雷理さんの記事、
http://www.rairi.xyz/entry/verification
の締めの言葉、
「記事書く時 あなたの意識してることって 何ですか?」
を見て、

一体ぼくはナニを意識して記事を書いてるんだろう?

と、思わず考えてしまった。

このところ、この *魂の次元* というページでは、おもしろ半分、まじめ半分の記事を書いているので、「好きなことを楽しく」という意識で書いていることは間違いない。

けれども、こうやって記事を書くのが「楽しくて楽しくてしょうがいない」というような感覚からはほど遠い人間なのだ、ぼくは。

必ずしも楽しくない「記事を書く」という作業を、胸を痛めながらこうして続けている「ぼく」という人間は、一体なにものなのか。

  *  *  *

衣食住の心配はなく、娯楽にもことかかない社会の中で、多くの人は、日々の生活に多少の不満はあっても、自分のするべきことをして、自分なりの楽しみを見いだして、それぞれの人生を生きている。

その中で、weblog に記事を書くということが、なんらかの意味で「楽しみ」につながるのなら、それだけでそこに「書く意味」が生まれ、数の多少に関わらず、あなたの文章は、誰かの心にほんの少しの共振を生んで、少しの間そこにとどまり、そして、その共振はやがて去っていく。

人生というのは、そういう「何かの片鱗」に触れることからくる「共振」の積み重ねとしてしか存在し得ないのだと、そんな気がしている。

パラダイス銀河さんの
#020 - DIARY
という記事を読んで、論理だけでは到達できない世界、人間だからこそ感じられる「何かの片鱗」が形作る限りなくゼロに近い世界というものに、あと一歩で届きそうなのに、永遠にたどり着くことができないような、希望の果ての絶望の暗雲に包まれて、インドの小さな田舎街の安宿で、一人この文章をつづっている。

「いいね」という印がほしいのではない。この言葉が確かに誰かに届いている、というあかしがほしいのだ。

けれども、あかしというものは、求めれば求めるほど遠ざかってしまうという逆説の中にしか存在しない。

誰かが放ってくれる星ひとつの中に、人の心の響きを見るのは、「ぼく」という人間に宿っている「魂」の仕事なのであって、星を投げてくれた人に「あなたの星はきちんと心の響きで輝いていますか」と聞くことは、むしろその輝きを曇らせ、美しく咲いていた花ですら見る間に萎れさせてしまうほどの毒になりかねない。

人の心にひそむ歪んだ承認欲求は、毒とまではいかないにしても、うっとうしく、いとわしい作用を持つものだ。

しかし、こじらせてしまった承認欲求こそが、この世界で「ただ生きること」の価値を知りそこねたものに与えられた強力な武器なのだ。

この世にはありえない100%の承認を得るためには、エゴの鎧と自己憐憫をうち捨て、論理の枠組みを突き破り、物質の事象を跳び越えて、向こう側の世界を垣間見る以外に方法はない。

向こう側には、こちら側の意味での「価値」はない。けれども、その「善悪」を超えた世界では、きみの存在は100%肯定されるのだ。

こじれにこじれた承認欲求のエネルギーによって、その離れ業をなしとげるのが、きみの人生の「意味」なのだ。

  *  *  *

とまあ、そんなようなわけで、野鳥ジビエは汚染がはなはだしいという話もありますが、みなさん、お体にお気をつけておすごしください。

今日はなんだか妙な文章になりましたが、明日は明日の風が吹くことでしょう。

ほいでは、またーーっ。