日本の政治状況に少しでも関心のある方なら、安倍政権が現在、どれほど戦後民主主義を破壊しているのか、もう十分にお分かりでしょう。
もはや瀕死の状態にある日本の民主主義体制を守るために、一体何が出来るのでしょうか?
「守ることなどできないのだ」というのが私の答えです。
「守れないとはどういうことだ?」という声が聞こえきます。
けれども私は守らないでいいと言っているわけではありません。
どういう意味か説明しましょう。
3.11がきっかけとなり、第二次安倍政権の成立によって、戦後民主主義の破壊は避けようのない既定路線となった 最後まで日本国憲法と戦後民主主義を守る意志が大切、しかし「暴言」はいただけない 私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがある 怒りの気持ちは吐き出して、落ち着いて「未来へつながる言葉」を発しよう 3.11がきっかけとなり、第二次安倍政権の成立によって、戦後民主主義の破壊は避けようのない既定路線となった 73年前に産声をあげ、否定的な空気がいつもありながらも、十分な追い風を受けてすくすくと育ったのもつかの間、やがて逆境にさらされて、長い年月を苦闘することになり、それでも73年の時を生き抜いてきた日本の戦後民主主義ですが、「ついに終わりを告げようとしている」と思われるこの命を、守れるものならば私だって守りたいのです。
けれども、人間にも寿命があるように、国家の制度にも寿命があるのではないでしょうか。
3.11の震災と原発事故があり、第2次安倍政権が成立し、安倍政権の横暴が止めようもなく続く今、全く悲しいことですが、もはや戦後民主主義を救う手立てはないと思っている識者の方々も多いのではないかと思われます。
最後まで日本国憲法と戦後民主主義を守る意志が大切、しかし「暴言」はいただけない けれども瀕死の状況にあるからこそ、日本国憲法に基づく戦後民主主義を守るために、最後の最後まで努力を続ける必要がありますし、たとえ安倍政権を倒すことができなくても、安倍政権に反対の声を上げ続ける必要があります。
その時、私は聞きたいのです。
あなたは 何のために安倍政権に反対しているのですか? あなたは日本国憲法を守り、戦後民主主義を守り、世界の平和のために、日本の人々の幸せのために、安倍政権に反対している。そうではないのでしょうか?
もしあなたが、この世界の平和を本当に望んでいるのなら、政権を批判するときも、そこには愛の気持ちが必要です。相手を尊重する心がなければなりません。
マスメディアにおいても、ネット上のソーシャルメディアにおいても、安倍政権を攻撃し、あざ笑い、馬鹿にするような「暴言」が溢れています。
相手を攻撃し否定するような態度は、対立を生むだけであり、平和な社会を作る役には立ちません。
アメリカの民主党と共和党の悪口合戦が、今まで世界平和の役に立ってきたと言えるでしょうか?
日本の現状をよしとする主流派の人たちが、卑劣な手口で反対派を抑圧しようとする、その愚かな手法を私たちが真似する必要はありませんし、アメリカの姿はむしろ反面教師とするべきものでしょう。
私たちは正々堂々と、論理的な思考と落ち着いた気持ちを持って、全体主義化していく日本の現状に否を唱え続ければよいのです。
その結果、私たちの考えに賛同してくれる国民が増え、街に出て直接的な行動をするようになれば、安倍政権が倒れることだってないとは限りません。
残念ながら力及ばず、安倍政権がこのまま続いて改憲がなされ、憲法に緊急事態条項が盛り込まれるようなことになったとしても、それはそれで受け入れざるをえないのです。
しかしこれは決して敗北主義ではありません。
ただ冷静に未来を予測しているだけのことです。
73年前に戦争があのような形でしか終わりを迎えることができなかったことを考えれば、今の安倍政権がどれほど無茶なことをやっていようと、おそらく日本の社会にはそれを自浄的に止める力はないのだと思えるのです。
私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがある 今ここで憲法改悪を止めなければ、日本に明日はない。これが「最後のチャンス」だ。
そういう言い方は勇ましくはありますが、真実を伝えるというよりはただ人の尻を叩こうとするだけの、空騒ぎのアジテーションに感じられます。
アメリカの意向で日本に育ち始めた戦後民主主義が、これまたアメリカの勝手な都合で歪められ、ねじくれて、ついに末期的状況を迎えたのが現在の日本だとすれば、その過程でいったい何度の「最後のチャンス」があったのでしょうか。
反体制派が「最後のチャンス」と叫べば叫ぶほどに、その「最後のチャンス」のとき、破れれば破れるほどに、多くの人たちは民主的な考え方に絶望し、長いものに巻かれるしかないのだと落胆し、多数派に帰依せざるを得なかったのではないでしょうか。
今、安倍政権の目指す憲法改悪に反対することは、日本の戦後民主主義を守るための「最後のチャンス」などではありません。
仮にここで憲法が改悪されたとしても、本当の民主社会が実現する日を願う人々の心は、決して打ち負かされることなく、たとえ一旦は人の目に触れづらくなったとしても、未来永劫続いていきます。
私たちに平和を願う心がある限り、私たちにはいつでもチャンスがあるのです。
怒りの気持ちは吐き出して、落ち着いて「未来へつながる言葉」を発しよう 急速に雪崩を打って崩れ落ちてゆく日本の政治状況を見るときに、
「いったいこれはどうなってるんだ、どうにかする方法はないのか」 と絶望的な気持ちになり、口汚く罵りたくなるのも分かります。
その気持ちを押し殺す必要はありません。きちんとわかってくれる人の間で そうした気持ちも共有し、心のもつれを解いていくことも大切です。
ただ、そうした気持ちを吐き出すのは、安全な分かり合える人同士の間でのことにしたほうがよいでしょう。
そして、一旦公の場で言葉を発する場合には、それがネット上の気安く言葉を投げられる場であったとしても、どうか、感情的になって怒りの言葉を発する前に、少しの時間をおいて、大きく息を吸って、そして吐いて、心を落ち着けたあとで、冷静に論理的な言葉で、あなたの気持ちを語ってほしいのです。
「安倍のバ○野郎!」というのではなく、せめて「安倍首相のこのやり方には呆れ返る」といったくらいの落ち着いた言葉で語ってほしいのです。
あるいはあなたがユーモアのある方なら、あざ笑いをぶつけるのではなく、みんなが心から笑える、素敵なジョークで批判してみてほしいのです。
対立を煽る言葉ではなく「未来につながる言葉」をお願いしたいのです。
一人でも多くの皆さんが、こうしたことを胸に留めて「未来につながる言葉」を発するようになれば、日本の民主主義がそう遠くはない将来に息を吹き返す可能性も高まるというものではありませんか。
ネット上で、憲法と平和を守るために発言してらっしゃるみなさんのうちに、この文章を見て、もし不愉快に思われる方がいらっしゃったら、あらかじめ謝らせていただきます。
けれども、ぼくが言いたいのは
「ネット上で暴言を吐くな」ということではない ということだけは確認させてください。
「強い言葉」を使いたいときにそれを使うことは、言論の自由によってみなさんに保障される権利です。
ただ、その自由を行使される前に、そのとき「強い言葉」を使うことが本当に必要なのかどうかを、どうかご一考していただきたい、ということなのです。
最後まで長文におつき合いいただき、ありがとうございました。
日本と、そして世界の平和のために、今日も一日を楽しく生きることにしましょう。
それでは、またお会いできる日まで、さようなら。
保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話をネットで見て、
えー、ほんとにーっ! と思いました。
もちろん
「保育園児は文字を書いてはいけない」という法律 などというものは存在しません。
とはいえ、大人の都合によって、子どもたちにそういう「奇妙な思想」が吹き込まれるのは、あまり気持ちのよいものではありませんので、今日はこれを出発点として、日本の社会のあり方について、少しばかり考えてみることにします。
「嘘」をつく「先生」たちと、どうつき合うか 本音と建前が「見え見え」の社会で それでもへこたれずに生きるために、オフグリッドな人生を構想する 「嘘」をつく「先生」たちと、どうつき合うか 保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話は、fellfield さんの
・文字を書いてもいい - ツンドラ
という記事で見かけました。
fellfield さんが、子どもを保育園に送っていったところ、子どもの友だちがやってきて、
「保育園ではまだ文字を書いちゃいけないんだよ!」と詰め寄ってきた
というのです。
少しの間、どうやってその子に言葉をかけようかと考えてから、fellfield さんが、
「書いてもいいんだよーだ。パパがいいって言ってるんだから、いいんだよ」
と言うと、友だちの態度は和らぎ、その場の緊張状態は収まった、という話です。
その保育園では、
「文字を書くことを禁止はしない」「子どもの成長段階にはまだ早いので、積極的に教えたりはしない」
ということになっているのですが、実際には先生たちは「書いてはいけない」と指導をしているらしいのです。
たびたび子どもが「先生に書いちゃダメって言われた」と言っている。そのたびに妻が「書いてもいいんだよ、先生がそんなこと言う訳ないよ」と言うのだけれど、僕はただシンプルに「先生が嘘をついている」と思う。子どもが先生に言われたというなら、きっと、先生は言ったのだろう。そして当然ながら、先生たちの嘘は、子どもたちも見聞きしてしまうことになる。
fellfield さんのお子さんは保育園の年長さんで、その年頃になれば、子どもによっては、十分「大人のずるさ」も分かってくるのですから、fellfieldさんは、わざわざ「ずるい大人」に物申すことはせず、
今後また何かあれば、他人に禁じられたものを「やっていいよ」と解いてあげたり、他人に強制されたものを「やらなくていいよ」と解いてあげる役割を果たしていこうとは考えている。いつか子どもが自分自身で「これはやる」「これはやらない」と決められるようになるまで、あと何年かはそうしようと思っている。
という、とてもバランスの取れたスタンスで構えてらっしゃいます。
いいお父さんだなー、と感心する次第です。
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本音と建前が「見え見え」の社会で ぼく自身が幼稚園に通っていたときの話なのですが、園庭にブランコが2つだけあって、遊び時間には多くの子どもたちがブランコに乗りたくて、列を作って待っています。
気の強い、世渡り上手な女の子と、その子分のようなもう一人の女の子がそのブランコを占領していて、それに対して先生が
「〇〇ちゃん、ちゃんと順番で代わってあげるのよー」
と声をかけます。
すると、女の子たちは、
「今、乗ったばかりでーす」
twitter でシュナムルさんという方が
原爆投下は正当化の材料を遥かに豊富に持っていて、それらにきちんと向き合って原爆非難の論理を組み立てるのは簡単じゃない。
と、
広島・長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だったのだ としか読みようのない発言をして物議をかもしています。
この記事では、
広島・長崎への原爆投下は戦争終結のために必要なかった ことを説明した上で、シュナムル氏に代表される
「欧米の価値観によって『洗脳』済み」の経済主義的ファシズム思考 の問題を考えてみたいと思います。
広島・長崎への原爆投下には「正当性」などまったくない。 「欧米の価値観によって『洗脳』済み」のファシズム的思考法をぼくらは越えてゆくことができるのか 広島・長崎への原爆投下には「正当性」などまったくない。 繰り返しになりますが、はじめに結論を述べると、
広島・長崎への原爆投下には「正当性」のかけらもありません。 連合国側の論理では、
「一億総玉砕」の本土決戦を覚悟していた日本に敗戦を認めさせるためには、原爆投下が必要だった、 というのですが、これが全くの虚偽であることは、
先入観なく、少しばかり史実を調べて、常識的な推論を働かせることができれば、 誰にでも明らかなことです。
日本が早期の敗戦を認められなかったのは、連合国側によって天皇制を廃止させられることを恐れていたためです。
一方アメリカは、原爆の実戦での実験をなんとしてでも行ないたかった。そのため核開発の時間稼ぎをするために「無条件降伏≒天皇制の廃止」を絶対条件として提示していたわけです。
ソ連と中立条約を結んでいた日本は、天皇制を維持するため、終戦交渉の仲介をソ連に頼んでいましたが、広島へのウラン型原爆投下後、ソ連は条約を破って満州に侵攻します。
直後にアメリカは二発目のプルトニウム型原爆を長崎に投下しますが、これは当初小倉に落とすはずだったものを天候の問題から、急遽投下場所を長崎に変えたことももっと知られてよい事実でしょう。
(日本の敗戦間際に、アメリカが駆け込みで原爆実験をしたことの慌ただしさが、このことにはっきりと現れているとは思いませんか?)
結果だけを見れば、二発の原爆投下によって日本は無条件降伏を受け入れたのだとも言えますが、裏にあったのは、アメリカは時間稼ぎに成功して、ウランとプルトニウムの二発の新型爆弾の投下実験を無事行なうことができたというだけの話です。
現にアメリカは、日本の敗戦後の占領政策の柱として、天皇制の維持を日本に許したわけで、原爆を落とす時間稼ぎをする必要がなければ、日本側の天皇制維持を前提とした終戦交渉をもっと早い時点でやっておけばよかっただけのことなのです。
アメリカは
終戦を早めるためとはまったく関係のない、 実戦における二種の原爆実験をするために、 わざわざ戦争の集結を遅らせて、 その非道な実験によって人類史上最悪の戦争犯罪を行なった にも関わらず、ファシズム的プロパガンダによって
その事実を巧妙に隠し続けている のです。
こうした事実をきちんと確認しないまま、欧米で流布する
「原爆投下は終戦に必要だった」という言説 をなんの疑いもなく信じることは、まったくもって残念なこととしか言いようがありません。
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「欧米の価値観によって『洗脳』済み」のファシズム的思考法をぼくらは越えてゆくことができるのか 「原爆の投下が終戦のために必要だった」という言説が戦勝国によるご都合主義のプロパガンダにすぎないことは、前節で述べた通りですが、ぼくたちが日頃接しているマスメディアも、実質的に「欧米の支配的価値観によって『洗脳』済み」なのだということを、まず知る必要があります。
73年前の夏に無条件降伏という形で敗北を喫した対米戦争について、
極端な精神主義に落ち入った非合理的な軍部の暴走によって行われたもの、 というふうに考える人は多いに違いありません。
けれども、歴史的な資料を検討すると、精神主義的傾向の強かった陸軍においても、「秋丸機関」の報告書によって、圧倒的な経済力を持つアメリカを相手にした場合、その戦争に勝利することが極めて難しいことは、はっきりと理解されていたことが分かります。
にもかかわらず、軍部はなぜ対米戦という「非合理的で危険な賭け」に出ざるをえなかったのでしょうか。
この理由が、軍部の知性の欠如によるものではなく、人間の「自然な心理的傾向」によるものであることが、行動経済学のプロスペクト理論によって合理的に説明できます。
まずはプロスペクト理論について簡単に例を見てみましょう。
人は目先の損失を嫌って、損を挽回するために「危険な博打」を打つ 対米開戦時の2つの選択肢 - 戦わずして屈服するか、一か八かの賭けに出るか 対米開戦を選ぶように「仕組まれた」日本 「賢い」政策はどうすれば可能になるのか 人は目先の損失を嫌って、損を挽回するために「危険な博打」を打つ あなたが仕事でミスをして、3,000万円の損失を出してしまったとします。
このとき、ある取引先から「うまい話」を持ちかけられ、その取引がうまくいけば、3,000万円の利益が得られることが分かったとします。
ただし、3,000万円の利益が得られる確率は 20% で、80% の確率で逆に1,000万円の損失を重ねる可能性があります。
このとき、
A. 「うまい話」には乗らずに、損失の 3,000 万円を確定する。
B. 「うまい話」に乗る。
のうち、選択肢 B. を選ぶと損失の期待値は、
(3,000 万 - 3,000 万) x 80% + (3,000 万 + 1,000 万) x 80% = 3,200 万円
となって、A. の損失 3,000 万円を上回ってしまいます。
ですから、数学的な意味での合理的な判断としては、A. を選んで 3,000 万円の損失を確定したほうがいいのですが、心理学的な実験の結果から、多くの人は、現にある「目先の損失」3,000万円を嫌って、B. という危険なギャンブルを選んでしまうことが知られています。
これは必ずしも人間が「非合理的な思考」をしているということを意味するわけではなく、人間が自然界で生存するためには、このような判断基準が十分に「合理的」なものだったのだということも分かっています。
つまり多くの人間は、数学的な意味での合理的判断とは違う、「心理学的な合理性」の世界を生きていることになります。
対米開戦時の2つの選択肢 - 戦わずして屈服するか、一か八かの賭けに出るか 上で見た構図を対米開戦時の日本の状況に見ることができます。
a. 資金を凍結され、石油を禁輸された日本は、対米開戦しなければ「ジリ貧」になり、 2-3年後にはアメリカに屈服せざるを得ない。
b. 開戦した場合、強大な国力のアメリカに惨敗して「ドカ貧」になる可能性が高い。しかし確率は低いが、短期決戦で一定の勝利を得れば、アメリカに屈服しないですむかもしれない。
この場合、
「ジリ貧」や「ドカ貧」の内容をどの程度に見積もるか、 勝利を得る確率をどの程度と見るか によって、数学的に合理的な選択がどちらになるかは変わってきますが、プロスペクト理論の効果が働くため、どうしても b.
id:Vergil2010さんという、かなり「左がかった」方の
・天皇裕仁のワースト・オブ・ク○「思し召し」大会
という記事が1,100を超えるブックマークがついて話題沸騰中です。
そこで今日は、昭和天皇の戦争責任と、民主主義社会の実現にはどんな考え方が必要かを考えてみます。
結論としては、
昭和天皇には戦争責任があるし、 民主主義の実現には、罵り合いではなく、「熱い議論」が必要である、 という話になります。
昭和天皇の戦争責任が問われなかったのは、アメリカのご都合主義の賜物である 昭和天皇が「どのような発言をしていたのか」を知ることには意味がある 「罵り合い」によっては民主主義は実現されない 民主主義の実現のために必要な「熱い議論」について 追記: タイトルに関するお詫び 昭和天皇の戦争責任が問われなかったのは、アメリカのご都合主義の賜物である 昭和天皇は国家元首として太平洋戦争(ないし十五年戦争)を遂行したのですから、彼にその戦争責任があるのは当然のことです。
軍の上層部が情報を操作していたために、昭和天皇が十分に合理的な判断を下せなかったのは事実でしょうが、仮に彼が操り人形にすぎなかったとしても、法的な責任が彼にあるのは明らかです。
それが「どの程度の責任だったのか」は、戦勝国が法廷で裁くべきだったのであり、それを免責してしまったのは、アメリカのご都合主義としかいいようがありません。
昭和天皇が「どのような発言をしていたのか」を知ることには意味がある アメリカのご都合主義によって昭和天皇が免責されてしまったために、昭和天皇の責任というものを検証する機会が、実質的に奪われてしまったことは、戦後日本の民主主義にとって大変不幸なできごとだったと言えます。
このとき昭和天皇が、
「実際にどのような発言をしていたのか」 を知ることには大きな意味があります。
Vergil2010さんの記事は、「左寄り」の一方的な立場から都合よく編集したものにすぎませんが、多くの日本人が
「昭和天皇とはどんな人物なのか」を知らない という現実を考えれば、こうした片寄った記事にも一定の価値は認められます。
それが「極端な意見」であることに気づいた上で読めば、
「昭和天皇が、いかに世間離れしており、今の時代感覚では理解できない意識の持ち主か」 ということを知る上では、確かに役に立つものだからです。
「罵り合い」によっては民主主義は実現されない Vergil2010さんの記事の最大の問題点は、事実を述べる形を取ってはいるものの、そこに「『敵』を罵倒する意図」が見え隠れするところにあります。
昭和天皇裕仁のク○な「思し召し」
(罵倒語の伏字化は引用者による)
というような表現は、「民主主義社会の実現を望む人間」が使うものではありえません。
現在の間接民主制の根本的な問題の一つは、
「敵を罵ることで、見方の支持を得る」 というやり方にこそあるのではないでしょうか?
世界中に蔓延しているそうしたやり方は、本来は手をつなぐべき人間同士を、パワーゲームの駒としていたずらに分断するだけであり、民主社会の実現のためにはまったく有害な方法であると思われます。
「天皇ヒロヒト」というような記号化された存在に、「民衆の憎悪」をぶつけるように導く言動を行なうことは、カビの生えた「民衆扇動法」に過ぎず、民主主義とはなんの関係もない、ただのパワーゲーム的戦略でしかありません。
苗字も、職業選択の自由も持たずに生きた、「一人の人間」としての裕仁さんの「苦悩や悲哀」というものについて理解することなく、彼の愚かさや醜さだけを言い立てるのは、戦争の歴史を振り返るためにも、彼の戦争責任を考えるためにも、ほとんど役に立たないものでしょう。
Vergil2010さんが、今のニッポンの「全体主義化」を憂いているのであれば、こうした点について、ぜひともご一考を願いたいところです。
民主主義の実現のために必要な「熱い議論」について 民主主義の実現のためには、「罵り合い」は必要ありません。
かといって、冷静な議論だけでも、民主社会は実現しません。
なぜなら、頭のいい人間が、議論や情報操作によって大衆を操作するのが資本主義社会の方法であり、それを乗り越えていくためには、人の気持ちに訴えていく方法論が必要だからです。
人の気持ちに訴えかける「熱い議論」というものが、現代のような状況の中で、どのように可能なのかは、ぼくにも分かりません。
けれども、インド独立の立役者であるマハトマ・ガンジーを始めとして、参考にするべき人物や方法論は、歴史の中にたくさん埋もれていることでしょう。
Vergil2010さんの記事自体は、賞味期限切れに思える「左翼的文脈」の中にとどまるものとは思いますが、それを読んだ人の中から「熱い議論」が生まれてくることを期待します。
この記事を書くきっかけを与えていただいたVergil2010さんには、深く感謝いたします。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
追記: タイトルに関するお詫び タイトルに伏字とは言え「ア○ウ」という言葉を使っていることについて、あらかじめお詫びしておきます。
「強い言葉を使って注意を喚起する」という以上の意図はないのですが、一部の方が不愉快に思われるだろう言葉をわざわざ使っているのは不徳の至りであります。
今回はわっとさんの記事に相乗りさせていただいて、街頭で政治的な意思表示をすることの意味と、民進党の枝野幸男氏による国会での「安倍内閣不信任決議案の趣旨説明」について書くことにします。
※オウム真理教が起こした事件によって亡くなった方のご冥福と、その親族の方およびさまざまな被害者の方の心の安寧を心よりお祈りします。
今日2018年7月6日、オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の死刑が執行されたとの報道がありました。
この記事では、地下鉄サリン事件を頂点とするオウム真理教が引き起こした事件と、それがわたしたちの社会に投げかけた問題点について、簡単に振り返ってみたいと思います。
地下鉄サリン事件の恐怖 可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 2018年7月7日追記: 智津夫氏の精神状態などについて 地下鉄サリン事件の恐怖 1990年3月20日の午前8時ごろ、通勤ラッシュ時の現東京メトロの5つの車両において、猛毒の神経ガス・サリンが大量に散布され、13人が死亡、被害者は6300人にものぼる、未曾有の無差別殺傷事件が発生しました。
どうしてこのような事件が起こってしまったのか、これを防ぐ術はなかったのか、同じような事件が起こらないようにするためにはどうしたらよいのか。考えるべきことは多岐に渡りますが、簡単に答えが出る問題ではありません。
この事件についてはさまざまな書籍が扱っていますが、作家の村上春樹氏が事件に遭遇した多数の方々にインタビューした
・「アンダーグラウンド (1999 講談社文庫)」
をここではおすすめしておきます。
事件を体験した一人ひとりの方の恐ろしさが伝わってくる良質のノンフィクションと言えます。
可哀想な智津夫さんが起こした大惨事 ネット上ではウィキペディアの
・麻原彰晃 - Wikipedia
というページによって、麻原彰晃こと松本智津夫氏の人生を概観することができます。
智津夫氏が、兄弟ともども水俣病の認定されなかった被害者であった可能性も分かり、また、その家庭の貧困の影響もあって、さまざまに屈折して育ったであろうことを読み取ることもできます。
氏は日本在住のチベット人政治学者ペマ・ギャルポ氏を通して、ダライ・ラマ14世と何回かの接見をしていたようですから、チベット仏教の理解について、相当に評価されていただろうと考えられます。
また、現実にオウム真理教という教団をあれだけの規模にするだけの、ある種のカリスマがあったことも間違いなく、そうした彼の宗教的才能が「歪んだエゴ」と結びついたとき、日本史上類を見ない、恐ろしい事件が起こることになったのでしょう。
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松本サリン事件と日本の危機管理体制の甘さ 地下鉄サリン事件の前年1994年6月27日には、松本サリン事件が発生していました。
・松本サリン事件 - Wikipedia
ところが長野県警は、この事件がオウム真理教によって起こされたものであることをまったく察知できず、無実の市民を冤罪で苦しめることしかできませんでした。
オウム真理教が公安によって捜査されていたことも考えれば、警察の発表を鵜呑みにして冤罪報道を繰り返したマスコミも含め、この事件をオウム真理教と結びつけることができず、地下鉄サリン事件の発生を許してしまった日本の危機管理体制の甘さにはなんとも言葉がありません。
日本社会のこうした危機意識の薄さが、のちの福島第一原発事故にまでつながっているのではないかと考えるとき、これからの日本でどんな事件が起こることになるのか、はなはだ不安にもなってくるところです。
オウム真理教を悪者にしてすむ問題ではない - 物質主義と欲望主義の行方 松本智津夫氏が死刑になったと聞いて、悪人が処刑されてよかったと思う方も多いかもしれません。
ネギさんのこちらの記事、
・政治:昔取った杵柄 - ネギ式
を見て、卓見だなと思いました。
日本の人は全体主義を好きか、というと、必ずしもそうではなく、たんに
「全体主義を(再)構築するためのノウハウが蓄積されている」
から、それを選んでしまうのだろう、という説です。
「昔とった杵柄」というわけです。
今回はこのネギさん説に触発されて、日本の将来についてつらつら考えてみようと思います。
ドイツはどこが日本と違うのか どうにも残念な国ニッポン ドイツはどこが日本と違うのか ネギさんの説を簡単にまとめると、
日本の統治者は「全体主義」のノウハウを持っている しかし、日本の国民は「全体主義」を避けるノウハウを持っていない したがって日本は「全体主義」化する ということになります。
そのとき、たとえば、ドイツは日本とどう違うのか、ということを考えることには意味があるでしょう。
ドイツは敗戦によってナチスについて十分に反省したのに、日本が戦前の「全体主義」について十分反省することがなかった、というような話をよく聞きます。
これはどうしてなのでしょうか?
ひとつには、第一次世界大戦から20-30年というスパンでナチスが台頭したことが重要と思われます。
ナチスの台頭は、第一次大戦の敗戦について過大な補償を求められたことによるドイツの経済的な疲弊が背景にありました。
そして財界もナチスに相乗りしたことで、第二次世界大戦が開戦し、ユダヤの虐殺という異常事態が起こったわけです。
このとき、「三度目の正直」的な意味合いもあり、陸続きのヨーロッパの中での戦後を考えたとき、ドイツがナチス時代の行動について十分な反省をしたのは、実にまっとうなことと言えるでしょう。
対して、わが日本はと言えば、欧米の植民地政策を真似て、中国大陸に進出したときに、後発の「異民族」国家であるがゆえに、「不当」な扱いを受けることになり、やがて英米の「策略」にはまって「太平洋戦争開戦」に至った経緯もあり、「無謀かつ無茶苦茶」な戦争をした、という自覚はあったにしても、自分たちのやり方に対してあまり反省をしなかったのは、ある意味で当然なのかもしれません。
昭和の高度経済成長期に育ったぼくは、
『「敗戦」を機に、一夜にして日本は変わった』
かのような「神話」を聞かされたものですが、実のところ、そのとき変わったのは、ごく表面的なものにすぎなかったようです。
それまでは「鬼畜米英」と言っていたものが、「アメリカの腰巾着」を装いながら、「いつかアメリカを見返す大国になってやる」という野望を抱くことになり、それを今まさに「実現」しようとしているのが、「安倍政権」ということになりましょうか。
どうにも残念な国ニッポン さて、安倍さん率いるニッポンは、いずれ憲法の改変をはかり、緊急事態条項を組み入れることで、「全体主義化」の総仕上げに至る見込みがかなり高まってきました。
けれでも、そのような「全体主義体制」を作ったからといって、誰もニッポンを尊敬してくれるわけではありませんし、戦前の日本が欧米列強から除け者にされたような状況を再現するのが関の山でしょう。
このような先行き不透明な日本において、国民に取りうる選択肢は限られています。
とにかく、自分の正しいと思うように生きること。自分の暮らしを大切にすること。弱いものに援助の手を差し出すこと。
自分が生きていくだけでも大変なことだとは思いますが、その中でも、自分の信じる価値観を大切にすることが、生きる意味につながるものと思います。
「こうしなければいけない」というような硬い「思い込み」からではなく、自由で柔らかい考え方を心がけることによって、一日一日にゆとりを持っていきたいものだと思うのです。
てなところで、この記事はおしまいになります。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
前回の記事、
・最近のニッポンに何かとうんざりしている皆さんへ - いかにして「うんざり」を昇華させるか - *魂の次元*
に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。
投票はしてるけどね。関係ないように見えるだろうが、進化だって種間の競争よりも種内の競争が重要に思えるわけで。
「うんざり」してても、ちゃんと投票してる ad2217 さんは、すばらしいっ。
そして、「種間の競争より種内の競争」というお題をいただいてしまいました。
このお題はちょっと難しいので、勝手に話をずらさせていただいて、「競争も大事やけど、協調も大切なんとちゃう?」というような話を書いてみようと思います。
繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか 「親分・子分」の関係を越えるために 繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 世の中には「ゲーム理論」というものがありまして、この場合、ゲームと言っても人生自体をゲームに見立てたような話なんですがね。
で、「囚人のジレンマ」というのは、二人のプレーヤが、相手と「協調するか」、「裏切るか」の2つの選択肢があるときに、強調し合ったほうがお互いにいい結果が出るのに、「合理的に考える」と裏切り合わざるをえないというけったいなシチュエーションを設定して「ジレンマ」と呼ぶものなわけです。
詳しい話は囚人のジレンマ - Wikipediaをご覧ください。
裏切り合わざるをえない、と書きましたが、実は、この「囚人のジレンマ」を一回限りでなく、繰り返してずっと続ける場合は、必ずしも「裏切り」続けることが「最適」な行動になるわけではなく、
相手が裏切ったら、裏切り、相手が協調したら、自分も協調する、
というような形で、「協調」することは有効であることが、実験的に知られています。
(1984年にロバート・アクセルロッドによって行われたものです)
それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか まったく残念なことではありますが、「共謀罪法」のようなものが成立することは、現実の社会において「裏切り合い」が続いていることの証左としか言いようがありません。
これについては、「繰り返し囚人のジレンマ」ゲームに関しても新しい知見があり、「主人と奴隷」のようにプレイヤに役割分化があり、「主人と奴隷」の関係をよしとするグループ化があるときには、「主人から奴隷への裏切り」、「奴隷から主人への服従」、「自分のグループ以外への裏切り」が有効な戦略であることが、示されています。
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/主人と奴隷 およびhttps://www.wired.com/2004/10/new-tack-wins-prisoners-dilemma/を参照ください)
このようにグループ化によって「協調戦略」が無効化される可能性は、アクセルロッドの著書「つきあい方の科学」でも、指摘されていたことですが、それがコンピュータによる実験でも示されたところに、現在の科学的な知見をきちんと見ることの重要性を感じます。
ちなみに、この「主人と奴隷」という言い方は、ちょっと強すぎるかと思うのですが、「親分と子分」的な考え方は、現実の日本で、普通にあることではないでしょうか。
「親分が言ってるんだから、仕方がない」、「難しくて分からないから親分の言うとおりにしよう」、そんな考え方を、ぼくたちはついつい、してしまいがちではないでしょうか?
「親分・子分」の関係を越えるために 大抵の場合は、「親分」の言うとおりにしていればいいのが現実かもしれません。
けれども、ある「限界点」を越えるとき、「親分」にしたがってはならない場合がありえると思うのです。
そのとき必要なのは、いつもは「自分たち」ではない人との「協調」です。
自民や公明を支持するみなさんの中にも、『「共謀罪法」はまずい』と思ってらっしゃるかたは、少なくないはずです。
「共謀罪法」自体はもう成立してしまいましたが、憲法を改変することにより、「戒厳令」を自在に実行できるようにしてしまおうという危険な「流れ」があります。
こうした「憲法の改変」を、今の流れのままに許してしまうのかどうかということは、日本の未来に、「極めて大きな影響」を与えると思われます。
ですから、今の日本の与党を支える、自民・公明の支持者の方にこそ、お願いしたいのです。
「現行の憲法」を改変することは、欧米の「独善的グローバリズム」に利することでしかありません。
「日本の民主主義」的なあり方を守り、欧米の「独善的なグローバリズム」に対抗するためには、どうか、「現行の憲法」を守ってほしいのです。
......と、いうわけで、なんだか話が随分よれてるような気もしますが、まあ、いいことにしましょう。
言いたいことは、「親分・子分の関係」にも限度があるよ、「長いものに巻かれろ」も大概にしといたほうがいいんじゃないの、ってな話です。
そして、これを逆向きに言わせてもらいますと、
与党嫌いのみなさま、喧嘩を売ってるだけでは、ニッポンの流れは変わりませんよ。
与党の中にも、あなたの志を理解してくれる方々がいるはずです。
それを「く○みそ」で全部ゴミ箱に捨ててたら、やっぱり支持は得られないんじゃないかなー。
「流れ」を作るには、「協調」が必要なんじゃないかなーー。
そんなことを思って、つらつらと書かせていただきました。
てなところで、この記事はおしまいになります。
ほいでは、みなさん、ナマステジーっ♪
前回の記事、
・共謀罪法という名の「凶暴」な法律について考えてみたよ - *魂の次元*
に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。
国民と独立して政府が存在するわけではないので、政府にうんざりする時には同時に、国民にもうんざりしてしまうんですよ。
確かに、政府の現状にはいい加減「うんざり」させられますし、政府を「支持している」国民の「多数派」のみなさんに対しても「うんざり」したくなる気持ちは分かります。
けれども、その「うんざり」感こそが、現政権を支えてしまっているのではないか。
そして、その「うんざり」を、現状を変えるためのエネルギーに昇華することはできないのか。
今日はそんなことをつらつらと考えてみます。
「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう 選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう ニッポンの政府、国会、司法、官僚、財界、メディア、教育機関、その他もろもろのあり方に、良識あるみなさんが「うんざり」しているだろうことは、想像にかたくありません。
とはいえ、ニッポンが曲がりなりにも「民主主義国家」を標榜している以上、こうした現状を変えていくためには、政治のあり方を変える、というのが、一つの王道としてありましょう。
ところが残念なことに、あるいは為政者の方々には好都合なことに、ニッポン国には「政治不信」が蔓延しています。
たとえば、先日の千葉県船橋市の市長選の投票率は過去最低の 28.1% であり、市長に当選した現職の松戸徹氏は、有権者の 17% からの信任しか受けていないことになります。
今回投票しなかった有権者は、71.9% にものぼるわけで、仮にその4分の1の人が松田氏以外の人に投票した場合を考えても、結果は大いに違ってきた可能性があります。
別サイトの記事、
・魂の次元: 政治なんてアホらしいですか? ライフネット生命の出口治明氏はこう言ってます
にも書きましたが、もしあなたが現状の政治に満足していなかったら、ぜひ選挙に行って、現在の与党ではない候補者に投票してください。
ライフネット生命の出口さんによる、ヨーロッパにおける選挙の常識はこれです。
ヨーロッパの人と話をすると、選挙は学校で次のように教えられるのです。メディアが事前に選挙結果を予想しますが、その予想通りで良かったら三つ方法があります。投票に行ってその通り書く、白票を出す、棄権をする。すべて同じ結果になります。もしメディアの予想に反対なら、方法は一つしかない。行って違う人の名前を書く。これが選挙ですよと教えるのです。
日本ではこういう当たり前のことが教えられていないから、「ろくな候補者がいなかったら堂々と棄権しなさい」などと変なことを言う評論家がいたりするのです。ヨーロッパでは中学生以下のリテラシーです。
出口治明さん「日本はお金の教育をしていない」 ライフネット生命会長に聞く教養とは というわけで、以上
「政治にうんざりしているあなたにこそ、選挙に行ってほしい」
という話でした。
選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう しかしながら、ぼくがこんなところで、「みんな選挙に行こうっ」と言ったからといって、
明日から投票率がうなぎ登りに上がって、日本の政策が大幅に変わる、
わけはありませんよね。
メディアぐるみ、社会ぐるみの「出来レース」になっちゃってますから、この事態は簡単には変わりません。
そのとき、自分が投票に行くだけでは、やはり状況は変わりませんから、その他に自分ができることはないのか、ちょっとしたことでもいいので、少しずつでも動いていくことが大切でしょう。
ネット上で「うんざり」した気持ちを表現することもいいでしょう。
ネット上で共感できる人の存在を知るだけでも力になります。
けれども、そうやって表現して、仲間内でやりとりするだけで何かをした気になってしまってはもったいありません。
その「うんざり」に秘められたエネルギーをさらに昇華して、現実の行動につなげていくことが大切です。
デモやパレード、あるいは学習会に参加してみたらどうでしょうか。
そうした行動に、なんの意味があるのか、という疑問や、そんな行動をして大丈夫だろうか、というためらいも、あるかもしれません。
けれども、一歩踏み出すことで、新しい人との出会いが生まれ、他の人からエネルギーをもらうような経験も得られるかもしれません。
とにかく、現実に体を動かしてみる。そこから何かが生まれるはずです。
無理のない範囲で、一歩を踏み出してみることをおすすめします。
あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 限りのあるあなたの一度きりの人生ですから、わざわざ「うんざり」する人たちと付き合う必要はありません。
そういうあなたは、もう政治のことなど忘れて、自分の世界をきちんと生きればいいのです。
その代わりに、「うんざり」する現実を、ただそのまま受け止めることにすれば、いいでしょう。
多分これは、ヒトという種族の愚かさからして避けることのできない事態なのかもしれません。
あなたがあなたの世界をきちんと生きていれば、社会がどうあろうと、あなたの人生は完璧です。
ヒトが「病」を完全に克服できないのと同じで、人間の社会も「共謀罪法」のような「病んだ」法律を克服することはできないのかもしれません。
「病」を過度に恐れてもしようがありません。
あるいは、医者の宣告通りに死期を受け入れてそのまま死んでいくのも莫迦ばかしいことです。
今日も明日も、ぼくたちは自分自身で人生を選んで生きていくだけのことです。
願わくば、あなたの人生が、そして生きとし生けるものの命が、輝きに満ちたものでありますように。
てなわけで、この記事はおしまいです。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬