著作権法を「絶対守らなくては」と思っているあなたへ - 法の恣意性についてちょろっと考えてみました
先日某所にて、著作権法で保護されているデータを私的なコピーとして「限定的」に公開したところ、id:typex2さんから、「それってまずいんじゃない」という意味のコメントをいただきました。
そこで今回は著作権の問題を題材に、さまざまな法規制と賢くつき合う方法を考えてみることにします。
- 著作権法でも私的コピーは認められているという立場
- 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ
- cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか?
- 法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義
著作権法でも私的コピーは認められているという立場
著作権法を厳密に解釈すれば、確かにぼくの行なった「限定公開」は「問題」をはらんでおり、「技術的には誰もがコピーできる」場所に他人の著作物を保管することは、賢いやり方とは言えません。
typex2さんのおっしゃる通り、「公開」をとりやめにしたほうが波風立てずに「安全なセーカツ」が送れるというものです。
けれども法律というのは所詮「ニンゲンが便宜的に定めたもの」としか考えないぼくの立場からすれば、
- 著作権法で保護されたものであっても、私的なコピーを取ることは個人の自由として当然認められている、
と考えますから、行為の結果起こることの責任は自分がとることはこれも当たり前の前提として、「限定公開」と称してオープンな場に私的コピーを保管することくらい、
「別にいーじゃない、カラスの勝手でしょ」
と言いたくもなるところなのです。
「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ
typex2さんが「あなたのしていることは著作権の侵害に当たるのでやめたほうがいいですよ」と善意で言ってくださっているのは痛いほど分かるのですが、
- 「xxxさんの著作物を勝手に公開するのは問題だ」
というような書き方をしている点については、そのような形で著作権者の名前をオープンにすることは、
- かえって著作権の侵害を助長することになる
ので、
- 「そういうやり方は、やめといたほうがいいでしょう」
と思います。
ぼくは「限定公開」をお知らせする記事で、
- 不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開である
ことを断っています。
そのため検索流入がおこらないように、タイトルや作家名などは明示していません。
それなのに、あー、それなのに、それなのに、typex2さんはご丁寧にも作家名を明示してくださってしまったので、これによってぼくの友だち以外の誰ともしれない人々が、大量の違法コピーをすることになって著作権者の方に多大な損害を与えた場合、保管者としてのぼくの責任はもちろん生じますが、違法コピーを助長する行為を行なったtypex2さんもその法的責任をまぬがれえないだろうことを考えると、せっかく善意からの助言をしてくださったtypex2さんには、今後はそのような「危険」な発言はなさらないように、くれぐれもご注意いただきたいと思うのです。*1
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cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか?
さて、typex2さんのような生真面目に法律を遵守され
- cdの一枚も違法コピーをしたことがないような方
には、ぼくのやっている「超法規的行為」の意味がまったく分からず、社会の存在基盤が揺らぐような危機感すら覚えるかもしれませんので、どうして一見「おろか」としか思えない「パブリックな場に私的コピーを保管する」ような無謀な行為をわざわざ行なっているのか、その考え方について少しばかり説明してみましょう。
著作権の保護期間が50年から70年に伸ばされることの是非が取り沙汰される昨今ですが、その延長を否定する論の根拠として、多くの著作者の出版物について、そもそも死後に発行されること自体が少ないことを調査したデータがあります。*2
であるにもかかわらず、保護期間を50年から70年に延長することは、ごく少数の力のある著作権者の権利ばかりを保護して、人類の共有財産である多様な著作物へ多数の者が自由にアクセスする権利を侵害ずるのは、「よろしくない」法律であると言いうるわけです。
同じことが現行の著作物の保護に関しても言えるはずだ、というのがぼくの個人的な見解です。
たとえ有名な作家であっても、うん十年前のもはやほとんど「売れない」作品というものはあるわけです。
とは言え、そうした作品も著作物として権利が保護されますから、これを勝手にコピーして販売するとなれば、それはもちろん取り締まりの対象となるでしょう。
けれどもそうした「古い作品」を、私的コピーの範囲で少数の「友だち」の便宜を図るために、パブリックではあるが目立たない場所に保管する程度のことは、わざわざ法律で取り締まる必要があるほどの大きな権利侵害には当たらず、多くの「善良な市民」が行なったことがあるはずの「cdを友だちにコピーしてあげる」ことと同じくらいの
- 軽微な法律違反にすぎない、
と考えるわけです。
図書館で本を借りて読むにしろ、古本屋で本を買って読むにしろ、「著作権者にお金が入らない」という意味では、「ネット上でデータを『借りて』読む」場合となんら変わりはありません。
「多数派の規範の押しつけ」が強くなっていることをひしひしと感じる今だからこそ、
- 何が許されて、何は許されないのか、
を法的な制限と重ね合わせて吟味し、「実験」を通して確かめていくことには、大きな意味があるはずだと考える次第です。
法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義
法律というものは、その時代その時代の合意と妥協によって作られた恣意的な基準にすぎません。
その上、法の実際の適用においては、さらに大きな恣意性が行使されることも忘れるわけにはいきません。
現状の日本のように、裁判所が憲法についての判断を避けるようなあり方では、「仏作って魂入れず」の状態が「法の適用に関して常態化している」といっても言いすぎではないでしょう。
一国の総理大臣が明らさまな嘘をつき続けても失脚することがない現在のニッポンは、根源的な意味では「法治国家」とはもはや呼べない状況にあります。
そうは言っても日本国籍を持ち、日本の法規制下で生きるものとしては、その法律をまったく無視するわけにもいきません。
そのとき、国民の一人ひとりが自分の良心に従い、自分の行動を通して、日本の法律のもとで「何が許され、何が許されないか」を考えていくことこそが、「日本の法律に魂を入れる」ことにつながっていくはずだと思うのです。
ただ唯々諾々とお上の言うことに従うのではなく、法律を守るということはどういうことなのかを考えながら、自分の振る舞いを正すことこそが、賢い法律とのつき合い方であると考える次第です。
というわけで今回は、小難しい話を長々と書きましたが、最後までご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
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☆以下が別の記事にもつけたゲリラな「限定公開」のおまけです。
フリーの o.s. である linux を支える gnu システムの開発者として知られるリチャード・ストールマンは「すべてのソフトウェアは無料であるべきだ」という過激な思想の持ち主として知られますが、そうした考えに影響されて、
- 人類の知的財産はすべて無料であってもいいのではないか、
などと資本主義社会の落ちこぼれであるぼくは妄想をたくましくしています。
というわけで、人類の知的財産のほんの一部を勝手に無料で共有してしまいます。
次のリンクを辿ると、「法律上は著作権で保護されているものの、まあ個人がゲリラ的にやる分にはかまわないでしょう」という趣旨で、ぼくがたまたま持っている数冊の書籍のpdfデータを置いておきますので、興味のあるものがあったら、ぼくの友だちになってからダウンロードしてください。
これは不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開であり、ダウンロードしたデータを勝手に販売・公開などすることを許すものではありませんので、その辺り、くれぐれもご了解願います。
また、諸般の事情で公開を停止することもありえますので、その辺もよろしくねー。
これにて一巻の終わりです。
(いらすとやさんの画像を加工して利用させていただいております)