哲学、ああ無常 - 永遠の真理に至るために、軽々と世界観を変容させるべし
学問としての哲学は、いろいろと込み入っていて、気軽には近づきがたい雰囲気があります。
でも、人生哲学みたいな使い方をするように、英語の philosophy は、人それぞれの「人生における考え方、生きる指針」くらいの意味だったりするんですよね。
てなところから、この記事では、giveus さんから話題をいただいて、気ままに哲学談義をしてみます。
哲学の現実の問題に対する応用と「変化する哲学」
giveus さんは、
・哲学ってなん?(この記事は哲学よくわかんないに始まり、よくわかんないに終わります。) - いのちばっかりさ
という記事で、自分にとっての哲学をこんな風に語ります。
哲学って原則というか、昔に誰かが考えたことや、今の人が考えて居ることをわかりつつ、でもそれを今言ってなんになるのか、何にもならんじゃん、残酷じゃん、という場面について自分なりに考えたり突っ込んだりすることなのかなって自然に思って居る
つまり、これまでに考えられてきた原則的な考え方が、直面する現実に対して、
- どのような意味を持ちうるのか、あるいは
- 意味を持ちえないとすれば、どう考えたらよいのか
といった態度が、現代における哲学的な態度である、ということになりましょう。
応用的な場面において、あるいは、メディアで「哲学」が取り上げられ、「哲学は古臭い学問ではなく、現代に生きている学問なのだ」といったニュアンスで語られる哲学は、確かにそのようなものだと思います。
こうした場面場面で、考え、答えを探っていくような現代的な哲学のあり方を、ここでは「変化する哲学」と呼ぶことにしましょう。
「変化しない哲学」は古臭い哲学なのか?
「変化する哲学」に馴染んでいた giveus さんは、
「マルクス・アウレーニウスはストア哲学を知ると生涯その思想を守り、変えなかった」
というような記述を目にしたとき、よく意味が分からなかったそうです。
アウレーニウスは基本的な原則としてストア派の考えを採用しただけなのに、「生涯その思想で」というような言葉で表される、宗教などのような
- 「かっちり」存在するものとして哲学はありえるか
と思ったのだと。
(以上、言葉は giveus さんのものではなく、ぼくの勝手な解釈が入り込んだ記述です)
哲学というものが、新しい現実を前に、時々刻々と変化していくものだとすれば、確かに「生涯ストア哲学」というような書き方はちょっとおかしなことになります。
けれども、もともとの「哲学」というものは、徐々に発展し形を変えていくとは言え、ある時点では世界観として確立したものであり、しかもそれは倫理的な側面も含むものなのですから、アウレーニウスがそうした「確立した哲学」としてストア派の考えを採用し、それに基づいて生涯を生きたというのは、こちらの見方からすれば、どこにもおかしなことはありません。
ある人が環境保護の考えを知り、生涯を環境保護主義の考えで生きたとしましょう。その人は、あるときは、地球温暖化を防ぐために原発を推進すべきと考え、のちに放射能汚染の問題から、再生可能エネルギーを推進すべきと考えるようになるかもしれません。
けれどもこの人が、環境保護主義者として一生を生きたことに違いはありません。
アウレニーウスがストア派の考え方を生涯通したというのも、同じようなこととして考えられます。
まして、アウレニーウスの時代には、ストア派の思想は完成されたものとして存在したのですから、世界観、倫理観をそのもとで過ごしたということは、giveus さんが奇しくもおっしゃる通り
- 「宗教」と同様に「かっちり」したものだった
ということになります。
さてここで、ぼくが問題提起したいのは、ストア派のような「かっちりした哲学」、「変化しない哲学」は古臭いものであって、もはや意味をなさないものなのか、という話です。
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「変化しない哲学」としての初期仏教
ぼくはストア派について詳しく述べるほどの知識はないので、ここでは代わりに初期仏教の話をします。
(テーラワーダの宗教的世界観は扱いません)
仏教は普通宗教として扱われますが、世界観と倫理観をそなえた哲学としてとらえすこともできます。
(しかもストア派と類似点が多い点が興味深く、ストア派についてもこれから勉強したいと思っています)
さて、その仏教は、人間に知覚できるのは、自分の感覚だけであり、その感覚に振り回されないようにすることで、人間として最高の人生を生きることができるのだと説きます。
この原則自体はまったく固定したものであり、仏教は「変化しない哲学」であると言えます。
ところがおもしろいことに、仏教の世界観では、
- この世に変化しないものはない(無常)
ということが三つの中心原理の一つとなっています。
(あとの二つは、「苦しみの存在」と「無我(エゴの非在)」です)
「変化しないものはない」という言明は、この世についての記述ですから、この世のものがこの世について語るという意味で「メタ」な記述であり、したがって、
- 「変化しないものはない」ということを一つの真理と仮定し、
- 「その真理は変化しない」とする
ことには、なんら矛盾はないわけです。
(公理的な考え方に慣れていない方には分かりづらいかもしれません。リクエストがあれば、機会を改めて書きます)
言わば、
- 「変化しない原則」によって「変化する世界」に対応する、
というのが仏教の方法論ということになり、一つの立場としてはこれはまったく理に適っています。
仏教的な考え方が、どのような広がりを持ち、どのくらい合理的なものかについても、いろいろと述べたいところですが、話し出すと切りがないので、ここではこれ以上触れません。
瞑想こそが仏教の核心である、ということだけ書いて、この節は終わりにします。
「無常の哲学」で軽々と世界観を切り替えるのもよし
ぼくは、初期仏教の世界観は「かなり無敵」と思っているのですが、かといって「仏教最高!」と叫ぶような信者では決してありません。
どちらかといえば、仏教の涅槃よりは、ヒンズー的「梵我一如」の考え方のほうが好きですし、カルロス・カスタネダが描く中南米のシャーマニズムの世界観にも惹かれるものがあります。
ぼくらが生きる現代は、科学主義的世界観はもちろん、オカルトな世界観でも、享楽的な世界観でも、なんでも自由に選べる稀有な時代です。
こんな時代には、どちらかと言えば刻一刻変化を遂げる「変化する哲学」のほうが適しているかもしれませんし、「この世には変化しないものはない」という意味では、個々人がもちうるのは、「変化する哲学」でしかありえないとも言えます。
それを「無常の哲学」と呼ぶこともできましょう。
また、お釈迦さまの時代には、「これが最高の真理だ!」と言えたことも、現代の人間の目から見れば、「なんだか奇妙なこじつけちゃう?」と思われてしまうようなものだったりします。
けれども、その「奇妙なこじつけ」としか見えないものの中に「意外な真実」が隠されていることを、もしも発見できたとしたら、それはなんとも楽しいことではないでしょうか?
日々、人間界で生きていますと、何かと大変なことも多いですが、そんな密かな楽しみを求めて、今日も様々な世界観の間を渡り歩き、「無常の哲学」ごっこを続けるわたしなのでありました。
てなわけで、この記事はおしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬