どうしてマインドフルネスの練習をすると人生が楽しくなって、仕事もできるようになるのか、今日は超絶簡単に説明してみます。
好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 なぜ「好き嫌い」をなくすと、「悩み」もなくなるのか。 「好き嫌い」をなくすなんてできるの? 「好き嫌い」をなくしたら、人生味気なくなりそうなんだけど……。 はじめは3回の深呼吸だけでオーケー。マインドフルネスの練習の基礎の基礎。 仏教と瞑想・ヴィパッサナー・マインドフルネスの関係。 最後にひとつだけ注意点を。魔境に入り込まないために。 好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 マインドフルネスという方法論は、
「今自分に起こっていることを、価値判断せずにただ観察すると、悩みはやがて消え去っていく」 という、あまりに簡単すぎて
「いきなり信じろと言われても困っちゃうなー」 的な人間心理の原則にもとづいています。
「価値判断をしない」ということを言い換えてやると、
「好き嫌いをしない」 ということになります。
というわけで、マインドフルネスの練習をすると、
「好き嫌いがなくなって、すると悩みもなくなり、つまりは人生楽勝モードになっちゃう」 という話なんですね。
「悩み」がなくなっちゃうんですから、仕事も人生も、それまでより充実するのも当然です。
とはいえ、いくらなんでも話が簡単すぎて、「そうは言われてもなー」と思われる方も多いでしょうから、もう少し説明を続けましょう。
なぜ「好き嫌い」をなくすと、「悩み」もなくなるのか。 「悩み」というのは、「いやなことが起きてしまったけど、どうしたらいいだろう」とか、「いやなことが起こるかもしれない、どうしよう」とかいったように「いやなこと」によって引き起こされます。
ですから「いやなこと」をなくしてしまえば、「悩み」もなくなります。
つまり「いやなこと=嫌い」をなくせばいいわけです。
ではどうして「好き」もなくしたほうがいいのでしょうか。
それは「好き」があると、その
「好きなことが得られないことが『悩みの種』になる」 からです。
結局「好き嫌い」をなくせば「悩み」もなくなることになります。
「好き嫌い」をなくすなんてできるの? 「好き嫌い」をなくせば「悩み」がなくなるのは、分かっていただけたとして、果たして「好き嫌い」をなくすなんてできるのでしょうか。
これは確かに簡単なことではありません。
ぼくたちは生まれてからずーっと長い時間をかけて、無自覚に「好き嫌い」を作り続けてきてしまったのですから、それを
「『好き嫌い』は今日からやめた」 といって、簡単にやめられるものではありません。
けれども、もしあなたに「やる気」さえあれば、「好き嫌い」を少しずつなくしていくことは可能です。
そしてその基本原理は
「今自分に起こっていることを『価値判断せずに観察する』」 という、ただこれだけのことなんです。
どうしてこれだけで「好き嫌い」がなくせるかというと、そもそも
あなたは自分が何を好きで何を嫌いか、「本当は何も分かってない」 からなんです。
「そんなアホな」と思うでしょうか。
もちろんあなたは「自分はこれが好きで、これは嫌いだ」と説明することはできるでしょう。
けれどもそれはあなたの「理性」が言葉で説明していることに過ぎず、氷山の一角にすぎません。
あなたが「本当のところ何を欲していて、何を避けようとしているのか」は、実のところ、「自分の体に起こる反応」を細かく見ていかないと分からないのです。
これは心理学的な実験によって確かめられていることですが、人間が自分の気持ちを知ることができるのは、まず自分の体に反応が起こるからなんですね。
体の反応を無意識のうちに察知して、それによって人間は
自分は今怒ってる、とか 自分は今悲しい、とか 感じるようにできているんです。
ですから、「今自分に何が起こっているか」を丁寧に観察する練習をすることで、自分の「好き嫌い」を体の反応のレベルで知ることができるようになったときに初めて、あなたは自分の「好き嫌い」を手放し、同時に「悩み」も手放すことができるようになるのです。
ちょっと話が難しくなってきたでしょうか。
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『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
みなさんはもう読まれましたか?
著者のふろむださんは、「分裂勘違い君劇場」という知る人ぞ知るモンスターブログの書き手なのですが、この本では、大学で専攻した心理学の知識をもとに、さまざまなデータを駆使し、
社会で成功するためには「錯覚資産≒人を勘違いさせる能力」がものをいうのだ、 ということを、実社会での豊富な経験も交えて、大変わかりやすく解説してくださっています。
「錯覚資産」というのはふろむださんの造語で、心理学の世界では有名な「ハロー(後光)効果」に代表される、自分が有利になるように「人に錯覚してもらう」能力を経済学的な「資産」に見立てたものです。
人間なら誰でも落ち入ってしまう「思考の錯覚」が「資産」になりうるとすれば、どうしてそんなことが可能なのか、そしてそれをどうやって使えばいいのかを知ることは有意義に違いありません。
「錯覚資産」を十分理解し、使いこなすことの重要性については、ふろむださんの著書
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を読んでいただくとして、この記事では、
錯覚資産の裏に隠されている、 あなたの人生を根底から変える力を秘めた、 錯覚負債とは何なのか、 を簡単に書いてみたいと思います。
錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 人はなぜ「錯覚資産」に魅力を感じてしまうのか。プロスペクト理論の恐ろしさについても一言 「『錯覚負債』の棚卸し」こそがあなたの人生を幸せにする 「錯覚負債の棚卸し」のための基礎体力をつけよう - 呼吸と瞑想とマインドフルネスの科学 まずは三回の深呼吸から。奥深いマインドフルネスと瞑想の世界へのご招待 錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 「錯覚資産」とはある意味「はったり」の力とも言えます。
あなたにどんなに実力があっても、その実力を他の人に認めてもらえなければ「宝の持ち腐れ」ですから、そのためには「はったり」を使ってでも、あなたの実力を誰かに「使ってもらう」必要があります。
あなたが社会的に「成功」したいと思い、その「成功」のために自分のスキルを上げようと真剣に願うのであれば、この「はったり」の心理学と経済効果をよく知ることは、素晴らしい武器となることでしょう。
けれどもここでよく考えてほしいのは、
「社会で成功する」って、そんなに簡単なことじゃないよね、 っていう、すんごく当たり前の話なんです。
あなたは「成功するために毎日努力するタイプ」の方ですか?
もしそうなら、
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を今すぐ買って勉強し、実践したら、役に立つこと請け合いです。
そうでないならば、あなたにとっては錯覚負債について知ることのほうが、「はるかに重要」になってくるかもしれません。
「錯覚資産」は、
「自分が有利になるように『人』に錯覚してもらう能力」 のことでした。
これに対して「錯覚負債」は、
「自分が不利になるように『自分で』錯覚してしまう『負の能力』」 のことです。
ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、
あなたの人生、「自分にとって損な思い込み」でいっぱいじゃないですか? ということです。
自分の能力に限界を設定して、現状に甘んじたり、 自分が変われば改善できる人間関係を、相手が悪いんだと思い込んで、そのまま放っておいたり、 変えちゃったほうがいい「損な思い込み」って、相当あるんじゃないでしょうか。
というようなところから、どうして錯覚資産を増やすよりも錯覚負債を減らすほうが大切なのか、もう少し詳しくみていきましょう。
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「瞑想」なんていうと難しく感じるかもしれませんが、初めての人は、
楽な姿勢で、自分の呼吸に注意を向ける というだけのことを、一分でも二分でも、自分に無理のない時間続ければいいだけで、実は簡単なことなんです。
呼吸に注意を向けると言っても、長い間ずっと向け続けるのはすごく難しいことです。
雑念が湧いてきて、あれこれ考えている自分に気がついたら、「雑念が湧いてるなー」とだけ確認して、また呼吸に注意を向けます。
瞑想の一番シンプルなやり方としては、ほんとにこれだけです。
雑念が湧くこと自体は自然なことですから気にする必要はなくて、静かに座ることにだんだん慣れてきて、三十分くらい気楽にできるようになれば、「初心者卒業」といったところでしょうか。
さて、友だちのyoruさんが、こんな記事を書いています。
早朝、瞑想のために座っていると、たまにこのままずっとこうしていたいというような、多幸感が訪れることがあります。
それはとても幸せな時間なのですが、もしかしたらその感情にとらわれてはいけなくて、さらに呼吸を感じてゆくのが良いのかもしれません。
https://ameblo.jp/kaz32i/entry-12388321765.html 「感情にとらわれないほうがいい」のは確かなのですが、「感情をしっかり味わうことも大切」です。
呼吸に意識を向けるのには、心を静める役割があるので、そうして心が静まった結果「喜び」の気持ちがやってきたときには、その気持ちが「体にどんな感覚をもたらしているか」を落ち着いて見てやればいいんですね。
「この喜びが続けばいいなあ」と思ってる自分がいれば、「今自分はそう思ってるなー」と観察すればいいし、そうした様々な感覚や思いがやってきては去っていくのを見守りながら、
「なるほど、この世の全ては変化を続けている、これが無常というものか」 というのを確認していくことで、やがて「とらわれ」というものが減っていき、「エゴ」というものが落ちていく……。
というのが、ありがたいお釈迦さまの教えというわけなのでした。
ところで、日本に伝わる大乗仏教にもいろいろな味わいがあってぼくも好きなのですが、ここに書いたような初期仏教の教えを知るためには、中村元さんが口語訳したパーリ語の経典、
「ブッダの言葉」https://amzn.to/2KGkCg9
「真理の言葉」https://amzn.to/2z7kMZj
などがとても参考になるのでお勧めしておきます。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬
この記事のひと言まとめ: ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。
この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。
* * *
みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。
今日は、wattoさんの
・漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ
という少し前の記事の中の、
我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか
という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。
「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。
漱石、三島、筒井 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術 漱石、三島、筒井 wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。
「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。
今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。
厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。
wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。
私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。
↓ ↑
私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。
定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。
この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、
二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。
ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。
親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。 掃除をしないと、なぐられる。 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。 子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。
多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。
親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。
*1
こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。
なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。
そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。
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厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。
(厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....)
「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、
個を超越して、集合意識に達すること であると言ってかまわないでしょう。
この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。
(「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども)
ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。
はてな村のみなさん、こんにちわ。
別サイトにしてありますが、ぼくはこんな「怪しい」記事も書いてます。
・瞑想で、無限の時間を、あなたのものに。 - 24 時間の瞑想術
瞑想が深まると、「今」という瞬間が「永遠」になるので、無限の時間が得られる、という趣旨です。
この記事では少し違った角度から、瞑想で無限の時間を得られるのか、ということを考えてみます。
科学的といっても割と数学的な話で、時間が連続なら、一分間も永遠も同等と見なせるから、やっぱり無限が手に入っちゃうよね、というような話です。
0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 でも、時間ってほんとに連続なの? 知覚・認識の最小時間はどうなの? 時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 さてみなさん、0から無限までの数を考えてみてください。
0、1、2、という自然数だけじゃなくて、0.1, 0.01, 0.001 というような少数も含めての話です。
割り切れない少数、1/3 とか 1/7 とか、そういうのも全部含め、さらには、平方根とか円周率とか自然対数とか、分数でも表せないような数も含めます。
そうやって、作り上げた数、実数というのは、連続で切れ目のないものになります。
この連続な実数の観点から見ると、0から1までと、0から無限までは、同じ濃度を持っていて、それぞれの数に一対一の対応をつけることができるんですね。
ですから無限(ここで言っているのは、数学的には非可算の無限ということになります)という、人間には非常につかみ難い概念を考えるとき、0から無限、ということを考える必要はなくて、0から1までのことを考えれば十分ということになります。
これを時間にあてはめたとき、人の一生は有限ですけれども、その中に無限を見出すことが可能になりますし、もっと言えば、一分、一秒の中にも無限を見出すことが可能になるわけです。
以上、ぼくは数学、あまり得じゃないので、かなり雑な話です。おかしなところがあったらごめんなさい。
でも、時間ってほんとに連続なの? 現代の物理学では、時間は不連続なものとして扱われるようです。
量子力学的な世界観では、観測の限界というものがあり、これ以上短い時間については観測できない、という限界があるんです。
プランク時間と言って、wikipedia によると、
5.39116(13) × 10 ^ −4 4 秒
となっています。
( 「^」 はべき乗の意味。小数点以下0が44個続く、めっちゃ短い時間ということです)
けれども、これは物理的な観測限界の話であって、ぼくたち人間が知覚・認識できるレベルとはかけ離れた世界の話です。
ですから、ここでの議論としては、時間は連続として扱って差し支えないでしょう。
知覚・認識の最小時間はどうなの? 知覚については、聴覚、触覚、視覚の順で長くなって、0.0045〜0.03秒程度、
認識できる時間の最小単位は脳内の神経振動によって決まり、0.03秒程度、
脳内で感覚情報は3秒単位でまとめられているため、「現在」として意識されるのは、3秒単位、
という研究結果があるようです。
この辺の話は、こちらのページに詳しく書いてあります。
・知覚の時間錯覚効果:日々の覚え書き
時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 前節で「現在意識」は3秒単位という話を書きましたが、ぼくたちは1秒、2秒、3秒、と数えられるんだから、ある知覚情報のまとまりとしては、3秒というのが意味をなすのでしょうが、実際にはもっと短い単位で時間を認識していることは間違いないでしょう。
そして、瞑想の練習を深めていくことで、とても短い時間感覚の中で、自分の体の中にさまざまな反応が連鎖的に起こっていることが、だんだん分かってきます。
もちろん知覚の限界はありますから、それ以下の時間単位については、知りようがないのですが、瞑想によって「無駄な思考」が減ることによって、
脳内で無数に同時進行している「計算」が自分に与える影響を、以前よりも精密に「認識」することができるようになり、結果として、同じ1秒の「密度」が何倍にも感じられるようになるんですね。
そのとき、「現実の知覚の最小時間がどうか」ということではなく、「実感としての最小時間」はいくらでも小さくなっていきます。
それを数学的に「無限」というわけにはいかないでしょうが、
「練習次第で、時間の最小単位は『いくらでも小さくできる』し、
時間の密度は『いくらでも濃密にできる』」
のですから、普通にいうところの「無限」と考えることができるだろうと、いうことなのです。
だいぶ雑な議論ですので、うまく説明できたか不安なところですが、以上で、「瞑想をすることで無限の時間が手に入る」という命題の証明の概略とさせていただきます。
ちなみに、みなさんが瞑想の練習をして「無限の時間」を手に入れたとしても、その時間を「無限のお金」を稼ぐために使ったりしたら、だめですよ。
瞑想は心の浄化のためにあります。
瞑想の副次的効果として「無限の時間」が手に入った場合は、利己心を捨て、生きとし生けるもののために、その時間を使ってくださいね。
それが、仏の慈悲心であります。
てなわけで、おあとがよろしいようで。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
のっけから妙な話で恐縮ですが、汚かったり、不衛生だったりするのが苦手なあなたにはインドはおすすめできません。
そんなあなたの場合は、はじめはタイくらいが無難でしょう。何より日本から近いですし、異国情緒は十二分にありますし、カレーも食べられるし、瞑想もできます。
けれども今日はタイの話じゃなくて、インドのカレーと瞑想の話です。
人生に疲れたからと言って、気軽にインドまで旅をするわけにもいかないかもしれませんが、心だけでも旅に出れば、少しは気も晴れるというものです。
タイトルに関わらず、特に入門記事にはなってませんのであしからずーーっ。
カレーの話 瞑想の話 カレーの話 ・http://dimofsoul.mitona.org/indo-no-sora-ni-sita
という記事で、インドに「カレー」や「カレー粉」はあるのか、という話を書いたら、はてなブックマークの「あわせて読みたい」の欄の
・北インドカレーと南インドカレーが全く違う理由を調べてみたらインドに行きたくなった - ソレドコ
という記事が目についたんですよ。
綺麗な写真もいっぱい使ってあり、スパイスに関する情報などもこまごまと書いてありますので、インドカレーに興味のある方はどうぞご一読を。
で、その記事では、
北インドカレーは「濃厚」で「ガラムマサラ」を使う 南インドカレーは「シャバシャバ」で「辛味」が効いている と表現しています。
そして、北インドと南インドのカレーの違いとして、インド人シェフの
「北インドは寒いからこってりしたカレーが、南インドは暑いからさっぱりしたカレーが食べたかったからなんじゃないか」
という言葉が紹介されています。
まあ、そうかもしれません。
でも、北インドの料理でも、豆のカレー(ダル)はかなり汁っぽいことも多いですし、豆のカレーでも、街によって辛かったり、そうでもなかったり、ほんとにいろいろなんですよね。
そして、北のヒンディー語圏と、南のドラヴィダ語圏では、同じヒンズー教文化とはいっても、文化的にもかなりの違いがあり、食文化もまったくといっていいほどの違いがあるんです。
しばらく前にネットを見ていたら、
「インドというのは、ヨーロッパ全体が一つの国になったくらい、州ごとの文化が違うのだ」
という表現を見かけて、なるほどなー、と思いました。
南インドのタミルナドゥ州に行ったときのことですが、現地のおじさんが話しかけてきて、
「お前はどこから来たんだ、日本か、オレはタミルだーっ、がははははっ」
とという感じなんですね。
アイデンティティがインド人じゃなくて、タミル人なんです。
というわけで、食べ物の違いは風土の違いからくるのも当然ですが、風土の違いから生む文化の違いがベースにあるんだよねー、という話でした。
日々の暮らしに疲れたら、辛いカレーでも食べて体に喝を入れるのも、いいかもしれませんよ!?
えっ、辛いものは苦手?
間違って辛いものを食べちゃったときは、ヨーグルトが効くのでお試しを!!
瞑想の話 雷理さんの記事、
・「周りの人たち瞑想」のススメ - 無知の知ノート
が面白いなーと思いました。
気分が凹んだときには、周りの人たちの人生を思ってみたらいいよ
って話です。
周りのいろいろな人の人生のことを、ぼんやりとでいいからいろいろ想像してみると、
みんなも頑張ってはるし 私も頑張ろっ♪ ってなる
って気持ちになるんですって。
ぼくがやってるゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想でも、慈悲(メッター)の瞑想というのがあって、これは、まず自分の幸せを祈り、次に周りの人の幸せを祈り、最後に生きているものすべての幸せを祈ります。
具体的に周りの人の人生を思うわけではないのですが、とても近いニュアンスを感じます。
瞑想の基本は、呼吸を見ること、体の感覚を見ることなどで、雑念を消していくことにあるのですが、雑念が起こること自体は自然なことなので、無理に消す必要はありません。
雑念に気づいたら、呼吸に戻る、体の感覚に戻る、ということを坦々とやっていけばいいだけなんですね。
ぼくのやってる瞑想は自己流で、相当いい加減ですから、最初の頃は、気にせず雑念に身をまかせていました。そうすると、自然と周りの人のことが頭の中に浮かんできて、その人との関係性が、それまでは気づかなかった角度から見れたりして、新たな発見があったりするんですよね。
こういうのも、副次的なものではありますけれども、瞑想の一つの効果ということになりましょう。
というわけで、わざわざインドまで来なくても、瞑想は自宅でもできますので、寝る前に寝床の中で五分間だけでも、気が向いたらやってみてください。
瞑想についてはこちらの記事
・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編 - 24 時間の瞑想術
でも書いてますので、よろしく。
てなわけで、ちっとも「入門」になってないいい加減な記事に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、みなさん、ナマステジーっ♬
はてな村のみなさん、こんにちわー。
今日は仏教とSFの話の抱き合わせだよっ。
たった一生で涅槃に到達できる!! 4つの真理と8つの方法をお教えします♬ 蝶おもしろSF小説「星を継ぐもの」のご紹介 たった一生で涅槃に到達できる!! 4つの真理と8つの方法をお教えします♬ 4つの真理を知って、 8つの方法を実践すると、 もう生まれ変わることのない悟りの境地に到達できる、 これがお釈迦さまの教え、仏教の根本ですよね。
「そんな抹香臭いこと、おいらにゃ関係ないよ」というそこのあなた。
そうは言っても、人生「ままならないこと」が多いじゃありませんか。
(4つの真理の第一、この世は「ままならないこと=苦」で満ちている)
その「ままならないこと」が、あなたの「欲望」から生まれてきているとしたら、どうします?
(4つの真理の第二、「苦」の原因は「欲望」である)
えっ、「欲望」の何が悪いのかって?
いや、人間、「欲求の充足」は大切ですが、「欲望増幅」の魔の手に落ちると、人生大変でござんすよ。
そこでです、「欲望」増幅のスパイラルを抑えることができれば、「苦」から解放されるっていう寸法なんでありますわ。
(4つの真理の第三、「欲望」を止めれば「苦」もやむ)
で、どうやって「欲望」を抑えるかと聞きなさる? こちらの8つの方法を実践すれば、ばっちりでござんすよ。
(4つの真理の第四、「欲望」を止めるためには、「八正道」を実践すればいい)
というわけで、8つの方法、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定、
こいつをじっくりと実践していけば、このあと何度も輪廻転生を繰り返さずに、
なんと「たったのこの一生」で解脱できる
という、ありがたい教えなんよー、お釈迦さまの説いたのは。
「別におれは、悟りなんかいらないけどー」というそこのあなた。
ここだけの話ですが、この修行法、得られるのは「悟り」だけじゃないんです。
人の心を読んだり、人の心を操ったり、ブログのタイトルを一瞬で思いついたり、アクセスを十倍にしたり、なんでもできるようになります、ほんとです、嘘じゃありません。
人間の精神の力は無限なんです。アインシュタインは人間の愚かさを無限の代表として上げたようですが、人間の智慧も無限なんです。瞑想をすれば、無限の力と、永遠の時間が手に入ります。ほんとです、嘘じゃありません。
指切りげんまんします。嘘ついたら針千本飲みます。嘘じゃないんです。方便なんです。
......というわけで、偉大なコピーライター、お釈迦さまこと、ゴータマ・シッダルタさんが、我々人類に授けたくだすった、
「最高に蝶科学的な瞑想法ヴィパッサナー」
については、こちらの記事で書いてますので、興味のある方は、お時間あるときに、よろしければ読んでおくんなましーー。
・マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について・蝶入門編 - 24 時間の瞑想術
(近々たわし師匠用に、オーディオ版もご用意いたしましょうかね)
なお、この項のタイトルは、相田ケイさんの記事、
・ブロガー必見!劇的にシェアされるタイトル付けテクニック30選【保存版】 - オモロク
より、「読み手はすぐに結果を出したい」という心理の秘孔をついた
「ほんの数分で〜・数秒で〜・たった数日で」型のタイトルとして、
一瞬にして、楽ちんに、何も考えずに、つけさせていただきました。
これで、当サイトのアクセス数は十倍増、当記事のブックマーク数は壱万越え、絶対まちがいなしと思われます。
いつも貴重な情報を提供してくださっている相田さんには、改めて感謝の言葉を申し上げたいと思います。
「シュークリエ、ダンニャバード、コップンカァ。カラスもカァ」
蝶おもしろSF小説「星を継ぐもの」のご紹介 さて、話はまったく変わります。
夜中たわし氏の記事、
・ハードSF小説『巨人たちの星』オーディオブック版感想 - 夜中に前へ
を読んで、「へー、こんなのもオーディオブックになっているのか、と感心しました。
SFファンには言わずと知れたジェームズ・P・ホーガンの傑作ハードSF小説「星を継ぐもの」に続く三部作の完結編です。
ぼくは一作目の「星を継ぐもの」しか読んでないんですが、たわしさんも書く通り、三作目に至って「社会派」ハードSFになってしまうもので、そこのところ、どうしても評価が分かれるようです。
ともあれ一作目の「星を継ぐもの」に関しては、多くの人がベスト10に入れるくらい評価の高い作品ですよね。
たわしさんの紹介はこちらです。
・ハードSFの傑作『星を継ぐもの』がオーディオブックで配信開始! - 夜中に前へ
月面で見つかった真紅の宇宙服を身にまとう死体は、死後五万年を経過していた。そして木星の衛星ガニメデで、地球のものではない宇宙船の残骸が発見される...... 。
謎解きハードSFとして、ページをめくる手が止められない、この読み応えのある小説を読んだ、若き日の自分が脳裏に蘇ります(笑)。
SF好きの方で、まだ読んでない方には *絶対的* におすすめの一冊です。
はてなのweblogサービスを利用なさっているみなさん、こんにちわ。
みなさんは、はてな匿名ダイアリーというサービスはご存知でしょうか。
匿名のサービスとしては、蝶有名な巨大掲示板の 2 チャンネルというものがありますが、あちらはかなり癖があり、ぼくのようなシロウトにはやや縁遠く感じられる存在です。
それに比べると、はてなの匿名ダイアリーは、だいぶライトなタッチでありまして、書き込みをしたことこそありませんけれども、ブックマーク経由で知った記事をたまに読むことがあり、日本の社会環境の中では、こうした匿名サービスにも一定の役割があるものだよなぁ、と感慨に耽る今日このごろです。
というわけで、今日ははてな匿名ダイアリーの
[ニート日記]ニートが夢から覚めたとき
という記事について、つらつらと書いてみることにいたします。
今日の結論は、
「ブッダの夢、最高。呼吸と体の感覚を見るだけで、幸せが手に入るんだもん」
です。
「大学を出れば何とかなる」というニートの夢 重い「想い」を吐き出して、悲観から楽観へ 心のもつれを解くために体を動かす ふたたびのニートの夢、そしてブッダの夢 「ブッダの夢」は、とある王子の苦悩から生まれた ブッダの教えた「苦しみを越えるシンプルな方法」 正しく見るためのシンプルな瞑想法、ヴィパッサナー ぼくたちは、いかに「ありのまま」を見ていないか 呼吸と体の感覚を見るだけで、なぜ「真理」に到達できるのか ブッダの夢ふたたび 「大学を出れば何とかなる」というニートの夢 上記の匿名ダイアリーの記事では、現在、三十路目前で、ずっと在宅で引きこもり浪人をされてきた青年が、
「大学に入りさえすれば明るい未来が開ける」という夢を見続けてきたが、現実を直視したとき、浪人や留年が 2 年以上になってしまうと就職に不利であるという定説からすれば、十年も引きこもりをつづけた自分が、どんな大学のどんな学部を卒業しようが「まともな職につけるはずがない」、「大学さえ出ればなんとかなる」などという夢を見るのはもうやめて、「就職を考えたほうがいいのだろうか」
といった内容を書いてらっしゃいます。
ところで、匿名ダイアリーは英語では「アノニマスダイアリー」ということになっており、こちらの中三文字を取って、「マスダ=増田」というのを、記事の書き手の呼称として使う習いになっていますが、こちらの増田さんを、当記事では「三十路目前」というところから「もくぜん」さんと呼ぶことにします。
このもくぜんさんの記事に対して、29歳で大学三年の別の方が、
現在29歳で大学3年生の者です。将来のことを不安に思うお気持ち、よくわか.. で、
「20代後半から30代で大学に入りなおす人間は意外に多いし、大学には相談できる職員やカウンセラーもいるので、必ずしも就職のためではなく、経験の幅を増やすためにも大学に行くことをすすめる」
という内容の記事を書いてらっしゃいます。
こちらの方には「就職しなければならない」というようなこだわりは一切感じられず、まったく健全かつ楽観的な方ですので、「けんぜん」さんと呼ぶことにしましょう。
もくぜんさんの「悲観」に対し、けんぜんさんの「楽観」のほうが生きる力に満ち溢れているのは明らかですが、もくぜんさんタイプの方がけんぜんさんタイプの楽観を身につけるためには、何が必要なのでしょうか。
また、「健全な楽観」に価値があるのは明らかですが、「病的な悲観」にはなんの価値もないのでしょうか。
根拠のない「楽観」と、人生に対する「投げやり」な態度、そして、油断すると頭をもたげてくる「うつ的気分」とともに、ニート的半世紀を生きてきた年寄りとして、その辺りのことについて、考察を続けることにしましょう。
重い「想い」を吐き出して、悲観から楽観へ もくぜんさんは記事中、
まったく自信を無くし、食欲がなくなり、悪寒と冷や汗、夜は眠れず朝は早く目が覚めます。
無意味かもしれないと思いながら机に向かいます。不安で真っ黒の頭は計算ミスを繰り返すばかり。
こみあげる吐き気と闘いながら机に向かいます。
と絶望的な不安感と壮絶なまでの闘いを繰り広げながら、勉強をし続ける様子をつづっています。
読んでいるこちらまで思わず緊張してしまい、胃のあたりに軽いむかつきを感じるほどです。
けれども、もくぜんさんは、こうして自分の様子や気持ちを素直に表現し、ネット上で助言を求めることができました。
また、ネット上にはもくぜんさんに共感し、暖かい言葉をかけ、助言をしてくださる方々も多数おります。
しんどい気持ちを手放し、暖かい気持ちをまわりから受け取ったもくぜんさんは、現在の状況を肯定的に受け止めることができるようになり、夜間や放送大学などにも視野を広げて「大学を目指してもいいのかな」と前向きな気持ちになります。
そして、その前向きな気持ちが家族にも伝わったのでしょう。記事の追記にこのようにあります。
どういう風の吹き回しか今日は母と焼き鳥屋へ行きました。酒の席は生まれて初めてのことです。
酒が入って口が軽くなったので腹を割っていろいろ話しました。今までこのように話したことはありませんでした。
私はずっと何も言わない家族を、腫れ物に触わるような扱いをされているのだと疎外感を感じていました。
干渉すれば反発してやる気を失うと思ってずっと見守ってくれていたそうです。
こうしてお母さんとお互いの気持ちを話すことができたもくぜんさんは、思い込みの「孤独」から解放されて「健全な楽観」に着地します。
やっと勉強ができるようになったのだから続けてほしいというのが母の希望です。
今日はぐっすり眠れそうです。まったく勉強しなかったけれどいい一日でした。
自分の気持を、まず、ネット上で表現し、そのことがご家族との対話につながり、もくぜんさんがその悩みに解決の糸口を見いだせたことを、我がことのように嬉しく思います。
心のもつれを解くために体を動かす もくぜんさんは、自分の置かれた状況を客観視し、その状況の中での自分の気持ちを表現し、それがご家族との対話につながって、心理的なもつれを解くことができたわけですが、記事中には、このようなことが現実に起こる前に、彼の中で起きた注目すべき変化がしるされています。
それは、彼がこの三年間、日記をつけていることと、二年前から運動を始めたことです。
日記をつけることによって、状況を客観視すること、気持ちを表現することができたのが、今回の記事を書くことにつながったことは、容易に理解できます。
同時に、運動を始めたことによって、うつ的な気分が改善されたことも、間違いないことと思われます。
もくぜんさんは、「はじめは家で筋トレをし、それを日記に記録」していたのですが、「そのうち週に何回か外を走れるようになり」ます。
そして、「走れる距離とスピードが面白いように伸びていき、自信をつけた」といいます。
こうやって体を動かすことで、精神状況が改善した結果、勉強時間も増やすことができました。一か月前、インターバルタイマーをつかって時間を管理したところ、一日 2 - 3 時間だった勉強時間が 8 時間まで伸びたというのです。
みなさん、おはようございます。
ぷちウェブ作家のとし兵衛です。
昨日、ゴエンカさん方式のヴィパッサナの瞑想コース10日間の旅を無事終え、西インドはラジャスタン州、砂漠のほとりの聖地プシュカルの街に戻ってきました。
10日間のコースを受けるのはこれで三回目になるのですが、今回はとてもすばらしい10日になりました。
頭がすっきりしすぎて、この瞑想の話を書かずにはおれない、という感じです(笑)。
というわけで、この記事では、ヴィパッサナ瞑想の簡単な紹介と、その話からいろいろと展開して、最後は昨夜みた夢の話を書いてみます。
瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想、夢、変性意識 「思い込み」と「判断」の違い 「判断の停止」と「思い込み」 「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ 瞑想から夢の世界へ ぼくが見た夢、ちょっとエッチな内容あり 瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想と言っても、特に関心のない方は、「なんか、座禅みたいなやつ?」
くらいの捉え方かもしれませんが、まあ、それは、大雑把に言うと、当たってます。でも、細かく言えば、いろんな瞑想法があります。
マントラと言って、呪文(真言とも言いますね)を唱えたり、神さまの姿や、いろいろな情景を頭の中で思い浮かべたり......。
けれども、初期仏教として実践されたヴィパッサナと呼ばれる瞑想法は、そういうことはしません。
基本的に、自分の呼吸と体の様子を意識するだけのものです。
ヴィパッサナと呼ばれるものの中にも、いろいろな流儀があって、呼吸だけ意識するものや、自分の動作を意識するとき、その動作を言葉で確認するもの(息を吸っているときは、「息を吸っている」と頭の中、言葉で確認し、息を吐いているときは、「息を吐いている」と頭の中で確認する)などなど、です。
日本では、この言葉で確認する、ラベリングのやり方が比較的知られているかもしれません。
さて、ぼくがやっているのは、ヴィッパサナの中でも、インドのS. N. ゴエンカさんがやってらっしゃる方式で、これは「自然な呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察する」ということが基本になっています。
この単純明快な観察を続けることで、自分の体と心の仕組みを体験を通して理解し、ひいてはこの世界の法則を理解し、その法則にかなった、健康で意義ある生活を送れるようになることが、この瞑想法の目的ということになります。
「自分の人生は、まずまず楽しいし、苦労してまでそれを変える必要はないよ」という方は、それでよいと思うのですが、「なんか、今ひとつ人生が楽しくない。多少たいへんなことでも、もっとすっきり生きるために何かをやってみたい」という人には、おすすめの瞑想法です。
☆なお、次の本に、ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想のことが詳しく書いてありますので、興味が湧いた方は、どうぞアマゾンでご覧ください。
瞑想についての、いろいろなヒントが得られると思いますよ。
〔ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)〕
[なお、ゴエンカさん方式については、ネット上での「批判」も目にしますが、当たっているものもあり、誤解もあり、といったところです。
実際、ゴエンカさんの講話の録音を聞いてみますと、いろいろな問題点を感じます。
けれども、欠点を見て全体を否定するのは、もったいないんじゃないかなぁ。一部が悪くなってるりんごを、まるごと捨てちゃうみたいなもんで。
もちろん相性はありますから、「ゴエンカ方式は合わない」という人も当然いると思います。
ちなみに、ぼくはあくまで「半信半疑」の立場でありまして、必ずしも指導の通りにはやっていません。けれども、「ゴエンカ方式」には他の方法とは違う利点があると思っていますので、こうやって「ゴエンカ方式」をおすすめしている次第です]
瞑想、夢、変性意識 変性意識という言葉があります。altered states of conciousness の訳語で、「意識の普段とは違った状態」といったような意味です。
催眠状態や向精神性の薬物を摂った状態も「変性意識」ですし、瞑想も「変性意識」、また夢を見ているときの意識も「変性意識」です。
......というように、この「変性意識」という言葉は、『「普通の意識」があって、それとは違った意識がある』ということを意味しているわけですが、「普通の意識」って、なんなんでしょうね?
ぼくたちの「普通の意識」は数々の思い込みによって成り立ってるんじゃないでしょうか。
とすると、これって「洗脳」されている状態とそんなに変わらないことで、「催眠状態」にあるってことになっちゃうんですよね。
でも、これは別に悪いことではありません。社会生活を円滑に行なうためには、ルールというものが必要で、ルールに従うためには、いちいち、「この行動はしてもいいのか、悪いのか」などと考えていたら大変なことになってしまいます。
そこで、たとえば、「人のものを盗ってはいけない」という「思い込み」を持つことで、ぼくたちは、社会生活を円滑に送っていけるようにしているのです。
ちょっと分かりにくいでしょうか?
「思い込み」と「判断」の違い 「人のものを盗ってはいけない」というのは「思い込み」だ、というのは、ちょっと変じゃないか、と思われた方がいるだろうと思いますので、そこのところを少し説明します。
もちろん多くの方は、「人のものを盗るのは、その人に害を与えることになるからいけないのだ」と論理的、倫理的な判断をした上で、そのことに納得した上で、そのようなルールにしたがっていらっしゃることでしょう。
けれども、「人のものを盗る」ということ自体は、どのようにして判断すればいいのでしょうか。
つまり、『こうするのが「盗る」ということ』であり、『こうするのは「盗る」ことにはならない』という区別するための方法です。
野山に行って、木になっている柿を取って食べたとします。
これは「盗った」ことになるのでしょうか、どうでしょうか。
法律にしたがっていえば、これは人の土地にあるものを「盗った」のだということになるでしょう。
ですが、それは日本での話であり、スウェーデンの法律では「盗った」ことにはならないのだと、聞いたことがあります。
すると、ぼくたちはいつでも法律にしたがって生きているのだから、それが「判断」の結果ということであり、したがってそれは「思い込み」なんかじゃない、ということになるのでしょうか。
けれども、「法律にしたがわなければならない」というのが、そもそも「思い込み」にすぎないのではないでしょうか。
世界的に有名な多国籍企業はみんな、「法律にしたがって」活動しているのでしょうか。
法律の網の目をかいくぐり、灰色の活動をすることで利益を増やしている企業は、少なくないのではないでしょうか。
「判断の停止」と「思い込み」 このように考えていくと、何が善で何が悪なのか、だんだん分からなくなってきますし、実のところ切りがなくなってしまいます。
そこでぼくたちは、一旦「判断を停止」して、『とにかく「ものを盗る」のは悪いのだ、だからやめよう』と「思い込む」ことにしてしまうのです。
しかし、これを誠実に実行するためには、一旦「停止」した「判断」を必要に応じて、きちんと考える必要があるのですが、そこがまた、普通には難しい。
難しいので、裁判所に任せるのですが、裁判所がいつも正しいとは限りません。
「裁判所はいつも正しい」と思っている人がいるとしたら、それはやはり「思い込み」と言わざるをえないのではないでしょうか。
「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ とまあ、話が大風呂敷になってしまいましたが、ぼくたちの「普通の意識」は、かなりの部分が「思い込み」で成り立っていて、「普通」のはずの意識が実は「変性状態」にあるのだ、というのがここで言いたいことです。
吉本隆明さんの「共同幻想」というような考え方とも似ていると言えましょう。
そのとき、この「幻想」とか「思い込み」を解きほぐす道具として、瞑想が役に立つ、というのが、不真面目ながらもヴィパッサナを実践してきての、今のぼくの実感ということになります。
あけましておめでとうございます。
今年一年が、地球上のすべてのみなさんにとって、すばらしい年になるよう、つつしんでお祈り申し上げます。
さて、昨日の記事は、いい加減なところでぶっ千切って終わってしまいましたので、今日はその続きを書きますが、その前にまず、マインドフルネスとしても知られるヴィパッサナー瞑想の話をしようと思います。
なお、この記事は、無駄に 6,000 字以上あります。
マインドフルネスとかグーグルのサーチ・インサイド・ユアセルフとか マインドフルネス、ヴィパッサナー、禅 ぼくの朝瞑想 ようやく「ジュリアとバズーカ」のアンナ・カヴァンの話。 そしてカヴァンの「ジュリアとバズーカ」 ついに諸星大二郎の「ど次元世界物語」だ。 おまけは amazon associates のぷちネタ そして、最後に読者の皆様への御礼です。 マインドフルネスとかグーグルのサーチ・インサイド・ユアセルフとか みなさんは、マインドフルネスというのはご存知ですか?
マインドフルネスって、今の日本で、どのくらい一般的な言葉なんでしょうね?
長らく日本を離れてると、そういう「常識的」感覚がなくなってくるんですけれど、まあ、今はとにかく情報が溢れかえってる時代なので、「一般的」なんて考えること自体が無意味になりつつあるのかもしれません。
それはともかく、グーグル生まれの「サーチ・インサイド・ユアセルフ」という研修プログラムのおかげで、ネット上にはマインドフルネスの情報が溢れかえってます。
マインドフルネスとは何かを、ものすごく簡単に説明すると、
余計な考えを棄てて、今ここを生きること
と言ったらいいでしょう。
禅で言う、無念無想の境地ですね。
もちろん、そういう境地に達するまでには、長い時間と努力がいるわけですが、グーグルのプログラムは、別に悟りの境地を目指すものではありません。
無念無想を心がけると、
健康にもいいし、仕事もはかどるよ
って話です。
で、そのマインドフルネスを具体的にはどうやるかって話ですが、これまたごく簡単に説明すると、
まずは、呼吸をよく見る
それになれたら、自分の体の状態もよく見る
これだけのことです。
これがどうして心身の健康に役立つかは、また別の機会に書きますが、興味が湧いた方は、朝起きたあとと、夜寝る前に、五分間ずつ呼吸を見つめてみてください。
寝床の中で横になったままでかまいませんので、息を吸うときには、今自分は息をしているということをしっかり意識します。「あー、今自分は息を吸ってるなー」という感じです。
同じように、息を吐くときは、息を吐いてることをしっかりと見ます。
これを五分間やるだけです。
たったの五分ですが、はじめのうちは長く感じるかもしれませんが、これを毎日なり、思い出したときなりに続けていると、ある日、以前とは違って、体と心から力みがなくなっている自分に気づくこと請け合いです。
ものは試しですから、ま、騙されたと思って♬
マインドフルネス、ヴィパッサナー、禅 さて、マインドフルネスというのは、アメリカのお医者さんが、ベトナムのお坊さんに学んだ禅の手法を、マインドフルネス・ストレス低減法 Mindful-based stress reduction: MBSR という名前で、認知療法に取り入れたことで、アメリカに広まった考え方です。
禅の言葉では「念」に当たり、仏教で悟りに至る八つの方法として知られる八正道のうちの一つ、「正念」のことと言ってもいいでしょう。
正しく気づくこと、といった意味です。
そして、正しく気づく、ということの中身が、
ごちゃごちゃ考えるのはやめて、自分が感じているままの世界をきちんと感じる
ということであり、そのためには、
まず、自分の呼吸を見て、自分の体の状態を見る
ということになります。
そうやって、今起きていることに正しく気づいている状態が「マインドフルネスな状態」であり、マインドフルネスを心がけることで、心が楽になり、体からは力みが抜け、仕事も洗濯も掃除もはかどるというわけです。
で、ヴィパッサナーとはなんぞや、という話なのですが、ぶっちゃけて言えば、マインドフルネスとヴィパッサナーは同じものと思ってもらってかまいません。
一般的にはマインドフルネスといい、上座部仏教の人はヴィパッサナーといい、日本では禅と呼ぶ、といったくらいの話です。
なお、日本の仏教では、「止観」と呼ばれる瞑想法があり、これはサマタ・ヴィパッサナーを漢訳した言葉で、
心を鎮めて、正しく見る
という意味になります。
つまり、サマタは「心を鎮めること」、ヴィパッサナーは「正しく見ること」です。
「止観=サマタ・ヴィパッサナー」という瞑想をすることで得られるのが、「正念=正しい気づき」ということになります。
ぼくの朝瞑想 今ぼくは、西インドのプシュカルという田舎街にいるのですが、ここからバスで 20 分ほど行ったところに、ヴィパッサナー瞑想をやっているセンターがあります。
先日そこでやっている十日間泊まり込みのコースに参加しました。五年ぶり二度目のことです。
朝四時半から夜の九時までほとんど座りっぱなしに近いので、一回目は地獄でした。
けれど、二回目の今回は、どちらかと言えば、天国に近い感じで、とてもいい時間が過ごせました。
この十日間のコースについては、またいずれ書こうと思いますが、コースが終わってから 12 月の頭から朝一時間ほどの瞑想を毎日続けています。