ご飯と間違えて茶わんを食べる人はいない、あるいは言葉は呪文・言葉は祈り
このところ、どんな言葉が人を動かす力を持つのか考えています。
それで気がついたのは、確かに「言葉が人を動かす」ということもあるのだけれど、実際に人を動かすのは、言葉のもとになっている「人の気持ち」だということです。
当たり前と言えば、当たり前の話です。
けれども
「ネットでどんなふうに情報を発信すれば多くの人にとどけることができるんだろう?」
というような関心から表現について考えていると、これはどうしても引っかかり安い「落とし穴」だと思うのです。
表現に磨きをかけるのも大切
どんなふうに言葉を使えば、たくさんの人に理解してもらえるのか。
そう考えて表現に磨きをかけていくこと自体は悪いことではありません。
けれどもそれをやり過ぎると、本末が転倒してしまい、枝葉のことばかり気にする結果になりかねません。
言葉って難しいなと思います。
言葉が難しい理由の一つは、言葉が器と中身の両方の役割を果たすためです。
何が器で何が中身なのかがすぐ分からなくなり、中身を食べるべきなのに器をかじってしまうわけです。
分かりにくい話でしょうか。
言葉は器でもあり、中身でもある
ご飯と間違えて茶わんを食べる人はいません。
けれども「愛してる」と言われただけで、「この人は自分のことを本当に愛してくれているんだ」と勘違いしてしまうことはよくあることでしょう。
「愛」という言葉は器です。その器には優しさとか思いやりとか、いろいろな中身が詰まっています。
つまり「愛してる」という言葉に、実際に優しさや思いやりの気持ちからなされる行動が伴って初めて「愛されている」という器に中身が盛られたことになるわけです。
ところが、肉体というものが持つ過剰な欲求に心を奪われるとき、人は「愛」という言葉が中身と関わりなく、それだけで気持ちを落ち着かせてくれるという錯覚に落ち入り、自分をだましてまでも納得させたりもするのです。
中身のない空虚な器をかじって、なんとか心の飢えをなだめるのです。
表現と承認欲求
あなたが表現というものに取り憑かれた人間なのであれば、人に伝えることなど二の次で表現に取り組んでいらっしゃるでしょうから、ここで書いていることは、
「ああ、そんなことを考える人もいるんだな」
くらいのことでしかないでしょう。
けれども、ぼくのように中途半端で、表現を捨てることもできず、かといってそれに没頭することもできない人間にとっては、これは切実な問題です。
というのは、「書く=表現する」という内発的な行為が、承認欲求からなされるとき、「承認を得るために表現を調整する」という本末転倒が起こり、しかもその調整が必ずしも承認につながらない場合、あとに残るのは一抹の虚しさでしかないからです。
承認欲求のために書くことも、決して悪いことではないでしょう。けれどここでも本末を転倒させないことと、それにのめり込み過ぎないことが大切です。
囁きと叫びが、心の奥底で渦巻くとき
物書きを趣味とする旧友が「すべての言葉は魂の叫び」という題の文を書いていて、ホントにその通りだなと思ったことがあります。
そして、すべての言葉は呪文であり、祈りでもあります。
器ではなく中身としての言葉を発することができれば、それはきっと誰かに届いてその人に力を与えることになるでしょう。
願わくばこのつたない言葉が、あなたの心に響いて、あなた世界にほんの少しでも光をもたらしますように。
インドの片隅でバナナをかじりながら、ぼくはそんなことを想ったのです。
(初出: とし兵衛@note.com
https://note.mu/tosibuu/n/n85eff388c872 )