「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」*1
とある落語家の方がテレビで発した言葉です。
「ひとりでしね」なんて言ってほしくなかった。
「ひとりでしね」と言わないで! 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ 「ひとりでしね」と言わないで! こういう言葉を、発言力のある方がメディアで発することは、絶対にやめてほしい。
また、ネット上での個人的な発言であっても、感情のままに発信する前に、少し立ち止まってほしい。
心からそう願います。
弱い立場にある人が追い詰められて、自暴自棄になったりしてほしくないのです。
川崎市登戸で起きた連続殺傷事件の犯人に向けて、こういう発言をしたくなる気持ちは分かります。
襲われた子どもたちやその親の気持ちを考えれば、犯人にこう言いたくなるのは当然でしょう。
けれども、こういう大事件を引き起こす少数の例外的な人の陰には、決して少なくない数の引きこもりの人たちがいて、「ひとりでしね」という言葉は、そういう人たちの心に突き刺さります。
また日本は自殺が多い社会でもあります。「ひとりでしね」という言葉は、一人で悩んでいる人に対して、周りに迷惑をかけるくらいなら自殺しろというメッセージにもなってしまうでしょう。
そして病的な心理状態にある人に対しては、こういた言葉が更なる凶行を煽る可能性があることもきちんと考える必要があるでしょう。*2
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「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ メディアやネットには、社会的弱者を安易に批判する言葉が溢れかえっています。
本当はそうした「弱いものいじめ」の言葉は誰のためにもならないから、そんな言葉はなくなったほうがいい。
けれども現実はむしろ逆で、多分これからも「弱いものいじめ」はむしろ増えていくでしょう。
だから「弱いものいじめ」なんて気にするのはやまてしまえばいいのです。
「ひとりでしね」なんて言葉は聞き流してしまえばいいのです。
人間には生きている限り可能性があるのだし、生きているだけで大いに意味があるのです。
ひょっとしてあなたは、自分なんか生きていることに何の意味があるんだろうと思っているかもしれません。
でも生きてる意味なんて、誰にもありはしないのです。
お金があろうと地位があろうと、恋人がいようと家族があろうと、そんなものはみんな社会的な形式にすぎません。どんなに社会的にうまくやっていても、それだけでは決して生きている意味にはならないのです。
ほかの人の基準で自分の人生を測るのはやめにしなければ、そして自分が現に生きているそのあり方を認めることができなければ、自分の人生の可能性を本当に信じることはできません。
生きるということは、しんどいことです。しんどいことをみんななくして、楽に生きたいと思ってもそうはできません。
しんどいことに向き合うことも必要です。
だからといって、嫌なことを我慢すればいいというものでもありません。
あまりにも嫌なことがあれば、そこからは距離を取ればいいのです。どうしようもなければ、逃げ出せばいいのです。
人の言うことに振り回されすぎず、自分なりのバランスをつかむ必要があります。
それが人生に意味を感じることにつながるのです。
社会がどんなに息苦しくても、自分なりの生きる意味を見つけることができれば、あなたの人生は輝きを失うことはないでしょう。
もし苦しくて、一人で答えが出せないでいるのなら、メッセージをください。
答えは出せなくても、一緒に考えたいと思いますので。
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あなたはなぜ「人生詰んだ」と思っているのでしょうか?
どうして「もう自分の人生は終わりだ」と感じるのですか。
あなたが莫大な借金を抱えていたとしても、健康を失い寝たきりになってしまったのだとしても、あるいは人間関係に悩み、社会に絶望しているのだとしても、実はそれは「人生の終わり」ではなくて、
「再出発のチャンス」なのだ と聞いたら、「何をアホなことを言ってるんだ」と思うでしょうか。
人生に絶望してますか? 刑務所行きになったからって人生が終わるわけじゃない 医者に「あとひと月の命です」と言われたら? 具体的な方法・その1、日本を離れる。 具体的な方法・その2、生活保護を受ける。 「何を言われても、そんなの聞いてる余裕なんかないんだよ!」というあなたに。 最後にぼくのこと。五十も過ぎてふらふらしてても、なんとかなる。 人生に絶望してますか? あなたが「人生に深く絶望している」、その気持ちを否定するわけではありません。
「人生詰んだ」と思うからには、自分の人生はもうダメだ、もうどうにも打つ手がない、と感じるあなたの気持ちに嘘はないでしょう。
けれども、どんなにヒドイ状況であっても、例え医者に「余命はひと月です」と宣告された場合であっても、その状況を「人生の終わり」と思うか、「新たな再出発」と思うかは、
あなたの「考え」次第なのだ、 ということに気づいてほしいのです。
刑務所行きになったからって人生が終わるわけじゃない たとえば、ホリエモン氏のことを考えてみましょう。急成長したIT企業ライブドアの社長だった堀江貴文氏は、その絶頂期に証券取引法違反で懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けました。
普通の人なら、実刑判決を受けた時点で「人生詰んだ」と思うに違いありません。
けれども彼は、まさにそれを「人生の再出発」と捉えていたはずです。
刑務所に入ることは恥にはなっても、決してほめられることではないはずなのに、その直前に秋葉原で壮行会を行ない、モヒカン刈りに go to jail (刑務所に行け) という出で立ちで現れました。そして刑務所暮らしを有料メルマガで配信し、日本一の登録者数を誇ったというのですから、見方によってはあきれるしかありません。
二年弱の刑務所生活を模範囚として終え、出所してからも自由に生きる彼の姿には共感する人も多いでしょう。
ホリエモン氏のような例は、特殊な才能を持つ、有名人だからこそ可能なのだ、とあなたは思うでしょうか?
確かに彼には「特殊な才能」があるとぼくも思います。けれどもそれは「お金を稼ぐノウハウ」とかそういうことではありません。
彼が持っているのは「常識にしばられず、自由にものを考える」という才能です。
絶体絶命のピンチの状況にあっても、そこに活路を見出すだけの「自由な視点」を持つことができれば、「人生詰んだ」などと思う必要はないのです。
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医者に「あとひと月の命です」と言われたら? もうひとつ、こんな例はどうでしょうか。
あなたが体調を崩し、医者にかかったとしましょう。
すると医者は顔色を変えて、すぐに入院して検査をする必要があると言います。そして入院して精密検査をした結果の医師の言葉が
「あとひと月、持つかどうか……」 というものだったとしたら――。
現実にこのように余命宣告を受ける人は、年齢に関係なくいるのですし、確かにこのような宣告を受けた人の多くは、医者の見立てに近い期間でなくなっているはずです。
けれども中には、余命を越えて生きる人もいますし、その中には完全に回復して元気に生き続ける人すらいるのです。
lifehacker の記事、
・【書評】『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』 | ライフハッカー[日本版]
で、精神科医であり、発達障害でもあるという西脇俊二さんが、ご自分が障害を克服した経験をまじえ、発達障害とどう付き合ったらよいかを述べた本、
『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』
が紹介されています。
今日は、西脇さんの説く発達障害との付き合い方を簡単に説明するとともに、「自分は発達障害かも?」と考えているあなたに、ちょっとしたヒントをお伝えできたらと思います。
精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 「自分は発達障害かも?」と思っているあなたへ - 悩みが深刻ならお医者にかかってみるという手もあります 最後に「発達障害」は病気なのか?と考えてみる 精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 西脇さんは、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続け、「医学以外の分野」でその答えを探し続けましたが、結局その答えが見つかったのは自分の専門分野である「精神医学」の中だった、と言います。
自分が発達障害であり、アスペルガー症候群(AS)とADHD(注意欠如・多動症、注意欠陥・多動性障害とも)の二つの要素を合わせもっているのだと気づいたとき、発達障害に特有の行動パターンを意識的に変えていくことで、対人トラブルを減らすことに成功したというのです。
アスペルガー症候群は生まれつきのものであるとされ、有効な治療法は確立されていないため、現在の治療の基本は、問診が中心で、その人に応じたさまざまな指導が行なわれるといいます。
たとえばアスペルガーの人は、段取りが悪かったり、時間管理が苦手だったりする場合があります。
そういう人は、TO DO リストを作ってスケジュール管理をすることで「苦手」を減らせます。
具体的には、
1. まず一日のタイムスケジュールを書き出して行動の流れを把握する。
2. さらに週間・月間の予定表を作って、今週やること、今月やることを確認しておく。
3. 毎朝、朝の十五分を利用して「今日やること」のリストを作るようにします。仕事なら、ミーティング、レポート提出、会議資料のコピー、商品サンプル確認、メールチェックなど、やることを(五~七点までと数を決めて)書き出します。
4. 今日やることリストに、「A」「B」「C」の優先順位をつけていきます。
「A」絶対に今日やること
「B」なるべく今日やること
「C」明日でも大丈夫なこと
5. 「A」が複数あるときは「A1」「A2」「A3」としてさらに優先順位を決める。
このように毎日するべきことを朝の15分でまとめることで、段取りよく行動できるようになるのだと言います。
また、発達障害であることは、必ずしも悪いことばかりではありません。
アスペルガーの人は、特定の物事への興味やこだわりが強く、集中力も高い場合があります。
こうした特徴を持つ人は、こだわりや集中力を活かして専門性の高い分野の仕事に向いている可能性があります。
発達障害のために起こっている「苦手」に対処する方法を身につけると同時に、自分の「得意」な分野を活かすような職業につくことで、あなたの「生きにくさ」を改善できる可能性が出てくるわけです。
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今日もインターネット密林(ジャングル)にお集いのみなさま、元気にやってますかー。
ところで、あなたは、ひょっとして、
働かないのは「悪いことだ」
と、思ってませんか?
そう思って「いけない理由」もないのですが、どちらかと言えば、窮屈な考え方じゃないかなあ、と思いまして。
というわけで、今回は、政治学者・栗原康さんの著書「はたらかないで、たらふく食べたい」をネタにさせていただき、このページでは何度も現れるテーマ「働かなくてもいいじゃん」の変奏曲をお送りします。
「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた栗原康さんは、大杉栄や伊藤野枝の評伝を書いている政治学の研究者です。
東北芸術工科大学で非常勤講師をしてらっしゃるのですが、これはいわばアルバイトに近い仕事ですよね。
いわゆる定職についていないわけです。
そして、定職にもつかず、実家で好きなように勉強し、好きなように本を書き、稼ぎは少ないけれども、自由に生きている。
そうした彼の「自由な生き方」をこちらの本に書かれているわけです。
* * *
まあ、「プチブルの高等遊民」といってしまえば、それまでなのですが、そして、ぼく自身が「プチブル高等遊民の失敗事例」みたいなものでありますから、「そういう非生産的なあほうは大概にしなさい」という声がどこかから聞こえてきそうな感じです。
でありますが、というよりは、ですからこそ、
「プチブル高等遊民」でもいいじゃないですか
とアジの開き直り的に私は主張したいのです。
* * *
栗原さんのインタビューがこちらにあります。
・【訊いてみた】いま最注目の政治学者、栗原康さんに訊いてみた【前編】 | ひき☆スタ - ひきこもりから『社会』にメッセージを。
インタビューで、「はたらかないで、たらふく食べたい。これがあたらしい格言だ」という言葉について、どうしたらそんなふうに強く思えるか、と聞かれています。
それに対する栗原さんの答えは、もともと強く言えていたわけではない、というものです。
大学院博士課程を満期退学後、五年ほどほぼ仕事がなく、週にひとコマだけ非常勤講師をしていて、年収10万、という時期があったそうです。
月収10万、じゃありませんよ、年収10万です、年収!!
そして、実家にいて、好きなように本を読んだり、ものを書いたりしていたわけですから、親や近所の人や親戚から当然いろいろ言われます。
特に最初のうちは親から相当いろいろ言われたため、栗原さんは「とにかく謝る、土下座する」という技を身につけた、というんですね。
栗原さんの言葉を引用します。
なにか言われたら、とりあえず謝る。土下座して、「もうちょっとしたら稼げるようになるから、もうちょっと、もうちょっと」なんて言いながら、お小遣とかもらったりして。案外それを何年間も続けていくと、親もだんだん折れてくるんですよ。
だから、最初から強かったわけじゃなくて、謝ればいけるぞと、少しずつ思えるようになっていったんです。それを続けていたら、やりたいことがあるからお金にならなくてもやるぞといったふうに、開き直れるようになって、そしてそのほうが意外と楽だなと思えるようになりました。
恥ずかしながら、この私も、五十を過ぎた身で、ロクに収入がないままインド辺りを漂っている人間ですから、日本に帰国する旅費にもこと欠いて、母親に無心するような人生を送っています。
しかし、老齢の母に無心することを「悪いことだ」と思うのか、それとも、そうやってお金を送金してもらうことを「ありがたいことだ」と思えるのか、これは人生の分かれ目になるものだと思います。
ぼくは自分のことを、五十になっても独り立ちのできない「情けない」人間だ、と思うのと同時に、そんな「情けない」人間を支えてくれている母をはじめとする様々な人たちに対して、本当にありがたく思うのです。
昭和の文豪・太宰治は、結婚してからもなお、実家の長兄からの仕送りによって生計を立てていました。
太宰が「仕送り」によってようやく生計を立てていたことを「悪いことだ」としか思えなかっただろうことは想像に難くありません。
芸術というものは、得てしてそのような「困難と苦悩」の中から生まれてくるのでしょうから、それはそれで仕方のないことでしょう。
けれども、世の中には、「社会の多数派」の流れには乗れない人間というものが必ずいるわけで、そうした少数者の居場所があるほうが、社会全体としても健全なもののように思えます。
「社会的」にダメ、と言われる人間が「本当にダメ」なのかどうかを、少し考えてみたほうがいいのではないかと、思うのです。
* * *
栗原さんは、そうやって実家に暮らし、好きな読書と文筆を続けることで、現在では八冊の著書を出し、ご両親との関係も落ち着き、それなりに安定した生活をしているようです。
しかしながら、収入の方は、世間的にいって十分な額があるわけではなく、
いまお金になることをやらないでいると、率直にあまえているとか、遊んでいるとか言われたり、いい歳をしてお金もかせげていないのに恋愛とかをすると、無責任なやつとか言われるのが現状だとおもいます。だからこそ、あえてわがままになりきって、おもうぞんぶん遊びたい、モテたい、楽しみたい、うまいものが食いたいって、声をあらげてみたいなと。
本日発売!『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 後編 | タバブックス と大胆にもおっしゃっています。
今の日本社会は、景気が悪いと言われ続けていますが、決して社会全体が貧しいわけではありませんから、
「お金を稼がなくても、人生を楽しみたい」
という主張も当然ありうるでしょう。
また、お金を稼ぐのが当たり前だと思い込まされて、お金を稼ぐのが立派な人、そして、お金を稼いでないのは「人としておかしい」と思われてしまうところが、今の経済社会の怖いところだともおっしゃっています。
OECDの報告によると、日本におけるニート*1は170万人、推計32万人が引きこもり状態であるとも言われます。
そうした若者たちが、社会からの圧力で、「働いていない自分は人としておかしい」と思い込んでいるとしたら、これほど不幸なことはありません。
「働いていない」のはちっとも悪いことではありません。働きたいと思うような職場が少ない、日本の労働環境のほうがむしろ問題でしょう。
働かないでも食べるのに困らないのならば、無理に働く必要はないではありませんか。
そして、
たぶん、いまおなじような境遇にいる人たちって、けっこうたくさんいますよね。そのうち、一人でも二人でもいいんです。この本をつうじて、だれかがすこしでも生きやすくなってくれたら、自分ももっともっとわがままに生きてやるんだって、そうおもってもらえたらいいなとおもっています。
と、菅原さんもおっしゃる通り、必ずしもお金を稼ぐということにとらわれる必要はありません。
ここでの「わがまま」というのは、「好き勝手にすればいい」ということとは違うでしょう。
きちんと自分の欲求に忠実に生きて、自分の好きなことを自分の責任の中で行なえば、道は開けるものだよ、というメッセージだと思います。
多くの人が、社会に広い目を向けて、様々な関心を持ち、自分が思うような生き方ができるようにお祈りして、この記事はおしまいにします。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬