オウム真理教事件を出発点に「正義のやばさ」と「権力ゲーム」における「自己肯定感の重要性」について考察してみます
omion さんの7月7日のツイート*1、
オウムでサリンつくった人たちだって蒔いた人たちだって「人を殺す犯罪」をしようとしたんじゃなくて「理想の社会を作る正義」のための戦いをしようとしてたんですよ。良かれと思っての行動なんですよあれ。
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
が、25,000件以上リツイートされており、そこについたリプライを見ると、多くの方が「絶対的な正義はない」という健全な理解をしていることが分かります。
この記事では、「絶対的な正義はない」と考えるとき、ぼくたちはどのように判断の基準を持てばいいのか、また人間の振る舞いを「権力ゲーム」と見たとき、そこで「幸せなプレイヤー」になるためにはどんな資質が重要なのかを「自己肯定感」というキーワードを使って考えてみたいと思います。
- 結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと
- なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。
- 権力ゲームの遊び方
- 「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる
結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと
「絶対的な正義」という確実な判断基準がない中で、幸せに生きるためのぼくなりの「三つの指針」をまず明らかにしておきます。
それは、
- 人の意見を鵜呑みにしないこと、
- 分からないことは分からないままに判断を保留すること、
- きちんと自分に自信を持つこと(自己肯定感)
の三つです。
それぞれの意味するところについては、順に説明していくことにして、まずは、「正義のやばさ」に話を戻しましょう。
なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。
omionさんがオウム事件に関して、
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
と言っているのは、
- 宗教は全部やばい、とか
- あらゆる正義がやばい、
という意味ではおそらくないでしょう。
宗教にしろ、正義にしろ「盲信することは恐ろしい」ということが言いたいのだろうと思います。
けれども、ゆっちさんが引用するドラえもんの言葉、
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
https://twitter.com/Yutti114514/status/1015882463514537984
を見ても、国家が「正義」と呼ぶものですら、十分吟味する必要があることは明らかでしょう。
とすれば、
- 「オウムのような狂信的な正義がやばい」
というよりは、
- 「どんな正義も、それが場合によっては他者を抑圧しうることを考えれば、ある程度のやばさを隠し持っている」
と考えたほうがいいでしょう。
ですから、三つの基準の一つ目に挙げた、
- 「人の意見を鵜呑みにしないこと」
ということが大切になってきます。
どんなに偉い人や、どんなに頭のいい人が言うことでも、またどんなにたくさんの人が信じていることでも、
- いつでも確実に正しいと言えるわけではない、
のですから、なんとなく信じて、鵜呑みにしてしまうようなことには、危険がともないます。
もちろん、一人の人間が自分の経験からあらゆることについて正しい意見を持つことなどできませんから、信頼できる人の言うことを「多分そうなんだろうな」と少しだけ疑問を残しながらとりあえず信じておくことは、生きる上で役に立つことです。
けれども、偉い人や、賢い人が、あるいはたくさんの人が言っていることだからと言って、
- 「きっとそうに違いない」
と条件反射的に思ってしまうとしたら、非日常的で重要な局面では命を落とすことにもなりかねません。
2011年3月11日の津波で「大人の常識」にしたがったために命を落とすことになった宮城県石巻市の大川小学校の子どもたちのことを考えれば、ぼくが言っていることの意味は分かってもらえるでしょう。
リチャード・ロイド・パリーの「津波の霊たち」によれば、教員の指示で子どもたちが校庭にとどまっていたとき、二人の子どもが「危険だから山に逃げるべきだ」と言っていたことが記されています。
このとき大人たちに「子どもの直感」に耳を貸す知恵の持ち合わせがなかったために、「児童・教職員合わせて84名が死亡・行方不明」という大惨事を引き起こすことになってしまったのです。
この二人の子どもが「健全に教師を疑って」裏山に逃げていたら、命を落とさずに済んでいたのに、と残念でなりません。
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権力ゲームの遊び方
さきほどのomionさんのツイートに関連し、id:Shin-Fedorさんが、
とつげき東北の書いた 「道徳ゲーム」の終焉 という名文があり、それを読んだらオウムが正義だということに納得できた。おすすめ。
(http://b.hatena.ne.jp/entry/367127759/comment/Shin-Fedor)
と書いています。
- 認識の信仰性
- 欲求の一元論
- 権力の優位
という三つの基本原理を仮定した上で、
- 「人間の社会というものは、道徳に基づいて成り立っているように見えるが、実際には互いが互いを力によって支配しようとする『権力ゲーム』にすぎない、
ということを主張しています。
ここではとりあえず、「認識の信仰性」について考えてみましょう。
とつげきさんは、「認識の信仰性」を「全ての判断は確実ではない」と言い換えて説明しています。
「絶対的な正義はない」という考えと、実質的に同じことを言っているといってもいいでしょう。
ぼくたちが共通に「認識」しているはずのこの世界も「夢」にすぎないかもしれず「仮想現実」にすぎないかもしれない、というようなことを科学者が大真面目に議論していることからすれば、ぼくたちが素朴な意味で「確実」だと思っていることなど、まったく不確実なものに違いありません。
けれども「あらゆるものが同等に『不確実』だ」と思っていたら生きていくことができなくなってしまいますから、ぼくたちは自分の経験と周りの人に教わったことから、たとえば、
- ものを食べなかったら死んでしまう
ということを「信じる」ことにするわけです。
そして、多くの人は、一週間食べないと死ぬのか、一ヶ月は食べなくても大丈夫なのか、ということについては、はっきりとは知らないままいるのですが、それで問題はありません。
ぼくは子どものころに小学校の先生からだったと思いますが、
- 人は一週間くらいは水だけでも生きていける
と聞いた覚えがあり、ずっとそう信じていましたが、大人になって断食について調べてみると、
- 人間ひと月くらいは何も食べなくても問題なく生きられる
ようです。
とはいえ、自分で確かめたわけではなく、自分の周りにひと月の断食をした人がいるわけでもありませんから、本当のところがどうかは分かりません。
それでも生きるのになんの不便もないわけです。
そして、世間で取り沙汰されるような多くのことも、これと大して変わりません。
ぼくたちは、テレビでこう言っていた、とか、新聞にはこう書いてあったとかか、ネットで調べたら実はこうだった、とかいうことで、
- 「事実はこうである」という信念
を自分の頭の中に作り上げます。
けれども、ある時代には「正しい」と思われていたことが、のちの時代になると「間違っていた」ことが分かる、というようなことはいくらでもありますよね。
たとえば「中国は危ない国だ」というような意見を、中国に行ったこともなければ中国の人と話したことさえない人が、他人の言うことだけを鵜呑みにして信じることは、大変危険なことではないでしょうか。
だからといって、「中国は危なくない」というふうにも言えませんから、
- 「中国が危ないかどうかは分からない」
と判断を保留しておくことが大切です。
つまり、ここまでこの文章を読んできて、
- やっぱりよく分からない、本当にそうだろうか
とあなたが思うのなら、この文章についての判断を留保していただいて、一向に構わないわけです。
その時点では分からないことは、無理に判断をつけようとせず、一旦寝かしておくことは非常に有効な手段です。
そのときは分からなくて、結論の出せなかったことでも、一晩眠るとすっと分かって、簡単に判断がつく、というようなことも普通にあることです。
「絶対的な正義など存在し得ない」のだからこそ、
- 分からないことは分からない
と、人に対してもはっきり言うことが大切になりますし、そのようにきちんと自分で確認することが、精神衛生上もなによりよいことになるのです。
「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる
はてな匿名ダイアリーの記事
・みんながなにを考えて生きてるのかわからない
でとある匿名さんが、
みんなはなにを考えて生きてるの?
私は世界の偶然性が怖すぎて手も足も出なくなってほとんど引きこもってしまっている。
でも単に自己肯定感がないだけな気もしてきた。
自己肯定感がないから何かが起こるのが必要以上に怖く感じるのではないかと。
と書いてらっしゃいます。
この「世界の偶然性」という言葉は「絶対的な正義はない」とか「全ての判断は確実ではない」とほぼ同様の意味合いも持っているように思えます。
正義もなければ、確実な判断もできない世界で、偶然性に翻弄されることを恐れて「ひきこもらざるを得ない」原因が「自己肯定感のなさ」に由来する、という分析もまったく納得のいくものです。
「自己肯定感」を言い換えれば、「きちんと自分に自信を持つこと」となります。
これは「自分は絶対的に正しい」と思うような「自惚れ」とは違います。
自分が間違えることもあることを謙虚に知った上で、十分に吟味した自分の感覚に第一の信を置く、ということです。
つまり、人の言うことを鵜呑みにしないことも、分からないことは分からないままに判断を留保することも、この「自己肯定」の中に入ってくるわけです。
また、「自己肯定ができる」ということは別の言い方をすれば、「この世界を信頼できる」ということでもあります。
正義も判断もそのときどきの時代の流れによって変わってしまうものであって、明日の予測もつかないような状況のとき、その状況の中で自分が感じていることを信頼し、肯定することができればこそ、予測がつかないこの世界であっても、それを信じることができ、それを楽しむこともでき、人生は生きるに値するものとなるのです。
件の匿名記事についたブックマーク・コメントを見ると、多くの方は「自然な自己肯定感」を持っているため、匿名さんの悩みが分からないように見受けられます。
ほどほどの「自然な肯定感」さえあれば、「次のごはん」のことを考えたり、あるいは特に何も考えたりしなくても、自然に社会の中で生きていけてしまうからです。
逆に、
・
を書いたとつげき東北さんは、「自然な肯定感」を持っていないために、人間社会を「権力ゲーム」としてとらえ、多くの人がしたがう「道徳ゲーム」を否定しないことには、この社会に居場所を見出だせないのかな、と思います。
とつげきさんの宣言する、
- 人間社会は、互いが互いを力で縛り合う「権力ゲーム」にすぎないのだから、相手を縛るための道具でしかない「道徳ゲーム」には自分は従わない、
という考え方は、「全ての判断は確実ではない」という「価値観の相対性原理」に立てば、当然ひとつの立場として認めざるをえないものであり、しかも十分に吟味され、洗練された「公理系」であると言えましょう。
けれども、それはとつげきさんが「この世界の優しさ」を今は感じ取れない状態にあり、「自分の持つ優しさ」を「自己肯定」の気持ちとともに抱きしめることができないために、そうした残酷な「公理系」を選択せざるをえないのではないか、という気がするのです。
ごはん炊か騎士さんが、とつげきさんの文章につけたコメント
*2には、とつげきさんの文章に見られる「脅迫的(引用者中:原文のママ)権力的構造」についての記述があります。
とつげきさんが「利他的行動も利己的行動として説明できる」と主張することを「強迫的」ではないか、というわけです。
ごはん炊か騎士さんは、「自然な自己肯定感」を豊かに持つ方のようです。
そのため、道徳的に押し付けられた選択ではなく、自分の勝手で自由な選択として「人に優しく振る舞い、相手から感謝される」という優しい光景を想像します。
優しい雰囲気が好きだから、人に優しくするし、優しくされたら嬉しくて、お返ししたくなる。そんなやり取りの雰囲気が好きである。こうして、俺は優しい人であることが論理的にできるのではないか。
「権力ゲーム」の実践によっても、人は一定の幸せを得ることはできるでしょう。
けれども人間の持つ「共感」という力はあなどるべきものではありません。
確かに人間社会の「支配者」の多くは「権力ゲーム」に明け暮れているのかもしれません。
そうであったとしても、あなたが「共感」にもとづいて人生を生き、「共感」にもとづいた人間関係の中で生きることができれば、「権力」の多寡に関わらず、あなたの人生は生きるに値する、楽しく幸せなものになるに違いありません。
物質的には十分すぎるほど豊かなニッポンの社会の中で、
- その豊かさをなぜか十分に楽しむことができず、日々の仕事に追われるみなさんにしても、
- そのように「追われること」に耐えられずに引きこもって暮らさざるを得ないみなさんにしても、
自分が今生きているそのあり方について、いい面もわるい面も落ち着いて見ることにして、自分が精一杯やってきた成果としてそれをきちんと自己肯定することができさえすれば、明日の見えない不確実な今という時代であっても、希望を持って一歩いっぽ、前に向かって歩いていくことができるのではないでしょうか。
- 人の意見を鵜呑みにしないこと、
- 分からないことは分からないままに判断を保留すること、
- 自己肯定感を大切にすること、
この三つの基準を心の片隅に留め置いていただくことで、あなたの日々の暮らしが、少しでも楽しいものになるよう、心からお祈りさせていただいて、この記事の終わりとします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬