らせたものといって間違いないと考えます。
田原さんも指摘なさっている通り、
「治安維持法ができた昭和初期と現代では、民主主義の成熟度が違う。心配のしすぎだ」
とお考えの方も多いでしょう。
「しかし」と田原さんは言います。
昭和初期の日本というのは、大正デモクラシーを経て、きわめて自由な時代だったのだ。それが治安維持法ができたことで、不自由な時代へと変わっていった。そして、ついには、あの戦争へと突入してしまったのだ。
現在、政府は共謀罪については、「一般国民には関係ない、大丈夫」と言う。だが、治安維持法が成立した際、時の政府は、「無辜(むこ)の民にまで及ぼすというごときことのないように十分研究考慮を致しました」と答弁したのだ。ところが戦争が始まると、少しでも戦争や政府への批判を口にすると拘束され、ひどい場合は拷問の末、殺されるようになる。
法律によって意図された政治の方向性は、一夜にして社会を変えるものではありません。
それは、徐々に社会に浸透し、じわじわとぼくたちの首を締めていくのです。
あなたが「ほんとかな?」とか「違うんじゃない?」などと思われる気持ちには、同情いたしますが、五十年以上の馬齢を重ね、2011.3.11. 以降の日本社会の急激な変化を、体の感覚として実感しているものとしては、
『「凶暴」な法律による、超管理社会の到来』
という不吉な予想を、わざわざこうして書かざるを得ない動機というものがあるのです。
雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法が通ったからといって、今日からあなたの言論が制限されるというものではありません。
ですから、昨日までと違った何かを心がけていく必要は特にありません。
昨日までと同じく、今の日本で保障されている自由を謳歌して、毎日を楽しく生きていけばいいのです。
とはいえ、多くの日本の方々が愛する「ことなかれ主義」と「長いものには巻かれろ」式の思考の放棄が、現状のニッポンの「息苦しさ」を招いてしまったことは確かなものと思われますので、もしもあなたがこの「息苦しさ」をなんとかしたい、と思っていらっしゃるのでしたら、たった一つでもかまわないので、あなたが大切とする「価値観」を守るために、自分を偽らないで、きちんと実践をすることをお願いしたいのです。
堀田善衞の「広場の孤独」という小説に中国に兵隊として行ったときのエピソードがあります。
そのエピソードでは、農村出身の同期の兵隊の一人が、戦場においても、農作物だけは傷つけないように行動しているという話が出てきます。
現に戦争に行き、敵兵と戦っているときに、人間としてどういう「良心」を持ち、どんな「価値観」を大切にできるのか、ということを示す、一つのエピソードだと思います。
毎日の仕事の中で、あるいは毎日の仕事ができないときに、ただその日常に埋没してしまうのではなく、自分は人間として何を大切にしていくのか、そういうことを多くの人が考えることができるようになったとき、社会というものも、その進む方向を変えていくことができるのではないかと、思うのです。
晴れの日ばかりではない毎日を、それでも今日もいい日だ、と思えるように、一歩いっぽしっかりと歩いていきたいものではありませんか。
以上、舌足らずな文章ではありますが、共謀罪法の成立を期に書かせていただきました。
平成末期のニッポンを生きていく上で、なんらかの参考にしていただけたら幸いです。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
☆こちらのサイトにも関連記事がありますので、よろしければどうぞ。
・魂の次元: 共謀罪法成立の日に、100年後の世界を見据えて
--こうのすけ(id:otakebi13)さんに
もうすぐ夜が明けます
バスのクラクションがときどき聞こえます
インドはラジャスタン州
梵天さんの聖地プシュカルにいます
レノンとディランのわびさびが
ぼくの心を打ったのです
それでぼくはこうして
あふれ出てくる言葉を綴るのです
ねえあなたは愛とか平和とか
世間の人たちが笑いものにする言葉を
笑ったりしないでしょ
手紙でそう訊かれたことがあります
はたちの頃の話です
その女の子のことが少しばかり
好きだったのです
愛とか平和とかいう言葉を
笑いものにはしないという自信の
持ち合わせはありませんでした
世間を斜めに見て傷つきやすい自我を
守ることに汲々としていたぼくには
彼女の素直さはまぶしすぎたのです
すなおに平和を歌うジョン・レノンは
そんなに好きではありませんでした
ポールと一緒に実験をしている頃のジョンが
若い頃のぼくには沁みていたのです
今日ぼくはレノンに
わびさびを教わりました
ディランからもたくさんの間を
教わりたいと思います
ちっぽけな地球の上で
人は今日もいがみ合い
殺し合いを続けています
殺しのライセンスなど
どこにもありはしないのに
仮想のバッジをつけたぼくたちは
自分で自分の胸に輝く銀の弾丸を
いつ打ち込んでやろうかと
虎視眈々狙っているのです
願わくばその白金の矢が
ぼくらのエゴを貫いて
新しい地平が開けますように
愛とか平和とか侘びとか寂びとかが
ぼくらの世界を満たしてくれますように
そしていつも自分の愚かさを
忘れずにいられますように
遠くにディーゼル車の
エンジンのうなりを聞きながらぼくは
冷たい指先でひとり祈りを綴るのです