無用の用の要不要、独活(うど)の大木やすむに似たり
今日も極東の島国でお過ごしのみなさま、おはようさんです。
ヤポネシア列島ではまだまだ寒さが続くところでしょうが、そろそろ春の香りを届けてくれる独活(うど)なども出回り始めたようで、四季それぞれに山の幸海の幸豊かな秋津の国を思い出しつつ、北インド・ハリドワルで、道端の屋台のナンとカレーに舌鼓を打つ今日この頃です。
giveus さんの「思ったことを伝えるのよ - いのちばっかりさ」という記事に刺激され、今回は思いついたことを誰にともなく、電網虚空に放り投げてみようと思います。
違和感をこそ大切にしたい、だから俺は「サラダはうまい」と言うのだ
旦那は結婚そのものに意味を見出しているのに、私は旦那が結婚に意味を見出していることに意味を見出しているので、これでいいのだろうか、とは思うが・・・この違和感ってなんなんだろう。
giveus さんがこう書かれているのをみて、ぼくは大きな声で、
「それでいいのだ、バカボンのパパなのだ」
と踊りながら叫びたいと思ったのですが、その一方で、そうした場面で感じる「違和感」をこそ大切にしたらいいよね、ってのがこの節の主題だったりします。
まあ、ほとんどなんでも「人生投げやり」に通してきたようなぼくが、「大切に」なんて言葉を書いても説得力もへったくれもありゃしないのですが、後知恵で 振り返ってみると、そういう「違和感」の中にこそ、自分の人生にとって大切なものがあとから見つかったりするもんだよな、というような話ではあります。
その昔、作家の筒井康隆氏が「サラダというものはうまくもなんともない」という話を書いているのを、中学生か何かの時分に読んで、何かもやもやとした感じを受けたことを今でもよく覚えています。
筒井氏が言うのは、サラダの中身のレタスなどの野菜は、ろくに味などなく、ただ噛みごたえがあるだけで、ドレッシングの味で食っているのだから、そんなものがうまいはずがない、という話で、あながち間違っているとは言えないし、皮肉たっぷりで筒井氏らしい主張だなあとは思います。
けれども、こちらも大人になるにしたがい、いろいろと経験を積む中で、ぼく自身は筒井氏とはまったく違う考えを持つようになりました。
ひとつには、食べ物を食べるとき、食感というものの持つ役割です。
筒井氏は「食感しかないからサラダはうまくない」というのですが、「食感があるからこそサラダはうまい」のです。
しゃきっとしたレタス、ぱりっとしたキュウリ、とろりとするトマト、ありふれたサラダの素材のどれをとっても、ぼくにとってはその食感だけで十分に味わう価値があります。
もちろん氏はサラダの食感が好みではないのでしょうから、氏が「サラダの食感は特に好かんから、自分はサラダ自体を好かん」というのなら、なるほどごもっとも、というのみです。
もう一つは、そしてこちらこそが大きなポイントなのですが、レタスなどの菜っ葉も含め、野菜というものは、よい土でしっかり作られると実によい味わいを持つようになる、という事実です。
残念ながらぼくは「うまいレタス」を食べる僥倖には、この人生で巡りあっていませんが、「うまい小松菜」は一時期よく食べていたことがあります。
それは、一度目の結婚をした彼女のおとうさんが有機堆肥を使った素晴らしい菜園を趣味としていたからで、おとうさんが作った小松菜を食べることは、
- 小松菜のお浸しには「味がない」ので鰹節の味で食べる
と思っていたぼくの目から、「鱗をごっそり落とす」のに十分な体験でした。
というわけで、筒井氏のような大作家の先生でも、人生経験の幅にはどうしても片寄りがあるわけですから、その文章を読んだ中学生が「違和感」を感じたときに、案外その「違和感」の中に、その中学生にとっての「真実」が隠されていたりもするものだ、というお話でありました、まる。
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「人間関係の機微」の機微
さて、前回の記事「結婚にまつわる二、三の心象風景 - *魂の次元*」にも書いたように、ぼくの一度目の結婚は、彼女がぼくに出していたはずの「あなたに合わせるのは、わたしかなりきついのよ」という「サイン」を見逃しまくったために、四年ほどで終わりを迎えてしまったのですが、世間ではそういう「サイン」を出したり読み取ったりすることを「人間関係の機微が分かる」という言葉で表すのかなあ、などと考えます。
日本における多数派の、普通に「共感能力」を持っている方々は、この「人間関係の機微」というものが、なんといいましょうか、いわば「常識的」な範囲で理解できるのでしょう、そうすると日常というものを、怒ったり泣いたりしながらも、破綻することなく送っていくことができるのだと思います。
ところが、千人に一人か、もう少し多いか知りませんが、この「共感能力」というものが、「欠如」とまではいかなくても、「大いに不足している」人間というものがいるもので、わたしも含め、こうした人々には、どうにも「人間関係の機微」というものがつかめません。
そうした「機微」を察してくれ、というような場面に出くわすと、
「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」
みたいな思いがどうしても湧いてくるというものです。
もちろんこうした話は程度問題ですから、多くのみなさんが、似たような場面の経験をお持ちかとは思うのですが、共感能力「欠如」型の人間にとっては、人生のすべての場面が「そんなこと、言ってくれなきゃ分かんないよ」の連続だったりするわけですから、これはなかなか厳しい状況と言えましょう。
では、そんな共感能力「欠如」型の人間はどうすればいいのか、ということなのですが、もう「人間関係の機微」なんて分からなくていいから、一段上から、『「人間関係の機微」の機微』について考えようじゃないか、というのがここで提案したいことなのです。
論理階梯を一段上がって、こうしてメタな論理構造を考えることこそが、共感能力「不足」でお悩みのあなたの、心のなぐさめには少なくともなるはずですし、しかもそれは、一定レベル突き詰めて把握することができれば、一転、あなたの強力な力にもなるはずのものなのです。
「人間関係の機微」が分からないからこそ、あなたには、次のようなメタな理解が意味を持つはずです。
それは、
- 「人間関係の機微が分かってしまう人」には、「人間関係の機微が分からない人」の機微は分かり難い
という事実です。
「共感能力」というものは、哺乳類が生き残る上で「不可欠」と言ってもいいほど基本的な能力ですから、これが働かない状態というものを理解することは、普通に「共感能力を持っている人」にはかなり難易度が高いのです。
ですから、「共感能力不足」にお悩みのあなたは、人並みに「共感能力」を持っている人が、あなたの感じ方、考え方、行動を「普通に分かってくれる」などとは夢々考えるべきではないのです。
むしろ、互いの「理解不能性」をこそ出発点としなければなりません。
そして、この個人同士の「理解不能性」という厳然たる事実を見据えることは、「共感能力」という生きるために必要ではあるけれども、ある限度を超えるとお互いを縛り合う重苦しい鎖に変じてしまう「精神的絆」にしばられることの少ないあなたに天から与えられた「特権的な課題」なのです。
この課題を十分深く掘り下げえた暁には、あなたは「普通の共感能力」の持つ大切さと同時にその限界も知り、『「人間関係の機微」の機微』が分かる奥行き深い視点を持つことができるはずです。
その道行きは、茨の道となるかもしれませんが、茨の藪をかき分けてこそ味わえる野いちごの味わいというものも、この世には存在するはずと思うわけなのでした。
「面倒」こそ我が人生の道連れ
とまあ、あれこれ偉そうなことを書いていますが、「世間のルール」というようなものの意味がかなーり分かっていない共感能力「蝶不足」型人間のわたしの場合、
- 人生ってなんでこんな面倒なことばっかりなの?
と思うこと、数えきれない半世紀を生きて参りました。
ヴィパッサナー瞑想の境地もある程度深まってきて、昔ほど深刻に「あーあーあー、なんでこんなに面倒なんだーーーっ」と思うほどのことはなくなってきたのですが、気がつくと、ほんのちょっとした手間のことにも「あー、めんどくさい」と思っている自分がいます。
何かをやろうと思っても、それをやったときの手間の多さを考えたり、失敗したときのことを想像していやになったり、様々な無意識的、半意識的想念が湧いてきて、それが「めんどくさっ」という言葉として頭の中に析出しちゃうんですよね。
しかしながら、この心の深いところに根ざした「自動的な反応」は、容易には変えがたいし、また無理に変える必要もないことであることが、最近ようやく分かってきました。
嫌だから変えようとするのではなく、「面倒」という想いを嫌がらずに、友だちになってしまえばいいだけのことだと、気がついたのです。
自分の心の奥深くに根ざす、生来の友だちなのに、邪険に扱うから悪さをするのであって、その友だちがが顔を見せたときに、
「やあやあ、こんにちわ。またお会いしましたね。そんなに深刻に悩まなくても大丈夫ですよ」
とほがらかに挨拶できるようになれば、「生涯の悩み」ともついにさよならできることになるのです。
今これを書いていて、ぼくの体が「ほんとにそうだよねー」と悲しみとともにうなずいてくれています。
自分の体の感覚を信じることも、よく生きるためには必須のことだなあと、これも最近の発見の一つです。
ゆっくり呼吸をすること、ヨガなど体を動かす楽しみを知ること、そんな小さなことから、新しい人生の枝葉が育っていく様子を楽しみながら生きていきたいものではありませんか。
てなところで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
[写真は北インド・ハリドワルの路上屋台のカレー定食。日本で食べるナンと違い、薄めでパリッとしており食感最高だった。カレーは辛すぎて「舌鼓」を打つというよりは口から火を吹いていた。愛機lenovo tab2 で撮った写真がぼけぼけなのはご愛嬌]