はてなのみなさん、ご無沙汰してまーす。
ネパールの首都カトマンズからほど近い、ドゥリケルという山腹の小さな街に来ています。
晴れた日には、宿の窓からも、遠くヒマラヤの峰々が、白く輝く清々しい姿をお披露目してくれているのを拝めるのですが、今日は階段を何百段か登って、見晴らしのよい尾根に立つ、カーリー寺まで、奥さんと二人、足を伸ばしました。
朝早いうちに登る山道は、空気も冷たく爽やかで、道の所々に設置されているヒンドゥー教の神様の像を、これはクリシュナさんだね、こっちはラーマさんかな、などと拝みながら、ゆっくりゆっくり歩いていきました。
道の両側には背の高い木が生えているのですが、ネパールはしゃくなげの木が多く、食堂の名前などにもラリグランスというしゃくなげの英語名がつけられていることがありますが、ここでも普通に見かけました。
けれどもしゃくなげの花の時期にはまだ早く、青々と葉を茂らせるばかりで、道端の小さな草には可愛い花をつけているものもありましたが、花をつける木はありませんでした。
いつかしゃくなげの花の頃に来たいものだなと、思っていると、背の高いしゃくなげの木のてっぺん辺りに、赤い花が三輪ほど咲いているのが見えました。
山道を登るぼくらをみおろして早々と咲く赤いしゃくなげ
そのあと、もう少し登ると、カーリー寺に着きました。
寺といっても屋根つきのお堂があるわけではなく、土台は立派な石造りでちょっとした広場のようになっているのですが、そこに露天の石の祭壇があり、カーリー女神の小さな石像がまつられています。
そこで、荒ぶる女神カーリーの力を分けていただき、初夏ののどかな空気に霞むヒマラヤの山々がうっすらと見えるのをしばし楽しんで、持っていったパンとバナナをおいしく食べました。
....と、そんな呑気な日々を送っているとし兵衛でした。
それではみなさん、ナマステジーっ。
プシュカルの冬は、昼間、日差しが強いと暑いが、日陰に入ると肌寒いほどで、朝晩はそれなりに冷え込む。
といっても、最低気温 10 度前後なので、日本の冬とくらべたら、暖かいものだけど。
そして、プシュカルは砂漠の入り口に当たるので、冬の乾季には砂が舞い散り、埃っぽい。
昼間、街道を歩くと埃っぽい上に、日が照っていると影になるものもないし、暑くてかなりきつい。
......というのは、一週間くらいまえの話で、今日はそれほどでもなかったのだけど。
この記事では、その街道沿いで見た、三つのオートバイにまつわる光景を書く。
バスの屋根の上で 足蹴り遊び 手放しで褒めていいのだろうか バスの屋根の上で インドやネパールのバスは、たいてい屋根の上に荷物を積めるようになっている。
そして、荷物だけでなく、人も乗る。
暑いときは厳しいが、今くらいの季節、昼間にバスの屋根の上に乗るのは気持ちのよいものだ。
五年前、プシュカル近郊のヴィパッサナー・センターで瞑想のコースを受けたとき、帰りのバスは、屋根の上に乗った。
頭が瞑想ですっきりしているところを、風を切って走るバスに揺られて、実にいい感じだった。
一緒にコースを受けた白人のひとたちと一緒で、その中の一人、フランスの若者が巨大な横笛を出して、バスの屋根の上で吹き始めた。
すばらしいひと時を過ごした。
旅の醍醐味は、こうした瞬間を味わうことにあるのだと思う。
* * *
さてそれで。
一週間ほど前に、街から少し歩いたところにある店に買い物に行った。
その帰り道、暑くて埃っぽい街道を歩いていると、少し先の方にバスが止まっていて、何か大きな荷物を屋根の上に積もうとしているのが見えた。
何を積んでるんだろう、と思ってよく見ると、なんとオートバイを積もうとしている。
上から三人がロープで引っ張り、下から二人が押し上げている。
125 c.c. くらいの小さめのバイクだが、日本のスクーターなどとは違い、がっちりした作りの、それなりの重量があるバイクだ。
けれども、手慣れたもので、しばらく時間はかかったが、特に大変なことをしている、という感じもなく、無事に屋根の上にバイクは載った。 日本ではありえない光景だが、インドの人たちにとっては、朝飯前のことなのだろう。
足蹴り遊び アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルに「石蹴り遊び」という〈その筋〉では有名な長編がある。
どう有名かというと、この小説はふた通りの読み方ができるのである。
「ふた通り? 読み方は読者の数だけあるんじゃないの!」と思った、そこのあなた。
あなたの意見には、ぼくも完全に同意するのだが、これはそういう話ではないのだ。
なんとも奇妙なことに、この本は冒頭で、作者自身がふた通りの読み方を指示しているのである。
第一の読み方は、初めから順番に読んでいって、第二部まで読んだら終わっても良いというもの。この作品、第三部まであるんだけど。
この読み方をすると、第二部までは割とふつうの物語に読めて、第三部を読もうとすると、なんだか支離滅裂に思える。
作者の分身と思われる青年を主人公とした、パリとブエノスアイレスを舞台とするデッドエンドの青春苦悩ロマンスなのだが。
そして、第二の読み方は、冒頭にある著者指定の順番にしたがって、155ある各章を行ったり来たりしながら読む方法。
こうやって読むと、一番目の読み方とは、違ったメタフィクション的物語が見えてくるという、なかなか手の混んだ実験的趣向の作品なのである。
で、この作品にオートバイが出てくるかというと、別にそういう話ではない。いや、ほんとうは出てきたかもしれないが、ずいぶん昔に読んだので、出てきたとしても憶えていないのだ。
なお、この本を読んでみたい方は、次の水声社版を図書館で探すのがおすすめである。
[水声社版「石蹴り遊び」]
アマゾンで見ると四つの版があるのだが、すべて絶版のようで、また、昔の全集版は訳が古く、新訳は値段が高い。
文庫版は上下巻なので、第二の読み方をするとき、不便だ。なお、値段は今見ると揃いで 4,000 円。ちょっと高いが、買うならこれだろう。
[文庫版]
* * *
ここで、インドの道端に舞台は戻る。
四、五日前のこと、またぼくは買い物のため街道を歩いた。この日も暑い日だった。
そして、やはり帰り道のことである。前方からやってくるオートバイが見える。
しかし、そのオートバイは、やけにゆっくり走っている。
この街道は、新しく舗装されて十分な道幅があるから、ほかのオートバイは、みなかなりの飛ばし方だ。
その中をなぜか、そのオートバイは、ゆっくりと、しかも妙に静かに走っているのだ。
んっ? と思ってよく見ると、オートバイに乗ったインドのおじさんの左足が動いているのが見える。左足が前に行って後ろに行く、また前に行って後ろに行く、前に行って、地面に足をついて、後ろに蹴る......。
世に稀に見る、足蹴りオートバイ。
ぼくは「石蹴り遊び」ならぬ、「足蹴り遊び」を目撃したのだった。
手放しで褒めていいのだろうか 三つ目の話は手みじかにいこう。
これは、おとといのことだ。この日も暑かった。