※こちらの記事にブックマークをつける前にぜひお読みください。
・「差別」「EM菌」「牛乳の有害性」についての記事を宣伝してくださっているみなさまへ、感謝の言葉とお願い、そしてご説明 - *魂の次元*
わっとさんの記事、
・「差別からの自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない - しいたげられたしいたけ
は、みなさんご覧になってますか。
twitter上の「人間には差別する自由もある」という発言に対する反論です。
わっとさんの主張を簡単にまとめると、
人間には「差別されない権利」がある、 したがって、他者を「差別する自由」は法によって制限される というもので、まったく妥当な主張です。
ただし、元の発言をした柴田英里氏は、決してわっとさんの主張に反することを言っているわけではないので、その点について少し書きます。
人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 人間には「差別する自由」があることと、「差別」は法律で制限されていること 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある、 というのが、ぼくの基本的な立場です。
けれども、なんでもかんでも自由にしたら、社会生活上さまざまな混乱が生じますから、そうした自然権的な自由に対して、法律的な規制をかけるわけです。
ですから、「差別をする自由」があるからといって、無制限に差別をしていいわけではないし、むしろ「差別をされない権利」を優先して、多くの「差別」には、法のもと規制がかかっているわけです。
柴田氏の主張は、「表現の自由は安易に規制すべきでない」というところにある さて、柴田氏は「人間には差別する自由もある」という主張をしたために、「差別を容認する」考えを持つ人物であるかのように受け止められたわけですが、前節で述べたとおり、「差別する自由」は法によって制限を受けており、柴田氏はそうした法規制について特に異を唱えているわけではありません。
彼女の主張はあくまで、
表現の自由は安易に制限すべきでない というところにあります。
(参照: https://twitter.com/hokuto_83/status/907447823607619584
https://twitter.com/erishibata/status/907459640056725504
https://twitter.com/erishibata/status/907478364067307520
柴田氏の発言は断片的であるため、全体としての主張は読み取りづらいのですが......)
つまり、柴田氏は芸術家としての立場から、
たとえ「差別的」と思われる表現であっても、安易な法規制は行なうべきではない、 表現が法規制されれば、国家の恣意的運用の恐れがある という、これもまた、まったく妥当な意見を述べているものと思われます。
(もちろん、これについては異論もありましょうが)
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ところで、みなさん、議論ってどうしてするんでしょうね? あるいは「敵を作るな、味方を増やせ」 ネット上で人の意見を見て、これはおかしいなって思うことは、よくありますよね。
でも、一々反応してたらキリがありませんから、大抵は放って置きますかね。
今回の件はわっとさんとしては、放置できない問題だから、わざわざ記事を起こしたに違いありません。
そして、冒頭でも述べたとおり、わっとさんの主張自体は、まったく正しいものだと思います。
しかしながら、わっとさんが引用している山崎雅弘氏の発言
https://mobile.twitter.com/mas__yamazaki/status/906745708396429312
は、柴田氏の発言を「誤読」した上のものであると、ぼくには思われますので、結果として、わっとさんの記事が、不当に柴田氏の評価を下げるものとなっている点は残念です。
山崎氏は、柴田氏のたった二つの断片的な発言から、彼女に「否定的」なラベルを貼った上で、柴田氏を評して
最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい
山崎 雅弘 on Twitter: "「(続)」とあるので一応最後まで読んでみたが、最初から最後まで一貫して自分を「差別するかしないか選べる側」に置いているのがすごい。自分が理不尽な差別で苦しんだり惨殺されるという想定が思考にない。そして「表現内容への批判」と「差別という行為への批判」の違いを無視して同一視している。 https://t.
なすねむさん (mensan:di) がこちら
・瞑想と悟りに対するぼくの個人的見解 - めしがくいたい
で、ご自身のアヤワスカでの体験をもとに、瞑想と悟りについて考察しています。
全体的に *力強く* 同意したい内容である上に、幻覚性植物の経験を共有するものとして、ひと言、ふた言、書いておきたいこともあるので、今日は「瞑想」と「悟り」そして向精神薬をめぐる、「変性意識」についてのぷち考察です。
アヤワスカで「悟り」は得られるか? 瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう 瞑想を習慣にする 瞑想を「習慣」にすることが、なぜ大切なのか 「楽に悟れる」とは言っても、「それなりの努力」は必要です 「悟り」ってそんなに偉いものなの? ・[:title]
アヤワスカで「悟り」は得られるか? 結論から言うと、
「悟り」が得られる可能性はわりと高い ということになります。(一方リスクもあります)
ただし、ここで「悟り」というのは、普段の意識ではなかなか得ることができない、「深い洞察・気づき」程度の意味です。
アヤワスカのような薬物を使うことで、いつもの意識とは異なる「変性意識状態」に入ることができます。
そのとき、いつもはブロックされていて見ることができないものが見えてくることで、「普段は気づけない気づき=悟り」が得られる場合があるのです。
しかし、これはギョーカイで「インスタント悟り」と呼ばれるもので、体験中には、
すごい悟りを得たぞ! と思うのですが、残念ながら、
じきに薄れてしまったり、あるいは 強烈すぎる場合には、普段の歪んた認識に組み込まれて、妄想的思考になってしまったり しかねません。
(妄想的思考は、人によっては大きなリスクとなりえます。素質のある人は、病院のお世話になることも考えられるからです)
nasnemさんは、こちらの記事
・悟りとジャンプ漫画について - めしがくいたい
で、アヤワスカによる変性意識の中、その体験と「ジャンプ」のいくつかの漫画に描かれる「悟り」の境地との類似性を指摘していて、なかなか興味深いのですが、その類似性について、
体験中はもっとナイスアイディアの感じがしていたんだけどなあ。
と書いています。
これが、「薄れ」の実例ですね。
売れっ子の漫画家が描く、多くの人を惹きつける世界観を、変性意識による「認識の深み」の中で深く「体感」として「理解」したことは、ある意味「真理」に迫っていたといえます。
けれども、いつもの意識に戻ってしまうと、その「体感」が抜け落ちてしまうため、
「あれ、ちょっと似てたってだけで、大した発見じゃなかったか」
みたいなことになっちゃうわけです。
そこで、この変性意識にあるときの体感としての「気づき」をきちんと自分のものにするためには、「瞑想」が必要になってくるのです。
瞑想で「インスタント悟り」を定着させるのに「苦行」はいらない、さああなたも「楽々」と悟っちゃおう なすねむさんは、
薬やサイコアクティブ物質によって悟れるならそれでいい 楽に悟れるならそれに越したことはない 苦行の末に悟りがある、苦行することは高尚で偉い、悟りは神秘的なもの、といった考え方は危険 と書いています。
1. については、「向精神性の薬物だけでは悟れない」ことを先ほど書きました。
(例外はあると思いますけど)
2. については、大いに共感しますし、基本的にぼくもこの路線です。
3. については、大体同じ考えなのですが、改めて次節で述べます。
というわけで、ここではどうやったら「楽に悟れるか」を簡単に書きます。
瞑想を習慣にする 瞑想といっても、座禅を何時間もやる必要は必ずしもありません。はじめは「気がついたときに、三回じっくり深呼吸する」とか、簡単なことでかまいません。
ポイントは
いつもは無意識にやっていることを「意識化」すること そして、それを習慣にすること にあります。
さてここで、練習問題です。
あなたはいつも靴をどちらの足から履きますか?
実際にやらずにこの質問に答えられるあなたは、自分の体の動きについて、かなり意識化ができている人です。
でも、分からなかったからといって、がっかりする必要はありません。
次に靴を履くときに、ちゃんと意識してどちらの足から履いてるかをよく確かめてください。、そして、次からは、逆の足から靴を履くようにしてください。
はじめは、違和感もありますし、うっかりいつも通りの足から履いたりしてしまうでしょうが、気にせず根気よく続けてください。
「黄金球ってなんだろう」と思って、わざわざこの記事をみてくださった方、ごめんなさい、それはただの「き○たま」のことです。そして、今日はもう一つの話題は、明晰夢・幽体離脱について。実体験にもとづき、脳科学的知見にも触れながら、紹介します。
はいさい、みなさん、お元気ですかー。
おまきざるさんの、
・普通とは何か? - おまきざるの自由研究
という記事がおもしろかったので、今日はちょっと相乗りさせてもらいます。
人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ゲンミツ派とザッパ派の仁義なき戦い、あるいは無駄な争いはやめるが勝ち 人が使う「普通」が分からない、おまきざるさんのモヤモヤ おまきざるさんが書いているのは、
ネットで見かけた記事に「普通の人」と書いてあるのだけれど、 そこでの「普通」の意味が分からない、 あるいは「普通」の使い方がおかしい気がして、 モヤモヤした、 といった話です。
そして、
一言で表現するならば,「普通」とは自分の観測範囲内でのマジョリティなのかもしれません.
という形で「普通」という言葉を説明してくれていて、これには納得です。
その説明にたどり着く過程では、
何が「普通」なのかは時代によって,そして自分を取り巻く環境によって変わります.
と述べ、その例として、
「普通コンビニで薪が売っているか」
という話を上げてるんですよ。
コンビニで薪が?
いや、そんなもの、「普通」売ってないですよね。
と、東京原住民のぼくなどは思うわけですが、なんとノルウェーには日本のコンビニ・サークルKがあり、そこでは薪が売っているというのです。
さすがノルウェー!
......と思わず称賛したくなるところですが、そのあとに更に驚きの報告が続きます。
Aさん「えっ、薪? そんなん仙台のコンビニじゃ普通に売ってるよ」
Bさん「てことは仙台はノルウェーだった!?」
......みたいな話で、これには大笑いしました。
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あなたは「普通」という言葉を定義して使いますか? ゲンミツ派とザッパ派の話 そうして、モヤモヤに端を発したおまきざるさんの考察は、
「普通」という言葉を定義しないで使う場合、読者がそれぞれにイメージを浮かべるのでコメントが集まりやすい。 逆に「普通とはこうだ」と定義すると、「自分はそう思わない」という異論が出やすい。 記事中で定義をしないで「普通」という言葉を使うのは、コメントを誘うためのあざとい手法である。 と同時に、そうした記事は「普通」とは何かを考えるよいきっかけにもなりうる。 という結論に至るのですが、ここはちょっと「はてな?」と思いました。
「普通」とは何かを考えるよいきっかけになる、という最後の結論はいいのですが、「普通の人」という言葉を使った方に、そんな「あざとい」意図があったようには思えないんですよね。
もちろん、これはぼくの解釈にすぎませんから、間違っているかもしれません。
けれども、ここで読者の皆さんにうかがいたいのは、
「普通」という言葉をいちいち「定義」してから使いますかね? ってことなんです。
科学派であり論理派であろう、おまきざるさんにとっては、記事内容のゲンミツさが大事でしょうから、「普通」を「定義」することは、*普通* のことなんだろうと思います。
また、おまきざるさんの記事にブックマークでコメントをつけている方々も、おおむね似た意見をお持ちのようですから、こうした立場をゲンミツ派と呼ぶことにしましょう。
しかしながら、おまきざるさんが「モヤモヤ」した大もとの記事の一つである
・普通の人がお金のことについて勉強しておくべきこと - ゆとりずむ
みなさん、どうも。
毎度ナンセンスで大風呂敷な話をネット上で垂れ流しております、ぷちウェブ作家のとし兵衛でございます。
今日も今日とて、
「ネットでお小遣い稼ぎができたらいいなぁー」
とうっかり思ってしまうブログ初心者のあなたのために、
グーグルの広告提供システムであるアドセンスのコードをいつ・どこに貼るべきか、
という蝶難問について、
大して厳密にではなく、 大雑把に散文的に 考察してみようと思います。
ちなみに結論は、
「はてなで *普通* に書いてる初心者の人は、アドセンスよりアマゾン・アソシエイトのほうがいいかもよ」
ってことになります。
きっかけは久しぶりに見た相田ケイさんの記事なんです - ロクに読者もおらんのに、広告榛名ってか? ほいでね、ぼくの考えはとゆーとね、「別にええやん、広告なんて、誰がいつ・どこに波浪が」 それはそれとして、はてなで *普通* に書いてる「初心者」の人は、まずはアマゾン・アソシエイトもいいんじゃないかと思うんよ 最後に「ぼくらはなぜネット上に記事を書くのか」再考、あるいはホモ・レスポンシブとしての人類 なお、今日も 6,000 字超えの長文ですので、よろしく。
きっかけは久しぶりに見た相田ケイさんの記事なんです - ロクに読者もおらんのに、広告榛名ってか? 相田ケイさんは、四回生の学生ブロガーで、若いけれども頭の切れるなかなかの人物とお見受けしますが、
「どんな記事をどのように書けばネット上で多くの人に見てもらえるか」
というような話題について、マーケティングの視点からいろいろと書いてらっしゃいます。
その相田さんが
・初心者必見!グーグルアドセンス設置に対する考え方について - ハックツ | 初心者から正統に稼げるWEBスキルを。わかりやすく・身近に・面白く
という表題で記事を書いているのを見かけて、どんな内容かなぁと思ってのぞいてみました。
内容を簡単にまとめると、
月間閲覧数 50,000 ないし、はてなでの読者 500 を超えないうちはアドセンスの広告は貼らないほうがいい 貼る場合にも、読者の邪魔にならないように十分気をつけるべきである という、ストイックかつ妥当なものです。
相田さんが展開する論の道筋については、異論もあろうかと思いますけれども。
ですが、まあ、榛名山の野っ原のど真ん中、誰も人がいないところに広告塔を立てても仕方ないってのは、確かにそのとおりですよね。
(たまたま「貼るな」が「榛名」になったので、ダジャレてしまっただけで、榛名山や群馬県の方々を悪くいう意図はありませんので、ご了承ください。土下座っ)
相田さんの場合、
僕は今も検索からのPV集まっている記事にしか、記事中に広告は貼っていませんし、スマフォのモバイル広告(画面の下に出てくるアイツ)をつけるのはナンセンスだと思っています。やっぱり何やかんや広告は少ない方がいいです。(中略)できるだけ人目につかない所に広告を貼っています。
とのことで、これは実に正しいやり方・考え方だと思います。
ほいでね、ぼくの考えはとゆーとね、「別にええやん、広告なんて、誰がいつ・どこに波浪が」 「広告なんて、誰がいつ・どこに貼ろうが勝手」
なんてことを言うと、波浪注意報が出たり、山火事警報が出たりしそうですが、ぼくのモットーは
「人生は自由、すべては自己責任」
というものなので、地軸がねじ曲がり、熱海が日本の首都になっても、自説を撤回することはありませんので、そこのところはよろしくご承知おきください。
いやでも、相田さんのご意見は、ほんとにもっともだと思いますよ。
そもそもぼくも、広告って鬱陶しいと思ってるし。
(鬱陶しいっていう、この文字がまたうっとうしいですよね)
それどころか少し前までは、
「世の中から広告なんてなくなればいい」
くらいに思ってましたから。
とはいえ。
相田さんのようにてきぱきと記事を書ける人はともかく、ぼくのようなずぼらな人間には、
「この記事には広告を入れて、こっちの広告はやめといて......」
みたいなきめ細やかな対応は、無理です。
絶対無理。
そんなことやってたらストレスで記事が書けなくなっちゃいます。(←大げさ)
みなさん、こにゃにゃちわ。
今日のお題目はこんな感じです。
「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 自分で絞めて食べたことありますか? ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか 4,000字以上の長文ですが、お時間ある方はおつき合い願いまーす。
「生まれたての動物」を食べた、なすねむさんの超越 なすねむさん (id:meshigakuitai) という方、こちらの記事
・いのちをたべる、ということ - めしがくいたい
で初めて知りましたが、なかなか強烈な個性の持ち主ですね。
記事の内容は、
有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはず。 「食べていいものと食べてはいけないもの」を作るのは勝手な独自ルールであり、真理から遠ざかることになる。 とはいえ、牛一頭を渡されて「食べろ」と言われても、牛を潰すのは難しい。かわいそうだから。 けれど「かわいそう」も真理的じゃない。 それで、真理に近づく経験をするために「生まれたての動物」を食べることにした。 というような感じです。
途中までは、合理的な流れで、多少の異論はあっても、
「まあ、確かにそうかもね」
と言える内容ですが、結論がぶっとんでて最高ですよね。
僕は、生まれたての動物を食べることにしました。
っていうんですから。
で、どうやって「生まれたての動物」を食べたかって言うと、うずらの卵には一パックに一個くらい有精卵が混じっているので、孵卵器を買ってきて、うずらを孵化させて、それをいきなり踊り食いしたっていうんですから、驚きです。
そうして僕は真理にまた一歩近づいたのでした。
ということですので、その真理に近づいた感想をうかがいたいところですが、多分この方の場合、「真理に近づいた」という行為自体が重要なところで、「真理に一歩近づいてこんな気分になった」というようなことには関心がない方なのかもしれません。(勝手な臆測なので、違ってたらごめんなさい)
でも、そういうところも含めて、なんとも「超越」してる感じが素敵な方だなと思います。
うずらを孵化させてそのまま食べるのは難易度が高いですが、ベトナムやタイでは、孵化前のひな入り卵をゆで卵として食べる習慣もあります。
(有精卵が当たり前だった昔の日本の人は、そういう卵を「当たり」といったとか)
このくらいなら、比較的やりやすいと思いますので、「いのちをたべる」という真理に近づく経験を得るため、みなさんもいろいろ挑戦してみてはいかがでしょうか(笑)。
自分で絞めて食べたことありますか? ぼくも、なすねむさんと似たようなことを考えています。
肉を食べるのに、自分で絞めたことはないな、ということです。
ぼくの場合、普段はだいたい菜食ですませていますが、宴席などで出されれば、なんでも食べますし、外食のときにもあまりこだわらず、適当に肉・魚も食べてます。
けれども、いわゆる「害」虫のたぐいを殺したことはあっても、魚を釣ってきて生きてるままをさばいたこともないに等しいし、ましてや鳥や獣を絞めたことはありません。
昔ネパールに行ったとき、山歩きをしていると村の人が、いかにも「今絞めたばかり」といった鶏の足を持ってぶらさげて、
「ちょうど絞めたばかりなんだけで、食べるかい?」
といった感じのことを、にこにこと笑顔で言われたことがあります。
到底食欲が湧く状況ではなかったので、
「あ、いや、今ごはん食べたところだから、いらない」
とか、適当なことを言って誤魔化したのを思い出します。
その同じネパール旅行のときには、インドにつながる平野の街をバスに乗って通りかかり、店先に豚の頭がどーんと並んでいるのを見かけて仰天したりしてましたが、それももう二十年も前の話。
その後、いろいろ肉食について見聞きし、考えているうちに、一度は鶏を自分で絞めて、一羽丸ごとをさばいて料理したいものだと思うようになりました。
ぼくの場合は、なすねむさんとは違って、「やるぞと思ったら即実行」のタイプではないので、考えているだけでなかなか実現しませんけれど。
ちなみに、二年ほど前にマレーシアに住んでいたとき、近所のスーパーに行くと、鶏が丸ごと冷凍で売ってるんですよね。
それでそのときは、一羽を丸ごとゆでてから、解体しいしい、適宜煮込んだりしながら、数日かけて一人で完食しました。
ですからあとは、
まず締める。これが最大の関門ですね。 そして、湯をくぐして羽根をむしるのかな。羽根をむしるのが大変そう。 と思って検索したら、こんな記事もありました。
・初めて「鶏」を絞めて屠殺し、食べるまでの作業をしてみた。-自らの手で命を頂くということ。 - よねすけ、隣に突撃するってよ。
冷凍チキンとは違って、絞めたあとに内蔵も出さないとならないですね。でも、それはなぜか、中学か高校のとき、理科の授業の解剖でやったような気が......。
今回こういう記事を書いていて思ったのは、いずれ絞めるときには、ひよこから育てた鶏を、神からの授かりものとして、感謝しながら締めたいものだということです。
アイヌが子熊を育てて大きくし、その魂を神の国に送り返す、イオマンテの祭りを思い起こしながら。
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ところで「絶対たべちゃいけないもの」ってあるんでしょうか さて、なすねむさんは記事の冒頭で、
有害なものを除けば、合理的理由で食べてはいけない生き物というのは無いはずです。
先日来、匿名ダイアリーの記事
・30過ぎて100万も貯金が無い奴は信用できない
がにぎやかに取りざたされているのが、気になっておりました。
ネット上での議論というものは得てして、
「あの話はおかしい」
とか
「おれの話を聞け」
とかいうことになってしまって、そういうやり取り自体はおおむね「不毛」なのですが、そうした「不毛な荒野」にも幾粒かの真実の種が埋まっていたりするのも、普通にあることです。
というわけで、今日のメニューはこんな感じです。
いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) 不毛な議論に三本の毛を生やす方法 いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね 匿名さんの主張は、「30すぎて貯金が100万円ない人間は信用できない」ということで、
「なるほど、そうですか。信用できないんですねー。うんうん」
と聞くしかないようなお話です。
人間、どんな主義主張を持とうと自由ですから、これをお読みのあなたにも、
「こういう人間だけは信用できない」
というような思いがきっとあるだろうと思います。
ただ、多くの「良識的」な人間は、そういうことをわざわざ声高にネットで主張はしない、というだけのことですよね。
でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん 上の匿名さんの記事に対して、ポジ熊さんという方が、
・貯金100万円どころか借金もろもろ3,000万弱ある - ポジ熊の人生記
という記事を書いてらっしゃいます。
「貯金はあったほうがいいけれど、ないからと言って、責めるような話じゃない」
というような内容です。
いたってまっとうな意見なのですが、ぼくとしては、ひとつ気になる一節があります。
ギャンブル癖などは、個人的に改善できる浪費だと思います。次いでソーシャルゲームの課金や暴飲暴食でしょうか。ここらへんは、見直すのも悪くないですよ。
ここでポジ熊さんが「浪費」といっているものは、過剰なストレスに対する防衛反応としては、ごく自然なものなんですよね。
自然なものだけれど、度を過ぎると、「依存症」と呼ばれる状態になって、社会的な生活が破綻します。
注意が必要なところですし、同情の余地は大いにあります。決して責めるべきではないし、責めたからといって解決するものではありません。
そして、ギャンブル依存やソシャゲ依存で生活が「破綻」したとしても、日本は「先進的」な福祉国家であり、「法律」にのっとった救済の仕組みがありますから、貯金なんてなくても、健康で文化的な最低限度の生活が「保障」されています。
とすれば、事情があってもなくても、貯金を持つか持たないかは、個人の自由の範囲だと言えるのではないでしょうか。
ついでに、「最低限度の生活」がなぜ保障されているのか、ということについて一言。
「最低限度の生活」を保障するために「生活保護」という制度があって、病気などで働けなくなっても、安心して暮らすことができるのですが、これは決して「お涙頂戴」の慈善事業ではありません。
そうではなくて、この制度は、仕事につくことができず、生活に困った人が犯罪に走ったりすることで、社会的な安定が崩れることを防ぐために、社会の安全を保障する制度としてあるものです。
ですから、「お金に困った人を自分たちの税金で食わせてやってる」などと思うのは、多分に「曲がった」考え方です。
実際には、自分たちの「社会の安全を守るため」に必要な経費だからこそ、税金でまかなう価値があるのです。
てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 匿名さんは、100万円貯金がない人を切り捨て、ポジ熊さんは浪費癖のある人を切り捨てます。
誰がどんな考えを持とうが、各人の自由ですから、否定はしません。
でも、
「100万円の貯金がなくなったら誰にも相手にしてもらえない」
とか、
「依存症になったら人生おしまいだ」
とかいうのって、人生観としてすごく窮屈じゃありませんかね?
現にぼくは、貯金ゼロで住所不定・無職ですし、アルコール依存でクリニックに通った経験もありますけど、とりあえず元気に生きてます。
インドあたりをぶらぶらしてて、ひと月三万とかで暮らしてる仙人系の人間ですから、日本の一般的なみなさんの生活とはかけ離れてはいますけど。
で、かけ離れた立場だからこそ言うんですが、日本ってかなり「均質的」な社会で、その中でも「似たような」人間同士で付き合うから、「常識」の幅も狭くなりがちだと思うんですよね。
自分の「常識」の限界を見直すためにも、少し違う「世界」を見たほうが、
「人生楽になるんじゃないのかなー」
などと、お節介なこととは知りながら、思ってしまう私なのでした。
50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) お金も地位も名誉もなくても、信頼できる友人を持てるのは当たり前すぎる話です。
芥川の「杜子春」じゃありませんが、お金がなくなって去っていくような関係の人は、友だちとは言えませんからね。
・芥川龍之介 杜子春
・「杜子春」をアマゾンで見る
それで、ここで書く「信用」というのは、経済的な話でして、簡単に言っちゃえばクレジットカードのことです。
クレジットカードというものは、社会的な「信用」がなければ作ることができません。
そしてそれは「貯金が100万あるかどうか」とは関係がありません。
カード会社も商売ですから、とにかく毎月使ってもらって、毎月払ってもらえればいいわけです。
基本的には「毎月安定した収入」があることが前提です。
でも、それは「建て前」というやつでして、
敬愛するはてな村の友マミーさんのブックマーク経由で、九尾【coconoo】さんの記事に出会いました。
・包丁研ぎとカブトムシ。 - coconoo doll
この記事についたマミーさんのコメントが、
トウモロコシ3本で100円!すっごい安い!お腹いっぱい食べたい? というものだったので、
「包丁研ぎに、カプトムシ、おまけにトウモロコシとは何者?」
と思ったわたしなのですが...... 。
というわけで(?)、今日はトウモロコシの話です。
coconooさんは、球体関節人形というものを作ってらしゃる方で、ブログのヘッダ画像を見ていただければ、その妖しい魅力は一目瞭然と思います。
そして、そうした工芸作家としてのお顔とともに、里山ぐらしのガーデニングの話なども書いてらっしゃって、自給自足が憧れのぼくからすると、
「あっ、いいなー」
というのが、最初の感想です。
というところで、今日の話題のトウモロコシの話に入るのですが、
「3本100円」
は、いくらなんでも安すぎますよねっ!!
でも、そういうちょっとした「意表」をつく話こそ、この世界の秘密を表してる気がするんですよ。
というのは、一口に「安すぎる」といっても、それは、あくまでも「都会」を基準にした話であって、coconooさんのお住まいがどちらかは分かりませんが、すこしばかり田舎に足を伸ばせば、結構お買い得なものって、いっぱいあるからなんです。
ぼくは一時期、東広島に住んでいたことがあるのですが、たとえば農協の直売のお店で、生産者の方の名前入りのいろんな野菜が、申し訳なく思うくらいのお安い値段で売っていることには、正直に言って感動を覚えたものです。
と、それにしても、トウモロコシが3本100円は安いですし、おまけにぼくはお金の感覚に弱い人間なものなので、一瞬、
「えっ、それってインドより安くない?」
と思ってしまいました。
でも、さすがにそれは勘違い。ひと桁くらいは値段が違いました。
今ぼくはインドの西、ラジャスタン州のプシュカルという小さな街にいるのですが、やや痩せ気味の焼きトウモロコシが、屋台で1本10ルピーで売ってます。
日本円にすると17円かそこらですから、3本買っても50円かそこらです。
しかもこれは、焼いてあるトウモロコシの話ですし、お好みによってレモン汁を塗ってもらったりもできて、これがまたおいしい。
生のトウモロコシがいくらで売ってるかは知らないもんで、ややいい加減な話ですんませーん。
トウモロコシについては、自分で育てた「しょぼいトウモロコシ」や、本場アメリカ大陸で食べた「おいしいソース付きの焼きトウモロコシ」とか、いくつかネタがあるのですが、今日はとりあえず、このくらいにしておきます。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬
はてな村のみなさん、アッサラーム・アライクム!!
(今日はイスラム式あいさつですが特に意味はありません)
そして、ほぼひと月ぶりの更新にも関わらず、内容もほとんど脈絡のない三題噺ですが、さてまあ、いってみましょうか。
夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 ブログサークルというサービスに登録してみた そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた 夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 私が私淑するはてな村の先輩、夜中たわし氏のこちらの記事ですが、
・【近況】PCが壊れそう/ヌートンに寄稿しました - 夜中に前へ
「PCが壊れそう」
とのことで、ご愁傷さまでございます。
ハードディスクはどうしても寿命がありますし、SDカードなども何のはずみでぶっ壊れるか分かりませんから、まめにデータはバックアップしておきたいものですが、生来の無精者ゆえ、ときどきデータがふっとんで泣きを見ているわたくしであります。
人間は、失敗を繰り返しながら学んでいくのか、それとも死ぬまで失敗を繰り返していくのか、この二つの間のビミョーな線のあたりをふらふらしながら、ぼくの人生は進んでいくようです。
と、手前勝手な自分語りはさておき、たわしさん、ヌートンというメディアにデビューされたとのこと、おめでとうございます。
・語彙力で戦うカードゲーム「ワードバスケット」が楽しい! | ヌートン 新たな情報未発見メディア
こちらの記事ですが、カードを使ってする「しりとりゲーム」の紹介でありまして、別メディアで読むと、いつもの「たわし節」が、また一層味わい深く楽しめます。
ただし、「しいたけ菌」の毒性が致命的なこともあるようですので、閲覧にはくれぐれもご注意ください。
ブログサークルというサービスに登録してみた 話は完全に変わりますが、たまたま、ネットで見つけたブログサークルというサービスに登録してみました。
・とし兵衛│プロフィール│ブログサークル
ブログのランキングのサービスは使っている人も多くよく見かけますが、ぼくの場合、順位をつけられるのはあんまり嬉しくない。でも、せっかくだから宣伝はしてみたい。
そんなことを考えていた折に目に入ったこちらのサービスは、ブログを書いてる者同士がソーシャルなつながりを作るためのツールということのようです。
はてなブログの中や、はてなブックマークを使ったつながりに、プラスアルファする形で、広がりがもてるかもしれないなぁ、などと思っております。
まだ登録したばかりの段階なので、実際に使ってみての感想は、しばらくしてから書きたいと思います。
そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた さて、ブログサークルのようなサービスでは、登録したブログの情報をpingという仕組みを使って更新して、ユーザが見れるようにしてくれます。
ぼくの場合は、このブログを登録したことで、ブログサークルのユーザのみなさんに読んでもらえるようになるわけなんですが。
残念なことに、はてなブログには、この「ping送信」の機能がない模様。
まあ、新しい記事を書いたら手動で更新してやればいいだけの話なんですが、どうせなら自動でやりたいのが無精者の人情というもの。
そしたら、こちらの記事に
・はてなブログで自動的にping送信する方法 - くるくるパーマとANAマイル
IFTTTという洋物のサービスを使って自動化するやり方が出てました。
英語が苦手な方には、ちょっとだけ大変かもしれませんが、文章と画像にしたがって順番にやっていけば、特にむずかしいことはありません。
ただし一箇所、変更点があります。
「Step 3 of 6 Choose action service」のところで、「maker」で検索しても必要なサービスはでてきません。
「webhooks」で検索すればOKです。(サービスの名前が変わっちゃってるため)
それから一番最後に「Appletに名前をつける」という話がありますが、これは「if new feed item from .... 」とかいう英語の説明の部分を「ブログサークル用」みたいな名前にしておくと分かりやすくていいよ、という話ですね。
というわけで、この記事のpingが自動で送られてたら万々歳、というお話なのでありました。
てなわけで、この記事はおしまいです。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
はてな村のみなさん、おはようさんです。
みなさん、ハルオサンのことは、ご存知でしょうか。
「警察官をやめさせられた話」で彗星のごとくデビューし、その控えめながらも、ところどころにブラックユーモアを感じさせる独特の筆致と、へたうまで、なんとも味のあるイラストで大人気のブロガーさんです。
もし、ご存知でなかったら、まずはこちらの二本の記事を読んでみてください。社会派で心理サスペンス感ばっちりの、読み応えのある記事ですよ。
・警察官をクビになった話その① - 警察官クビになってからブログ
・警察官をやめさせられた話②完結編 - 警察官クビになってからブログ
さて、そのハルオサンが、
・最近ブログで飯を食べている事について - 警察官クビになってからブログ
という記事を書いてらっしゃいます。
ハルオサンは、ブログに広告を貼ったりはしていないのですが、他サイトへのコラム執筆や記事投稿で、月10万円ほどの収入があるというんですね。
うーん、これは凄い...... 。
それでちょっと考えてみることにしました。
ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ほかの人はどうなんだろう? それで、広告を貼るのってどうなんだろう? 今日はそんなような話です。
ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ぼくはもともと「作家になれたらいいな」というような感じの、いい加減で曖昧な願望にもとづいて文章を書き続けてきた人間です。
その昔、「奇想天外」というSF小説の雑誌で、新井素子さんという作家が17歳でデビューしたのを見て、彼女より四つ年下だったぼくは、
「あと、四年のうちにデビューできたらいいな」
と間抜けにも考えました。
考えるだけで、ロクに書きもしませんでしたから、デビューもへったくれもないのですが、仲間と同人誌ごっこはしていたので、ほそぼそながらコラムのようなものは、書き続けていました。
そんなようなものが、形を変えながら続いてきて、今ここに書いているようなものにつながってきているわけなので、じゃあ、それはどういうことなのか、というと、
「自己承認欲求」
の一つの形なんだろうな、と思うのです。
ほかの人はどうなんだろう? ほかのみなさんが、どういう気持ちからネット上で文章を書いているか、というのは、当然、人それぞれに決まっています。
そうではあるのですが、すごく一般化したところでくくってみたとき、
「自己承認欲求」
みたいなことが、一つ重要な要素としてあるとは、思うんですね。
もちろん中には特別な方がいらして、
純粋にお金もうけのためにやっていて、 そのお金は自分の楽しみだけのために使っていて、 一切まわりの人のことは気にしていない というような場合もあろうかとは思います。
けれども、それはホントに特殊なケースで、仮にお金のためが目的でも、
お金を稼げる自分を人に認めてもらいたい、とか、
お金を稼いで周りの人のために使って、関係性をよくしたい、とか
自分と周りの人との関係性というものが、多くの場合大切なものだろうと、思うのです。
ですから、それは「承認欲求」というよりは、「コミュニケーションの欲求」といったほうがいいかもしれせん。
仮に人に見せない「日記」のようなものであるとしても、書き言葉として表現する以上、「過去や未来の自分との対話」として、そこではコミュニケーションが行なわれているのだと思います。
そして、相手に伝わるかどうか以前に、言葉として表現すること自体にコミュニケーションの意味があり、それは、心の中のもつれやもやもやに形を与えることで、人の内的欲求を解決するものなのだと思うのです。
それで、広告を貼るのってどうなんだろう? さて、ここで唐突に「広告」の話になるのですが、ハルオサンは、
自由にブログというものを突き詰めていきたい。
から広告は貼らないのだ、と書いています。
実にいさぎよいですよね。
そのあまりのいさぎよさに、
「ぼくもみならってアドセンスはずそうかなー」
と思ってしまいました。
でも、ぼくはヘタレなので、はずさずにそのままにしておきます。
このページは蝶閑古鳥なので、あってもなくても似たようなものですが、宝くじに夢をかける一庶民、みたいな感じで(笑)。
そのくせぼくは、
「記事を読むときに広告があるとうるさいんだよなー」
とか、勝手なことを思ってます。
かように人間というものは、勝手な生き物であり、矛盾した多数の欲求を抱えているわけであります。
でもまあ、それも人間、あれも人間。
人間、結局なんでもありですよね。
人に迷惑さえかけなければ、何をやっても自由だし、思わぬ所で人に迷惑をかけてしまったら、そのときはちゃんと謝ればいいのだし、とにかく自分の人生の責任は、自分で取るしかないという、当たり前の話なのです。
それにしても、広告とかページビューとか考えると、いろいろ余計なことを考えて好きに書けなくなる、というのは確かにあります。
ですから、あまりそういう二次的なことにとらわれないで、自分が書きたいものはなんなのか、自分が楽しく書けるものはなんなのか、そういう基本的な欲求にもとづいて、今後も書いていけたらなーと思うのでありました。
というわけで、特にまとまらないまま、今日の記事はこのへんで終わりにします。
最後にハルオサンの記事を紹介しておきましょう。