id:Vergil2010さんという、かなり「左がかった」方の
天皇裕仁のワースト・オブ・ク○「思し召し」大会
という記事が1,100を超えるブックマークがついて話題沸騰中です。

そこで今日は、昭和天皇の戦争責任と、民主主義社会の実現にはどんな考え方が必要かを考えてみます。

結論としては、

  • 昭和天皇には戦争責任があるし、
  • 民主主義の実現には、罵り合いではなく、「熱い議論」が必要である、

という話になります。

昭和天皇の戦争責任が問われなかったのは、アメリカのご都合主義の賜物である

昭和天皇は国家元首として太平洋戦争(ないし十五年戦争)を遂行したのですから、彼にその戦争責任があるのは当然のことです。

軍の上層部が情報を操作していたために、昭和天皇が十分に合理的な判断を下せなかったのは事実でしょうが、仮に彼が操り人形にすぎなかったとしても、法的な責任が彼にあるのは明らかです。

それが「どの程度の責任だったのか」は、戦勝国が法廷で裁くべきだったのであり、それを免責してしまったのは、アメリカのご都合主義としかいいようがありません。

昭和天皇が「どのような発言をしていたのか」を知ることには意味がある

アメリカのご都合主義によって昭和天皇が免責されてしまったために、昭和天皇の責任というものを検証する機会が、実質的に奪われてしまったことは、戦後日本の民主主義にとって大変不幸なできごとだったと言えます。

このとき昭和天皇が、

  • 「実際にどのような発言をしていたのか」

を知ることには大きな意味があります。

Vergil2010さんの記事は、「左寄り」の一方的な立場から都合よく編集したものにすぎませんが、多くの日本人が

  • 「昭和天皇とはどんな人物なのか」を知らない

という現実を考えれば、こうした片寄った記事にも一定の価値は認められます。

それが「極端な意見」であることに気づいた上で読めば、

  • 「昭和天皇が、いかに世間離れしており、今の時代感覚では理解できない意識の持ち主か」

ということを知る上では、確かに役に立つものだからです。

「罵り合い」によっては民主主義は実現されない

Vergil2010さんの記事の最大の問題点は、事実を述べる形を取ってはいるものの、そこに「『敵』を罵倒する意図」が見え隠れするところにあります。

昭和天皇裕仁のク○な「思し召し」

(罵倒語の伏字化は引用者による)

というような表現は、「民主主義社会の実現を望む人間」が使うものではありえません。

現在の間接民主制の根本的な問題の一つは、

  • 「敵を罵ることで、見方の支持を得る」

というやり方にこそあるのではないでしょうか?

世界中に蔓延しているそうしたやり方は、本来は手をつなぐべき人間同士を、パワーゲームの駒としていたずらに分断するだけであり、民主社会の実現のためにはまったく有害な方法であると思われます。

「天皇ヒロヒト」というような記号化された存在に、「民衆の憎悪」をぶつけるように導く言動を行なうことは、カビの生えた「民衆扇動法」に過ぎず、民主主義とはなんの関係もない、ただのパワーゲーム的戦略でしかありません。

苗字も、職業選択の自由も持たずに生きた、「一人の人間」としての裕仁さんの「苦悩や悲哀」というものについて理解することなく、彼の愚かさや醜さだけを言い立てるのは、戦争の歴史を振り返るためにも、彼の戦争責任を考えるためにも、ほとんど役に立たないものでしょう。

Vergil2010さんが、今のニッポンの「全体主義化」を憂いているのであれば、こうした点について、ぜひともご一考を願いたいところです。

民主主義の実現のために必要な「熱い議論」について

民主主義の実現のためには、「罵り合い」は必要ありません。

かといって、冷静な議論だけでも、民主社会は実現しません。

なぜなら、頭のいい人間が、議論や情報操作によって大衆を操作するのが資本主義社会の方法であり、それを乗り越えていくためには、人の気持ちに訴えていく方法論が必要だからです。

人の気持ちに訴えかける「熱い議論」というものが、現代のような状況の中で、どのように可能なのかは、ぼくにも分かりません。

けれども、インド独立の立役者であるマハトマ・ガンジーを始めとして、参考にするべき人物や方法論は、歴史の中にたくさん埋もれていることでしょう。

Vergil2010さんの記事自体は、賞味期限切れに思える「左翼的文脈」の中にとどまるものとは思いますが、それを読んだ人の中から「熱い議論」が生まれてくることを期待します。

この記事を書くきっかけを与えていただいたVergil2010さんには、深く感謝いたします。

てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬

追記: タイトルに関するお詫び

タイトルに伏字とは言え「ア○ウ」という言葉を使っていることについて、あらかじめお詫びしておきます。

「強い言葉を使って注意を喚起する」という以上の意図はないのですが、一部の方が不愉快に思われるだろう言葉をわざわざ使っているのは不徳の至りであります。