「これが正しい瞑想の方法です」。あるいは、本当に自由な瞑想を練習するために。
ある人がネットで匿名で、自分が座禅をするとき、次のような二つの状態があるのだが、どちらが正しいやり方だろうか、という質問をしていました。
一つは、ただ座って、そこで起こるがままに任せるやり方で、この場合は日常の意識に近く、場合によっては思考が続くことによって疲れてしまう場合もあるとのこと。
もう一つは、半眼にしている目の焦点をぼやかすようにして、すると意識も落ち着いた状態になり、思考は起こりにくくなり、リラックスした状態になるとのこと。
これに対して答えていた方は、曹洞宗系の座禅の修行をして、ある在家の老師から印可を受けたという在家の方で、座禅においては「何もいじらない」ことが大切なので、前者の「起こるがままに任せる」やり方が正しく、それを続けていれば、自然に後者の「リラックスした意識状態」に入れるようになる、と述べていました。
後者のように、意図的に焦点をぼやかすなどして、意識状態を変えないほうがいい、というわけです。
この答えは一般論としては間違いとは言えないし、曹洞宗の「只管打座≒ひたすら座る」というあり方からすれば、まったく正しいものと言えましょう。
けれども「曹洞宗の座禅」という枠組みを離れて、広く「瞑想」という文脈で考えてみると、別の答えも出てきます。
たとえばゴエンカ式のヴィパッサナーならば、思考が止まらないことに気がついたならば、「体の感覚を観察する」という基本の練習に戻るように教えられます。そして、体の感覚を落ち着いて観察できないほどに思考の想起が強い場合は、しばらくは呼吸を強めにして、集中力を養い、そのあとでまた体の感覚の観察に戻るようにすすめられます。
曹洞宗系も、ゴエンカ式も、仏教の世界観にもとづいて、「無常・苦・無我」という現実の相を知り、苦しみを離れた境地を目標とする点では共通ですが、実践の方法にはこのように大きな違いがあります。
ここで、「それぞれの実践法のうち、どちらが優れているか」という問いは意味を持ちません。
どちらも正しく実践を続けていけば、徐々に目標に近づいていくことができるのであって、富士山に登るのに、静岡から登っても、山梨から登っても、結果としてたどり着く頂上は一つなのと同じことです。
仏教の枠組みを離れて考えれば、ヒンドゥー的な世界観の持ち主であるジッドゥ・クリシュナムルティのように「正しい瞑想は教えられるものではない」と主張する人もいます。
「瞑想とは思考のパターンから自由になること」なのだから、「瞑想はこのようにやります」というような定式化では本当の瞑想は実践できないというのです。
たとえば最初の曹洞宗系の「何もいじらない」という教えですが、その教えを実践するときには、意識をあえて「何もいじらない」という定式に固定しているのだから、「思考のパターン」を作ってしまうことになります。「思考のパターンから自由になる」ためには、「何かをいじること」も自由にできなければならないのに……。
このクリシュナムルティの主張にも一理はありますが、だからといって曹洞宗系やゴエンカ式の瞑想実践に意味がないかというと、それはまた違うでしょう。
初歩の段階で定式化された方法に従って練習をすることには、それなりのメリットもあるからです。
三者三様の、説明の仕方があり、実践についての考え方があり、瞑想の目的の捉え方の違いがあります。
こうした違いは、「苦しみをなくすこと」「完全に自由になること」「究極の安らぎを知ること」などと、言葉で記述すると相当大きな違いにも思えますが、それを実現したときの「精神状態」としては、「富士山の頂上に立つ」のと同じで、「精神的な状態の極みに立つ」ことであり、その最高の状態を、別の言葉で表しているにすぎません。
初めに書いた「正しい瞑想の仕方」の話に戻ると、質問者が、曹洞宗系のある教えにもとづいて座禅の練習をしている初心者であることを考えれば、回答者の「何もいじらないで、ただそのまま座りなさい」という答えはまったく正しいものです。
けれども、この初心者の方が、二年、三年と同じ座り方をして、まったく進展がない場合には、ひょっとしたら方法を変えたほうがいいかもしれません。
同じ指導者のもとでは、「ずっとこの方法を続けていれば必ず成果が上がります」と言われるかもしれませんが、それが本当にうまくいくという保証はどこにもないからです。
その点ではクリシュナムルティのいう「固定的な方法論は瞑想とはいえない」という考えも参考になります。
「何もいじらない」方法がうまくいかないのであれば、たとえば「呼吸と体の感覚に意識を向ける」方法を試してみて悪い理由はないのです。
仏教の教え自体が、盲信を戒めるものであることも、重要なポイントであす。
仏教の中でもいろいろな方法論があります。ブッダの教えが盲信を戒め、自分の体験によって、方法の有効性や仏法の真実性を確かめることを推奨していることを考えれば、一つの方法を十分に試した上で、自分に合わない可能性があるときには、別の方法を試してみることに、何の問題もありません。
瞑想に関心のあるすべての人が、ドグマ的思考に落ち入ることなく、瞑想の本質のひとつである「完璧な認識の自由」への道を歩むことができるよう、深く願うものです。