きみは幸せなの?それとも不幸せ?
まあそれは、どっちでもいいんだけど。
問題はきみが今より幸せになりたいかどうかってことでね。
もしきみが今より幸せになりたいってんなら、ちょっとぼくの話を聞いてみてよ。
1. 自分も世界も、今のままで完璧である。 2. 自分も世界も、今よりさらに完璧になっていく。 3. 自分と世界の完璧さは、ここから周りに広がっていく。 1. 自分も世界も、今のままで完璧である。 きみは自分に自信があるかな?そしてこの世界を信頼してるかな?
これもほんとは、どっちでもいいんだけどね。
今きみが自分に自信があってもなくても、世界のことを信頼していてもいなくても、きみが今よりも幸せになりたいと思うんのなら、まずは自分も世界も「今のままで完璧」なんだってことを知らなくちゃいけない。
きみは人生うまくいかなくてため息ばかりついているのかもしれない。そしたら、あっちにもこっちにも地獄のような落とし穴が散りばめられた世界が完璧だなんて、そんな話はありえないって思うかもしれない。
きみがそう思うのはまったく自由なことだけど、本当の幸せを手にしたいってんなら、そんなクソったれな思い込みは今すぐトイレにでも流しちまうんだ。
もちろん、この世界の完璧さが分かるようになるのには時間がかかる。
この世界が今のままで完璧だなんて、そんな途方もない考え方がすんなり受け入れらたら、その方がよっぽどおかしいってもんだ。
けどよ、そのおかしさが、ちょいとばかり今は必要なのさ。
疑い半分でもいい。騙されたつもりでもいい。
自分も世界もひょっとしたら完璧かもしれない、そういう可能性もゼロじゃないなって、まずはそのくらい思えたら上出来ってわけでね。
2. 自分も世界も、今よりさらに完璧になっていく。 それでだ、仮に今の自分も世界も完璧だっていうんなら、今以上に何かをする必要もないし、極端な話をすれば生きてる必要だってなくなっちまう。
そういう話だったら、ちょっとつまらないわな。
そこで次のステップに進もう。
自分も世界も今のままで完璧なんだが、実のところこいつらは、さらにその完璧さを深めていくことができるんだ。
きみが経験を積むごとに、そしてその経験を周りに伝えていくごとに、自分と世界の完璧さは深まっていく。
もちろん後戻りもあるさ。
世界の深化は直線的なものじゃない。藪の中をめぐって、山道を登り下りして、行ったり来たりを繰り返しながら、螺旋を描いて深化は進むんだ。
初めのうちは深化が進んでるなんて実感できないだろう。ただ堂々めぐりをしてるようにしか思えないに違いない。
でも万が一堂々めぐりだったとしても大丈夫。だって初めっからこの世界もきみも完璧なんだから。
完璧なものをわざわざ変える必要なんてないんだ。変えようとするまでもなく変わっていくんだ。その変化を楽しめばいいだけのことなんだ。
変化が苦しいときもあるだろう。だけど苦しさだって、前向きに受け止めることができれば、喜びを生むための肥やしになることに、きみはじき気づくだろう。
変化を怖れちゃいけない。変化することも完璧さの一部なんだ。世界と自分を信じて、思い切って変化に身を任すのさ。
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3. 自分と世界の完璧さは、ここから周りに広がっていく。 きみは自分がいつも宇宙の中心にいることに気づいてるかな?
そんな突拍子もないことを言われても、どう答えていいか分からないかね?
まあ、少しばかり常識の枠をぶっ壊して、右斜め後ろの上空あたりから世界を見直してやることにしようじゃないか。
まずはこの世界の秘密を教えよう。それはきみが意識そのものだってことなんだ。
意識の存在は科学では解くことのできない永遠の謎だ。
そしてその意識は、いつだって宇宙の中心にあるんだ。
つまりきみにとってはきみの意識が宇宙の中心になり、ぼくにとってはぼくの意識が宇宙の中心になるのさ。
昨日は北インドの山の州ヒマチャル・プラデシュのナハンという小さな街から、おんぼろバスに揺られて、ガンジス川の聖地ハリドワルへ移動しました。
インドの人ばかりが乗っている長距離バスでしたが、たまたま始発のマナリから乗ってきた日本の女の子が一人いて、久しぶりに日本語をたくさん話しました。
そのときのぼくは、ナハン近郊の小さなお寺で肝っ玉ばあちゃん的女行者と、どうにも濃厚な数日を過ごしたあとだったので、いつになく饒舌でした。
体の中に溜まっていた強烈なあくを、しっかりと吐き出してしまう必要があったようです。
その女の子は、インドは三回目ということで、新しい土地に行って新しい体験をすることが楽しくてしょうがない様子でしたが、日本の控えめすぎる言葉や感情のやりとりとは違う、インドの人たちの極めてあからさまなコミュニケーション・スタイルに、戸惑うと同時に大きな魅力を感じていることを話してくれました。
インドの人たちは本当に素直に感情を表現していて、喧嘩をするかと思うと仲直りをして、実にハッピーな時間を過ごしているのがうらやましいというわけです。
それでぼくは思ったのですが、結局のところ人生というものは、いかにハッピーにすごせるか、ということにすべてがかかっているのだし、あらゆる人は、人生を幸せなものにするために、最大限に自分の持つ力を使っているに違いないのです。
これを読んでくださっているみなさんの中には、毎日の生活がなかなか思うように回らず、なんでこんな人生を送らなきゃならないんだと思いながら、お金を稼ぐタメに必要な仕事を渋々とやっているような方もいらっしゃるかもしれません。
あなたがもしそんなふうに「人生をいやいやながら生きている」方であったとしても、それは生き延びるために自分にできる限りの努力をしてきた結果のはずです。
生き延びて幸せな時間をすごすために、誰もが一所懸命に努力をしているはずなのです。
そして、残念ながらその結果に今は満足できていないかもしれませんが、それがいつか幸せな瞬間につながることを信じられるからこそ、人間は生きていられるのだと思うのです。
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バスで乗り合わせた女の子にぼくが話したのは、人生というのは、どうやってハッピーな時間をできるだけ多く過ごすか、そしてそのハッピーな感覚を大きなものにできるか、にかかっている、ということでした。
そしてそれは、無理なく自然にできなければなりません。
素直な自分のままでいて、無理をしないで、自然に行動して、ありのままの気持ちを表わすことができて、それがハッピーな時間につながっていくことこそが、本当に幸せな生き方だと思います。
その女の子は、インドの人のようには生きられない自分をなんとか変えられないかと思って真剣な眼差しでした。
インドの人と比べて、自分はハッピーに生きていない、もっとハッピーに生きたいと、真剣にそう思っているのが感じられました。
それでぼくは言ったのです、あなたは十分にハッピーですよ、働くことばかりで精一杯の周りの日本の人たちを見て、どうしてこの人たちはこうなんだろうと思うから、今こうしてインドという日本とは非常に違う国に来て、まったく別の世界を見て、人生を楽しんでるんじゃないですか、あなたは10人中1人のハッピーな人ですよと。
すると、それまでの生真面目な表情が一瞬でほころんで、
「あたしハッピーですか!本当ですか!!」
というので、10人に1人か、100人に1人かはともかくとして、ハッピーなのは間違いありませんよ、とぼくは答えたのです。
インドで伸び伸びハッピーに過ごしている子どもたちを見ると、ああ、幸せってこういうことなんだな、と思います。そして、あまり幸せそうには見えない日本の子どもたちを思い出したりもします。
けれども、日本には日本の幸せと不幸があり、インドだってそれは同じことです。インドには日本にはない厳しい現実があり、例えば足のない物乞いの姿などインドではまったく当たり前の現実です。
そうした厳しい現実の前では、ぼくたちのくに日本のとてつもない物質的な豊かさと、そこで暮らすぼくたちの生活の圧倒的な「生ぬるさ」は、実に驚くべきものに感じられるのです。
でも「生ぬるい」などといういじけた言葉を使うのはやめにして、むしろ日本の暮らしの豊かさに目を開くことにしましょう。
景気は悪く、仕事はきつく、人生が灰色にしか見えないとしても、日本に生まれたというだけで、ぼくたちは「大きな幸せ」を手にしているのです。
その幸せをどう生かすかは、あなた次第です。
周りの人たちの鬱屈した思いに流されて、なんだかぱっとしない人生を送るのか、それともきちんと自分の世界を自分の中に作って、人生を楽しみながら生きるのか、それは結局あなたの気持ち次第なのです。
あなたが自分の人生をしっかりと歩み、あなたの毎日が輝きに満ちたものになることをお祈りして、この小文を終えることにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
[初出: https://note.com/tosibuu/n/ne7095846c2f5 ]
動物と一緒に生活してますか?
それとも植物を育てていますか?
今日は子どもの頃の生き物とのつき合いを、思い出して書いてみます。
1970年代の東京・世田谷の、小学生時代の話です。 お祭りの縁日で金魚すくいをして、黒い金魚をうちに持って帰ったことがあります。
うちの玄関の脇に水槽がおいてあって、その中で他の何匹かの赤い金魚と一緒に黒い金魚も飼っていたのですが、ぼくは持って帰っただけでロクに世話はしませんでした。
母が餌をやってくれていたはずです。
特に気をつけて見ていたわけでもないのですが、それでもその黒い金魚は自分のものだと思っていました。
そのうち、ほかの赤い金魚は死んでしまったのに、黒金魚だけは生き延びていたこともあり、うっすらと愛着のようなものがあったのだと思います。
次の年か、二三年後か、お祭りで弟が金魚をすくってきました。
そしてその金魚を同じ水槽に入れたところ、黒い金魚も含めて全滅してしまいました。
自分で世話をしていたわけでもないのに、自分の大切なものが失われてしまったような気がして、子どもっぽい不満を感じたのをよく覚えています。
* * *
インコを飼っていたのは、たぶん弟がほしがって、それにつられてぼくも買ってもらったのでしょう。
緑っぽいインコと水色の入ったインコがいましたが、どっちがぼくのでどっちが弟のだったか思い出せません。
金魚と違ってインコは手に乗せたり手で抱えたりできるので、動物との触れ合いという意味では、一段深いものを感じます。
手の中のインコに、命のもろさを感じたことを思い出します。
インコの場合は、餌やりだけでなく、糞の始末などもそれなりにやる必要がありますが、これもぼくや弟はやらず、母任せでした。
二匹のインコがどうなったのか、はっきりと覚えていませんが、逃げてしまったのがいたような気がするし、死んでしまって庭に埋めたのもいたような気がします。
なんとなく一緒の時間を過ごしただけで、可愛がるというような思いは持てない子どもだったのです。
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* * *
鉢植えでひいらぎを育てていたことがあります。
育ったうちは小さいながら和風の庭があったので、そこに実生で生えていたものを、自分で気に入ってか、母の真似をしてか、鉢植えにしてみたのでしょう。
育てていたなどというと、きちんと気にかけて、水やりや植え替えなどやっていたみたいですが、たぶん夏休みにでもひと月ほどは水やりをして、そのあとは放ったらかしで枯らしてしまったのではないかと思います。
十センチかそこらの小さな実生のひいらぎに、濃い緑の独特の反り返りかたをしたとげのある葉が生えている様子がとても印象に残っています。
* * *
こんなわけですので、生き物の世話をすることで何かを学んだというわけではありませんし、生き物とのつき合いを通して情緒が育てられたというほどのこともないのですが、ここに書いたような小さな経験が、大人になってから自然環境に興味を持って、雑草の名前や、食べられる山野草を覚えてみたりすることにつながっていったような気がします。
みなさんの生き物とのつき合いはどんなものでしょうか。
こうして子どもの頃のことを思い出してみるというのも、たまには楽しいものですね。
てなわけで今回はこの辺で。
それではみなさんナマステジーっ♬
女性は演技がうまいといいます。
これは恋愛の駆け引きにおいて、えてして男はナイーブかつ直情的であり、女性の計算高さには敵わないことを言うのでしょう。
男は男で会社の上司に心にもないお世辞を言いもするわけで、この手の演技がうまい人ももちろんいます。
このように、女でも男でも意図的に、あるいは反射的に上手に演技をする人もいるわけですが、自分は演技なんてしないからな、と思うあなたの場合はどうでしょうか。
社会の中で生きるとき、本音ばかりは言っていられないのですから、多かれ少なかれ立て前を使い分けもするでしょう。
意識もせずに自然に立て前を話しているとき、あなたは上手に演技をしていることになります。
必要に応じて立て前を使うことは、決して悪いとは言えませんが、そちらばかりが目立つようになってしまったら本末転倒というもの。
人生の全体が演技の塊にならないように、自分の気持ちを大切にして、日々を生きたいものではありませんか。
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社会学者の宮台真司氏が、「言葉の自動機械」になってしまった現代人について警鐘を鳴らしています。
あまりにも周囲の目を気にしすぎるわたしたち日本人は、現状を客観的に観察し、「承認欲求を超える」自由な生き方を手にすることができるのでしょうか。
あなたも「言葉の自動機械」? 自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 「承認欲求を超える」自由な生き方って何? あなたも「言葉の自動機械」? 「言葉の自動機械」とは耳慣れない言葉ですが、これは社会学者の宮台真司氏の使う言葉で、現代の人間が無意識的に刷り込まれた言葉の構造にしたがって自動的に行動するあり方を批判的に表したものです。
自分が自動機械だと言われたら、あなたはどう感じるでしょうか。
「自分は自由な存在で、行動だって自由に決めている。機械呼ばわりされるおぼえはない」そんなふうに思いますか?
もしあなたが自信を持ってそう言えるのならば、この記事でこれから書くことは、あなた以外の多数派の人の話ということになります。
でも多くのみなさんは、あなたが多数派に属するか、少数派に属するかに関わらず、自分が周りの意見に大きく影響されていること自体は否定ができないはずです。
たとえばネットで流れるニュースを見たとき、あなたの心の中で起きる反応は反射的なものであり、自動的なものです。
そこで感じたことにもとづいて「スキ」をしたり、シェアしたりするとき、あなたは自動的に反応しているのではなく、それをするべきかしないほうがよいか、一つ一つ判断しながら行動しているでしょうか。
誰もが自由意志にもとづいて行動しているのは間違いがないとしても、このように自分の行動を確かめていくことによって、人間の習慣的な行動の多くが自動機械化していることも、また確かな事実であることが分かってくるはずです。
行動を自動的に行なえるようになることには、大きなメリットもあります。
たとえば車の運転は、多くの人にとったかなり難しいことであり、習い始めにはたくさんのことを意識しなければできません。
ところが練習と経験を重ねることによって、初めは意識しなければできなかったことが、無意識にできるように自動化されて、いとも簡単に運転ができるようになるわけです。
問題は自動機械化した行動が、時代の変化によって役に立たなくなったときです。
日本人は自分が属する集団を優先することで、敗戦から素早く立ち直り、経済的な発展をとげることができましたが、この集団優先という自動機械が今や機能不全を起こしています。
機能不全を起こした自動機械化を正すには、一体どうしたらいいのでしょうか。
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自動機械化から逃れるためには「観察」することが必要 宮台氏は、無意識的に行なわれる自動機械的な行動は、意識的に観察することによって是正することができるのだと言っています。
つまり自動的に行なわれる行動を変えるためには、まず自分が無意識のうちに何をやっているかに気づかなければなりません。
自分の行動を観察することがすべての出発点となります。
宮台氏はラカンの思想などを援用して、自己観察による意識の高次化を言うのですが、ここでは瞑想による自己観察をおすすめしたいと思います。
映画監督の想田和弘氏はスリランカの僧侶スマナサーラ氏の『怒らないこと』という著作を「わが人生最高の10冊」の一冊めに挙げています。*1
自動反応的な感情で誰もが悩まされるものとして、怒りは一番大きなものでしょう。
この感情の自動機械から逃れるには、抑えようとしてもうまくいきません。とにかく観察することが必要なのです。自分が起こっているときに、呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察し、心の中で湧き上がる思考や感情を観察できるようになったら、あなたはあと一歩で怒りのコントロールに成功するところまで来ているのです。
普段から呼吸に意識を向ける練習を少しずつ重ねていけば、自分を客観的に観察することができるようになり、自動機械的な行動に悩まされることもだんだんと減っていくことになります。
☆呼吸から始める瞑想法についてはこちらの記事もどうぞ。
たった三回の深呼吸で、マインドフルで充実した日々があなたのものに! - *魂の次元*
「承認欲求を超える」自由な生き方って何? 宮台氏は、物質的な豊かさが飽和し、経済成長が望めない現代の日本においては、sns上でのコミュニケーションに典型的に見られる「承認欲求満たし」という行動様式が問題となっていることを指摘します。
社会的な閉塞感が大きなストレスとしてのしかかる中、ネット上では「承認欲求」をベースにした「相互承認ゲーム」や「相互否定ゲーム」が無間地獄のように繰り返されています。
この状況から抜け出すために「俺ってやっぱダメだな」と自分を笑い飛ばすことを彼はすすめます。
才能や成果を喧伝する社会の中で、あえて自分の「ダメさ」を認めることは、勇気のいることですが、そこで一歩踏み出すことが、社会の圧力が押しつけてくる息苦しさから逃れることにつながるわけです。
宮台氏は「世の中は無意味だ、でもそこそこ楽しい」という考え方ができれば生きていくことができるのだと言います。
*2
これにならって言えば、
「ダメだってかまわない、そこそこ楽しく生きられれば」
ということができるでしょう。
ぼくたちは周りの評価を気にしすぎるあまりに「承認欲求満たし」のゲームにはまり込み、ありもしないゴールを目指して、目の前にぶら下げられた透明のニンジンを追いかけて走り続けます。
けれどもそれが社会から気がつかないうちに刷り込まれて作り上げてしまった「無意識の自動機械」のなせる技なのだと知ることさえできれば、あなたはその「泥沼のゲーム」の土俵から降りることもできるようになるのです。
「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」*1
とある落語家の方がテレビで発した言葉です。
「ひとりでしね」なんて言ってほしくなかった。
「ひとりでしね」と言わないで! 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ 「ひとりでしね」と言わないで! こういう言葉を、発言力のある方がメディアで発することは、絶対にやめてほしい。
また、ネット上での個人的な発言であっても、感情のままに発信する前に、少し立ち止まってほしい。
心からそう願います。
弱い立場にある人が追い詰められて、自暴自棄になったりしてほしくないのです。
川崎市登戸で起きた連続殺傷事件の犯人に向けて、こういう発言をしたくなる気持ちは分かります。
襲われた子どもたちやその親の気持ちを考えれば、犯人にこう言いたくなるのは当然でしょう。
けれども、こういう大事件を引き起こす少数の例外的な人の陰には、決して少なくない数の引きこもりの人たちがいて、「ひとりでしね」という言葉は、そういう人たちの心に突き刺さります。
また日本は自殺が多い社会でもあります。「ひとりでしね」という言葉は、一人で悩んでいる人に対して、周りに迷惑をかけるくらいなら自殺しろというメッセージにもなってしまうでしょう。
そして病的な心理状態にある人に対しては、こういた言葉が更なる凶行を煽る可能性があることもきちんと考える必要があるでしょう。*2
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「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ メディアやネットには、社会的弱者を安易に批判する言葉が溢れかえっています。
本当はそうした「弱いものいじめ」の言葉は誰のためにもならないから、そんな言葉はなくなったほうがいい。
けれども現実はむしろ逆で、多分これからも「弱いものいじめ」はむしろ増えていくでしょう。
だから「弱いものいじめ」なんて気にするのはやまてしまえばいいのです。
「ひとりでしね」なんて言葉は聞き流してしまえばいいのです。
人間には生きている限り可能性があるのだし、生きているだけで大いに意味があるのです。
ひょっとしてあなたは、自分なんか生きていることに何の意味があるんだろうと思っているかもしれません。
でも生きてる意味なんて、誰にもありはしないのです。
お金があろうと地位があろうと、恋人がいようと家族があろうと、そんなものはみんな社会的な形式にすぎません。どんなに社会的にうまくやっていても、それだけでは決して生きている意味にはならないのです。
ほかの人の基準で自分の人生を測るのはやめにしなければ、そして自分が現に生きているそのあり方を認めることができなければ、自分の人生の可能性を本当に信じることはできません。
生きるということは、しんどいことです。しんどいことをみんななくして、楽に生きたいと思ってもそうはできません。
しんどいことに向き合うことも必要です。
だからといって、嫌なことを我慢すればいいというものでもありません。
あまりにも嫌なことがあれば、そこからは距離を取ればいいのです。どうしようもなければ、逃げ出せばいいのです。
人の言うことに振り回されすぎず、自分なりのバランスをつかむ必要があります。
それが人生に意味を感じることにつながるのです。
社会がどんなに息苦しくても、自分なりの生きる意味を見つけることができれば、あなたの人生は輝きを失うことはないでしょう。
もし苦しくて、一人で答えが出せないでいるのなら、メッセージをください。
答えは出せなくても、一緒に考えたいと思いますので。
☆次のリンクからマシュマロの機能を使って、誰でも匿名でメッセージを送ることができます。極端にネガティブな言葉を含むメッセージは届きませんのでご注意ください。
https://marshmallow-qa.com/tosibee
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酒をやめている友だちがいます。
ところが、朝から一缶飲んでしまって、堕落した一日を送ってしまったと書いていました。
それを見てぼくは、人生いろいろあるから、無理せずゆっくり生きていきましょうよ、と書きました。
彼はぼくのことを師匠と呼んで慕ってくれているので、じぶんが酒を飲んだことを書いたら、ぼくから叱られるに違いないと考えていたそうです。
だからぼくが書いた言葉を、観音さまのように優しい言葉でありがたい、と言ってくれました。
でも、ぼくが本当に優しい人間かというと、これは怪しい話です。
実際には大して優しくもないのに、優しいふりをすることだけがうまかったりもするからです。
とはいえ、ふりをして、形から入って、行動や考え方を変えていくのも悪くない方法です。
それで最近のぼくは、人にも自分にも優しくするよう心がけているのです。
* * *
酒をやめたいという人がいるとき、酒の害を説いて、やめなさいというのは簡単なことです。
でも酒に害があることは、やめたいと思ってる本人が、一番よく分かってるんですよね。だからそうやって道理を説いても、あまり意味はありません。
分かっていてもやめられないから、依存症というのは難しいのです。
ですから、そこでやめられない人に対して、あいつは依存症だからダメなやつだ、などと言ったりしたら、これは最悪です。
依存症をこじらせる手伝いをすることにもなりかねません。
自分はダメなやつだと思うと、その気持ちをごまかすために、さらに飲むことにもつながるからです。
依存症には、人間関係の困難を、物質や行動で置き換えるという側面があります。周りの人との関係がうまくいかないために、社会の中で生きる意味を見失うことが、依存症の大きな原因の一つになるのです。
だから、知り合いに依存症で困っている人がいたら、できる範囲でその人に優しく接してあげてください。優しくできないのなら、距離を取るのが次善の手になります。
* * *
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ここで一つ難しいのは、優しくするのは、甘やかすのとは違うということです。
酒をやめたいのにやめられないでいる人がいるとき、好きなだけ飲みなさいといって甘やかしては、その人のためにならないのは当たり前のことです。
では、実際にどのような対応を取ればいいかというと、これは場合によって違ってきますので、具体的なやり方を書くのは難しいところです。
原則としては、やめたいと思っているのにやめられないでいるとき、酒を飲んでしまったこと自体は否定はせずに、その人のやめたいという意志を確認し、その気持ちを励ましてあげることです。
あなたがその人のことをきちんと心配して、その人のやめたい気持ちと、やめられない苦しさに寄り添うことができれば、あなたはその人の力になることができるでしょう。
ただし、これはあなたの人格がしっかりとしたものであるときの話です。もしもあなたの人格が十分にしっかりしていない場合には、共依存の関係に落ち入って、かえって二人の間に困難な関係を作ることにもなりかねないので、注意が必要です。
相手に優しくすることが目的になってしまわないように、まずは自分に優しくすることで、バランスよく自分の人生を生き、周りの人にも優しくできるようになりたいものです。
* * *
さて、実をいうと、ぼく自身が依存症圏の人間であり、最初に書いた友だちとは、一緒に酒をやめましょうと言いながら、実際にはやめることができないでいるのが、現状なのです。
自分自身が酒をやめられず、その自分の弱さにも優しく振る舞うことで、自分の体を使って人体実験をしているといってもいいかもしれません。
ここに書いたことは、見聞きしたことも含めて、自分の経験をもとにしていますので、決してただの空想ではありませんが、人間の心というものは一人一人異なるものですから、現実の誰かに対応するときには、ヒント程度にとどめて、慎重になさっていただければと思います。
ぼくの場合には、子どもの頃から、自分の欲求を抑えつけてきてしまった傾向が強いので、問題にならない程度に欲求を解放していくことで、心のもつれを解いていこうと試行錯誤している状態です。
瞑想の力も借りて、心の奥深くのもつれを解いていく作業は、難しく、痛みも伴うものですが、行きつ戻りつしながらも、少しずつ前に進んでいる実感はあるので、今回はこんな文章を書いてみました。
この小文が少しでもどなたかのお役に立てたら、望外の喜びです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
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先日書いた記事 にfuyu (id:yagawafuyu)さんが「としべえはインドに滞在中で、四ヶ国語が操れて、文章を生業にしている」という由のコメントをつけてくださいました。
ですが、これは実際のぼくとはちょっと違っているので、今日はそれをネタに自己紹介の記事を書きます。
確かにインドにいます。 四ヶ国語は操れないかな。 文章を生業にしてるの? 確かにインドにいます。 インドに滞在中なのは間違いありません。パスポートをばらばらとめくってみると、2016年9月 - 2017年2月(約6ヶ月)、2017年5月 - 2017年10月(約6ヶ月)、 2017年11月 - 2018年3月(約4ヶ月) と二年のうち16ヶ月近く滞在した上で、昨年10月から来月(3月)までの5ヶ月の滞在をしているところです。
インドはビザを取れば最長6ヶ月いられる上、日本でなくネパールなど近隣の国でもビザが取得できるので、所用で2015年の春から半年マレーシアに滞在したのを皮切りに、たまにしか日本には帰らないままでの海外暮らしが、そろそろ丸4年を経過しようとしています。
さらに言えば、その前も2011年9月から2013年8月までも丸二年日本を離れてましたし、遡れば2004年の夏から一年間もアジアをあちこちふらふらしていたという塩梅で、定住と言えるような海外経験はほとんどないのですが、長期滞在・沈没型のバックパッカー風ヒッピーもどきな人生を、奥さんと二人で送っているというわけなのです。
四ヶ国語は操れないかな。 冬さんが四ヶ国語と数えてくれたのは、日本語、英語、タイ語、ヒンズー語の四つのことかなと思うのですが、北インドの共通語であるヒンズー語はまだまだ片言程度で、喋れるとまでは言えません。でも、百までの数字が不規則に変化して、覚えるのがとっても難しい数字だけは練習して言えるようにしたので、買い物はヒンズー語でできるのが自慢です。
大体ぼくは、喋るのがそもそも苦手なんです。だからタイ語も、辞書を引けば文の意味は分かるくらいに文字も文法も覚えたのですが、喋る方はてんでダメ。ただし耳から聴いて口で話して練習しましたから、声調は結構まともにできるのでタイの人もほめてくれます。
タイ語は中国語と同じで声調言語なので、イントネーションが違うと意味が違って全然つうじないんですよ。
最後に英語ですが、最近ようやく「話すの苦手」の意識が取れてきて、先日知り合った英国紳士ジョンさんとは、割と楽しく英語で話すことができました。「きみの英語はイギリスっぽいけど、イギリスは行ったことあるの?」と聞かれたので、
「いや、ないけど、ブリティッシュ・ロックが好きでね」と言うと、
「なるほど、ぼくはローリング・ストーンズが好きでね」という感じに話が弾みました。
いやあ、英語ってホントに楽しいもんですね。
文章を生業にしてるの? 残念ながら現状では生業にしているとは到底言えません。
このはてなのページとhttp://note.mu/tosibuu を使って、なんとかサラリーマンの小遣い稼ぎのレベルまで持っていけないかと挑戦中ですが、現状は月数千円がせいぜいで、小学生のお小遣いにもならないくらいの悲しい状況です。
でも、note.muは途切れ途切れの投稿ながら四年になるし、はてなでのアドセンスも二年ちょっと続けていて、少しずつ形にはなってきているので、もう少しがんばっちゃおうかなー、と思っているところです。
あと、フロリンダ・ドナーというアメリカで文化人類学をやってた女性のアマゾン生活体験記「シャボノ」という本を翻訳していて、これをどこか出版社が拾ってくれないかなと、こちらにも望みをつないでいます(もうじき完成の予定)。
下記のページから前半部の未完成原稿が読めますので、気が向いたら読んでやってください。感想などいただけると望外の喜びです。
魂の次元: 本の紹介: フロリンダ・ドナー「シャボノ」、アマゾンの奥地のヤノマミ族の暮らし
というわけで、簡単な自己紹介のような、近況紹介のようなお話でした。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
あなたはなぜ「人生詰んだ」と思っているのでしょうか?
どうして「もう自分の人生は終わりだ」と感じるのですか。
あなたが莫大な借金を抱えていたとしても、健康を失い寝たきりになってしまったのだとしても、あるいは人間関係に悩み、社会に絶望しているのだとしても、実はそれは「人生の終わり」ではなくて、
「再出発のチャンス」なのだ と聞いたら、「何をアホなことを言ってるんだ」と思うでしょうか。
人生に絶望してますか? 刑務所行きになったからって人生が終わるわけじゃない 医者に「あとひと月の命です」と言われたら? 具体的な方法・その1、日本を離れる。 具体的な方法・その2、生活保護を受ける。 「何を言われても、そんなの聞いてる余裕なんかないんだよ!」というあなたに。 最後にぼくのこと。五十も過ぎてふらふらしてても、なんとかなる。 人生に絶望してますか? あなたが「人生に深く絶望している」、その気持ちを否定するわけではありません。
「人生詰んだ」と思うからには、自分の人生はもうダメだ、もうどうにも打つ手がない、と感じるあなたの気持ちに嘘はないでしょう。
けれども、どんなにヒドイ状況であっても、例え医者に「余命はひと月です」と宣告された場合であっても、その状況を「人生の終わり」と思うか、「新たな再出発」と思うかは、
あなたの「考え」次第なのだ、 ということに気づいてほしいのです。
刑務所行きになったからって人生が終わるわけじゃない たとえば、ホリエモン氏のことを考えてみましょう。急成長したIT企業ライブドアの社長だった堀江貴文氏は、その絶頂期に証券取引法違反で懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けました。
普通の人なら、実刑判決を受けた時点で「人生詰んだ」と思うに違いありません。
けれども彼は、まさにそれを「人生の再出発」と捉えていたはずです。
刑務所に入ることは恥にはなっても、決してほめられることではないはずなのに、その直前に秋葉原で壮行会を行ない、モヒカン刈りに go to jail (刑務所に行け) という出で立ちで現れました。そして刑務所暮らしを有料メルマガで配信し、日本一の登録者数を誇ったというのですから、見方によってはあきれるしかありません。
二年弱の刑務所生活を模範囚として終え、出所してからも自由に生きる彼の姿には共感する人も多いでしょう。
ホリエモン氏のような例は、特殊な才能を持つ、有名人だからこそ可能なのだ、とあなたは思うでしょうか?
確かに彼には「特殊な才能」があるとぼくも思います。けれどもそれは「お金を稼ぐノウハウ」とかそういうことではありません。
彼が持っているのは「常識にしばられず、自由にものを考える」という才能です。
絶体絶命のピンチの状況にあっても、そこに活路を見出すだけの「自由な視点」を持つことができれば、「人生詰んだ」などと思う必要はないのです。
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医者に「あとひと月の命です」と言われたら? もうひとつ、こんな例はどうでしょうか。
あなたが体調を崩し、医者にかかったとしましょう。
すると医者は顔色を変えて、すぐに入院して検査をする必要があると言います。そして入院して精密検査をした結果の医師の言葉が
「あとひと月、持つかどうか……」 というものだったとしたら――。
現実にこのように余命宣告を受ける人は、年齢に関係なくいるのですし、確かにこのような宣告を受けた人の多くは、医者の見立てに近い期間でなくなっているはずです。
けれども中には、余命を越えて生きる人もいますし、その中には完全に回復して元気に生き続ける人すらいるのです。
lifehacker の記事、
・【書評】『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』 | ライフハッカー[日本版]
で、精神科医であり、発達障害でもあるという西脇俊二さんが、ご自分が障害を克服した経験をまじえ、発達障害とどう付き合ったらよいかを述べた本、
『自分の「人間関係がうまくいかない」を治した精神科医の方法』
が紹介されています。
今日は、西脇さんの説く発達障害との付き合い方を簡単に説明するとともに、「自分は発達障害かも?」と考えているあなたに、ちょっとしたヒントをお伝えできたらと思います。
精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 「自分は発達障害かも?」と思っているあなたへ - 悩みが深刻ならお医者にかかってみるという手もあります 最後に「発達障害」は病気なのか?と考えてみる 精神科医にはなったけど、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続けた西脇さん 西脇さんは、中学時代から30代まで20年も人間関係で悩み続け、「医学以外の分野」でその答えを探し続けましたが、結局その答えが見つかったのは自分の専門分野である「精神医学」の中だった、と言います。
自分が発達障害であり、アスペルガー症候群(AS)とADHD(注意欠如・多動症、注意欠陥・多動性障害とも)の二つの要素を合わせもっているのだと気づいたとき、発達障害に特有の行動パターンを意識的に変えていくことで、対人トラブルを減らすことに成功したというのです。
アスペルガー症候群は生まれつきのものであるとされ、有効な治療法は確立されていないため、現在の治療の基本は、問診が中心で、その人に応じたさまざまな指導が行なわれるといいます。
たとえばアスペルガーの人は、段取りが悪かったり、時間管理が苦手だったりする場合があります。
そういう人は、TO DO リストを作ってスケジュール管理をすることで「苦手」を減らせます。
具体的には、
1. まず一日のタイムスケジュールを書き出して行動の流れを把握する。
2. さらに週間・月間の予定表を作って、今週やること、今月やることを確認しておく。
3. 毎朝、朝の十五分を利用して「今日やること」のリストを作るようにします。仕事なら、ミーティング、レポート提出、会議資料のコピー、商品サンプル確認、メールチェックなど、やることを(五~七点までと数を決めて)書き出します。
4. 今日やることリストに、「A」「B」「C」の優先順位をつけていきます。
「A」絶対に今日やること
「B」なるべく今日やること
「C」明日でも大丈夫なこと
5. 「A」が複数あるときは「A1」「A2」「A3」としてさらに優先順位を決める。
このように毎日するべきことを朝の15分でまとめることで、段取りよく行動できるようになるのだと言います。
また、発達障害であることは、必ずしも悪いことばかりではありません。
アスペルガーの人は、特定の物事への興味やこだわりが強く、集中力も高い場合があります。
こうした特徴を持つ人は、こだわりや集中力を活かして専門性の高い分野の仕事に向いている可能性があります。
発達障害のために起こっている「苦手」に対処する方法を身につけると同時に、自分の「得意」な分野を活かすような職業につくことで、あなたの「生きにくさ」を改善できる可能性が出てくるわけです。
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