• この記事のひと言まとめ:

ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。
この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。

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みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。

今日は、wattoさんの
漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ
という少し前の記事の中の、

我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか

という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。

「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。

漱石、三島、筒井

wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。

「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。

今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。

厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である

筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。

wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。

私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。
  ↓ ↑
私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。

定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。

この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、

  • 二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない

という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。

ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。

  • 親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。
  • 掃除をしないと、なぐられる。
  • 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。

子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。

多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。

親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。
*1

こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。

なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。

そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。

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☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。



厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン

庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。
(厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....)

「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、

  • 個を超越して、集合意識に達すること

であると言ってかまわないでしょう。

この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。
(「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども)

ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。

無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術

人類補完計画において「個を超越して、集合意識に達する」とは、具体的には何を意味するのでしょうか。

それは、

  • 「自分と他者を分ける境界」や「個」というものが幻想にすぎないことや、
  • 世界が有機的な全体性を持つ一つの存在であること、そして
  • ぼくたち人間の意識は、世界の「触覚」として機能する集合的な存在であること

に気づくことではないでしょうか。

もちろん、庵野氏がどのような答えを用意しているかは分からないことですから、これは一つの見立てにすぎませんが、こうして「読者」の立場から作品を読み解くことは、最高の娯楽だと思いますし、wattoさんの「読み解き」をきっかけに、こうして「すれ違いながら」見立てを披露し合うことも妙味のあるところかと考えます。

そして、「個を超越し、集合無意識に達する」ためには、古来から様々な技法が存在しますが、例えば、ヴィパッサナーやマインドフルネスと呼ばれる瞑想の技術は、「watto的」な無限ループに落ち入りやすいぼくたち「人間」にとって、その無限ループにインタラプトをかけるための方法論として、十分に有効なものと思えます。

『「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような状況の中で、思考の無限ループに落ち入ることは、肩こりや腰痛のような存在病である』とはwattoさんの卓見ですが、その「実存的肩こり」を癒す一助として、毎度のことながら、瞑想をおすすめしておきます。

興味のある方は、こちらの記事をどうぞ。
・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title]

というようなところで、この記事はおしまいです。

それではみなさん、ナマステジーっ♬

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☆おまけの写真は、旅先でのぼくの書斎風景、ベッドの上です。

*1:雲隠れしても、家に帰るとやっぱりなぐられる、といった具合に逃げ道がないのが「強い」ダブル・バインドということになります。なお、この「強い」とか「弱い」とかいうのは、ぼくの勝手な造語です