カメキチさんの記事
2019.4.30 『猫も老人も役立たずでけっこう』① - kame710のブログ
で養老孟司氏の「猫も老人も、役立たずでけっこう」という本を知りました。
物質的には十分以上に恵まれているのに、あくせく働かないと気持ちが落ち着かないわたしたちに、「もう少しのんびり過ごしたらどう?」と、猫の視点から語りかけてくれるような、養老さんの言葉が気に入りましたので、本の内容にはとらわれず、気ままに思うことをつづってみます。
無用の用 何もしない喜び 書かないことで書く 無用の用 中国の老子さん、荘子さんは、無用の用ということを言います。
役に立たないからこそいいんだ、という逆説の発想ですね。
人間のものさしで測ったら役立たずとしか言えなくても、猫の目で見ればそれこそが生きる道という養老さんの主張もここに重なります。
「材として有用だったらとっくにかられてなくなっていたであろう木が、ねじくれて役に立たないからこそ大木となり、巨大な神木として人々の役に立つことになるのだ」という荘子さんのエピソードがぼくは好きです。
しかしこれも、効率一辺倒の人が見たら、「神木に何の意味があるか、そんなものは邪魔なだけだ、かり倒してしまえ」という話になりかねません。
でもぼくは思うんです、その極端なまでの効率主義こそが、現代の享楽主義的社会の息苦しさを生み出しているんじゃないかなって。
「そんなこと考えても、何の役にも立たないさ」と切り捨ててしまわずに、忙しく過ぎていく日々の中で、一度立ち止まって、じっくり考えてみてもいい話題じゃないかなって思うわけなんです。
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何もしない喜び 忙しく働くことで充実した毎日を送っている方に対して、特別意見をするような気持ちはまったくないのですが、忙しすぎる日々の中で、「ああ、猫みたいにのんびり過ごしたい!」と思う方も少なくないのではないでしょうか。
都市化やグローバル化が進んで人間たちはひーひー言ってるのに、養老さんちの猫のまるちゃん齢15歳は、そんな世間の忙しさなんてどこ吹く風で、のんびり散歩、ゆっくり昼寝をして、悠々と老いを楽しんでいます。
ぼくはまだ五十代なかばなので、自分を年寄りとは思っていないのですが、産業社会に貢献していないことにかけては、若いころから隠居みたいな生活を送ってますし、役立たずで無用の用を地で行っている人間です。
その上に最近は瞑想の練習も楽しくなってきて、何もしないことが何よりの喜びとなってきました。
何もすることがなくても、猫は決して退屈しません。
人間だって同じようにできるはずです。
ただ頭を空っぽにして、ごろりと横になって、何を見るでもなく、ぼーっと視線を空間に漂わせることができれば、そこにはいつだって小さな幸せが漂っているのだということに、あなたもきっと気づくはずです。
イタリア語には dolce far niente という言い方があります。「無為の楽しみ」という程度の意味ですが、さすがはラテン文化のお国柄、人生の楽しみ方をよく知っているな、と思います。
書かないことで書く 何もしないことが楽しくなってくると、わざわざ文章を書くことにもさほどの意味がなくなってきます。
ネット上で文章を書いているみなさんは、なんといっても好きだから書いている、という部分が大きいと思うのですが、ぼくの場合はあまりそこのところが強くありません。
誰かに読んでもらって褒めてほしいとか、なんとかお金が稼げないだろうか、といった「邪心」で書いている部分が大きいのです。
だから、「ただ生きているだけで十分で、何もしなくてもオーケーなんだ」ということが分かってくると、書く動機が弱まってしまうんですね。
でも、ただ生きてるだけでオーケーならば、書いても書かなくても、どっちでもオーケーという話ですから、何か有用な記事を書こうという気持ちではなく、無用の記事でかまわないから、心から湧き出してくる言葉を並べてみようじゃないか、というような塩梅で、この記事はつらつらと書いてみているのです。
若いころ作家になりたいなと思って、けれどもうまく文章が書けないでいるときに、「貝が貝殻を作り上げるように文章を書きたいものだ」と思ったことがあります。
養老さんちのまるちゃんのことを考えてこれを言い直すと、「猫が毛づくろいをするように文章が書きたい」ということになります。
あれこれ考えて、有用な文章を書こうとするのではなく、自分にとっての自然な所作としてただ淡々と文章をつづっていく。
そんな形でこれからも書き続けていけたらなと思っています。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
☆紹介した本
養老孟司「猫も老人も、役立たずでけっこう」(2018 河出書房新社)
今日は、ゆきにーさんの
・【質問への回答】ある程度は数字を気にしてもいいけど、ブログは好きなこと書けば良いんですよ。 - 超メモ帳(Web式)@復活
という記事からお題をいただきつつ、
「なぜネット上で文章を書くのか」 という言い尽くされた感があるけれども、語れば尽きることのない定番の話題について、新年らしくつれづれに書きます。
閲覧数についてゆきにーに質問したのはわたしでーす。 ゆきにーの実直で暖かい言葉に打たれました。 で、のんくら本です。閲覧数を上げるための基礎トレーニングでもしましょうか。 無駄に長いオレのブログ歴に、今年こそ磨きをかけて輝く宝石にするぞ! 突然ですが、沖縄そばと沖縄移住計画もどきの話です。 これがはてなブログ執筆における今年の課題3つです。 閲覧数についてゆきにーに質問したのはわたしでーす。 今日はゆきにーの記事にぼわんと影響を受けて、つれづれモード前回で書きます。
きっかけは、ゆきにーの
・一人で統合失調症のイメージ変えようなどと考えてたりしてたけどどうしようもない。 - 超メモ帳(Web式)@復活
という記事でした。
統合失調症という偏見がつきまとう「病気」をわずらうゆきにーが、その「病気」への偏見、メディアの扱いの偏りについて、淡々と気持ちを書いてらっしゃいます。
その中に、ブログ村の統失カテゴリーの話が出てきて、そこからの閲覧数は多くはないんだけど、量よりも質を大切にしているのだけど、順位が下がっているので今後どうしようか、という話がありました。
そこで、読者数400名を超える中堅どころのはてなユーザであるゆきにーに、「閲覧数などについて質問してみたい!」との思いがむくむくと湧き起こり、
閲覧数はどのくらいあるの? 閲覧数、気にしてますか? 閲覧元はどこが多いですか? と聞いてみたわけです。
ゆきにーの実直で暖かい言葉に打たれました。 すると早速お返事があり、
閲覧数は、ピーク時には30,000ほどあったが、12月は18,000ほど。 閲覧元の60%は検索流入。 「雑記ブログでは安定した定期的な更新頻度が重要」、「アナリティクスでどの記事が読まれてるか、検索ワードは何かのチェックはしているが、それで書く内容は変えない」 とのことでした。
こんなふうに箇条書きにしちゃうと味気なくなってしまいますが、これを答えてくださるゆきにーの言葉の調子が、落ち着いていて暖かみがあって、とてもいいんですよね。
少し引用させてもらいましょう。
ブログでは多くの人々の読まれるよりは、むしろリピーターを増やしていくのを心がけるのが肝心じゃないか?と思われます。のんくら本ではリピート率70%まで増やせ、と書いてありますけど、それぐらいまでリピート率を増やすとGoogleのアルゴリズム変動があっても安定したPV数が稼げます。そのためには雑記ブログでは安定した定期的な更新頻度なんかが重要じゃないかなーとは思いますね。
ぼくにはなかなか真似できないのですが、「少しでもそういう味わいを取り入れていく」というのが今年の課題の一つになります。
で、のんくら本です。閲覧数を上げるための基礎トレーニングでもしましょうか。 ぼくはネット界隈の事情にはうといもので、今回はじめてのんくらさんを知りました。
ゆきにーさんが、迷える子羊のわたしめに、
☆のんくら(早川 修) さんの「Google AdSense マネタイズの教科書[完全版]」(ソフトカバー、2018/11)
を紹介してくださったのです。
出版元の日本実業出版社の紹介ページで、のんくらさんはこんな風に語っています。
私が10年以上サイト運営に取り組んできた中で気づいたことは、自分本位でなく常にユーザーを中心に物事を考えることができていれば、たとえ時間がかかったとしてもGoogleから高い評価を必ず得られるということです。
短期で稼ごうとするサイトほどGoogleに嫌われる – 日本実業出版社 「ユーザ中心に考えれば、必ずgoogleから高評価を得られる」かというと、これはちょっと違うかなという気もします。というのは、googleと言えども、やっぱり営利企業ですから、大手のスポンサーの意向には配慮してるはずですし、実のところ各国政府の意向にも配慮しているはずです。
とはいえ、
ユーザは何を求めて検索しているのか、 googleはユーザに何を提供しようとしているのか、 という二点については、
「やっぱ日頃から意識しておいたほうがいいよな」 と改めて感じます。
一方、ゆきにーがのんくら本に注目しているのはこれとは真逆の部分で、
リピート率を70%まで上げる という話です。
ゆきにーはアクセス元の60%が検索流入ということなので、「リピート70%」はかなり高い目標ですよね。そもそものんくら本は、雑記型でなく、特化型のブログ向けの内容ですし。
そしてねこの60%検索流入って、ぼくからすると断然リピート率高く見えます。ぼくのブログは、ほっとくとすぐ90%以上が検索からになっちゃいますので。
ゆきにーおすすめの「安定した定期的な更新頻度」、これを大いに心がけたいところです。
さっき確認して感心しましたが、ゆきにーは昨年、一昨年とほぼ毎日更新してらっしゃるようです。すごい。
絶対ぼくには真似できません。
てゆーか、おととし本格稼働したこのブログ、初年119本、二年目87本しか書いてません。
しかも、まったく定期的じゃなくて、気分が乗ったときだけ。
なんだかんだで、それなりに閲覧数も増えてきたので、それはそれでよしとしますが、今年は少し趣向を変えて、週2本の更新を目標にしたいと思います。記事数は変わらなくても、定期更新のほうが読者のみなさまには親しみを持っていただけるかと思いますので。
というわけで、のんくら本についてはほとんど書けませんけれども、ただ煽るだけじゃない、しっかりした本であることは、各種書評からもびしびし伝わってきますので、今度日本に帰ったら購入してじっくり読むことにします。
「漫画版・警察官をクビになった話」の衝撃。新時代の漫画家ハルオサン誕生す!!
あれは2016年11月のことでした。*1
野生の天才児ハルオサンが、警察をクビになった体験談を引っさげて、はてな村からネット界へと、彗星のごとくデビューしたのは。
ブログの名前は「警察官クビになってからブログ」。
警察をクビになったエピソードだけでも十分衝撃的なのに、次から次へと繰り出されるブラック企業ネタ。
ハルオサンは、なんともアンハッピーな人生をネタとして、独特のユーモアと絵柄で読者を惹きつけたブログの内容に加筆・修正を加え、 2017年12月には KADOKAWA / 中経出版より
「天国に一番近い会社に勤めていた話」 という書籍も出版されています。
この記事では、まず簡単に「ハルオサンとは何者なのか」を簡単にご紹介してから、
「【漫画】警察官をクビになった話」のすごさ についてお伝えしようと思います。
ハルオサンって一体ナニモノ!? 「【漫画】警察官をクビになった話」はちょっと凄すぎるでしょう、ネット時代の「新しい波」が生まれたと思いますよ、こいつは!!! ハルオサンの超絶ヘタウマ画にしびれる。 何なの、この色使い、こんなの他で見たことないよ! コ、コマが、大きくなったり、小さくなったり……、してるぞっ。 これからのハルオサンの活躍が楽しみです。 ハルオサンって一体ナニモノ!? ハルオサンは自分が警察をクビになった話を書きたいがためにブログを始めました。
・【漫画】警察官をクビになった話 - 警察官クビになってからブログ
を読んだ方はすでにお分かりの通り、彼は子どものころに脳の病気になり、手術をして一命を取り留めたため、「障害」があります。
ハルオサン自身はそれがどのような「障害」であるかは書いていませんが、いわゆる「発達障害」だと考えればおおむね間違いないでしょう。
「警察官になる」という子どものころからの夢を実現しようと18年間努力をして、せっかく警察官として採用されて警察学校に入ったのに、その「障害」のために最終的に警察をやめざるをえなくなるわけです。
ここで読者のみなさんに一つの疑問が浮かぶかもしれません。
そんな「障害」がある人が、こんなに上手に話を書けるものかな? ハルオサンは、その文章も実に読ませますが、ヘタウマなイラストも絶妙のセンスで人の目と心を引きつけます。
そして、今度のとんでもない漫画です。
彼がブログを書き始めて間もないころ、「発達障害」についてよく知らず、「知能が遅れている」とか「能力が低い」とかいう先入観を持っている人の中には、
こんなものを「障害者」が書けるわけがない。やらせに違いない。 と決めつける人もいたくらいです。
けれども「発達障害」というものは、単純に「知能や能力が低い」というものではありません。
平均的な人が普通にできることができない一方、普通の人にはできないことが簡単にできてしまったりもするのです。
言ってみれば、「脳の使い方が違う」んですね。
ですから、警察学校では「人並みにできない」ハルオサンが、プロ並みに読ませる文章や漫画を書くことにも、まったく不思議はないことになります。
なお、ハルオサンの人生の詳細については、取るもの取り敢えず、彼のブログをご覧ください。
こちらの記事あたりから読むのがお勧めです。
・クソみたいな人生をまとめてみた - 警察官クビになってからブログ
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男であれば誰だろうと「おっぱい(巨乳)」という言葉に反応するだろう。
そして男が反応する以上、女だって「おっぱい(巨乳)」という言葉に反応せざるを得ないのだ。
ところであなたは「ナッジ」という言葉を知っているだろうか。
英語で nudge というのは、「肘でつついて軽くうながす」というくらいの意味だが、行動経済学では、
「強制的に何かをさせるのではなく、自発的にそれをするような選択肢を提供する」 というような方法論を意味する。
この記事では、月間100万PVを目指すあなたのために、いかにして「おっぱい(巨乳)」をナッジとして使うかを考えてみることにしたい。
実例: さいちゃんは「おっぱい(巨乳)」で1日37,000PV達成。月間100万も夢じゃないぞ。 なぜ「おっぱい」はナッジとして使えるのか。その生理学的な根拠と100万PVへのヒント。 人は見た目で出会いを決めるのか。出会いサイトのデータが語る真実。 実例: さいちゃんは「おっぱい(巨乳)」で1日37,000PV達成。月間100万も夢じゃないぞ。 軽やかな筆致でユーモアたっぷりのブログをつづっているさいちゃんの記事、
・【悲報】Googleはおっぱいに屈しました。Google推奨Chrome砲で1日3万7千PVを記録。 - さいちゃん、銀行辞めたってよ
は、みなさん読みましたか。
Netflix のリアリティ番組「テラスハウス軽井沢編」を
・テラスハウスを見て巨乳は絶対的正義ではないことが判明した - さいちゃん、銀行辞めたってよ
という記事で紹介したところ、Chrome砲の直撃を受け、1日37,000PVを記録したことをおもしろおかしく語ってらっしゃいます。
1日37,000PVですから単純にこれを30倍すれば、月100万PVを超えます。
もちろん現実はそんなに甘い予測を許してはくれませんが、「おっぱいの底力」を感じさせる実例として、まずは以上、紹介させていただきました。
なぜ「おっぱい」はナッジとして使えるのか。その生理学的な根拠と100万PVへのヒント。 人間がこの世に生まれ落ちて最初に求めるもの。
それがおっぱいです。
だがしかし、工業化された現代社会に生まれ育った我々の中には、不幸にもおっぱいと戯れる無邪気な幼年時代を経験することのできなかった者たちもいます。
粉ミルクの発明によって、幾多の不幸な子どもたちが生まれたことでしょうか。
そのことを考えると、胸が痛み、夜眠ることもできなくなるほどですが、その話はこのくらいで切り上げることにしておきましょう。
結局のところ、あなたが哺乳類として生まれてきた以上、女か男かなんてことはこの際一切関係ないってことなんです。
つまりあなたは、「おっぱいを求める者」としてこの世に誕生したのです。
そして世のヘテロセクシャルな男どもが、夜な夜なおっぱいを求めて、現実の夜の街へ繰り出し、ネットの広大な海原へと冒険の旅に出ること自体が、誰にも否定しようのない自然の摂理としかいいようがないではありませんか。
以上見てきたように、男性の視線というものは、ごく自然な反応としてて「おっぱい(巨乳)」に焦点を当ててしまうように幼年時代から条件づけられているのであります。(一部の例外を除く)
アムステルダムのスキポール空港では、小便器の内側に一匹のハエの絵を描き、
「人は的があると、そこに狙いを定める」 という「習性」を利用して
清掃費を8割も減少させること に成功しました。*1
そうであれば、あなたが自分の記事に
「おっぱい(巨乳)」という「的」を置くこと で、男たちの狙いをそこに定めさせることができるのは、ナッジ理論に照らし合わせて明らかとしか言いようがありません。
そしてです。
人間の注意を惹きつけるものは、決して「おっぱい」だけではありません。
あれだって、これだって、さらにはそっちのほうのものだって、やっぱり人間の注意を惹きつけてしまうというのが、この世界の現実なのです。
であるからには、どんなものが、人間の注意を惹きつけるのかを注意深く観察し、それを有効に利用することによってこそ、我々は「100万PVへの道のり」を一歩々々着実に歩いていくことができるのであります!
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※東大で行われた「姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク」について追記しました。
東大生ないし東大OGの「高学歴BL女性」と思われるみくさ (id:tomananaco)さんが書いた
・東大生強制わいせつ事件傍聴人が「彼女は頭が悪いから」を読んだから - 人生万事こじらせるべからず
という記事がとても面白かったので、その紹介をかねて、小説と現実の違い、知的エリートの心的貧困などについて書いてみようと思います。
東大生強制わいせつ事件とは? 姫野カオルコさんの「彼女は頭が悪いから」という小説 エム1容疑者の派手な暴行より、エム2容疑者のサイコパス性が核心か 「モテる東大生」というフィクションと、可哀想な東大生の現実 「東大生への下心」を嫌う東大生の蝶屈折心理 [追記 2018.12.15] 東大で行われた「姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク」について 東大生強制わいせつ事件とは? 2016年5月、5人の東大生が強制わいせつの疑いで逮捕されました。
5人は「誕生日研究会」という女性目当てのサークルの仲間で、そのうちの一人の部屋に被害者の女性を誘い、無理やり酒を飲ませて、わいせつ行為を行なったのです。
主犯格のエム1容疑者は、女性を全裸にした上で馬乗りになり、その状態でカップ麺を食べ、その具や汁を女性にかけて遊んだり、股間にドライヤーの熱風を当てるなどの暴行を加えたとされます。
被害者の女性は、共犯格のエム2容疑者と恋人関係だったことがあり、被害にあったときも、エム2容疑者とセックスフレンドの関係にあったようです。
何の罪もない女性をこうしてモノのように扱い、辱めることは、決して許されることではありませんが、こうした事件の背景にはどのような人間心理が隠されているのでしょうか。
姫野カオルコさんの「彼女は頭が悪いから」という小説 姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」(2018 文藝春秋)
という小説は、この東大生強制わいせつ事件を題材にしたフィクションです。
報道ではエム1容疑者の「鬼畜性」が全面に出され、「異常な東大生」がクローズアップされたのに対し、この小説では、
被害女性がエム2容疑者とセフレの関係にあったこと に焦点を当てることで、被害女性の心理に迫ります。
アマゾンの内容紹介では、
私は東大生の将来をダメにした勘違い女なの?
深夜のマンションで起こった東大生5人による強制わいせつ事件。非難されたのはなぜか被害者の女子大生だった。
現実に起こった事件に着想を得た衝撃の書き下ろし「非さわやか100%青春小説」!
横浜市郊外のごくふつうの家庭で育った神立美咲は女子大に進学する。渋谷区広尾の申し分のない環境で育った竹内つばさは、東京大学理科1類に進学した。横浜のオクフェスの夜、ふたりが出会い、ひと目で恋に落ちたはずだった。しかし、人々の妬み、劣等感、格差意識が交錯し、東大生5人によるおぞましい事件につながってゆく。
被害者の美咲がなぜ、「前途ある東大生より、バカ大学のおまえが逮捕されたほうが日本に有益」「この女、被害者がじゃなくて、自称被害者です。尻軽の勘違い女です」とまで、ネットで叩かれなければならなかったのか。
「わいせつ事件」の背景に隠された、学歴格差、スクールカースト、男女のコンプレックス、理系VS文系……。内なる日本人の差別意識をえぐり、とことん切なくて胸が苦しくなる「事実を越えた真実」。すべての東大関係者と、東大生や東大OBOGによって嫌な思いをした人々に。娘や息子を悲惨な事件から守りたいすべての保護者に。スクールカーストに苦しんだことがある人に。恋人ができなくて悩む女性と男性に。
この作品は彼女と彼らの物語であると同時に、私たちの物語です。
となっています。
小説では「分かりやすい物語」にするために、加害者のエム2容疑者が被害者を「愛していた」という設定になっていますが、現実にはそのような事実はなかったようです。
その辺りを、みくさ (id:tomananaco)さんの記事で確認してみましょう。
エム1容疑者の派手な暴行より、エム2容疑者のサイコパス性が核心か この事件では、逮捕された5人のうち、2人は示談となり不起訴、エム1容疑者、エム2容疑者のほかに、部屋を貸したケイ容疑者が起訴され、この三人には一審で執行猶予付きの有罪判決が下りています。
裁判の傍聴もした上で、みくささんは三人について、
私の主観だけで言えば、エム2容疑者はサイコパスクズ男、エム1容疑者は際限を弁えずにやりすぎてしまったバカ、ケイ容疑者は家を貸しただけの善人に思えた。
(原文で実名になっている部分は仮名とした。以下同)
と書いています。そして、
確かに、エム1容疑者とは面識はほぼ初対面だったのであるが、被害者女性はメンバーの一人エム2容疑者に惚れていた。飲み会の最中、松本から「こいつ俺の女だから」という旨の発言をされても強く否定しなかったという。
エム2容疑者は、彼女からの好意には気づいていたが、それに応じる気が無かった。当時本命の恋人もいた。何より彼自身の特性としてサイコパス気味だった。
人間、自分の興味の無い相手からの好意はうっとうしいものだ。そして、自分に惚れこんだ相手は「都合のいい」存在になり、軽んじる。
だからエム2容疑者は、飲み会の盛り上げ役として、この都合のいい女を持ってきた。
と述べ、派手な暴行をした主犯格のエム1容疑者よりも、共犯格のエム2容疑者の「サイコパス性」がこの事件の核心にあることを強調しています。
そうして、被害者の女性は
勘違いした女でも、セカンドレイプされるべき対象でもない。どこまでも、ひとりの普通の人間だ。
と、彼女にはなんら責任がないことが、はっきりと述べられています。
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ヤフーニュースで流れているプレジデント・オンラインの記事、
・通勤電車でバレる「幸福な人、不幸な人」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
に200ほどのブックマークされているのですが、そこについたコメントが記事の内容と「スレ違い」まくっているところが興味深いので、「エビデンス重視」と「ストーリー重視」という価値観の違いに関連して、一言書いてみます。
「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 自己肯定感の大切さについて、一言 「自己肯定感」の高さが、幸せな人と不幸な人を分けるってホント? - エビデンス・ゼロなんですけど...... 記事で紹介されているのは、心理カウンセラーの大嶋信頼さんが書いた
『「自己肯定感」が低いあなたが、すぐ変わる方法』(2018 PHP研究所)
という本です。
大嶋さんは、
自己肯定感とは「自分で自分のことをOKだ!」と思えることであり、生活のあらゆる場面で意欲や幸福感に影響を与えます。
というのですが、ここでどうしてそのように言えるのかという「エビデンス」については一切触れないという、「文系」の本ではありがちなアプローチをとっています。
そして、「混雑した電車の中で、周りの人を観察する」というシチュエーションで、自己肯定感の低い人の実例がいくつか示されます。
まずは、
「偉そうな態度を取っている人」 です。
「偉そうに見える」から「自己肯定感が高いかも」と思ってしまいがちですが、自己肯定感が高い人は「俺はすごいんだぞ」という態度をする必要はないので、こういう人は「自己肯定感が低いのだ」と主張します。
ここでもエビデンスはゼロです。
以下、
「混雑している電車の中でもゲームに没頭できる人」は、「ゲームに没頭していなかったら、将来の不安とか人間関係の問題が次から次へと浮かんでくるから、何も見ないようにしている」のであり、やはり自己肯定感が低い、 「同僚のフォローができる人」は、「同僚のフォローの形を取って、自分のアピールをしてるだけ」だから、これも自己肯定感が低い、 という具合に、「主観」だけで、話を進めていきます。
自己肯定感が高い人についても同様で、
「自然体」でいられる人からは「不快感」を覚えないのですぐに興味を失ってしまうのだけれど、そういう人は「威嚇もしないし、ビクビク感もなく、過剰に何かに集中している必要もない」から、自己肯定感が高いのだと、「散文的」に結論づけて、この記事は終わってしまいます。 これでは「エビデンス重視」の人が
「この記事なんなの?」 と思ってしまうのも当然ですよね。
プレジデント・オンラインの記事を書いたライターさんは、どなたですか? - でも、それにケチをつけているあなたの自己肯定感、大丈夫ですか!? 上に見た通り、プレジデント・オンラインの紹介記事は、エビデンスの点からは内容ゼロですし、ストーリーの点から見ても、続きを読みたくなるようなものではありません。
(内容としては特別間違ってるとは思いませんけど)
この紹介記事を書いたライターさんは、たぶんまだ修行中の方なのでしょう、がんばってください、としか言いようがありません。
(と、初め思ったのですが、ライターさんは指定の場所をただリライトしただけなのかもしれません。その場合、エディターさんのセンスの問題ですね。沈みゆく出版業界で、目の回る日々を送ってらっしゃるのだろうとは思いますが、エディターさんもがんばってんださいねー。)
でも、問題はそこじゃないんです。
その記事にわざわざ否定的なコメントをつけていらっしゃるあなたの「自己肯定感の低さ」が気になってしまうじゃないですか。
(余計なお世話の話しであり、ぼく自身の自己肯定感の低さがなせるわざでしょうけれども :-)
大嶋さんにならって言わせてもらえば、
「ネット上で目についたダメな記事にわざわざ文句をつけるような人」 は、みずから「自己肯定感」の低さを宣伝しているようなものです。
あなたのような人こそ、大嶋さんの本を読んで「自己肯定感」を高めてほしい......
......と言いたくなるところなのですが、そういう「エビデンス重視」のあなたには、大嶋さんの本は向きそうにありません。
あなたにおすすめの本は、「分裂勘違い君劇場」でお馴染み、ふろむださんの
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
です。
この本を読めば、自己肯定感なんて高めないでも、実力以上のあなたを演出できますし、なによりきちんとエビデンスつきですから、100%納得できること請け合いです。
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※ 参考記事 http://delete-all.hatenablog.com/entry/2018/08/17/190000
誰にでも苦い過去というものがある。
苦い過去の記憶を、苦いままに持ち続けて悪い理由もないのだが、その苦さに曇った結ぼれの記憶を、洗い浄めて水晶のように澄み切った結晶にすることもできる。
一度限りの人生を最大限に楽しむためには、苦労してでも知っておく価値のある命の技法だ。 この世に生まれ落ちて、誰かに頼らなければ生き延びることのできなかったぼくたちは、周りの価値観を手当たりしだいに飲み込まざるを得なかったのだし、そうやってエゴを育てることで、今のキミは創られてきたのだ。
けれどもエゴというものは奇妙な存在で、快楽を求めるがゆえに、不快な感覚にすら慣れ親しんで、そこからも快楽を得ようとする。
たとえば自己憐憫という甘い快楽だ。
どうしてあのときキミは、あんなことをしてしまったのだろう。
友だちのためを思って、優等生のキミは行動していたはずなのに、実際にはキミは友だちにウソをつき続けていたのだ。
友だちにだけではない、キミは自分にもウソをつき続けていたのだ。
だからキミはその友だちに「嘘つき」と呼ばれたときの、恥ずかしいような逃げ出したいような気持ちを忘れることができず、その気持ちを思い出しては自己憐憫に浸ることになる。
そうして、その自己憐憫を抱え続けている間は、キミは自分を欺く人生を生き続けるのだ。
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自己憐憫とは「偽りの自分」を甘やかし、「本当の現実」からキミの目を背けさせるための甘い誘惑だ。
一度限りの人生を心の底から楽しみたいのなら、そんな自己憐憫に浸っている暇はない。
過去の自分の罪悪感など、その気になればいつでも捨て去ることができる。
そのことをまず、キミは思い出さなければならない。
記憶というものは結局、脳神経に刻み込まれた動的で複雑怪奇なパターンにすぎない。
手品のようにそのパターンを、一瞬のうちに書き換えることはできないが、それを変えようとキミが本気で望むのならば、丸ごと捨て去ることだって不可能ではないのだ。
キミはまず、子どもだった自分が、自分を騙し、友だちを騙しながらも、ベストを尽くして生きてきたことを思い出さなければならない。
「子どもだったキミの限られた経験値の中では、あのとき自分に正直になった上で、友だちにも正直に接することはできなかったのだ」
という過去の現実を、罪悪感なしに客観的に見ることが、大人になったキミには可能だ。
「自分は嘘つきで友だちに責められるダメな人間だ」
という記憶を
「子どもだったぼくには嘘をつくことしかできなかったけれど、そこから学んだぼくはもう嘘をつく必要はない」
という新しい記憶に置き換えてやればいいのだ。
そのとき「嘘をついた自分」に「嘘つき」と言ってくれた友だちの姿は、光り輝く大切な記憶となって、キミの心の奥底にしまわれて、いつもキミに生きる力を与えてくれる存在になるだろう。
過去を書き換える方法を知らないキミは、今日も自分に嘘を言い続けている。
うんざりしながらも、他人に親切な振りをして、自分の心をすり減らし続けているのだ。
そうして自分にはこのやり方しかないのだと、自己憐憫の甘い快楽に浸り続ける。
けれども過去を書き換える方法が分かった以上、いつまでも昨日のやり方にしがみつく必要はない。
キミが他人に親切にするのは、誰かから押しつけられた価値観によってではなく、それがキミにとっても気持ちよいときだけにするのだ。
無意識のうちに取り入れてしまったルールを一つひとつ検討し、記憶と行動のパターンを再構成してやるのだ。
あせらずにできる範囲で、できるところから、自分の記憶を書き換え、自分の行動を置き換えていけばいい。
話としては簡単でも、実行はもちろん難しい。
満足できるところまで書き換えるのには、うんざりするような長い道のりが待っているかもしれない。
それでもキミは、今からその道のりを歩み始めるのだ。
自分の人生に納得できないのは、自分に嘘をつき続けてきたからだと、キミはもう知ってしまったのだから。
最高の人生を生きるためには、それ以外の道はないことに気づいてしまったのだから。
はてな村の名エッセイスト、フミコフミオさんの
・なぜ仕事に好き/嫌いを持ち込むの? - Everything you've ever Dreamed
が、なかなか素敵に心を揺さぶる文章だったので、感想を書きます。
仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんに共感するはてな村の人々 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんは件の記事で、
仕事に「好き・嫌い」を持ち込み、 「このクライアントは好き」とか「あそこは苦手」とか言う 部下のことを、「なんでそんなアッピールをするの?」と不思議がっています。
「どうせやらなきゃならない仕事なんだから、言うだけ無駄だろ」と言うわけです。
そして、「好き・嫌い」を仕事に持ち込む人の心理が自分には分からないのは、自分は仕事のすべてが嫌いで、嫌いだからこそ、「効率的に、うまく、短時間で」やろうとするのだ、とおっしゃっています。
フミコさんに共感するはてな村の人々 ブックマーク・コメントを見ると、フミコさんの気持ちにうったえかけつつも、抑えた独特の筆致に、はてな村の少なからぬ人々が共感していることがよく分かり、興味深いところです。
「あのクライアントは好きだ」とか「こっちのは苦手だ」とかいうような、世間ではありがちな「気持ち優先」な人たちに対して、違和感を抱くようなタイプの方がフミコさんのファンには多いということなのでしょう。
もちろん一部の人は、そんなフミコさんを「人の気持ちが分からない非人間」のように類型化して捉えて「揶揄」の言葉を投げかけるのですが、百戦錬磨のフミコさんにとっては、そんな小さな「悪意」など、特に気にするほどのものではないようです。
仕事が嫌いすぎるので出来るだけ楽にやりたいと言いたいだけの文章です。好きなことを仕事にしてる人を揶揄するつもりは全くございません。
というコメントをご自分で書き込んで、誤読による否定的コメントに対応してらっしゃいます。
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仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? クライアントが「好き」か「嫌い」か、を口に出すことで気分が楽になる人は、確実にいます。
ですから部下がそういうことを言っている場合には、上司は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
同じように「仕事の好き・嫌いを持ち込む部下に疑問を感じる」という人が、そうした考えをブログに書いていたら、それでその人は気分が楽になっているはずですから、外野の人間は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
そして、仕事に「好き・嫌い」を持ち込まないほうがすっきりしていい、と言うあなたの場合、いっそのこと
人生からも「好き・嫌い」をなくしてしまったほうがいい かもしれません。
これは冗談でも皮肉でもありません。
マインドフルネスという名前で現代に蘇った、お釈迦さまことゴータマ・シッダールタさんの瞑想法というのは、実のところ、
「好き・嫌い」なんてなくしたほうがハッピーに生きられるよ、 っていう話なんですから。
マインドフルネスの基本的な考え方は、
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」 にあります。*1
つまり、瞑想の練習をすることでマインドフルネスの状態に慣れ親しみ、「好き・嫌い」という生まれたときから無自覚に作り上げてきた「重い鎖」を手放すことができれば、人生、すんごく楽になれちゃうって話なんですよ。
というわけで、瞑想について興味のある方は、こちらの記事をお読みください。
・効果・実感もばっちり、とっても簡単な瞑想の方法おしえます - 24 時間の瞑想術
反航路 (id:giveus) さんの記事
・机の上にある絵 - いのちばっかりさ
を出発点に、つれづれに考えたことをしるします。
メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する ぼくには三つ年上の兄がいるのですが、その兄が中学の工作で、ドクロと "memento mori" という文字を彫った小さな木箱を作っていたのを、四十年以上たった今でもよく憶えています。
反航路さんが、「メメント・モリ=死を想え」というフレーズに、どんな想いを込めているのかは知る由もありませんが、その言葉が「いつも手を伸ばせば届くところ」にあるという共通点に、いくばくかの「縁」というものを感じて、そこを出発点に文章をつづってみている次第です。
ぼくが好きなアメリカの作家カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズには、"death as an advisor" という言葉が出てきます。死を助言者にしろ、というわけです。
カスタネダが弟子入りしたメキシコの呪術師ドン・ファンは、「死」というものが、いつでも左後ろを振り向くと「そこにいるのだ」と言います。
そして、その存在を忘れず、「死」を助言者とすることで、よりよく生きることができるのだ、と。
この言葉が第一に意味するところは、
人間というものは、いずれ遠からず死んでしまうのだから、今を精一杯生きるべきだ、 ということです。
日常というものに慣れ親しんでしまい、日々をのんべんだらりと生きてしまいがちなぼくたちにとって、一瞬一瞬を十分に味わってしっかりと生きるために「死」を意識することは、確かに大切なことでしょう。
一方で、仏教的な「無常」という観点から見ると、
やがては「死」で終わるのだから、「無常」でしかないこの世の価値観にとらわれることなく、自由に真実の命を生きよ、 という解釈も成り立ちます。
自分で望んで生まれたわけでもないのに、わけの分からない世間のしがらみに縛られて、砂を噛むような毎日を過ごしていると、なんのために生きているのかも分からなくなり、
さっさとこの世から消えてなくなりたい、 というような思いも湧いてきます。
そんなとき、自分が縛られていると思っている「世間のしがらみ」というものが、本当のところは実体のない、ただ移ろいゆく「観念」の集まりにすぎないことを思い出すことができれば、その「観念」を手放して、肩から力を抜き、全身をゆるめて、
心も体もゆっくりと休めるだけの「小さなゆとり」を持つこと だってできるはずです。
ぼくらを縛っている「観念」というものが移ろいゆく「無常」のものであるのと同様、ぼくらの「命」自体もまた移ろいゆく「エネルギーの流れ」にすぎません。
それはやがては「死」によって終わることになる「他愛のない自然現象」にすぎないのですから、それにまとわりついて今ここにある「しんどさ」もやはり「どうということのない」移ろいゆく自然現象にすぎません。
雨降りが嫌いでも、降る雨を止められないように、「しんどさ」を嫌っても、それを止めることはできません。
雨が降ったら、降り止むのを待ち、あるいは濡れないように傘をさします。
同じように、今ここにある「しんどさ」も毛嫌いすることなく、ただ認めてやり、それが自然に消え去っていくだけの時間と注意を与えてやればいいだけのことです。
そうやって「不快な感覚」を毛嫌いすることをやめられれば、そのもととなっている「観念連合」も弱まり、やがてはほどけていきますから、今はあなたを執拗に縛っている(としか思えない)「観念連合」の全体ですら、いずれはまったくなくしてしまうことだって、理論的には可能なことなのです。
こんなことを書いているぼくの頭の中にも、自分を縛りつけている「観念連合」はまだまだたくさんあるのはもちろんですが、こうして「死を想え」という言葉を思い出すことで、少しずつ心の奥底に溜まった澱をきれいにしていけたらなー、などと思いながら、こんな文章を書いているわけでして。
ですから、「人生を謳歌する」というような境地には、なかなか達することができないのですが、いつかはそんな境地に達することを願って、「一歩いっぽ歩いていくしかないのよね」という当たり前の結論を書いて、この短い記事はおしまいにします。
なお、カスタネダのドンファン・シリーズのうちでは、四冊目の
☆「力の話(新装・新訳版)」(2014 太田出版)
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がおすすめです。
これ一冊で十分完結していますので、西洋的な合理主義とも、東洋的な世界観とも違う、また別の価値観に興味のある方は、一読してみると必ず得るところがあるものと思います。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
はてな匿名ダイアリーの
・人生何者にもなれなかった、けど
という記事がとてもよい文章だったので、今回はそれにまつわる話です。
ナニモノくんの嘆きと悟りと可能性 世間の目と自分の目 - 何者にもなれないことを反芻する - fujiponさんの場合 主観的なニーズの変形と、「何者かになった」のに「何者にもなれなかった」人だっているという現実 - シロクマ先生の分析 ナニモノくんの嘆きと悟りと可能性 件のダイアリーの書き手をナニモノくんと呼ぶことにしましょう。
ナニモノくんはもうじき大学を卒業して就職します。
このダイアリーは、何者かになりたいとあがいてきたそんな彼が、もう何者にもなれないことを自分に納得させようとして書いた、ひとりボケつっこみなストーリーです。
ナニモノくんはこの記事の追記で、「こんなクソみたいな文章」と自己卑下して見せるのですが、何をおっしゃる兎さん、彼の文章はかなり読ませる技巧派のものです。
本人が言うとおり、「書いてる事しっちゃかめっちゃか」な文章ですので、メジャー受けするものとは言えませんが、もうひと捻り、ふた捻りすれば、メタフィクションとして成立する可能性のある、二人称と一人称が入り混じり、いい塩梅にねじくれた文章と言えましょう。
熱情と嘆きの間を往還し、最後には悟りの片鱗すら見せるダイナミックなバランス感覚には、将来花開くかもしれない原石の魅力があります。
さてその内容ですが、ナニモノくんは、周りの友だちと比べて、自分を否定します。
周りの友だちは、ちょっと努力するとどんどん上達していくのに、自分は自分なりに頑張っているのに、ちっとも上達しない、才能がないんだ、と。
でもナニモノくんは、ないものねだりをしてるだけなんですよね。
周りの友だちは多分、時流に合わせることができる標準的な才能がある人たちだったんでしょう。
そういう人たちの多くは、やっぱり何者にもなれずに、普通の大人になっていきます。
ナニモノくんは、それなりの才能は持っているのに、他の人の目でしか自分を測ることができないから、自分の良さが全然わかってないんです。
あなたには十分な才能があります。
マイナー道半世紀のぼくが保証します。
ぼくが保証したからといって、きみが何者かになれるわけではないけれど、きみがあきらめずに「表現」を続けるならば、何者かになれる可能性は、きみの人生が続く限り、いつだってあり続けるんです。
とはいえ、何者かになろうと思って「表現」をするのは、もういい加減やめたほうがいい時期に、ナニモノくんは差し掛かっているのでしょう。
何者かになれた人たちのうち、少数ではありますが、何者かになろうとしたわけではなく、好きなことをしているうちに自然に何者かになった幸福な人たちもいます。
ナニモノくんが目指すべきなのは、そうした「幸福な少数者」です。
でも、こんなことはぼくが言うまでもないことですね。
ナニモノくんは、とりあえず「善く生きる」ことこそが大事なんだと、ちゃんと分かっているんですから。
ナニモノくんは、生きている限り「表現」を続けることでしょう。
「善く生きる」こと自体が「表現」であり、すべての人間にとって、自分の人生こそが最大の「作品」です。
この世に生まれ落ちて、山あり谷ありの一生を送る。そうやってでき上がった「人生という名の作品」を残していく我々すべてが、人の目にどう映ろうと、確かに「何者か」として生きたことになるのだと思います。
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世間の目と自分の目 - 何者にもなれないことを反芻する - fujiponさんの場合 fujiponさんが