仏教では「一切皆苦」といい、「生老病死のすべてが苦である」とも言います。
日本では仏教が葬式と結びついていることもあり、これだけを聞くと、
「仏教って悲観的で辛気臭いよな」
と思ってしまいがちです。
けれども仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが実際に言ったのは、
「この世のすべては苦しみの元になりうるが、正しいものの見方を身につければ苦しみを離れて、幸せな人生を送ることができる」
ということです。 実際のところ、ぼくたちの人生は思う通りにはならない、不自由なものです。
お金がもっとほしいと思ったからといって、お金が入ってくるわけではないし、素敵な恋人がほしいと思ったからといって、理想の恋人が見つかるわけではありません。
仏教における「苦」というのは、こうした「思い通りにはならないこと」からくる「不満足」のことであり、また、イヤでもやってくる「ストレス」のことでもあります。
そして仏教では、こうした「苦≒不満足≒ストレス」が生じる原因は、ぼくたちがこの世界の現実をよく理解していないからだ、と説明します。
この無理解のことを「無明」と呼びます。「真実を明らかに知っていない」という意味です。
ここで理解するべきだという「この世界の現実」というのは、
「この世のすべてのものは変化するものであり、不変のものは何もない≒無常」
という事実と
「すべてが無常であるとき、これこそが不変の自分であると言えるようなものも存在しない≒無我」
という事実の二つのことです。
☆無常と無我についてはこちらの記事もどうぞ。
・初期仏教における「無我」の考え方。あるいは、自分を体や感情と同一視しないこと。 - *魂の次元*
・「怒り」というやっかいな感情とどう向き合うか。あるいは、「怒り」についての私的考察。 - *魂の次元*
無常と無我の考え方を理解してかていないと、「変わりゆくもの」と「自分や自分のものと思い込んでいるもの」に対する執着が生じ、この執着が「苦しみ」原因になるというのが仏教の考え方です。
たとえば「お金がたくさんほしい」と思って、もしも実際にお金が得られても、使ってしまえばなくなってしまいます。
お金を使った得られた満足で、そのときは幸せな気持ちになれたとしても、過ぎ去ってしまえば、もうその満足はそこにはありません。
頭で思い描く「素敵な恋人」に出会えた場合も、恋い焦がれて夢中のときには、会うだけで幸せな気持ちになれるでしょう。
けれども逆に言えば、会えないときは不幸せな気持ちになりかねませんし、最初のときめきが過ぎてしまえば、そこには不満が生まれてくるおそれもあります。
変化するものに執着している間は、瞬間瞬間の満足は得られても、心の安らぎは得られないのです。
ここで発想を逆転させてみましょう。
無常と無我という考え方をよく理解した上で、無常で無我なこの世のものごとに執着することをやめてみるのです。
ほしいものを握りしめて「絶対手放さないぞ」と思ったり、逆にイヤなものを毛嫌いして「こんなものどこかへ行ってしまえ」と思ったりすることをやめます。
ほしいものを手に入れても、それがいずれはなくなることをはっきりと知り、イヤなものが現れても、それもいずれはなくなることもはっきりと知るのです。
そうすれば、ほしいものが手元になくても、イヤな気分にならず、いつも落ち着いた気持ちでいられます。
また、イヤなことが起こっても、それは永遠に続くわけではなく、やがて去っていくのですから、しばらくの間、辛抱してつき合うことにすれば、それによって心が乱されることもなくなります。
このように「選り好みも毛嫌いもしない≒執着心がない」状態になれば、どんな状況に置かれても、苦しみを感じず、不満も感じず、ストレスとも思わないような心境でいることができるようになるのです。
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人生から苦しみをなくしたければ、執着心をなくせばいい。
言葉にしてしまえば、簡単なことです。
けれどもこれを実際に実行するのは、なかなか難しいことになります。
ほしいものが手に入らなければ不満に思い、イヤなことが起これば不愉快に思う。それが人間というものです。
けれども、もしあなたが本当に幸せになりたいのなら、今この瞬間にも「執着心をなくすぞ!」と決意する必要があります。
「自分にはできる!」と信じて決意し、それを持続的に実行していくことができれば、あなたは少しずつ理想の状態に近づいていくことになるのです。
まずは鼻から三回深呼吸をして、体と心の余分な力を抜いてみてください。
力を抜いてリラックスすれば、今までは使えずに垂れ流しになっていた心の力が、意味のあることに使えるようになります。
ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。
一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。
もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。
これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。 後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。
この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。
けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。
たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。
曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。
ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。
どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。
仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。
「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。
たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。
このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。
初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。
三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。
こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。
初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。
けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。
同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。
その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。
「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。
仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。
仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。
瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。
前の記事では、仏教の「無我」という考え方について説明しました。
https://dimofsoul.mitona.org/entry/muga
私的なことですが、今日は怒りを相手にぶつけてしまう体験をしたので、そのことを「無我」の考えともからめて書いてみます。
「怒り」という感情はやっかいなものです。
自分の中に「怒り」が湧いてきたとき、それを抑え込んでも、あとあとに悪い影響を残しますし、相手に直接ぶつけたりすれば、これも大きな問題になりかねません。
そこで「怒り」という感情を押さえつけず、そして外に出しもせず、きちんと観察することで対処しましょう、というのが、ヴィパッサナー瞑想のやり方になるわけです。
もちろん、これは簡単なことではありません。
「怒り」に心が乗っ取られてしまっているときには、それを冷静に観察することなどできるものではありません。
けれども、瞑想の練習にある程度慣れてくれば、怒りが少し収まってきて、自分が怒っていることに気づいた時点で、「あ、今自分の中に『怒り』があるな」と観察し、「息が荒くなってるな」とか「頭に血が上ってるな」などの体の感覚を観察することができるようになります。
そうして「怒り」と、それに伴う体の感覚を観察し、それが次第に弱まっていき、やがては消えてなくなるところまで見届けることができれば、これが一番理想的と言えます。
「この世に起きることはすべて一時的なものであり、生じては消えていくものにすぎない」というのが、仏教において無我と並んで重要な「無常」という考えの意味するところです。
* * *
さて、「怒り」のような強い感情が生じて、しかもそれを相手にぶつけてしまった場合、そのことがどうしても頭から離れない、というようなことが起こります。
今日のぼくの場合は、怒りを相手にぶつけてしまったこと自体は、それはそれで自然な反応であり、それを「悪いこと」と考える必要はないのだ、と頭では納得できていました。
けれども、「怒りを相手にぶつけるのは悪いことだ」という考えが染みついているもので、後味の悪さが残ってしまい、しばらくの間「怒りをぶつけてしまったこと」が、繰り返し頭に浮かんできました。
こうして思考がとらわれた状態になると、「自分は悪くない、相手がこうしたから悪いのだ」といった相手を責めて、自己正当化をすることになりがちです。
そうやって自己正当化をしてしまうと「本当は怒りをぶつけないほうがいい」のに、「怒りをぶつけても構わないのだ」と勘違いすることになります。
ですから自己正当化をしている自分に気づいたら、「あ、また自己正当化をしているな」と確認した上で、「でもやっぱり怒りはぶつけないほうがいいぞ」と正しい方向に考えておくことが大切です。
幸い今日はそうした自己正当化には陥らずに済み、何度も怒った事実が思い起こされることで「『自分は怒りをぶつけてはいけない』と強く思い込んでるんだなぁ」と確認することができました。
こうして自分のクセが確認できれば、時間はかかりますが、段々とそのクセをなくしていくことができます。
このようにして、そのときそのときに自分に起きていることを肯定も否定もせずに観察し、確認していくことが、いわゆるマインドフルネスの練習ということになります。
* * *
「自分は怒りっぽい」とか「自分は意志が弱い」とか、いろいろな思い込みをぼくたちは持っているものです。
けれども、自分というものも変化をし続けるものであり(無常)、「怒り」とか「意志の弱さ」とかいうものは、あるときのあなたの状態としては存在しても、それがあなただというわけではありません(無我)。
そして、無常で無我である様々なものに執着するとそれが苦しみを生むもととなるのだ、というのが仏教の世界観です。
逆に言えば、この世のすべてのものが無常で無我であると理解できれば、すべての苦しみはなくなってしまうのです。
すべての苦しみがなくなるなんて、ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。
けれども、この大それた主張が仏教の第一原理になりますので、それについては次の記事で説明したいと思います。
てなことで、みなさんそれではナマステジーっ♬
☆なお、マインドフルネスの背景にある仏教的世界観について知りたい方には、こちらの本がおすすめです。
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法」(1999 春秋社)
https://amzn.to/2CdFQ2M
「瞑想で一番大切なのは、物質や心理的現象を自分と同一視することをやめることだ」とビルマの僧侶ウ・ジョーティカ師は言っています*1。
別の言葉で言えば、初期仏教における瞑想の大きな目的の一つは、「無我を体験的に理解すること」なのです。
そして「無我」という考え方が腑に落ちれば、人生における厄介ごとは格段に減ります。
「無我」というのは、「普段あなたが自分だと思っているものは、よくよく観察すれば自分だとは言えない。『これが自分だ』と言えるようなものは何もない」ということです。
「自分」とか「自分のもの」とかいう考えに慣れ親しんでいるわたしたちは、「自分は存在しない」などと言われたら、驚き、傷つき、がっかりしたり、否定したりするかもしれません。
けれども、落ち着いて検討してみれば、この考えは決しておかしなものではないことが分かります。
たとえば誰かが、あなたを傷つけるようなことを言ったとします。
あなたは不愉快に思い、何か言い返してやろうかと考えます。
つまりあなたは「怒った」のです。
ですが、これを「無我」の視点から眺めると、別のことが言えます。
イヤなことを言われたあなたの中に「怒り」の感情が起こります。けれどそれを自分と同一視する必要はないのです。
ただ「自分の心に『怒り』が生じたこと」を観察するにとどめ、それに反応して「相手に言い返す」ことはやめておきます。
言い返せば相手はさらにイヤなことを言ってくるかもしれません。
余計なことは言わないのが得策というものです。
こうして「自分が怒った」と捉えることをやめ、「自分の中に怒りが生じた」と考えるようにするのが、「無我」を理解する第一歩です。
この視点に慣れてくれば、自分と感情を同一視しないですむようになり、自分の体を自分だと勘違いすることもなくなっていきます。
いずれは、「自分は歩いている」と考える代わりに、「この体が歩くという動作をしている」というように、完全に自分を取り払った捉え方もできるようになるはずです。
そうなれば、自分を特別視することもほとんどなくなりますから、執着や怒り、好き嫌いなどの感情に左右されることも、格段に減ります。
☆『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義 』(2016 新潮社)
https://amzn.to/3k3Gvox
こちらの本はウ・ジョーティカ師によるヴィパッサナー瞑想のマニュアルです。
中級者以上向けの詳細な記述ですが、意欲的な初心者の方にもおすすめします。
*1:"snow in the summer" p.11, https://holybooks.com/snow-summer-sayadaw-jotika/
今日は、
・精神科の「隔離と薬漬け」の末に亡くなった、38歳男性と両親の無念(佐藤 光展) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
という記事を受けて、日本の精神医療について書きます。
日本の精神医療は必要以上の投薬をしているのではないか、という疑問を述べるたともに、その現状を踏まえた上での精神医療とのつきあい方を考えます。
ストレス過多の現代社会では、不眠やうつなどの症状で医療のお世話になることも多いかと思いますので、「ひょっとして診察してもらったほうがいいのかな」と思っている方や、身近に精神医療を受けている方がいる皆さんのご参考になれば幸いです。
日本の「危険」な精神医療 なぜ日本の精神医療は患者を「薬漬け」にするのか 「薬漬け」にされずに、精神医療を利用するために この記事を書く力を下さったはてな村の皆さまへ 「日本の精神医療」は時代遅れで危険なのか? 日本の「危険」な精神医療 ・精神科の「隔離と薬漬け」の末に亡くなった、38歳男性と両親の無念(佐藤 光展) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
という記事では、38歳の自閉症の男性が、国立病院機構が運営する広島県の精神科病院で4ヵ月半の入院治療を行なったのち、退院直後に突然死したケースが紹介されています。
「治療」という名のもとに、 「監禁」した上で 「薬物漬け」にして健康を害した結果 死亡に至った、 といっても決して言い過ぎではないような「医療事故」が、現在の日本社会で起きているなどということは、すぐには信じがたいことかもしれませんが、これはまったくの事実なのです。
ぼくは精神障害者の方のための作業所やグループホームに勤務した経験があるので、多剤投与が原因の一つになっているだろうと考えられる悪性症候群で亡くなった知り合いもいます。
また命には関わらないまでも、うつの治療で抗うつ薬を服用した結果、躁転して入院せざるを得なくなったと考えられる知人もいます。
こうした問題は、日本の精神科医の多くが、薬物治療について十分な知識を持たないままに、安易に多量・多剤の薬物投与を行なっていることが原因となっている可能性があります。
なぜ日本の精神医療は患者を「薬漬け」にするのか あなたが仕事のストレスから不眠に悩み、毎日の生活がうまく回らなくなって、思い切って心療内科を受診したとしましょう。
ある程度の問診を受けた上で、医者は睡眠導入剤を処方してくれ、二週間なりひと月なり眠剤を飲んだ結果、不眠が改善し、眠剤に頼らずに眠れるようになったならば、あなたの「不眠」という症状は、「心の風邪」という程度のもので済んだことになります。
風邪もこじらせれば肺炎になる、などという言い方をしますが、「不眠をこじらせてうつにならなくてよかった」というところです。
けれどもこれは「幸いなケース」に過ぎません。
不眠に対して眠剤を処方することは、症状を抑えることにしかなりませんから、原因のストレスが改善しなかった場合、眠剤が手放せないことになりますし、あるいは不眠が軽くなったことでさらに仕事が増えるなどして、ストレスが強いものになれば、眠剤を増やさなければならない事態にもなりえます。
*1
風邪ならばとりあえず症状を抑えるだけの対症療法でも、それが自然治癒力を助けて、風邪が治ってしまえば何の問題もありませんが、このように不眠は風邪と同じには考えられない場合も多いのです。
ところが日本の精神医療は、薬物による対症療法以外の診療をほとんどしてくれません。
これには医者の「利益」が保険点数制度によっており、処方箋を書くことが、医者の「仕事」の大きな部分を占めることや、保険料として製薬会社に流れる大きな資金が関係しています。
つまり、お医者の先生は決して患者を「薬漬け」にしようと思っているわけではないでしょうが、
対症療法としての薬物治療と、 それを支える処方箋優先の保険点数制度、 という日本の現状では、結果として「薬漬け」が蔓延しやすいわけです。
「薬漬け」にされずに、精神医療を利用するために 不眠に悩んで心療内科を受診する方の多くは、眠剤によって対症療法を行ない、一時的なストレスさえ乗り切れば問題ないかもしれません。
けれどもうつの症状が強く、休息が必要なケースなのに、抗うつ剤で調子を「上げる」ことで現状を維持しようとすると、薬物性の躁状態になる場合もあるので注意が必要です。
抗うつ剤の使用でテンションが高くなりすぎたり、イライラしやすくなったりしたら、まずは主治医とよく相談するのがいいでしょう。
向精神薬はさまざまな副作用が出る場合がありますので、不快な副作用があれば、これも主治医に相談するのが基本です。
ただし、医者の中には、患者の訴えを十分に聞く余裕のない方もいますので、主治医があなたの訴えを聞く耳をあまりにも持たない場合は、セカンドオピニオンを求めるなり、ネットや書籍で情報を調べるなりした上で、自己判断により減薬するというやり方もあります。
このとき注意が必要なのは、ネット上には向精神薬の投薬自体を否定するような極論も多々見受けられる点です。
理想としては、薬物に頼らずに心理的なサポートのみによって心の病を治療することも可能かもしれませんが、現実にはそのように十分なサポートを受けることは難しいでしょう。
長い間、多剤・多量の投薬を受けていたのに、向精神薬は害しかないと思い込んで、急激に断薬をすれば、離脱症状に苦しむことになりますし、最悪の場合は、命にも関わる事故にもつながりかねません。
ですからもしも自己判断で減薬する場合には、いきなり断薬すしたりせず、徐々に減らしていくことが必要ですし、なるべくなら主治医には減薬していることを正直に報告したほうが安全です。
なお、ぼく自身は医師や薬剤師の資格を持つものではありませんので、ここに書いたことを皆さんが参考にしたとしても、その結果については、残念ながらなんらかの責任を持つことはできません。
しかしながら、現に「無責任」な一部の医者によって「医療事故」が起こり続けていることも事実ですので、ご用心のうえで受診することをおすすめする次第です。
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マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想に興味のあるあなたに朗報です。
瞑想って実はとっても簡単で、しかも効果抜群なんです。
なにしろ、
気が向いたときに「鼻から三回深呼吸する」、 たったこれだけのことを続けていけばいいんですから。
簡単すぎて、信じられませんか?
それではもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
※なお、この記事ではマインドフルネスもヴィパッサナーも含めてすべて瞑想と呼ぶことにします。
なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 判断せずに今を受け入れる。瞑想の長期的な目標は「好き嫌い」をなくすこと。 「好き嫌い」がなくなったら、人生味気なくない? なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 瞑想の効果にはいろいろなものがありますが、たとえば、
頭がスッキリする、 頭の回転がよくなる、 気持ちが落ち着く、 自分に自信が持てるようになる、 といったことが挙げられます。
どうしてこういう効果があるかというと、
頭の中を空っぽにすることで、 悩みごとが少なくなり、 余計なことに頭を使わなくてすむようになるから なんですね。
悩みごと、考えごとが減れば、頭はスッキリし、スッキリした頭は回転もよくなります。
頭がスッキリすれば、気持ちも落ち着くし、気持ちが落ち着けば、自分に自信が持てるようになるわけです。
それで、実際の瞑想のやり方ですが、
鼻から胸いっぱいに、ゆっくりと息を吸う、 同じくゆっくりと長く、全部の息を鼻から吐き出す、 このとき吸っている息と吐いている息に意識を集中する、 これを三回繰り返す、 というだけの簡単なものです。
(できれば吸う息も吐く息も鼻からがいいのですが、やりにくければ、吐く息は口からでもかまいませんし、鼻が詰まってしょうがないときは口からでもいいでしょう)
3番目の吸う息と吐く息に意識を集中する、というところが大切です。
何か考えごとをしながら呼吸をするのではなく、
鼻の穴を入っていく空気は冷たいか、 鼻からのどを通って肺にまで入っていく空気が感じられるか、 肩や胸、お腹はどんなふうに動いているか といった自分の体の感覚や動きをよく意識して観察してみてください。
こうして意識を今自分の体に起こっていることに向けることで、頭を空っぽにして、心と体のバランスを取り直すことが可能になります。
わたしたちは過去を思い悩み、未来を心配することで、知らず知らずのうちに頭を使いすぎてしまい、体も緊張して、リラックスできない状態になっています。
体には本来、自分の元気を回復させるための仕組みがあるのですが、緊張しすぎるとその仕組みがうまく働かなくなってしまいます。
三回深呼吸の瞑想によって頭を空っぽにしてやることで、体が本来持っている元気を回復させるためのプロセスを活性化してやれば、心と体のバランスも自然に回復することになるのです。
気がついたときに三回の深呼吸をするだけでも、それが一週間、二週間、そして、ひと月、ふた月と経っていくうちには、瞑想の効果がはっきりと感じ取れるようになるでしょう。
また、余裕があれば、三回に限らず、時間の許す限り何回でもやってみるとさらに効果が上がります。5分から15分もすると、かなりはっきりと心が落ち着くのが分かってくるはずですし、1回30分から1時間程度を自然にできるようになれば、あなたはすでに瞑想の中級コースに足を踏み入れたことになります。
無理をせず自分のペースで、瞑想を楽しんでみてください。
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グーグルが研修プログラムとして採用したため、現代のアメリカのビジネス界で非常に有用視されるようになったマインドフルネスですが、ネット上であれこれ見ていると、日本でも静かなブームがやってきているのが分かります。
映画監督の想田和広さんは、スリランカのお坊さんスマナサーラさんとこんな本
観察 「生きる」という謎を解く鍵 単行本 – 2018/1/25
アルボムッレ・スマナサーラ (著), 想田和弘 (著)
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を出していますし、このサイトでも何度か紹介したビジネスマン・ブロガーのふろむださんは、こちらの記事でご自身の瞑想方法を紹介しています。
・意外と知られてない、おっさんでも頭のキレと集中力が一日中続くようにする方法 - ふろむだ@分裂勘違い君劇場
この記事では、マインドフルネスについて簡単に紹介したあと、その大本になった初期仏教のヴィパッサナー瞑想についても少し細かい点まで説明しますが、マインドフルネスについてよく知りたいと思っているあなたなら、読んでおいて損はないはずです。
マインドフルネスとは 仏教におけるマインドフルネス 呼吸を使ったマインドフルネスの実際 ゴエンカさん方式とその他のヴィパッサナーとマインドフルネスの関係 マインドフルネスとは マインドフルネスという言葉は、今この瞬間に起こっていることを、知的に判断することなく、客観的に観察することを意味します。
日本では「念」という言葉で知られる仏教の言葉を英語に訳したもので、現代の言葉で言い直せば「気づき」ということになります。
ベトナムのティク・ナット・ハンさんというお坊さんなどのもとで禅の修行をしたジョン・カバット・ジンというアメリカの学者が精神療法に取り入れたことが、アメリカのビジネス界にマインドフルネスが広まるきっかけとなりました。
マインドフルネスの練習では、今起こっていることに意識を向ける練習をします。
人間というものは、昨日のことを思い悩み、明日のことを心配し、あれやこれやと考え続けることで、自分にストレスをかけ、苦しみを作り出すやっかいな動物です。
その苦しみが、
今ここで起こっていることにきちんと注意を向けることができさえすれば、時間はかかってもだんだん解消していく、 というのがマインドフルネスの基本原理なのです。
そうしてさまざまな苦しみに悩まされる時間が減っていけば、勉強もはかどり、仕事もうまく生き、人生も楽しく生きられるようになるというわけなのです。
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仏教におけるマインドフルネス 漢訳の仏典の中に大安般守意経というものがあり、これはアナパナ・サティというインドの経典名を「アナパナ→安般(音を当てた、呼吸の意味)」、「サティ→守意(意味を当てた)」として訳したものです。
このサティという言葉が、「マインドフルネス=念=気づき」のことなのです。
そして「アナパナ=呼吸」こそが、気づきの対象として意識するべき一番大切なものということになります。
呼吸は自律神経によって制御されていますから、みなさんもよくご存知の通り、自分では意識しないでも自動的に行なわれるようになっています。
同時に意識することによって、止めることも出来れば、ゆっくりすることも、速くすることもできます。
呼吸には無意識と意識の両方で制御されうるという性質があるため、呼吸を意識することで、自分の無意識的あり方に気づき、ストレスを減らしていくことが可能になるのです。
普段から呼吸を意識して行なうだけで、「今自分に起こっていることを判断せず客観的に見る」というマインドフルネスの力を養うことができるようになるということです。
呼吸を使ったマインドフルネスの実際 マインドフルネスの練習は慣れてしまえば、いつでもどこでも気がついたときにできるようになるのですが、はじめのうちは朝起きてすぐや、夜寝る前など時間を決めて、五分程度からやってみるといいでしょう。
lifehacker の記事、
・【書評】『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』 | ライフハッカー[日本版]
で、精神科医であり、発達障害でもあるという西脇俊二さんが、ご自分が障害を克服した経験をまじえ、発達障害とどう付き合ったらよいかを述べた本、
『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』
が紹介されています。
今日は、西脇さんの説く発達障害との付き合い方を簡単に説明するとともに、「自分は発達障害かも?」と考えているあなたに、ちょっとしたヒントをお伝えできたらと思います。
精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 「自分は発達障害かも?」と思っているあなたへ - 悩みが深刻ならお医者にかかってみるという手もあります 最後に「発達障害」は病気なのか?と考えてみる 精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 西脇さんは、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続け、「医学以外の分野」でその答えを探し続けましたが、結局その答えが見つかったのは自分の専門分野である「精神医学」の中だった、と言います。
自分が発達障害であり、アスペルガー症候群(AS)とADHD(注意欠如・多動症、注意欠陥・多動性障害とも)の二つの要素を合わせもっているのだと気づいたとき、発達障害に特有の行動パターンを意識的に変えていくことで、対人トラブルを減らすことに成功したというのです。
アスペルガー症候群は生まれつきのものであるとされ、有効な治療法は確立されていないため、現在の治療の基本は、問診が中心で、その人に応じたさまざまな指導が行なわれるといいます。
たとえばアスペルガーの人は、段取りが悪かったり、時間管理が苦手だったりする場合があります。
そういう人は、TO DO リストを作ってスケジュール管理をすることで「苦手」を減らせます。
具体的には、
1. まず一日のタイムスケジュールを書き出して行動の流れを把握する。
2. さらに週間・月間の予定表を作って、今週やること、今月やることを確認しておく。
3. 毎朝、朝の十五分を利用して「今日やること」のリストを作るようにします。仕事なら、ミーティング、レポート提出、会議資料のコピー、商品サンプル確認、メールチェックなど、やることを(五~七点までと数を決めて)書き出します。
4. 今日やることリストに、「A」「B」「C」の優先順位をつけていきます。
「A」絶対に今日やること
「B」なるべく今日やること
「C」明日でも大丈夫なこと
5. 「A」が複数あるときは「A1」「A2」「A3」としてさらに優先順位を決める。
このように毎日するべきことを朝の15分でまとめることで、段取りよく行動できるようになるのだと言います。
また、発達障害であることは、必ずしも悪いことばかりではありません。
アスペルガーの人は、特定の物事への興味やこだわりが強く、集中力も高い場合があります。
こうした特徴を持つ人は、こだわりや集中力を活かして専門性の高い分野の仕事に向いている可能性があります。
発達障害のために起こっている「苦手」に対処する方法を身につけると同時に、自分の「得意」な分野を活かすような職業につくことで、あなたの「生きにくさ」を改善できる可能性が出てくるわけです。
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ヤフーニュースで流れているプレジデント・オンラインの記事、
・通勤電車でバレる「幸福な人、不幸な人」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
に200ほどのブックマークされているのですが、そこについたコメントが記事の内容と「スレ違い」まくっているところが興味深いので、「エビデンス重視」と「ストーリー重視」という価値観の違いに関連して、一言書いてみます。
「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 自己肯定感の大切さについて、一言 「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... 記事で紹介されているのは、心理カウンセラーの大嶋信頼さんが書いた
『「自己肯定感」が低いあなたが、すぐ変わる方法』(2018 PHP研究所)
という本です。
大嶋さんは、
自己肯定感とは「自分で自分のことをOKだ!」と思えることであり、生活のあらゆる場面で意欲や幸福感に影響を与えます。
というのですが、ここでどうしてそのように言えるのかという「エビデンス」については一切触れないという、「文系」の本ではありがちなアプローチをとっています。
そして、「混雑した電車の中で、周りの人を観察する」というシチュエーションで、自己肯定感の低い人の実例がいくつか示されます。
まずは、
「偉そうな態度を取っている人」 です。
「偉そうに見える」から「自己肯定感が高いかも」と思ってしまいがちですが、自己肯定感が高い人は「俺はすごいんだぞ」という態度をする必要はないので、こういう人は「自己肯定感が低いのだ」と主張します。
ここでもエビデンスはゼロです。
以下、
「混雑している電車の中でもゲームに没頭できる人」は、「ゲームに没頭していなかったら、将来の不安とか人間関係の問題が次から次へと浮かんでくるから、何も見ないようにしている」のであり、やはり自己肯定感が低い、 「同僚のフォローができる人」は、「同僚のフォローの形を取って、自分のアピールをしてるだけ」だから、これも自己肯定感が低い、 という具合に、「主観」だけで、話を進めていきます。
自己肯定感が高い人についても同様で、
「自然体」でいられる人からは「不快感」を覚えないのですぐに興味を失ってしまうのだけれど、そういう人は「威嚇もしないし、ビクビク感もなく、過剰に何かに集中している必要もない」から、自己肯定感が高いのだと、「散文的」に結論づけて、この記事は終わってしまいます。 これでは「エビデンス重視」の人が
「この記事なんなの?」 と思ってしまうのも当然ですよね。
プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 上に見た通り、プレジデント・オンラインの紹介記事は、エビデンスの点からは内容ゼロですし、ストーリーの点から見ても、続きを読みたくなるようなものではありません。
(内容としては特別間違ってるとは思いませんけど)
この紹介記事を書いたライターさんは、たぶんまだ修行中の方なのでしょう、がんばってください、としか言いようがありません。
(と、初め思ったのですが、ライターさんは指定の場所をただリライトしただけなのかもしれません。その場合、エディターさんのセンスの問題ですね。沈みゆく出版業界で、目の回る日々を送ってらっしゃるのだろうとは思いますが、エディターさんもがんばってんださいねー。)
でも、問題はそこじゃないんです。
その記事にわざわざ否定的なコメントをつけていらっしゃるあなたの「自己肯定感の低さ」が気になってしまうじゃないですか。
(余計なお世話の話しであり、ぼく自身の自己肯定感の低さがなせるわざでしょうけれども :-)
大嶋さんにならって言わせてもらえば、
「ネット上で目についたダメな記事にわざわざ文句をつけるような人」 は、みずから「自己肯定感」の低さを宣伝しているようなものです。
あなたのような人こそ、大嶋さんの本を読んで「自己肯定感」を高めてほしい......
......と言いたくなるところなのですが、そういう「エビデンス重視」のあなたには、大嶋さんの本は向きそうにありません。
あなたにおすすめの本は、「分裂勘違い君劇場」でお馴染み、ふろむださんの
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
です。
この本を読めば、自己肯定感なんて高めないでも、実力以上のあなたを演出できますし、なによりきちんとエビデンスつきですから、100%納得できること請け合いです。
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人生には苦しい場面というものもつきもので、そういうときは少し頑張って「なんとかしなくちゃ」という気持ちが大切になりもします。
でも、もしあなたが毎日のように
「なんとかしなくちゃ」 と思っているとしたら、それって結構しんどいですよね。
それほどのことはないあなたの場合でも、何か「事件」が起きたときに、
「どうしよう、なんとかしなくちゃ」 と思って、あせってしまい、かえって問題をこじらせた、なんて経験はないでしょうか?
というわけでこの記事では、「なんとかしなくちゃ」と思ったときの究極の対処法をお伝えします。
「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、まずするべき唯一のこととは? どうして「なんとかしなくてもいい」と考えるのか 「なんとかしなくてもいい」って言われても...... 「なんとかしなくちゃ」と思ったときには、ついでに体のリラックスも心がける 「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、まずするべき唯一のこととは? 何か困ったことが起きて、「なんとかしなくちゃ」と思ったとき、
「なんとかしなくてもいいんだ」 ということを、必ず思い出すようにしてみてください。
これを実践するだけで、あなたの人生はぐっと楽になります。
「そんなアホな!」と思うかもしれませんが、ぼく自身の経験からいって、これはまぎれもない事実です。
どうして、そんなことが言えるのか、もう少しくわしく見てみましょう。
どうして「なんとかしなくてもいい」と考えるのか これは簡単な話で、「なんとかしなくちゃ」と思えば思うほど、人間はあせって失敗しやすくなるからです。
「なんとかしなくちゃ」と思っているあなたは、あせって失敗しやすい状態にあるのですから、「なんとかしなくてもいいんだ」と思い直すことで、あせりを静め、落ち着きを取り戻すことが、まず最初にやるべきことなのです。
そうは言っても「なんとかしなくてもいい」なんて無責任な考え方で大丈夫なのか、と思われるかもしれませんが、こう考えることは決して責任を放棄することではありません。
あせった状態で何かをして、問題をこじらせてしまったら、かえって周りに迷惑をかけることになります。
じりじりするほど何かやって挽回したい場面だったとしても、
余計なことをして問題をこじらせるくらいよりは、何もしないほうがいい という場合もあります。
ですから、「なにかしなくてもいいんだ」と考えてしっかり気持ちを落ち着けてから、何をするべきか、あるいは何もしないほうがいいのか、を冷静に考えることが大事になるのです。
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「なんとかしなくてもいい」って言われても...... 「なんとかしなくちゃ」と思うような問題が起こっているのに、
「なんとかしなくてもいい」 と言われても、そんな風には思えない、とあなたは考えるでしょうか?
確かに、そう言われたからといって、すぐにそう思うのは難しいでしょう。
人間というのは習慣の生き物ですから、感じること、考えること、そして行動すること、どれもがほとんど今までの人生の経験によって決まっています。
ついつい「なんとかしなくちゃ」と思ってしまうあなたが、「なんとかしなくていい」と言われても、すぐにそうは思えないのは当たり前のことです。
だからこそ、
「なんとかしなくちゃ」と思ったら、「なんとかしなくてもいい」と思い直す 練習が必要になります。
練習といっても、「あ、また『なんとかしなくちゃ』と思ってるな」と気がついたときに「なんとかしなくてもいいんだ」と思い直すだけのことですから、特別な準備は必要ありません。
けれども、こういうことはすぐ忘れてしまいがちなことですので、もしあなたが
「このアイディアはいけそうだ」 と思ったら、今すぐ目につくところに