プロセスカマキリ氏の
http://processkamakiri.blog109.fc2.com/blog-entry-231.html
とも重なる気がするところで、ぼくの最近のプロセスワークに対する印象を書いてみる。
先日、ミンデル夫妻の来日にあわせて開かれたロータスミーティングに参加したのだが、
当日までどうしようか迷っていたにもかかわらず、結局参加することにしたのは、
popj*1 の主催者である h 氏に会ってみたいと思ったことが大きい。
ロータスミーティングで検索すると車のロータスのほうが出てきてしまうのが笑える。
が、それはともあれ、こちらのほうは
「蓮の花
水面で美しく咲くその花も
水面下で根で繋がっている。
時にそよぐ風で、花同士がぶつかることも
水がよどみ根が見えなくとも
深いところで繋がっている」(オオバ キク)
というようなことらしく、まずは仏教的で美しいイメージである。
ユング派から派生してきたプロセスワークであるからして、その集まりの名前にこれは
なかなか良いと思うのだが、どこか看板倒れに思うのは、わたしの意地悪さのせいか...
popj を見ていても似たものを感じるのだが、そんなふうに思ってしまう一つの理由として、
安全さを優先するあまり、公式的な見解に終始したり、異物に対して無視ないし傍観を
決め込んだり、なにかそういった印象がぼくの中に浮かんでくるということがある。
そのへんが、プロセスカマキリ氏の「一定の行動を期待されている」とか「権威として
君臨」とかいうことと、どう重なり合うのかは定かでないのだが、けれど、ある無意識的な
部分としては...
それがなんなのかはよく分らないのだけれど、すくなくとも今ぼくが見ている範囲で、
日本のプロセスワーク関連の世界には、ある種の抑圧ないし規制が存在するように感じられるので、
せっかく面白い人が集まって、面白いことをやってるのに、なんかもったいないなぁと、
野次馬ながら思ってしまう、
どうも、今日のところは、そんな話になるようであります、はい。
なお、アーノルド・ミンデルのプロセスワークについて知りたい方には、まずは
「うしろ向きに馬に乗る」をお薦めします。
[追記]
初めて会った h 氏はなかなかおもろい人だった : -)
*1:http://groups.yahoo.co.jp/group/popj/
カスタネダの "tales of power" (邦訳「未知の次元」)に
having to believe という話が出てくる。
それをここでは「信じることにすること」とする。
たとえば、あなたが作家になりたいとする。
だけれど、作家になれるかは分らない。
そのとき、自分が作家になれると「信じることにする」。
ただ、楽観的に信じるのではない。
なれなかったときのことも頭の片隅においておく。
そして、なるために最善を尽くす。
そんなふうな話。
そんなやり方が有効であると、ぼくは信じることにする。
明晰夢、英語でいうとlucid dreaming 、夢の中で夢であることに気づいている、
そういう状態のこと。
カスタネダの本で、そういうことができると知って、その晩ためしにやってみたら、
一時間半おきくらいに起きながら、ってことは rem 睡眠のたびだったんだろう、
何回目かで、夢の中で自分の右手を上げて意識的に見ることができた。
(カスタネダの本では、手を上げて見ろって指示があるんです)
それ以来、時に明晰夢を見る。
たいていは、空を飛んだり、女の子といいことをしたりと、気持ちはいいけど
埒もないことをしてしまう。
カスタネダ的な流れからすれば、もう少しためになることができるはずなんだけどね。
それはともあれ、夢の中で、夢が覚めないように意識を保つのは、少なくとも
ぼくにとって結構むずかしいことで、うっかりすると意識が覚めかけて、
すると、そのまま普通に眠ってしまったり、あるいは金縛り的状態に入ったり、
はたまたうまくいくと、またもとの明晰夢の状態に戻れたりと、いろいろな
場合がある。
座禅や瞑想、呼吸法とも関係があるところですが、夢見も意識の絞りをうまく
調節できるかが問われる、そんなふうに思っとります、はい。
夜半、目が覚めてトイレに行き、再び床につく。
しばらく眠れず考えごとなどしているうちに、やがて夢の領域に
入っていくのだが、意識はあるのに半分寝ているような、
ある種、金縛り的な状態になることがある。
こんな状態の時に、人の声が聞こえることがある。
非常にはっきりとした声で、まさに耳に聞こえてくる感じなのだが、
誰とも知らない人の声で、こちらとは関係ないような何かを
話している。
空耳の類とは思うのだが、異常なまでにはっきりとしているので、
かなり恐い気持ちにもなる。
こういう経験は誰にでもありうるものだと思うが、すこし気のふれた
感じの体験でもあり、わざわざ人に話した覚えはあまりない。
気が狂う、ということを恐れている感じもありありとある。
戻ってこれなかったらどうしよう、というような...
(恐がるのをやめちゃえば大丈夫なはずなんだけどね)
悪口が聞こえてこないのは幸いだが、どうせなら何か役に立つことでも
教えてくれないものか。
知らない人が知らないことを話していることに、人間の認識力・創造力の
底知れなさを感じると同時に不気味さも感じる。
みなさんは似たような経験ありますか?
明晰夢とも関連する話題だけど、そっちのほうはまたいずれ。
ぼくは造物主としての万能の神というものは信じない。
そうした神を信じている人のことを否定するつもりはないし、この宇宙を
つらぬく非人格的な法則を神と呼んでいいのなら、ぼくは神を信じる。
なぜそうなるか、というと、人間に理解出来るような、人格としての
万能の神がいると考える、どうもヘンなことになる気がするのだ。
つまり、絶対的な善をなす、万能の神がこの世を創ったのだとすると、
神の言葉を信じない人々も、悪逆非道の限りをつくす人々も、神の造った、
神の御心にかなう存在ということになる。そうとしかぼくには思えないし、
だとすれば、そのとき、その神という存在は悪魔とどう違うのだろうか。
万能のその存在がこの世に悪を放置しているのだとすれば、その存在の
名前は神より悪魔の方がふさわしいようにぼくは思ってしまう。
となれば、悪魔が支配するこの世は地獄であり、地獄であるにも
かかわらず、こんなに美しく、こんなに喜びがこの世には溢れているのだから、
とりあえず生きつづけるのも悪くない。
そんなふうに考えてしまうぼくは、ちょっとひねくれているのだろうか。
processkamakiri氏の記事とコメントを読んで上のようなことを考えた。
Ψインドの古くからの考え方で、人というものは真の自分を知らずにいる、
それを知れば即、悟りである、というような考えがある。
Ψその真の自分をアートマンという。
Ψ日本語に訳すときは真我とする。
Ψインドで真我に当たる言葉にはプルシアという言葉もあり、時代やら
何やらで変わってくるようだが、だいたい同じ概念をさすようだ。
Ψカスタネダの書く世界で言えば、ナワールに相当するものと言えば
当たらずとも遠からず、だろう。
Ψ人が生れ落ちて以来、日々身につけてきた、言葉でできた装い、
それを剥がしたところに、もともとの自分がいる。
Ψ言葉では表しようのない、言葉で表そうとすると逃げていってしまう
奇妙な存在。
Ψ「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」を読んで、エリクソンが
自分の精神療法を理論化しなかったことを知ったのだが、
彼はこうした言葉の硬直性をきらったのだろうな、と思った。
Ψまとまったものを書くよりは、日々の感覚を並べていくことを先にしてみようと
思うに至った。
Ψ一人の人間が一体どれほどまとりを持っているかと言えば、たいてい大したまとまりなど
ない。内部矛盾の集積、つぎはぎ細工の進行形、つまりはそんなもんだ。
Ψだから、まとまりのことは気にするのはやめた。切れ切れの断片でいいから、
切れ切れなるままに書き記すことにする。
Ψ年末に飲み過ぎて以来、胃腸の調子が悪い。悪いのは承知の上で酒を飲み続け、
タバコを吸い続けているので、一向によくならない。
Ψというか今日はさらに悪い。で、タバコは吸わないでいる。
Ψ酒を飲まずにいられるか、それが問題だ。
Ψ人はなぜ生きていけるのか、時に不思議に思う。死ぬのが怖いから、と思うときも
あるし、そういう場合もあるのは確かだが、多くの場合は、もう少し積極的な
理由があるのだろう。なんだか毎日がつまらないにしても、気休め程度でしか
ないにしても楽しみ、喜び、笑いといった気持ちの良さがある。
Ψそれは分った上で自分の体をいじめる。もっと体を大切にして、毎日を気持ち
よく送ったっていいのにと、われながら思うのだが、どうも今はそういうところ
まで辿りついていないようだ。
Ψあなたはどうですか。毎日たのしいですか。
Ψ体いじめを続けながらも、なんとか楽しみを見つけながらぼくは生きてます。