前の記事、 ・「心のオッサン化を防ぐ最強の方法」それはずばり「若者をリスペクトする」ことでしょう! - *魂の次元* では、世のオッサンたちよ、若者をリスペクトして、良好な関係性を作り、いつまでも若々しくあろう! と、たいへん前向きの主張をした直後で恐縮ですが、今回はちょっと逆向きに、 ネットで何を書こうが自由なんだから、頑固親父が怒りの言葉を並べるブログがあったっていいじゃないか、 というようなお話です。 怒りと言っても個人攻撃じゃありません、世の中のミョーな仕組みへの怒りの話です 簡単に雪を溶かす装置はできないのか!? 怒りの表現もオーケーっていうけど、リスペクトの話とはどうつながるの? 怒りと言っても個人攻撃じゃありません、世の中のミョーな仕組みへの怒りの話です カメキチさんがこちらの記事、 ・2018.2.17 雪から思った二つのこと - kame710のブログ で、雪にまつわる「怒り」を二つ、つづっています。 ひとつは 1 月 11 日信越本線が雪で止まり、乗客多数が 15 時間に渡って車内に閉じ込められた事件です。 カメキチさんは、このニュースを知って、 「雪に怒りを向けようとしている自分に気づいて苦笑した」 とユーモラスに書いてらっしゃるのですが、八つ当たりで周りの人に怒りが向かうよりは、雪に向けて怒ったほうが断然いいですよね。 その後、三条市がマイクロバスの支援を申し出たのに、JR がそれを断ったことを知ったときには、「本気で怒りが湧いた」のだそうです。妊婦さんや病弱な人、お年寄りだけでも、優先して救助するべきだったのではないかと。 断った JR の判断をどう評価するかは、人それぞれでしょうが、こうした別の視点の提示は大切なものと思いますし、「怒り」を原動力にして社会的な発言をすることは、限度をわきまえている限り、まったくオーケーなものでしょう。 簡単に雪を溶かす装置はできないのか!? 大雪の被害は毎年のように繰り返され、今年は福井を中心に北陸地方が大きな被害にあっています。 カメキチさんの舌鋒は、日本の技術で、雪を簡単に溶かす装置はできないのか、というところに向かいます。 豪雪はめったにない。あっても日本海側だけ…。 カネを使って開発しても、経済的にワリに合わない、「費用対効果」がない、もうからないということなのでしょうか。 と最後はやや嘆き節ですが、カメキチさんの困っている人に対する目線は優しいものです。 残念ながら、熱を使った手軽な融雪装置というものは、莫大な熱量を必要とすることなどから、現状では豪雪時に使用しうる実用的なものは不可能なのでしょうが、なんらかの技術的革新があれば、そうした装置が実用化される可能性もありえます。 雪国育ちで、大雪の大変さを知った日本の若き技術者が、すばらしい装置を開発してくれるよう祈りたいではありませんか。 なお、現在の融雪方法については、wikipedia のこちらのページにひと通りの説明があります。 ・融雪 - Wikipedia ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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みなさんは音楽を聴いて、鳥肌が立ったり、ぞくぞくしたり、涙が流れたりした経験はありますか。 こうした音楽を聴くことで、感情が刺激されて、体にまで反応が現れることは、多くの人が体験することですが、人によってずいぶん感受性に違いがあるようです。 アメリカで 2016 年 3 月に発表された研究によると、この感受性の違いは、 脳内の音を処理する部分から 感情や報酬を処理する部分への 神経線維のつながりの「太さ」 によって決まってくるのだといいます。 それでは、もう少し詳しく、この研究の内容をみてみましょう。 研究の対象者は、こうして決められました そして、実際の実験はこんな感じです。 音楽によって「鳥肌が立つ」人は、音の知覚部から感情・報酬部への神経接続が「太い」 好きな曲を聴くだけでいつでも「鳥肌が立つ」人はどのくらいいるの? 音楽サイト fnmnl.tv の「音楽を聴いて鳥肌が立つのは特殊な脳の構造を持つ人だけ」という誤報について 研究の対象者は、こうして決められました この研究では、まず 237人の対象者について、心理特性や音楽に対する好みや反応などをオンラインで調査しました。 そして、この調査のうち、音楽を聴くと「鳥肌が立つ」特性を示す 7 点満点のポイントが、 6 - 7 点の人物 10 人を「鳥肌」の対象者として、 1 - 2 点の人物 10 人を「非鳥肌」の対象者として、 選び、実際の研究を行なったのです。 なお、実際には「鳥肌」の対象者はもう 5 人選ばれましたが、実験中に「鳥肌」体験を報告できなかったため、解析データには含めなかったということです。 そして、実際の実験はこんな感じです。 実験では、「鳥肌」の人にも「非鳥肌」の人にも、自分の「好きな曲」と、特に好きではない「中立の曲」を聴いてもらいました。 そして、曲を聴いている間に、リアルタイムで自分の感覚を報告してもらいます。 報告する感覚の内容は、「毛が逆立つ」「胸がどきどきする」といった体に感じる具体的な感覚から、「時間の感覚がなくなる」「没頭する」といった抽象的なものまで、15 の項目です。 同時に被験者の心拍の速さと皮膚伝導度も測ります。 また、MRI スキャナーによって被験者の脳をスキャンします。 以上によって実験のデータが得られました。 結果はどうでしょうか? 音楽によって「鳥肌が立つ」人は、音の知覚部から感情・報酬部への神経接続が「太い」 「鳥肌」の人は、好きな曲を聴いているときには、皮膚伝導度も心拍数も高くなり、その高まりは、本人の「鳥肌感」の報告と一致しました。 「非鳥肌」の人は、好きな曲を聴いているとき、皮膚伝導度はある程度高まるのに、心拍数は高まりませんでした。そして「鳥肌感」の報告は、ほとんどないか、まったくありませんでした。 そして、音楽の練習をした年数が長い人ほど、「鳥肌」を感じる割合が高くなる傾向が見られました。 また、MRI スキャンによる脳の解析では、 音を処理する部位である上側頭回後部から、 感情と報酬を処理する部位である前部島皮質と前頭前皮質内側部への 神経線維の接続の「太さ」を示す灰白質の容積が、「鳥肌」グループのほうが大きいことが確かめられました。 このとき、灰白質の容積が大きいほど、「鳥肌」を感じやすい傾向も確かめられました。 音楽を長く練習した人ほど「鳥肌」を感じやすいことと合わせて考えると、音楽を練習することで灰白質が増加して「鳥肌」を感じやすくなる可能性もありますね。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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「失感情症」ってご存知ですか? アレキシサイミア alexithymia の訳語なんですけど、「感情を言葉にできない症状」のような意味で、この傾向を持ち合わせる人は、「自分で自分の気持ちが認識できない」んだっていうんですよ。 しかも研究によると、全体のうち 5% から 9% 近くの人がこの傾向を持つんですって。 (これはあくまで、精神的な「傾向」ですから、ただちに「病気」というわけではありません、念のため) 今回はこの「失感情症」にまつわる、ぼくの個人的な経験談です。 おれって「失感情症」かな? 本日アレキシサイミアとネット上で再会、そして失感情症の特徴 もう少しアレキシサイミアについて説明 おれって「失感情症」かな? ぼくがこのアレキシサイミアという言葉に出会ったのは、1987年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した 野田正彰氏の「コンピュータ新人類の研究」 という本によってでした。 (この本ではアレキシサイミアを失感情言語化症と訳しています) この本は、コンピュータとの関わりによって人間の心がどう変わるか、といった問題意識から書かれたもので、インターネットがまだ大学などの研究者の間でしか使われていなかった今から30年も前に、ソフトバンクの孫正義氏やアスキーの西和彦氏などのインタビューも含め、時代を先取りした題材をおもしろい切り口で書いた良書です。 そしてその中に、コンピュータを扱う若者の中には一定程度の「アレキシサイミア」が見られるっていう話が書かれていたんです。 それを読んだときに、「おっ、おれもこのアレキシサイミアというやつだ」とぼくは思ったわけです。 当時大学生だったのですが、髪を長く伸ばしてたので、女ともだちからアフガンハウンドに似ていると言われ、「アレックス」(犬の名前のつもりらしい)というあだ名をもらっていたもんで、「おれはアレキシサイミアのアレックスだ」と思い、乗っていた車いすゞジェミニZZ/Tにもアレックス号という名前をつけたりしたものです(笑)。 本日アレキシサイミアとネット上で再会、そして失感情症の特徴 それで今日ですね、うちのブログに星をくださった方のブログをのぞいてみていたら、 ・自分自身の感情が自覚できない人がいるって知ってた? - ココッチィ というタイトルが目に飛び込んできたんですよ。 どんな記事だろうなと思って読んでみると、 「自分の相方が気持ちを表現することができない、変だなと思っていろいろ調べたところ、どうもアレキシサイミアらしい」 って話なんです。 それでその相方さんの場合は、特殊な環境で育ったので 子供の頃から、我慢し続けて育ったから、感情を殺す癖がついてるんじゃないか ということなんですが、これってぼくも、思い当たるフシが、ありありのオオアリクイな感じなんです。 それで、久しぶりにアレキシサイミアに対する関心が蘇って、ネットを調べると、日本語の wiki は大した説明がありません。 で、英語版を読んでみると、 自分の気持ちをとらえたり、表現したり、あるいは扱ったりすることが苦手で、 多くの場合、他人の気持ちが理解できず、 気持ちと体の感覚を区別できない っていうんですね。 あー、なるほど、これはもうおれ、 完全にアレキシサイミアで決定!! って感じでした。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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みなさんは、感情って何種類あるか知ってますか? 日本では喜怒哀楽という言葉を使いますから、この四種類が基本かなと、多くの方は思うかもしれません。 (ぼくも長い間そんなふうに思ってました) でも、「好き」って思うのも感情だし、「恨み」や「妬み」みたいないやな感情だってありますよね。 この記事では感情にはどんな種類があるのかを考えた上で、感情をコントロールする方法について解説します。 怒りとか悲しみとか、いやな感情をうまくコントロールできたら、毎日が楽しく送れるはずですよね。 あなたの暮らしに役立つ、ちょっとした「ヒント」が見つかるかもしれませんよ。 感情には27も種類があるって本当? 普通は「感情」と言うけれど、心理学では「情動」という言葉を使います 感情の種類は国によって違う? 感情のコントロールの第一歩は、感情をプラスとマイナスに分けて考えること 「怒り」のコントロールができると、人生楽になります 「悲しみ」「恐怖」「不安」「無力感」、いろいろなマイナス感情のコントロールも基本は一緒です 〈2017/11/26追記〉感情「7 種類」説もあるし、いろんな人がいろいろなことを言ってます 感情には27も種類があるって本当? 心理学の世界では 幸せ、悲しみ、怒り、驚き、おそれ、嫌悪 の六種類*1を人間の基本感情とするのが割と一般的なんだそうです。 で、この基本感情は、脳神経的に基礎付けられるという意味で基本的なもので、「ノスタルジア」とか「退屈」みたいな、成長の過程で学んでいく社会的な感情とは別物だって話なんですね。 だから基本感情に「好き」や「妬み」が入ってないのは仕方がないことなんです。 では、成長の過程で学ぶんでいくことになる、社会的な感情にはどんなものがあるかというと、実験の結果、27種類の感情が報告されたという研究があります。 この研究については ・あなたの感情は何種類? 感情カテゴリー27種も発見される! - *魂の次元* という記事で前に書きましたが、ここでも簡単に紹介しましょう。 この実験では、 被験者にビデオを見てもらい、沸き起こった感情を表現してもらったところ、 連続的に変化しつつ重なりをもつ、27種類の基本的な感情の状態が見出された、 のだそうです。 つまり、 人間が日常生活で感じる感情というものは、 人によっても違いがあるので、一つひとつくっきりと分けられるものではないけれども、 27種類くらいは考えないと、人間は自分の気持ちをうまく言い表せない、 というわけです。 普通は「感情」と言うけれど、心理学では「情動」という言葉を使います さて、先の研究によって確認されたという基本感情を、その英語とともに並べてみましょう。(英語のABC順になっています) 賞賛 admiration 、熱狂 adoration 、美的満足 aesthetic appreciation、 (自分の体験する)おもしろさ amusement 、怒り anger 、不安 anxiety 、 畏怖 awe 、とまどい awkwardness 、退屈 boredom 、落ち着き calmness 、 混乱 confusion 、欲望 craving 、嫌悪 disgust 、痛み pain 、

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なすねむさん (mensan:di) がこちら ・瞑想と悟りに対するぼくの個人的見解 - めしがくいたい で、ご自身のアヤワスカでの体験をもとに、瞑想と悟りについて考察しています。 全体的に *力強く* 同意したい内容である上に、幻覚性植物の経験を共有するものとして、ひと言、ふた言、書いておきたいこともあるので、今日は「瞑想」と「悟り」そして向精神薬をめぐる、「変性意識」についてのぷち考察です。 アヤワスカで「悟り」は得られるか? 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう 瞑想を習慣にする 瞑想を「習慣」にすることが、なぜ大切なのか 「楽に悟れる」とは言っても、「それなりの努力」は必要です 「悟り」ってそんなに偉いものなの? ・[:title] アヤワスカで「悟り」は得られるか? 結論から言うと、 「悟り」が得られる可能性はわりと高い ということになります。(一方リスクもあります) ただし、ここで「悟り」というのは、普段の意識ではなかなか得ることができない、「深い洞察・気づき」程度の意味です。 アヤワスカのような薬物を使うことで、いつもの意識とは異なる「変性意識状態」に入ることができます。 そのとき、いつもはブロックされていて見ることができないものが見えてくることで、「普段は気づけない気づき=悟り」が得られる場合があるのです。 しかし、これはギョーカイで「インスタント悟り」と呼ばれるもので、体験中には、 すごい悟りを得たぞ! と思うのですが、残念ながら、 じきに薄れてしまったり、あるいは 強烈すぎる場合には、普段の歪んた認識に組み込まれて、妄想的思考になってしまったり しかねません。 (妄想的思考は、人によっては大きなリスクとなりえます。素質のある人は、病院のお世話になることも考えられるからです) nasnemさんは、こちらの記事 ・悟りとジャンプ漫画について - めしがくいたい で、アヤワスカによる変性意識の中、その体験と「ジャンプ」のいくつかの漫画に描かれる「悟り」の境地との類似性を指摘していて、なかなか興味深いのですが、その類似性について、 体験中はもっとナイスアイディアの感じがしていたんだけどなあ。 と書いています。 これが、「薄れ」の実例ですね。 売れっ子の漫画家が描く、多くの人を惹きつける世界観を、変性意識による「認識の深み」の中で深く「体感」として「理解」したことは、ある意味「真理」に迫っていたといえます。 けれども、いつもの意識に戻ってしまうと、その「体感」が抜け落ちてしまうため、 「あれ、ちょっと似てたってだけで、大した発見じゃなかったか」 みたいなことになっちゃうわけです。 そこで、この変性意識にあるときの体感としての「気づき」をきちんと自分のものにするためには、「瞑想」が必要になってくるのです。 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう なすねむさんは、 薬やサイコアクティブ物質によって悟れるならそれでいい 楽に悟れるならそれに越したことはない 苦行の末に悟りがある、苦行することは高尚で偉い、悟りは神秘的なもの、といった考え方は危険 と書いています。 1. については、「向精神性の薬物だけでは悟れない」ことを先ほど書きました。 (例外はあると思いますけど) 2. については、大いに共感しますし、基本的にぼくもこの路線です。 3. については、大体同じ考えなのですが、改めて次節で述べます。 というわけで、ここではどうやったら「楽に悟れるか」を簡単に書きます。 瞑想を習慣にする 瞑想といっても、座禅を何時間もやる必要は必ずしもありません。はじめは「気がついたときに、三回じっくり深呼吸する」とか、簡単なことでかまいません。 ポイントは いつもは無意識にやっていることを「意識化」すること そして、それを習慣にすること にあります。 さてここで、練習問題です。 あなたはいつも靴をどちらの足から履きますか? 実際にやらずにこの質問に答えられるあなたは、自分の体の動きについて、かなり意識化ができている人です。 でも、分からなかったからといって、がっかりする必要はありません。 次に靴を履くときに、ちゃんと意識してどちらの足から履いてるかをよく確かめてください。、そして、次からは、逆の足から靴を履くようにしてください。 はじめは、違和感もありますし、うっかりいつも通りの足から履いたりしてしまうでしょうが、気にせず根気よく続けてください。

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「黄金球ってなんだろう」と思って、わざわざこの記事をみてくださった方、ごめんなさい、それはただの「き○たま」のことです。そして、今日はもう一つの話題は、明晰夢・幽体離脱について。実体験にもとづき、脳科学的知見にも触れながら、紹介します。

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みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか? 魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。 この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、 ・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。 結論を先に言うと、 「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」 てな話です。 で、本日のお品書きはこんな感じ。 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 追記: id:yuki_2021さんより、ブックマークにてコメントいただきました。 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。 ・[:title] 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。 とりあえず、主人公まどかの立場を大乗仏教の阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。 この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。 これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、 その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。 というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。 最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。 けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。 というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。 まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。 初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。 今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。 マミさんへのご提案と言う形で 初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。 この口上、大変気に入りました(笑)。 このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。 件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。 しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。 ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。 もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。 でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。 おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。 なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。 [マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編] キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。 けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。 石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。 もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。 とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。 むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。 ......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。 今言いたいのはこういうことです。 「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り) あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り) いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、 「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」 はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。 って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、 「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」

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みなさん、「魔法少女まどか☆マギカ」は見たことありますか? 魔法少女ものなのに深夜枠の放送で、可愛い絵柄なのにダーク・ファンタジーでメルヘン・ホラーで、なんとも言えない魅力のあるアニメですよね。 この作品に関連して、はてな匿名ダイアリーに、 ・所詮大乗仏教である『まどマギ』でマミさんに自力救済ルートはない というおもしろい記事が投稿されていましたので、今日はこれを肴に宗教論ごっこをしてみようかと思います。 結論を先に言うと、 「人のいうことなんかあんまり気にしないで、自分なりの世界観を創り上げていくほうが楽しいと思うよ」 てな話です。 で、本日のお品書きはこんな感じ。 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 なお、なんでもありでおおらかな感じのヒンズー教の梵我一如あたりが今のお気に入りです。 最後に、宗教というくくりに限らない、哲学的というべきか、科学も含めた世界観の話 7,000字もありますので、お暇なときにお楽しみくださーい。 ・[:title] 阿弥陀様に全部おまかせするのって、楽なようで結構むずかしかったりします。 この記事では、「まどかマギカ」のストーリーや世界設定について細かく説明はしません。 とりあえず、主人公のまどかの立場を阿弥陀如来に例える解釈が一般になされている、ということだけ了解しておいていただければ、十分です。 この作品に登場する魔法少女たちは、世界を守るために苦悩しながら闘うことになるのですが、阿弥陀如来としてまどかを信じることによって、最終的には救われることになるという枠組みの解釈です。 これについて元記事の匿名ダイアリーを書いた匿名さんは、 その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。 というように「否定的」な説明をしていますが、ここはちょっと違うかもな、と思います。 最後に阿弥陀如来の救いを知らない世界においては、確かにその通りでしょう。 けれども、いずれ阿弥陀如来がやってきて救いが訪れるのだということを、きちんと信ずることができたときには、同じ過酷な状況の中で闘い続けるにもかかわらず、その状況に絶望せず、その状況の中で発狂したりせず、自分の役割を果たすことができるようになるはずだからです。 というわけで、みなさんもご自分の人生の真っ只中で、理不尽で不条理な状況に落ち入ってしまったときには、とりあえずは、阿弥陀様や法華経にすべてを預けるのもいいかもしれません。 まあ、なかなかすべてを預け切るわけにはいきませんし、エゴの猿知恵でもってじたばた足掻いてしまうのが、私たち衆生というものではありますけれども(笑)。 かといって、初期仏教の修行主義は、分かりやすいけどストイックすぎて、なかなかついていけませんです。 さて、「まどマギ」の世界では、最終的な救いが登場人物には明らかになっていないことから、匿名さんは登場人物のマミさんに対する説明の形で、セールスマンよろしく、初期仏教の瞑想修行の売り込みをはかる文章を展開していて、これがなかなか読ませます。 初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。 今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。 マミさんへのご提案と言う形で 初期仏教の効能と素晴らしさをみなさんに知っていただきたいと思います。 この口上、大変気に入りました(笑)。 このあと、五つの戒律を守り、慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想を実践することで、他力によらない自力の救済が可能なのだという説明が続きます。 件の記事にはヴィパッサナーという言葉はでてきませんが、一日二時間の瞑想を進めていることから、ヴィパッサナーによる呼吸と身体感覚を対象にした瞑想を念頭においているものと推測されます。 しかしながら、このヴィパッサナー瞑想による自己救済も、誰にでも開かれたものであり明快で分かりやすいものであるとは言え、誰にでも簡単に実践できるものではありません。 ぼくもヴィパッサナーに関しては、この七年来ほそぼそと練習を続けてはいますが、何しろなかなかストイックなものですから、「救済」といえるようなレベルには簡単には辿りつけないことを実感しています。 もちろん、練習をすれば、したなりのメリットはありますから、そういうストイックさが合う方には、悪くない方法論ではあります。 でも、やっぱり、合う人は少ないだろうなぁ。 おまけに日本の社会の中では、ちょっとカルトっぽく見えちゃうだろうし。 なお、ヴィパッサナーについては、別サイトに書いた記事がありますので、興味のある方はご一読くささい。 [マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編] キリスト教やイスラム教はよく知らないけど、やっぱりそれぞれに正しいに違いありません。 さて、パクス・アメリカーナな合州国を頂点とする世界秩序が力を持つ現代の政治情勢の中で、「キリスト教社会とイスラム教社会の対立」のようなものが、ぼくたちの生活をおびやかしているかのような言説をあちこちで見かけることも多いのではないかと思います。 けれども、「キリスト教 v.s. イスラム教 - 地球大の決闘」みたいな話って、かなりうそ臭いですよね。 石油やらの資源や、経済的な利害絡みのことが問題の根本にあるのに、そうした論点をすり替えてる印象をかなり強く感じます。 もちろん人間は、集団ごとに帰属意識を持って、その間ですぐ戦争ごっこを始めちゃうような存在ですので、それが実際問題「キリスト教 v.s. イスラム教」のように見えてしまうのも現実です。 とはいえ、歴史的に考えれば、イスラム圏でも異教徒はちゃんとそこに住んで経済活動をすることも認められていたわけですし、原理主義者ばかりがイスラム教徒ではありません。 むしろ西側社会が資金提供してイスラム原理主義者を育てた側面も大きい。 ......というような話をしていると、限りなく話が明後日の方向にそれていってしまうので、この辺でやめときましょう。 今言いたいのはこういうことです。 「まどマギ」のマミさんが、突如マザー・テレサの善行に打たれて、貧しい人々の看取りをしながら、そのかたわら、魔法少女として戦うことも設定としてありえますよね。(かなりの無茶振り) あるいは、イスラム教の神秘主義スーフィズムに目覚め、回転舞踏をしながら魔女と戦うというのは、どうでしょうか。(同程度に無茶振り) いずれにせよ、魔法少女としての宗教的背景がどうであれ、 「きちんと信ずるものがあれば、困難な状況にも打ち勝つことができる」 はずっていう、まあ、ありきたりで凡庸な話になっちゃいますけどね。 神道の「祓って浄めれば全部オッケー」ってのも悪かない。 さてここで、我が大和の国ニッポンの神道は果たして、どうなんでしょうか。 って、もっともらしく論ずることができるほど知ってるわけでもないので、聞きかじりの断片的な知識から書くだけですけど、ぼくの哲学的先輩に聞いたところによると、 「神道って、教義と言えるようなものは、『祓い給い、清め給え』しかないんだよねぇ」 ですって。 アニミズムと伝説に毛を生やし、文書として一つにまとめたのが、古事記であり日本書紀であり、それがのちに天皇を神と仰ぐ国家神道になるんでしょうから、教義の部分はもっぱら仏教から借りる形で済ませて、神道独自の部分は「祓って浄めて」それだけでオッケーだったってことでしょうかね。

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みなさん、こにゃにゃちわ。 今日のお題目はこんな感じです。 「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 自分で絞めて食べたことありますか? ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか 4,000字以上の長文ですが、お時間ある方はおつき合い願いまーす。 「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 なすねむさん (id:meshigakuitai) という方、こちらの記事 ・いのちをたべる、ということ - めしがくいたい で初めて知りましたが、なかなか強烈な個性の持ち主ですね。 記事の内容は、 有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはず。 「食べていいものと食べてはいけないもの」を作るのは勝手な独自ルールであり、真理から遠ざかることになる。 とはいえ、牛一頭を渡されて「食べろ」と言われても、牛を潰すのは難しい。かわいそうだから。 けれど「かわいそう」も真理的じゃない。 それで、真理に近づく経験をするために「生まれたての動物」を食べることにした。 というような感じです。 途中までは、合理的な流れで、多少の異論はあっても、 「まあ、確かにそうかもね」 と言える内容ですが、結論がぶっとんでて最高ですよね。 僕は、生まれたての動物を食べることにしました。 っていうんですから。 で、どうやって「生まれたての動物」を食べたかって言うと、うずらの卵には一パックに一個くらい有精卵が混じっているので、孵卵器を買ってきて、うずらを孵化させて、それをいきなり踊り食いしたっていうんですから、驚きです。 そうして僕は真理にまた一歩近づいたのでした。 ということですので、その真理に近づいた感想をうかがいたいところですが、多分この方の場合、「真理に近づいた」という行為自体が重要なところで、「真理に一歩近づいてこんな気分になった」というようなことには関心がない方なのかもしれません。(勝手な臆測なので、違ってたらごめんなさい) でも、そういうところも含めて、なんとも「超越」してる感じが素敵な方だなと思います。 うずらを孵化させてそのまま食べるのは難易度が高いですが、ベトナムやタイでは、孵化前のひな入り卵をゆで卵として食べる習慣もあります。 (有精卵が当たり前だった昔の日本の人は、そういう卵を「当たり」といったとか) このくらいなら、比較的やりやすいと思いますので、「いのちをたべる」という真理に近づく経験を得るため、みなさんもいろいろ挑戦してみてはいかがでしょうか(笑)。 自分で絞めて食べたことありますか? ぼくも、なすねむさんと似たようなことを考えています。 肉を食べるのに、自分で絞めたことはないな、ということです。 ぼくの場合、普段はだいたい菜食ですませていますが、宴席などで出されれば、なんでも食べますし、外食のときにもあまりこだわらず、適当に肉・魚も食べてます。 けれども、いわゆる「害」虫のたぐいを殺したことはあっても、魚を釣ってきて生きてるままをさばいたこともないに等しいし、ましてや鳥や獣を絞めたことはありません。 昔ネパールに行ったとき、山歩きをしていると村の人が、いかにも「今絞めたばかり」といった鶏の足を持ってぶらさげて、 「ちょうど絞めたばかりなんだけで、食べるかい?」 といった感じのことを、にこにこと笑顔で言われたことがあります。 到底食欲が湧く状況ではなかったので、 「あ、いや、今ごはん食べたところだから、いらない」 とか、適当なことを言って誤魔化したのを思い出します。 その同じネパール旅行のときには、インドにつながる平野の街をバスに乗って通りかかり、店先に豚の頭がどーんと並んでいるのを見かけて仰天したりしてましたが、それももう二十年も前の話。 その後、いろいろ肉食について見聞きし、考えているうちに、一度は鶏を自分で絞めて、一羽丸ごとをさばいて料理したいものだと思うようになりました。 ぼくの場合は、なすねむさんとは違って、「やるぞと思ったら即実行」のタイプではないので、考えているだけでなかなか実現しませんけれど。 ちなみに、二年ほど前にマレーシアに住んでいたとき、近所のスーパーに行くと、鶏が丸ごと冷凍で売ってるんですよね。 それでそのときは、一羽を丸ごとゆでてから、解体しいしい、適宜煮込んだりしながら、数日かけて一人で完食しました。 ですからあとは、 まず締める。これが最大の関門ですね。 そして、湯をくぐして羽根をむしるのかな。羽根をむしるのが大変そう。 と思って検索したら、こんな記事もありました。 ・初めて「鶏」を絞めて屠殺し、食べるまでの作業をしてみた。-自らの手で命を頂くということ。 - よねすけ、隣に突撃するってよ。 冷凍チキンとは違って、絞めたあとに内蔵も出さないとならないですね。でも、それはなぜか、中学か高校のとき、理科の授業の解剖でやったような気が......。 今回こういう記事を書いていて思ったのは、いずれ絞めるときには、ひよこから育てた鶏を、神からの授かりものとして、感謝しながら締めたいものだということです。 アイヌが子熊を育てて大きくし、その魂を神の国に送り返す、イオマンテの祭りを思い起こしながら。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここで一休み、<スポンサード・リンク>です。 ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか さて、なすねむさんは記事の冒頭で、 有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはずです。

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『一瞬で「完全に自由」に生きられるようになる「魔法」の考え方』なんてあるわけないじゃないか。 あなたがそう思うのも無理はありません。 人生は思わぬできごとの連続です。その中で「思いのままに」そして「自由に」生きることのなんとむずかしいことか......。 けれども、本当は自由に生きるのは簡単なことなんです。 いえ、「簡単」どころではありません。 あなたは、最初から「完全に自由に」生きているのです。 この記事では、「完全に自由に」生きているのに、なぜ、それを実感できないのか、それを実感するためにはどうすればいいのかを、書いてみることにします。 あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? 「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる 自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です みんなが「窮屈」な人生を生きている時代だからこそ、あなたは「自由」に生きていい あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 「あなたは最初から自由なんだ」 と言われていも、そんなわけないよ、と思うでしょう。 したいことはいっぱいあるのに、なかなかできないし、したくないことをたくさんやらなくちゃならない。 それなのに完全に自由だなんてありえない、と。 でも、考えてみてほしいのですが、あなたがやってることは、 「全部あなたが自分で決めてやってる」 ことじゃありませんか? あなたは勉強したくないかもしれませんし、働きたくないかもしれません。 けれども、実際にやっている以上、それはあなたが 「やりたくはないけれど、しかたがない、やろう」 と思ったからということですよね? 誰かにおどかされて、やりたくないことをやる、というような極端なケースの場合はどうでしょうか。 その場合も、やらなかったときとやったときのメリットとデメリットを考えて、あなたはそれを「やることにする」か「やらないことにする」かを決めることができます。 たとえ自分の命がかかっていたとしても、同じことです。 自分の命を捨ててでも、「やりたくないことはしない」のか、 自分の命を優先して、「やりたくないことをするのか」、 それを決めるのはあなたなのです。 自分ですることは、すべて自分で決めているのですから、あなたは「最初から完全に自由」なんです。 このことを忘れないだけで、あなたは「いつでも完全に自由」です。 「自分は完全に自由だ」と紙に書いて、いつも目に入るところに貼っておいてください。 それを見るだけで、あなたは「自分が完全に自由」なことを、一瞬で思い出すことができるようになります。 自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? どうして、自分で「自由に」決めているのにも関わらず、「自由に生きている」という実感がないのでしょうか? それはあなたの中に、矛盾するいくつもの欲求があるからです。 朝目覚ましが鳴ります。 起きなくてはなりません。 でも、もっと寝ていたい。 「起きよう」とする意志と、「寝ていたい」という欲求の綱引きが起こります。 あなたが本当に寝ていたいのなら、別に起きる必要はありません。 けれども、今日はデートの日です。好きな彼・彼女に会いたい。そのためにはもう起きなきゃならない。 だから、あなたは「寝ていたい」という欲求を捨てて「起きる」ことにするのです。 人間の中には、たくさんの矛盾する欲求や、同時にはかなえられない願望があります。 それ自体は自然なことです。 ところが、「あれをしたい、でもこれはしたくない」といった欲求同士のバランスが崩れてしまい、したくないことばかりを「選択する」ようになってしまうと、「自由を実感する」ことができなくなってしまいます。 けれども、どうして 「したくないことばかり選択する」 などということになるのでしょうか? 「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる おいしいものが食べたい、 たっぷり眠りたい、 気持よく体を動かしたい、 友だちと楽しく過ごしたい、 こうした欲求は、人間の持つ基本的な欲求ですから、あなたが「自由を実感したい」のならば、これをまず大切にする必要があります。 それに対して、 自分の価値を高めたいから、勉強する お金がほしいから、働く 人に認められたいから、がんばる といったことは、二次的な欲求です。 「自由を実感する」ためには、「二次的欲求」ばかりが優先されてしまっている状況を改める必要があります。 けれども、それがむずかしい? お金を得るために働いているはずなのに、十分なお金が得られなかったり、お金はあっても、それを使う暇がなかったり、それどころかいつも睡眠不足だったり。 どうして、そうなってしまうのでしょうか? それは、あなたが「社会のルール」にしたがうことに慣れすぎてしまって、そこから一歩踏み出すことができなくなってしまっているからではないでしょうか? あなたは「頑張らなければ生きていけない」という「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているのではないでしょうか? 自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です もし、あなたが「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているとしても、それもあなたが選んだことですし、それを変えるか、変えないかはあなたの「自由」です。 けれども、ここで考えてほしいのは、それを「変える」のは、実は

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北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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