差別はしないほうがいいけど、差別表現のすべては取り締まれないでしょ?
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で、
- 人間には「差別する」自由だけでなく、「ありとあらゆることをする」自由がある
- しかし、「差別する」自由は法律で制限される
という意味のことを書きましたが、分かりにくかったようなので、もう少し説明します。
なお、いくつかご指摘を受けましたが、「差別する自由がある」という言明は、確かに「強すぎる」ものと思いますので、この記事では、前回の記事との整合性をはかるため、その表現を使いますが、今回限りの表現としますので、その点はご理解ねがいます。
また、「内心の差別」についても少し書きます。
- あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか?
- 「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について
- 「行為としての差別」は法律で制限されるが、それだけでは不十分なので、「内心の差別」をしっかり意識しておく必要がある
- [追記]「敵は作るな、味方を増やせ」再び
あなたの友だちがあなたに対して「日本人」を差別するような発言をしたとして、それを法律で取り締まることができるでしょうか?
あなたの日本人の友だちが、私的な場面であなたに対して、
- 日本人というものは、その政治状況を見れば、人種的に劣っていることは明らかなので、皆殺しにしてしまえばいいのだ、
と言ったとします。
これは立派な「差別発言」ですが、こうした発言を一々法律で取り締まることは、可能でしょうか?
また、仮に可能だとしても、取り締まることに意味があるでしょうか?
法律で制限されているからといって、すべての違反行為を取り締まることは現実問題として不可能ですし、軽微な行為まですべて取り締まろうとすれば、経済的にも割に合わないことになるでしょう。
その意味で、
- 人間は法律で制限された行為をする自由を当然持っているし、
- 現に行使している
- その上で、そうした自由は法律で制限されている
という、原則的な話をしているわけです。
ですから、法律をどんどん破ればいい、という話にはなりません。
人間には、すべての法律を守ることは不可能だし、それを一々取り締まることは現実的でない、ということを言っているにすぎません。
また、重大な違反行為をすれば、法律にもとづいて社会的制裁を受けることになるのは言うまでもありません。
(現実には、重大な違反行為をしながら、なんら制裁を受けないケースが、近年のニッポンにおいては多々見られる点を大変憂慮しておりますが……)
ここで、「社会的制裁」というのも大切なところで、ネット上や各種メディアにおいて、「正義派」のみなさんが、「私的制裁」を加えている現状は、好ましいものとは思えません。
(「私的制裁」を好きでやっている方に、それをやめろというつもりもありませんし、あるいは、ご自身が差別を受けている被害者の方が「差別する自由」という言葉から精神的被害を受けた、というのであれば、それにはきちんとこたえる必要があると思いますが)
「私的制裁」が好ましくないのは、法律に違反しているかどうかについては、基本的に裁判所が判断すべきだと思うからです。
もちろん裁判所の機能にも限界はありますから、それをただすような議論は、当然必要になりますけれども。
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「差別する自由」という強い表現と「自由」という言葉の定義について
なお、前の記事に対するコメントでid:Ayrtonismさんが、
「差別する自由」という強い言葉は、その人の「言いたいこと」とは別に一人歩きするから、この人の解釈が正しかろうと批判者が誤読していようと、最初の段階で叩くのはとても大事なこと。
と述べているのは、「叩く」という表現以外は同感です。
差別を助長しかねない「強い」表現を不用意に使わないほうがよいのは、その通りです。
ただし、発言者の「人格」を不用意に「叩く」ような行為は、問題をこじらせるだけに思えます。
(このことは前の記事でも述べているとおりです)
また、id:udonkokkoさんからは、
「可能」と「自由がある」は違うと思う。
というコメントをいただいております。
「自由」という言葉をどう受け止めるかは、人それぞれに違って当たり前ですし、「差別する自由がある」という言い方は、確かに強すぎるかもしれません。
「安易に表現の規制をすべきでない」という文脈なので、あえて「差別する自由がある」という強い言明をしましたが、実際に言いたいことは
- 誰にでも差別は可能だし、
- 誰でも差別をしかねず、
- それをすべて法律で取り締まることには無理がある
ということになります。
「行為としての差別」は法律で制限されるが、それだけでは不十分なので、「内心の差別」をしっかり意識しておく必要がある
はじめの節で説明したように、「行為としての差別」は法律で制限されますから、これをみんながきちんと認識し、差別行為をなくしていくことは大切なことです。
そのとき、多くの人間は、
- 無意識のうちに「内心の差別」をしているのだ、
という事実も、しっかりと意識しておいたほうがいいのではないでしょうか。
「差別はいけない」ということは、ある意味簡単なのですが、そのようにいうことと、「内心においても差別をしていない」ということは、全く別のことです。
人間というものは、社会的な存在ですから、「自分たち」と「自分たち以外」という枠組みでものごとを考えがちです。
そのとき、ほとんど必然的に「自分たち以外」を見くだし、差別するような意識が生じます。
(「内心の差別」を持たない人もいるかもしれませんが、それは例外的な存在ではないでしょうか)
ですから、誰の心にも「内心の差別」があることを前提に、それでも「差別行為」がなされないような社会を作っていこう、という合意が大切になると思うのです。
「内心の差別」までは法律で取り締まることはできないし、取り締まることは望ましいことでもありませんから、そうした差別意識の存在に目をつむるらずに、「差別行為」のない社会を構想することが重要になります。
そして同時に、明からさまな「差別行為」をする人たちについても、ただ批判し攻撃することなく、きちんとその動機を理解した上で、法に反する行為については取り締まる、という筋道が必要となります。
動機の理解なしには、「差別行為」をなくしていくことはできないと思うからです。
以上、あくまで個人の見解にすぎませんが、思うところがあれば、ブックマーク・コメントなどよろしく。
議論が成り立つ範囲内で、できるかぎりの応答はしたいと思います。
てなことで、みなさん、お疲れさまでしたーっ♬
[追記]「敵は作るな、味方を増やせ」再び
今回の本題からはそれますが、id:yukimi1977さんのコメント
味方を作るのに一番手っ取り早いのが共通の敵を作ることなんだよね。
には、深く同意します。
けれども、その場合、社会全体の緊張は増すことになりますから、ぼくからすれば、あまりうまい方法には思えません。
意図的に「緊張を増す」ことを狙っている人たちがいると思われるところが、困ったところなのですが。
ともあれ、
- 敵は作らないように注意しながら、味方を増やしていくこと
が最善手なのだと、個人的には思うのでありました。
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