早稲田発、香港経由、宇宙の果ての特異点への道行き、あるいはつれづれなる脱線気味・思考列車の車窓より
ネット上のみなさま、宇宙の果てよりこんにちわ。
この記事は、散漫な散歩道とでもいうべき、なんとなくの目印だけを頼りに、言葉のそぞろ歩きをつづったものです。
お時間のある方は、お付き合いください。
ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。
一つ目の目印は、こちらの反航路さんの記事です。
・矯正展講演とか、大学周辺のツマラナイことども。 - いのちばっかりさ
反航路さんの記事を読んでいると、そういえばぼくも、三十年ちょっと前は大学生だったよな、とかいうことを思い出します。
早稲田という街は、五回は行ったことがあると思うけど、たぶん十回は行ったことがない。
なんとなく知ってるけど、大して知らない街です。
若いころはSF小説をよく読んでいて、本もよく買っていたから、高田馬場までは、たまに本を買いに行ってたな。
ビッグボックスというところで古本市をときどきやってましてね。
早稲田の古書店街の店が主に集まって、古本がいっぱい並ぶんですよ。
今年の八月はひと月東京世田谷の実家にいて、たまたま通った渋谷の東急で古本市をやっていたので、久しぶりに本を二冊買いました。
「タオは笑っている」はアメリカの数学者が書いた老荘関連のエッセイ。軽くて深くて好きな本です。ずいぶん昔の本だけど、昨年2016年に新装版が出てたのね。
「自衛隊に入ろう」という有名な歌がある高田渡のエッセイ集は、ちらっと読んだだけで実家に置き去りにしてあります。
一度だけ彼の生演奏を見たことがあります。ギター一本で何を歌ってたっけなぁ。「生活の柄」は歌ってたはず。
真鶴半島の公園のお祭りで、彼の演奏を聴きながら、うちの奥さんはぼくの隣で気持ちよさそうに昼寝してました。
演奏は早めにやって、お祭りの終わりに、もう一度高田さんが出てきたんだけど、途中で酔っ払って転んで、額から血を流してた。
噂通り、そういうタイプの人なんだなと思いました。
この世界にはいろんな種類の人がいて、それぞれになんらかの居場所を持って生きてるんですよね。
ぼくもなんだか分からないながらに、インドの片隅で日々を送ってます。
あー、それで、反航路さんの記事に出てくる「幸早稲田」というおにぎりやさんの名前が、どう読むのか気になっていたのですが、「しあわせだ」という洒落だったのね、と納得した、というのも一つ書いておきたかったことだったのです、はい。
動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。
二つ目の目印は、マミーさんのこちらの記事。
・任天堂「ポケ森」を始めて「とび森」を思い出す。 - こたつ猫の森
ぼくはゲームというものはほとんどしません。
高校生のころは、ゲームセンターでずいぶんやりましたけど。ミサイル・コマンドとかディフェンダーとか、変なゲームを好んでやってました。
任天堂のゲーム機は、ファミコンに触ったことがあるくらいかな。
でもなぜかソニーの PSP は 1000, 2000, 3000 と三台も持ってます。
プログラミン言語 C というやつを使った開発環境を PC 上に用意して、エディタとか、シーケンサーもどきとか作って遊んでたんだな。
PSP 1000 は赤外線の入出力があって、外付けのキーボードが使えたので、小気味良い編集作業ができました。
バグってて、たまに文章が消え失せたりしてましたけど(笑)。
3DS の「とびだせ どうぶつの森」というのは初めて知りましたが、ゲームを通して世界中の人がつながるというのは、おもしろいですよね。
そして、そこに経済や政治という現実世界がうっすら影を落とすということも。
今はぼくはアンドロイドのタブレットでこうして遊んでますが、スマホやタブレットが世界をつなぎ、経済や政治の一つの結節点として働いていることを考えると、昭和生まれのアナログかつアナクロの人間としては、なんとも不思議な未来で生きることになったものだと、感慨深いものがあります。
ちなみにぼくは香港は行ったことがありません。中国は上海から南のほう、チベットも行ったんですけど。
経済的にも大国となった中国の人たちとも、仲良くやっていきたいものですよねぇ。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
そして人間の心という無限の世界へ
三つ目の目印は、タマニチェンコさんのこちらの記事です。
・私たちの「脳」も体積・密度の制約を受けている - セカイノカタチ
この weblog は「魂の次元」とかいうとぼけた題名をつけて、怪しい擬似科学的な話題も時々取り上げてますが、ぼく自身は、まったくの物質主義的世界観の持ち主です。
この世界は、なぜか知らねど、不思議な法則に沿って、物質とエネルギーがダンスを繰り広げる舞台であって、その中でも「特異点」的に奇妙な存在が「ヒトの脳」というものだと思っています。
ですから、タマニチェンコさんの
知性や精神は「肉体から切り離されて無限の広がりを持つ」ということはなく、物理的な形状を持っていて、その枠による制限を受けながら特性に沿って活動しています。
という言葉にはまったくその通りと思うわけです。
ところが、この「ヒトの脳」が作り出す「知性や精神」というものは、はなはだ「特異」な現象です。
というのも、「ヒトの意識」というものは、
- 物理的な制限を受けているにも関わらず、
- 実質的に「無限」の可能性を秘めている
からです。
「ヒトの脳」の複雑な神経系は、確かに有限なものですから、この宇宙全体をシミュレートすることはできません。
けれども、我々はその「ヒトの脳」に映し出される「意識」にすぎないわけですから、その「シミュレートされた世界」と「現実世界」を区別することは、本質的に不可能です。
ぼくたちが「知覚」しているものが、「幻想」なのか「現実」なのか、それを知ること自体ができないとすれば、「現実」というものの枠組みを決めているのは、あなた自身の「思考習慣の枠組み」にすぎないことになるわけです。
あなたが「物質」の世界に住んでいると考えれば、あなたは「自然法則」に逆らうことはできません。
けれども、あなたが「魂」の世界に住んでいると考えれば、あなたは今ここで宙に浮かぶこともできれば、月にまで飛んでいくこともできるのです。
しかもそのことは、「催眠」や「暗示」という概念を使えば、「物質的世界感」と矛盾することなく、共存することが可能な世界観なのです。
そんなわけで、今ぼくはインドの安宿でこの文章を書いているのですが、ちょいと意識のスイッチを入れ替えるだけで、この場所を宇宙の果てに変えてしまうこともできるのです。
インドから早稲田、香港を経由して、宇宙の果ての虚空まで、今日のあやしい散歩道はこの辺でおしまいです。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬