〈散漫小説〉自由についてのあるはてな村民のつぶやき - ボブ・マーリーよ、永遠なれ
やあ、みんな。
きょうは夕方からルーフトップのカフェで飲んでてね。
ボブ・マーリーの曲がかかってたりして、とっても気持ちよかったもんだから、そのとき考えたことを、ちょっと書いてみようと思ったってわけ。
オーム・ババ・ルーフトップ・カフェ
そのカフェの名前は、オーム・ババ・ルーフ・カフェって言うんだ。
オームなんて聞くと、おじさんたちはオーム真理教っていう、人騒がせな宗教のことを思い出しちゃうだろうけど、オームってのは、インドの人にとっては神聖な言葉なんだ。
無理を承知で日本で言えば、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかの南無に当たる言葉ってことかな。
そう、もちろん南無という言葉自体、もともとインドから来たものなんだけどね。
で、ババっていう言葉は、おとうさんくらいの意味もあれば、宗教的な指導者っていう意味もあるような言葉なんだけど、このカフェの名前の場合は、「霊力のある乞食坊主」くらいのニュアンスだろうね。
インドにはサドゥーと呼ばれる乞食坊主がいっぱいいるんだけど、ここラジャスタン州プシュカルは、ヒンズー教の聖地だから、ババジがいっぱいいるんだよ。
「ジ」っていうのは、「さん」とか「さま」みたいな敬称でね。
先生様、みたいな言い方なのさ。
そんなのが、このカフェの名前の意味なんだ。
禁酒の聖地
インドは日本と違って、割と酒にはうるさくてね。
大きな街はともかく、ちょっと田舎街になると、酒屋は鉄格子で守られてたりする。
文化の違いってやつだよね。
おまけにここプシュカルは、ヒンズー教の聖地の聖地だから、酒も禁止だし、肉食も禁止、卵も普通には食べられないんだ。
とはいっても、それは表向きの話で、店によっては酒も飲めるし、街外れに行けば酒屋もあって、そこで飲めば安く上がるし、そういうところには卵料理の屋台まである。
まあ、そんなわけで、オーム・ババ・ルーフトップ・カフェでは、なんとなくひと目を気にしながらだけど、ビールくらいは飲めるってわけなんだ。
自由に書く、自由に生きる
ブログなんてものをこんな具合にやってるとさ、ほかの人はどんなふうにやってるんだろうとか、気になっちゃうから、あれこれ検索したりすることになって、いろんなものが目に入ってくることにもなる。
そうすると中には、「ブログはこういうふうに使うべき」っていうような「べき人間」の人たちが、どうしても目に入っちゃうんだよね。
いや、ブログだけじゃなくて、「科学というものをしっかり理解するべき」とか、「人間としてこうあるべき」とか、いろんな「べき人間」がいて、ぼくにとってはそれぞれに、うーむって感じなんだけど、そうは言っても「べき人間」がだめってわけじゃない。
だってこんなことを書いてるってことが、弱い意味ではあっても、「べき人間はやめるべき」って言ってることになるんだからさ。
つまり、ぼくは自分で自分を否定してることになるんだけど、ぼくが言いたい自由ってのはなにしろ、「自分で自分を否定してもいい」ってことなんだよね。
誰かが何かを批判をしていると、ブーメランで自分が否定されることになるってのを、おもしろおかしく書く人がいて、それはそれで、ほんとにおもしろい場合もあるんだけど、自分で自分を否定しても何も悪いことはないよね?
っていうか、気がついてなくても、ほとんどの人はそれをやってるんだ。っていうのも、他人を批判するってことは、他人の中に見た自分の嫌な部分を批判するってことだから。
ぼくはこのことを R. D. レインの本*1から学んだんだけど、最初は何言っているのか分からなかったもんだよ。
だって、「人のために泣いてるのは、自分のために泣いてるんだ」とか言うんだからね。
まあ、そういう話はこのくらいにしておくよ。
でさ、たまたま『ブログで「自由に書く」ことは難しい』って書いてる人が目に入ったたから、どんな話だろうと思って覗いてみたら、
・道徳・マナー
・法律
・自分への評価
・Googleアドセンス、マネタイズ関連
・PV数、はてぶ数、ネットの反応、炎上
・人間関係
・運営しているブログ・サーバー会社の規約
みたいなことを例に上げて、だから、「ブログでは自由に書くことなんてできない」ってことが書いてあるんだよね。
そう言った上で、「そういう檻が見えてなくて『自分は自由に書いてる』という人間は滑稽だ」っていうんだ。
でも、これはちょっと違うと思うんだ。
人はみんな誰だって、自分が檻の中で生きてることくらい自覚してるに決まってる。
その自覚は意識的なものじゃなくて、無意識的なものかもしれないけれど。
それが分かった上で、誰だって自由に書いてるはずだよ。
ブログやサーバー会社の規約をやぶれば、なんらかの問題が起こる可能性があるのは承知した上で、その範囲で書くのか、ぎりぎりのラインで書くのか、あるいはそんなことはぶっちぎって書くのか、誰にだってそれを決める自由はあるでしょ?
つまり、人間は檻の中に閉じ込められてるわけじゃない。
自分で進んで檻の中で暮らしてるだけなんだ。
だからぼくらは、いつでも檻の外に出ていくことができる。
もちろん檻の外には、中にはない危険がある。
でも、檻の中の息苦しさに飽き飽きした人間は、危険なんかかえりみず、当然檻から外に出るだろうさ。
それは怖いもの知らずの愚かな行為かもしれない。
愚かだっていいじゃないか。
周りから愚か者扱い、変わり者扱いされた人間が成功を収めるような寓話なんて、腐るほどあるでしょ?
ボブ・マーリーの redemption song
うん、それでね、オーム・ババ・ルーフトップ・カフェでさ、ボブ・マーリーの redemption song がかかってたんだよ。
「解放の歌」みたいな意味さ。
白人さんの人買いに、おれたちはアメリカに連れていかれた。
だけどおれたちは負けない。神さまに守られているから。
自分を閉じ込めている心の檻を投げ捨てよう。
そして解放の歌を歌おう。
そんなような歌さ。
ぼくらは日本に生まれた人間だから、黒人の人たちがアメリカでどんな思いをしてるかなんて、本当のところは分かりゃしない。
けどさ、心の檻に閉じ込められてるってことなら、日本人だって、白人だって、どこの人間だって同じことじゃないか。
心の檻の中で、気楽に暮らしてられる人は、それはそれでいいさ。
でも、もしきみがその檻の中で違和感を感じ続けてるんなら、そんな檻なんか蹴っ飛ばしちまえってこと。
自由に書けばいいし、自由に生きればいいってこと。
外野の野次なんか気にしてたら、自由になんて生きられないってこと。
ぼくが言いたいことはそれだけなんだ。
酔っぱらいのたわごとにつき合ってくれてありがとう。
じゃあ、縁があったら、またいつかね。
*1:ロバータ・ラッセルとの共著「愛のレッスン―レインと私」