ニー仏さんこと魚川祐司氏が、こんな記事を書いてらっしゃいます。
「自己肯定」という自己否定|ニー仏|note

「人の評価ばかり気にしてはいけませんよ。まず自分で自分を肯定できないと、人生なかなかうまくいきませんから」というような言い方で、自己肯定感の大切さが述べられているのを、あなたもどこかで見かけたことがあるのではないでしょうか。

確かに自己肯定感は重要です。

けれども自己肯定感が足りずに困っている人の中には、ある種繊細な人たちがいて、その人たちは「自分の否定的な面をよく分かっているからこそ、人に言われたからといって簡単には自己肯定感を高めることはできない」とニー仏さんは言うのです。

この記事では「自己肯定感を高めるためには信仰の力が役立つことがある」というニー仏さんの主張を確認した上で、「信仰」の一つの表れとも言える瞑想について、「自己肯定感を高めるために瞑想は使えるか」ということを考えてみることにします。

自己否定をこじらせて、自己肯定ができないあなたへ

ニー仏さんはこう言います。

自分の否定的な面を誰よりも自分自身が認識しているからこそ「自己肯定感」がもてないのに、その自分が「自分で自分を肯定する」などというのはまさに自己否定そのものではないか

つまり「自己否定している自分を肯定しても、自己否定しか出てこない」というわけです。

これに対して「見方を変えて、否定的な面を否定と感じないようにする」という対処法が一般にすすめられるのですが、自己肯定ができずに困っている人たちの中でも繊細なタイプの人は、「見方を変えたくらいでは、否定的な面を無視することはできない」ので、そうした対処法は役に立たないというのです。

確かに論理のレベルでは「否定の肯定」は「否定」にしかなりません。

また、言葉のレベルで「あなたが否定しているものは否定する必要のないものですよ」と言われても、「ああ、そうですね、否定はもうやめます」という具合に簡単にはいかないでしょう。

例えばあなたが、自分のやることをすぐ人と比べてしまい、周りの優秀な人よりもできない自分が気になってしょうがないととします。

このことが自己肯定感を持てない大きな理由になっているとすれば、これを一発で治すような対処法は確かにありません。

「人と比べて自分をダメだと思う」というような「こじれた自己否定」を持っている場合は、「その自己否定する自分を受け入れて、その上で自己否定のクセを手放しましょう」と言われたって、「そんなこと、どうすればできるのよ?」と思ってしまうのも当然です。

自己肯定感を努力で育てるには時間が必要。でも「信仰」の力を借りられれば?

「こじれた自己否定」であっても、根気よく時間をかけてつき合えば、自己努力によって悪いクセを減らし、自己肯定感を育てることは可能です。

自分を人と比べているのに気がついたとき、そして人と比べて自分はダメだと思ってしまったときに、そのことを「またやってるな」と確認し、否定しないことが大切です。

初めのうちは「またやってる、これじゃダメだ」と否定してしまうかもしれませんが大丈夫、「自己否定してる自分を、また否定しちゃったな」ともう一段引いて構えればいいのです。

「自己否定を否定」せず、「自己否定を肯定」することに慣れていくと、そもそもの「自己否定」は次第に薄れて消えていくことになります。

初めはぴんとこないかもしれませんが、実際に時間をかけてやってみれば納得がいくはずですので、気が向いたらぜひ試してみてください。

けれども、「そんなことに時間はかけてられないよ」という人もいるでしょう。

そういう人でも、もし「信仰心」があれば、というのがニー仏さんの主張の一つなのです。

つまり、自己肯定の場合は、「自分で主体的に肯定する」必要があるために、古い否定のパターンに邪魔されてなかなかうまく自己肯定できる状態になりにくいのですが、「信仰心」があれば、自分ではない「超越的絶対者」の肯定に頼ることができるため、劇的な効果を得られることもしばしばだ、というのです。

しかし残念ながら、こうした信仰心は「自己否定こじらせ組」のぼくたちが獲得することはかなり難しいものでしょう。

そのとき、「自己努力」と「信仰心」の中間的とも言えるやり方として、瞑想という実践法があなたの役に立つかもしれません。

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なぜ瞑想で自己肯定感を高められるのか?

ニー仏さんは
なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて|ニー仏|note
というご自分の記事をあげて、自己肯定感を持つためのもう一つのルートとして、瞑想をすすめています。(こちらは有料記事ですが、自己肯定感と関連する一部を引用・紹介させていただきます。座禅や瞑想によって経験しうる「無心」と呼ばれる意識状態について、丁寧に説明されていますので、ご関心のある方には是非ご一読をおすすめします)

ただしそこには、「瞑想はこの世における具体的な問題を直接的に解決する手段ではない」という留保をつけてらっしゃいます。

つまり、

  • 自己肯定感を高めるために瞑想をするのは邪道、

ということになります。

ではなぜニー仏さんは、自己否定してしまう人に瞑想をすすめているのかというと、

  • 自己否定で悩んでいる人ならば、生きている以上は逃れられない「終わりのない不満足」に対する究極の解決法としての瞑想に関心があるはずだ、

ということになります。

つまり瞑想は、「個々の具体的な問題」を解決するためではなく、「説明しがたい生きづらさ」や「生きることの無意味さ」といった『人生そのもののに伴う構造問題』の解決策として役に立つものなのです。

確かに瞑想は、自己肯定感を高めるというような目的のためにするべきものではありません。

けれども、ゴータマ・ブッダが「苦」と呼んだ「人生における終わりのない不満足」に終止符を打つことを目指して、あなたが瞑想の練習を続けるとすれば、やがてあなたは「以前のようには自分を否定することがなくなった自分」に気がつくことになるでしょう。

というのも瞑想を通してあなたは、自分が無意識にしていること(たとえば、自分と人を比べて、自分はダメだと否定すること)にはっきり気づくようになり、また気づいても、それを否定しないあり方を体験を通して学ぶからです。

「自分の中で起こっていることに対して気づきを保ち、それを価値判断することなく受け入れること」は、仏教の瞑想法から派生して生まれたマインドフルネスという技術の基本でもあります。

また、仏教においては「超越的絶対者」というものは考えませんが、「法=ダルマ」という、この世界を貫く法則あるいは真理に対する信頼感が「信仰心」に相当するものとして働くことになります。

この法に対する信頼は、言われたことをただ鵜呑みにする盲信ではありません。

たとえば、比較的よく知られた「無常・苦・無我」という三つの考えがあります。

これも仏教の法に属するものですが、

  • 「無常=この世に不変のものはない」
  • 「苦=どんなものでも執着することによって苦しみの元になる」
  • 「無我=普段私たちが自分だと思っているものは実際には自分とは言えない」

という内容を、瞑想をすることで、自分の実体験として理解することが、「法に対する信頼感」を確固としたものとし、仏教自体への揺るぎない信仰心として確立するわけです。

あなたが瞑想の練習を積んで「無常・苦・無我」を自らの体験とした理解することができれば、

  • この世には不変のものなどないのだから、人の評価など気にする必要はなく、
  • 何であれ執着することで苦しみが生まれるのだから、自己を否定する心を手放しせば、苦しみもなくなることが分かり、
  • 思い悩んでいた自己評価の低さなど、そもそもありもしない「自分」についての幻影にすぎなかったことに気づく

ことでしょう。

そんな境地に至るには、それ相応の練習時間が必要なのは言うまでもありませんが、千里の道も一歩から、まずはこの場で三回深呼吸をして、今この瞬間から瞑想の味わいを、一口だけでもかじってみることをおすすめします。

それではみなさん、ナマステジーっ♬

☆瞑想については、こちらの記事もどうぞ。
マインドフルネスもヴィパッサナーもこれだけ分かれば上等です - 簡単すぎる仏教と瞑想の話 - *魂の次元*

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