最近あらためて思うのは、たぶん、やはり、この世界は完璧なのであって、 それがわからないのは、こちらの意識が十分磨かれていないからなんじゃない かなぁということ。 フツーの人間らしさから言ったら、戦争はいけないとか、 逆に、偽悪的になれば、人を食い物にして何が悪いとか、 そんなふうな気持ちになったりするわけだけど、そういう、 それぞれの多様性を飲み込んで、ここに実現している世界の凄さ、 恐ろしさ、それを恐れず、嫌がらずに見たならば、とにかく今は これなんだし、それでよいとしか言えないわけだし、 もし、あしたを言うならば、あしたの別の風を楽しもう としか言えないことになるはずだし、あしたをこうしようと 思うのはたぶんそれでいいんだろうけど、あしたがそうならない からと言って嘆くのはやっぱり愚か者という気がする。 いや、もちろん、愚か者でいいんだよ。 おいらもじゅうぶんおろかもんだし。

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自然の成り行き

さて、人生においてさまざまな困難に出会うことは 避けがたい。 困難に出くわしたとき、悲しみに襲われたり、 怒りが湧き上がったり、気持ちの波にさらわれる こともありがちなこと。 そしてその気持ちの波にさらわれたことで さらに自分の気持ちが落ち込むことも、 人によっては自然の成り行き。 けれど、このいずれの局面もがまったく自然なことであって、 それぞれの局面を否定せず受け止めればいいことに気づき、 それを受け止められない自分を許し、ゆっくりと変わってゆく 自分を待つことができれば、そして、その先にやってくる 真実の恐怖と向かい合うだけの力を蓄えることができるならば、 ひとは自由への道を歩き続けることができるだろう。

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この世はまぼろしで、しかも完璧で、 しなければならないことなんて何もない上に人はみな自由に生きているとすれば、 ぼくらが生きていく上で、一体なにが問題になるというのだろう? 一つの答えは、そう、問題なんて何もない、ということだ。 ぼくが、あなたが、そして多くの人が、「まいったな、こいつは問題だ」 と思うからこそ、そこに問題が生まれるのであって、「ふむ、確かに少し 困りはするが、なに、こんなことは大したことじゃない、別に問題と いうほどのことじゃない」と思ってしまえば、問題など消え失せてしまうって わけだ。 そんなに簡単にいくわけないよと、あなたは思うだろうか? たしかにこれを実行するのは難しいだろう。問題なんて何もないと 思えるようになるまでには、十年単位の時間がかかるかもしれない。 けれど、考え方自体は上に書いたとおりで、全く単純明快なことなのだ。 別の角度から眺めてみると、問題が生まれてくるのは、とかくままならぬ ことが多いこの世の中で、所詮ままならぬと分ってしかるべきことを、 どうしてこうもままならぬのかと、無駄に嘆き苦しむからだ、という こともできる。 このことは、お釈迦さんが言っていることと半分は重なるが、欲望のままに 生きて、欲望を膨れあがるにまかせれば、いずれどこかで満たされぬ 苦しみという問題がやってくるのは当たり前なのであって、初めから足るを 知ってさえいれば、問題は生まれてこないわけだ。 あるいは、欲望のままに生きるとしても、それが適うときもあれば適わぬ ときもあるのだから、適ったときには「ああ、良かった」と喜び、 適わなかったならば「これは残念」と思うくらいのあっさりした心持ちで いれば、これもまた問題の生まれる余地はほとんどない。 いずれにしても肝心なのは、自分の心の手綱をどうとるか、である。 仮に上に書いた話をもっともだと思ったとしても、それを実行しようと すれば、様々な心の乱れがあなたを邪魔することになるだろう。 その心の乱れすら問題としないようになるためには、とにかく時間をかけて 気長にやるしかない。 で、ぼくの場合どうなのかって? 問題なんてない、とすっぱり言い切れるかといったら... まったく覚束ない、というのが実情です、はい。

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人はみな自由に生きている。 そう考えると、この社会について、わりと納得しやすい気がする。 自由と言っても無論、やりたい放題というわけではない。 だって、みんながしたい放題、勝手気ままにやってたら、今よりもっと 混沌とした社会になるだろうからねぇ。 そうではなくて、この場合の自由と言うのは、みんな自分のしたいことを 自分で選んでやっている、ということで、つまり、ある人が何かを 我慢しているとすれば、それはその人が我慢したいからしてるんだと、 そうゆうふうな考え方のことなんです。 これは[しなければの錯覚]の話を、別の角度から見ていることにも なるのだけれど、その意味では、ぼくらが現にあることをやっている以上、 それはやりたいからやっているのだと受け止めることにする、という 考え方の問題ということになります、はい。 また、別の言い方をすれば、ぼくらの心の中に相対立するいくつかの 欲求があったとき、その中でどれを実際に選ぶかというのは、 この意識的な自分が選ぶのか、それともある衝動にまかせてしまうのか、 はたまた自分で選んでるつもりなのに無意識的なものに支配されて 決めてしまっているだけなのか、いろいろなパターンが考えられるけど、 そのどれであるにしても、結局のところ「自分」で決めているには 違いないのだから、それは自由に決めてると言っていいだろうと。 (無意識的に決めちゃってる場合は、「決めた覚えなんてない!」と いうことにもなりますが...) まあ、そんなわけで、自分がやっている以上、やりたいことを自由に やってるんだと思ったほうが、自分でもすっきりするし、人を見て、 あの人、なんであんなことするんだろうと思った場合でも、その人が 好きでやってる以上、わざわざ口出しする筋合いもないわけで。 (もちろん口出ししたい人は、それもご自由にね) そして、みんなが自由に生きてる結果として、これだけ秩序立った 社会があらわれてるのを見るとき、ああ、やっぱりこの世界は完璧に 違いない、という思いにつながっていくのです。 ([この世界の完璧さについて]参照)

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この世界は完璧である、と言ったら、何をバカな、と思われるだろうか。 多くの人は、こんな世界ちっとも完璧じゃない、と思うかもしれないし、 ぼくにしたって、何て奇妙で、わけのわからない世界なんだ! と ついつい思ってしまうのも現実である。 けれどもぼくは、にもかかわらず、この世界は完璧である、と 思うことにしたいわけなんです。 所詮この世はまぼろしであると受け止めるにしても、そのまぼろしにも、 不思議な因果律が働いているようで、それは、ただ混沌というだけとは 思えない。 たぶんそれは、ぼくらにその法則がうまく見えないだけのことで、その 不思議さの中に、この世界の完璧さがあるのだろうと。 完璧だ、といっても、だからこの世界が今のままで十分だ、と言いたい わけではない。 今のところ、これが実現可能な最大限なんだろう、というくらいのことで、 その「今」に内在している様々な可能性が、刻一刻と生まれてくる、 そんなふうにして変わりつづける力を持っていることこそ、この世界の 完璧さなんだと。 もちろん、人間の愚かさに端を発する、解決のつかない問題を数え上げれば 切りがないわけだけど、それはそれで見ないふりをするんじゃなく、 きちんと受け止めて、つまり、それを誰か他のひとのせいにするんじゃなく、 そうしたことと、自分の中の愚かさとのつながりを恐れずに見ようとするとき、 愚かであるままの完璧さと、愚かしさを流していくための変化への力が、 そう、確かに立ち現れてくる... そんなふうに考えてぼくは、その世界の完璧さを信じることにするのです。

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しなければの錯覚

「しなければならない」という言い方をうかつに使ってたりしませんか? ぼくもずっと、うかつにも使いつづけていたんだけど、あるとき、 これはどうもよろしくない、と気がついて、日々練習を続けた結果、 近頃はほとんど使わずにすむようになりました。 で、「しなければならない」のどこがよくないのかと言いますと、 だってあなた、 「しなければならない」ことなんて、まずないじゃないですか。 勉強を「しなければ」試験に落ちるかもしれない。 てことは、試験に落ちてもいいんなら、勉強なんて「しなくていい」。 仕事を「しなければ」首になるかもしれない。 首になる覚悟があるんなら、仕事なんか「しなくて」大丈夫。 試験に落ちたくないから、首になりたくないから、「しなければならない」 に決まってるじゃないかって? 多分そこが人生の分かれ道だと思うんです。 なぜ勉強をするのかを忘れて、勉強を「しなくちゃ」と思ってするのか、 それとも、試験に受かりたいから、勉強を「しよう」と思ってするのかって とこがね。 あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、と思って生きてたら、どうにも 心がせわしくなくなって、毎日がなんだか押されまくりになってしまう。 あれをしないとああなるけど、まあ、いいや、と柔らかく考えてみたり、 これをしないとこうなるから、これはやっておこう、と自覚して動いてみる。 そんなふうなやり方が少しずつできるようになって、ぼくの毎日はずいぶん 楽な感じになってきたと、そんなようなわけです。

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この世はまぼろし

子どもの頃からぼくは、この世界の実在性については素朴に 信じて生きてきたようだ。 そんなだから、いわゆる思春期というような頃には、どうしてこの世界は こんなにかっちりしてるんだろう、もっとぐにゃぐにゃとしてれば いいのに、なんてことも思ったりしてた。 けれど、今にして思えば、この世界は十分ぐにゃぐにゃしてるんで あって、かっちりしてたのは、幼いぼくの、狭い物の見方のほう だったんだな。 人が、認識を通してしか、この世界の実在性を捉えられない以上、 「本当に」実在しているものと「本当は」実在しないものを はっきりと区別するなんてできるわけがないじゃない? 「木」や「水」は実在してると感じやすいけど、「愛」や「正義」 なんて「本当に」あるのかな? 「悪」や「過ち」があるとするなら、「霊魂」や「死後の世界」は なぜないって言えるんだろう? 少なくても科学にはこの種の問題に答える力はないし、結局は 人それぞれがどう考えるかにつきるんだと思う。 で、ぼくはインド的な考えを借りてきてこう言ってしまおう。 「この世はすべとまぼろしである」と。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中