「何もない」と認識する立場は当然ありうる。 しかし、そのとき、そう認識する主体はあるはずだ。 とすれば、「何かがある」と認識する立場のほうが、もっともらしく思える。 そのとき「何がある」ことになるのかは、言葉で厳密に言い尽くすことはできない、と思われる。 時間、空間、物質、エネルギー、そして自己。そんなものが多分あるのだろうが、それが何なのかを言い尽くすことはできない。 #竹林の愚考
※ 参考記事 http://delete-all.hatenablog.com/entry/2018/08/17/190000
誰にでも苦い過去というものがある。
苦い過去の記憶を、苦いままに持ち続けて悪い理由もないのだが、その苦さに曇った結ぼれの記憶を、洗い浄めて水晶のように澄み切った結晶にすることもできる。
一度限りの人生を最大限に楽しむためには、苦労してでも知っておく価値のある命の技法だ。 この世に生まれ落ちて、誰かに頼らなければ生き延びることのできなかったぼくたちは、周りの価値観を手当たりしだいに飲み込まざるを得なかったのだし、そうやってエゴを育てることで、今のキミは創られてきたのだ。
けれどもエゴというものは奇妙な存在で、快楽を求めるがゆえに、不快な感覚にすら慣れ親しんで、そこからも快楽を得ようとする。
たとえば自己憐憫という甘い快楽だ。
どうしてあのときキミは、あんなことをしてしまったのだろう。
友だちのためを思って、優等生のキミは行動していたはずなのに、実際にはキミは友だちにウソをつき続けていたのだ。
友だちにだけではない、キミは自分にもウソをつき続けていたのだ。
だからキミはその友だちに「嘘つき」と呼ばれたときの、恥ずかしいような逃げ出したいような気持ちを忘れることができず、その気持ちを思い出しては自己憐憫に浸ることになる。
そうして、その自己憐憫を抱え続けている間は、キミは自分を欺く人生を生き続けるのだ。
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自己憐憫とは「偽りの自分」を甘やかし、「本当の現実」からキミの目を背けさせるための甘い誘惑だ。
一度限りの人生を心の底から楽しみたいのなら、そんな自己憐憫に浸っている暇はない。
過去の自分の罪悪感など、その気になればいつでも捨て去ることができる。
そのことをまず、キミは思い出さなければならない。
記憶というものは結局、脳神経に刻み込まれた動的で複雑怪奇なパターンにすぎない。
手品のようにそのパターンを、一瞬のうちに書き換えることはできないが、それを変えようとキミが本気で望むのならば、丸ごと捨て去ることだって不可能ではないのだ。
キミはまず、子どもだった自分が、自分を騙し、友だちを騙しながらも、ベストを尽くして生きてきたことを思い出さなければならない。
「子どもだったキミの限られた経験値の中では、あのとき自分に正直になった上で、友だちにも正直に接することはできなかったのだ」
という過去の現実を、罪悪感なしに客観的に見ることが、大人になったキミには可能だ。
「自分は嘘つきで友だちに責められるダメな人間だ」
という記憶を
「子どもだったぼくには嘘をつくことしかできなかったけれど、そこから学んだぼくはもう嘘をつく必要はない」
という新しい記憶に置き換えてやればいいのだ。
そのとき「嘘をついた自分」に「嘘つき」と言ってくれた友だちの姿は、光り輝く大切な記憶となって、キミの心の奥底にしまわれて、いつもキミに生きる力を与えてくれる存在になるだろう。
過去を書き換える方法を知らないキミは、今日も自分に嘘を言い続けている。
うんざりしながらも、他人に親切な振りをして、自分の心をすり減らし続けているのだ。
そうして自分にはこのやり方しかないのだと、自己憐憫の甘い快楽に浸り続ける。
けれども過去を書き換える方法が分かった以上、いつまでも昨日のやり方にしがみつく必要はない。
キミが他人に親切にするのは、誰かから押しつけられた価値観によってではなく、それがキミにとっても気持ちよいときだけにするのだ。
無意識のうちに取り入れてしまったルールを一つひとつ検討し、記憶と行動のパターンを再構成してやるのだ。
あせらずにできる範囲で、できるところから、自分の記憶を書き換え、自分の行動を置き換えていけばいい。
話としては簡単でも、実行はもちろん難しい。
満足できるところまで書き換えるのには、うんざりするような長い道のりが待っているかもしれない。
それでもキミは、今からその道のりを歩み始めるのだ。
自分の人生に納得できないのは、自分に嘘をつき続けてきたからだと、キミはもう知ってしまったのだから。
最高の人生を生きるためには、それ以外の道はないことに気づいてしまったのだから。
前の項のリンク元に、http://translate.google.com/translate_p?hl=en&u=http://d.hatena.ne.jp/suganokei/&usg=ALkJrhivix23Yy6TywHZFt-ZBSyGXEsb9g というのがあったので、どんなんだろうと思って開いてみた。
多分、タイ語で検索してくれた人が、英語の翻訳版を見てくれたのだろう、怪しい英語が並んでいる。
んっ、"i would vegetarian" 、なんだ、そりゃ!?
「精進したい」の超訳でした、ちゃんちゃん。
カルロス・カスタネダの書く中米の呪術的世界観では、
人間の認識の領域をトナールとナワールに分けて考える。
トナールは言葉で切り分けられた世界、
ナワールは言葉で切り分けられない世界である。
この世に生れ落ちた瞬間から、わたしたちは外界との接触、
特に周りの人間から言葉をかけられることを通して、
言葉で世界を切り分ける能力を発達させていき、
逆に言葉以前の世界を見る力を失っていく。
ふつう現実と呼ばれるものは呪術師にとっては記述でしかない、
という台詞が出てくるのだが、こういう思考法を続けていると
徐々にそういう見方ができるようになってくるもので、まあ、
こうして書いたものは所詮ことばにすぎないのだけれど、書くことで
ある程度、方向付けができる部分もあるので、とにかくこうして
ぼくはだらだらと書いてみるのだ。
さあ、これを書き終わったら頭を空っぽにしてみよう。
そうして、少しでもナワールの領分に近づいてみよう。
[追記]カスタネダを読んだことのない方には、まずは
「呪師に成る ― イクストランへの旅」をお薦め します。
ドン・フアンものの三作目ですが、十分独立した作品として読めます。
苛立ちや怒りの感情を自分がどんなときに感じるかを考えてみたところ、
おおむね二つのパタンがあるなと思った。
ひとつは自分より愚かに思える他者が自分の気に入らない事をしたとき。
なんだこのバカヤローと思う。
もうひとつは自分よりいい境遇にあると思える人間が自慢そうに
しているとき。
いい気になりやがってと思う。
どちらもこっちの勝手な判断に基づく身勝手な怒りである。
相手がなぜそうしているかにもう少し思いをめぐらせて、こうした
愚かな苛立ちや怒りを減らしたいものである。
できれば、すべてを笑い飛ばして。
以上、「グラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くために」を
ネタにした勉強会をやったあと考えたこと。
processkamakiri氏の「自己意識の不変神話」とそのコメントを読んで、
意識について考えたことを書いてみる。
ぼくは、長い間じぶんというものは連続して存在していると、
無反省に思って生きていた。
しかし、少し仔細に実情を見てみれば、人は一瞬一瞬変化を
続けているわけだし、それどころか、過去の記憶に基づいて
今を認識し、未来を推察している以上、直(じか)の認識としては<今>以外ありえないのだから、連続もへったくれもなくなってしまう。
そこをつきつめると社会的な暮らしが成り立たなくなって
しまいがちなので、我々はいろいろな詰め物をして、
なんとか日々を生きることになる。
とりあえず、今日と似た昨日の自分を想定し、その自分が明日も
続くと想定し... 世界についても同様。
と、そのように自分というものを想定したとき、意識という作業を
行なっている、移ろいやすい自分より深いところに、無意識と呼ばれるような、
普段自分では意識していないシステムがあることに気づくことになる。
そこのところをウパニシャドではアートマンと呼んだのかなと思うし、
仏教ではそれはもはや「我」ではないとして無我を言ったのかなと思う。
お釈迦さんが、無我を言い、輪廻について語らず、日々の暮らしについてのみ
指針を指し示したことは当時としては画期的なことであったのだろうけど、
どういうわけかぼくの実感としては、真我としてのアートマン、それと
一体としての宇宙原理ブラーフマン、というほうが分りやすく気持ちよい。
お釈迦さんのいう涅槃は、僕には寂しすぎるということかもしれない。
このページは、文章の練習がてら、そのときどきに思ったことなどを
適当に書いているのだが、もっともらしく、まとまったものを書こうと
思うあまり、つい滞りがちになってしまったりしている。
今日もここに何を書こうかと考えて、ああ、めんどくさいなあ、
やめちゃってもいいんだよな、などと思う自分がいたのだが、
なぜそうなるのか、という気持ちの動きの部分を少し書いてみる
ことにする。
これが文章の練習であるのなら、とにかく少しずつでも書いていった
ほうがいいわけだが、あれこれ言い分けして書かないですませる
自分がいるわけで、それはたぶんある種の不安感から生まれてくる
感覚なのかなと思っている。
文章を書く、書いたものを誰か読んでいるのか、読んでいても
くだらないと思っているのではないか、いや、誰かは面白がって
いるかもしれないが、だからといって、それが何になるのか。
書くことが、ただの時間つぶしにしかならないのなら、
酒でも飲んでだらだら本を読んでいるほうが楽でいいじゃないか。
それはまったくそのとおりなのだ。まったくそのとおりなのだけど、
それでも書きたいと思う自分もいる。ところがそれは、おおむね
誰かに褒められたいとか、あわよくばそれで金が稼ぎたいとか、
そういうつまらない欲求から来ているにすぎなくて、自分の心の
奥底に書きたいという情熱のかけらも感じられない。
そのとき、書いても認められないのではないかという不安や、
情熱の不在という自分のあり方に対する不安のようなものが
邪魔をして、ぼくは書くという、ときに喜びにつながる作業を、
簡単にあきらめてしまう。
認められなくても書きつづけるひともいるし、情熱という言葉とは
違う動機で書きつづけるひともいる。
不安とともに書きつづけるひとも、たぶん大勢いるのだろう。
簡単にあきらめ、あきらめてはまた思い直し、なんとか今まで
書いてきた。そしてたぶんこれからも書きつづけることになる。
不安とともに少しの興奮を感じる -- だいたいそんなふうな
今日のわたしです。
言葉の力について考えてみた。
話す言葉で考えると、言葉は音であり、エネルギーを持っている。
そして、ある人の口によって発せられた音は、別の人の耳に働きかけ、
その人の神経系の状態に影響を与える。
というわけで、ある人の発した言葉は、別の人に物理的に働きかける。
それが言葉の基本的な力だ。
ところで、言葉には意味というものが伴うと考えられていて、
ある人が言葉を聞くと、その人の頭の中にはその言葉の意味が
浮かぶ、というふうに考えられている。
さて、言葉と意味の結びつきは人それぞれなので、ある人が
なにげなく発した言葉が、別の人に強烈な怒りを引き起こすことも
あるし、あるいは、ある力のある人が発したさりげない言葉が、
相手に強烈な呪縛を与える、といったようなことも日々起こっている。
このようなことを考えれば、言葉が持つこうした力を言霊(ことだま)と
呼び神秘的な力を持つと考えることは間違ったこととはいえない、
という以上に、理解のしやすさからいって十分役に立つものと思える。
というような文脈において、すべての言葉は呪文であり、呪いであり、
寿ぎ(ことほぎ)である。
人の呪文に縛られず、人を呪文で縛ることなく、この世界の流れの中、
自由に泳いでいければ理想である。
三週間ほどタイに行ってきた。
行って何日かは、もう慣れてしまったタイに面白みを
感じられずにいた。
振り返ってみると、初めての街に行き、落ち着かない気持ちでいた
せいだったようだ。
三週間のタイで、気持ちを落ち着けることができたので、
日本に帰った今、前より少し、とらわれる気持ちが減ったように思う。
何かをしなくちゃならないからするのではなく、
何かがどうしてもしたいからするのでもなく、
それでもどこかでは、しなくちゃとか、したいとか思いながら、
してもいいし、しなくてもいい、ただ淡々と生きていけば
いいんだと確認しながら、自分の体を大切にし、自分の気持ちを
大切にし、一瞬一瞬を大切にしながら日々を暮らす。
言うほど簡単にできるものではないけれど、とりあえず今これを
書いている瞬間は、気持ちのいい落ち着きの中にいる。
こうやって、少しずつでもとらわれを減らしていければ、
ぼくの人生は、たぶん、それくらいでいいや、なんて感じで。