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ネット民のみなさん、ナマスカル・ジー。

今日もわたくしこと那賀乃とし兵衛は、インドの西方の梵天の聖地、プシュカルという小さな街の安宿で、日がなタブレットに向かって、気の向くままに言葉をつづっております。

「悟り」というと、ずいぶん大げさな言葉になりますが、若いころから心理学やSFに興味があり、歳をくってからは宗教的な関心も出てきまして、

  • この世界って一体何なんだっ!

と、ぼんやり想いを巡らし続けてウン十年、なんとなくその「理解」に形がついたきがするので、この記事ではそんなことについて書いてみたいと思うのです。

なお、結論としては、いつも書いていることと大して変わらず、

  • みんな自由に生きていい

というような話になります。

てなわけで、こちらが今日の見出しです。

「しなければならない」ことなんて何もないのが「実感として」分かった

もうずいぶん前から「しなければならない」ことなんてないのだと、頭では考えていました。

えっ、「しなければならない」ことだって、あるに決まってるだろうって?

多くのみなさんがそう考えるのは理解できますし、それを「変えたほうがいい」って言ってるわけでもないんです。

だって、ぼくにとっては「しなければならない」ことはないんですから、「あなたは考えを変えなければならない」なんて言う必要も当然ないんです。

ここではとりあえず、ぼくの話につき合ってほしいのですが、たとえばあなたが、

  • 明日は会社や学校に行かなければならない

としましょう。

それでぼくが言っているのは、このときあなたは「絶対に会社や学校に行かなければならない」のではなくて、「会社や学校に行かない」という選択をする自由を持っている、という話なんですね。

「そんなの当たり前だ」というかもしれませんが、

  • 考えた上で「当たり前だ」と思うのと、
  • 「いつも別の選択をする自由があると知っている」

のとではかなり違いがあるとは思いませんか?

つまり、あなたは

  • 「明日会社や学校に行かなくてはならない」

のではなくて、

  • 「行かないとデメリットがあるので行くという選択をしている」

というのに、いつの間にか勘違いして、

  • 「行かないなんてことは自分にはできない」

と思い込んでいるわけです。

それでです、ぼくはこの考えにはもう何十年慣れ親しんでいますから、話をするときには、

  • 「しなければならない」ことはないなんて何もないんだよ

としたり顔で言えるのですが、現実には

  • 今日はこれをしなきゃ、明日はあれをしなきゃ

と平気で思っているわけです。

そう思っていることに気がつけば、

  • 「あっ、ほんとは『しなきゃいけないことなんて、ないんだよな』」

と思えるのですが、無意識的に反射的に「しなきゃ」と思ってしまうことは、どうしてもやめられないまま生きてきたんですね。

それが、最近少し変わってきました。

というのは、「しなきゃ」と思うことで、自分で選んでしてることなのに、いやいややってる気持ちにどうしてもなるわけなんですけども、今では「あれをしなきゃ」っていうのが浮かんだ途端に、「あっ、また思ってる」って素早く気がつけるようになりました。

そうすると、「あれをしなきゃ」と思ったときに、

  • 自分はそれをすることを自分で選んでいるんだ

と思えますから、「いやな気持ち」になることが、ほとんどなくなったんです。

それが、

  • 「しなければならない」ことなんて何もないのが「実感として」分かった

ということの意味なんです。

この世には「絶対悪」はないという、ちょっと認めがたいかもしれない話

さて、この世界を理解するためにどうしても避けては通れないのが、

  • この世にはなぜ「悪」があるのか

という問題です。

ところが、この問題は本当は単純な話で、

  • 実は「悪いこと」なんて、この世には何もない

というのが答えなのです。

これまた、「そんなアホな」、「ばかも休み休み言ってくれ」と思われることでしょう。

このことは、ほとんどの人が分かってくれないでしょうから、

  • このおっさん、ヘンなこと言ってるな

くらいに受け止めてもらえばいいのですが、とにかく説明しておくと、

  • 「悪い」とか「いい」とかいう判断は、社会的な必要から人間が勝手に区別しているだけのもので、
  • 自然界には「いい」も「悪い」もないし、
  • 人間界の「いい・悪い」も、「時代・場所・文化」によって変わってくる相対的なものにすぎない、

ということです。

ここで勘違いしないでほしいのは、これは

  • 「善悪など考えずになんでもやればいい」ということとは違う

ということです。

人間が社会的生き物として生きる以上、「善悪」を考えることは当然必要です。

けれども、それはあくまでも「相対的」なものですから、だれもが納得するような「絶対の悪」というようなものは、この世に存在しないのです。

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「悪いこと」をした自分を「責める必要」もなければ、「変えようとする」必要もない

で、「絶対的な悪はない」と考えるとどうなるか、というと、あなたが何か「悪いこと」をしてしまったとき、

  • 自分は「悪いこと」をしてしまった、だめな人間だ、とか
  • 自分は「悪いこと」ばかりしている、なんとかそれをやめなければ、

とか思う必要がなくなるんですね。

どういうことかというと、「悪いこと」は確かに多くの場合、しないほうがいいことなんですが、それなのにそれをしているということは、何らかの理由があるからなんです。

たとえば、あなたがお酒の飲み過ぎで、毎日限度を超えて飲んで、体調が悪いのにやめられないとしましょう。

そのとき「お酒の飲み過ぎは『悪いこと』だからやめよう」と思っても、簡単にやめられるものではありません。

もちろん、意志の力によってやめようとすることは悪いことではありません。

けれども、それに失敗したからと言って、
「自分は酒もやめられない」
といって自分を否定する必要はないのです。

というよりも、自分のやっていることは「悪いことだ」と考えて自分をを否定しても、問題の解決にはなりません。

今の自分は「酒をやめられないのだ」という自覚をすることをまずしなければ、あなたはお酒をやめられないでしょうし、そのとき「酒をやめられないのは悪いこと」という固定観念は、あなたの邪魔をするだけです。

  • 自分はさまざまなストレスの結果、酒をやめることができないけれど、それを別におかしなことじゃない、と考え、
  • まずは酒をやめられない自分を認めてやることから、自分は変わっていくんだ、

と決意することができれば、あなたは遠からずお酒のコントロールに成功するでしょう。

つまり、「絶対的な悪はない」と知っていてれば、自分がお酒をやめられないことも、相対的にとらえて、

  • よくはないけれど、仕方のないことだ

と考えられますし、そう思えたところで、じゃあどうやればやめられるだろう、と冷静に考えられるようになるわけです。

これが「この世に悪なんてない」ということの意味と効用です。

「いやな気持ち」になるのも、ぼくたちの自由

上に書いたアルコール依存の例は、多くのみなさんには極端な例に思えるかもしれませんが、程度の違いこそあれ、だれでも似たような問題を抱えているはずです。

夫婦や親子の間で、喧嘩ばかりしてうんざりしている人はいませんか?

そのとき、あなたは、

  • 「あいつが悪い」

と思いますか、それとも

  • 「いつも同じことばかりやってて自分はだめな人間だ」

と思いますか?

どちらの考え方も悪いくせにすぎず、そうやって

  • 「いやな気持ち」になるのも自分で選択してやってることだ

と言ったら、あなたはどう思うでしょうか。

確かに、つい口喧嘩をしたり、その結果、相手を責めたり、自分を責めたりするのは、無意識的で、自動的な反応でしょう。

「好きでやってるわけじゃない、本当はやめたいんだ」とあなたが考えるのも、ごもっともです。

けれども、そうやって「いやな気持ち」になるのに、それをなんとかせずにいつも同じことを繰り返しているということは、

  • 「なんとかするという選択をしないこと」を選んでいる

という意味で、あなたが選んだ結果にほかなりません。

このことも多くの人には受け入れがたいことでしょうから、また、このおっさん、アホなこと言っとるな、と聞き流してもらって結構です。

とにかく、ぼくが言いたいのは、

  • 「いやな気持ち」になるのも、ぼくたちの自由な選択の結果なのだ、

というちょっと変わった話なのです。

ぼくたちは「初めから自由」なんです

というわけで、いよいよこの記事の結論である、

  • 自由に生きていい

という話に近づいてきたのですが、実は本当の結論は、

  • ぼくたちはすでに「自由に生きている」

ということなんです。

けれども、これまた多くの方にはご理解いただけない可能性が高いので、その一歩手前の、

  • ぼくたちは自由に生きていい

をこの記事の結論とするのですが、ここで一応「すでに自由に生きている」ということを説明しますと、

  • ぼくたちは「好きなこと」は自由にしたいし、ある程度の制限はあっても、実際自由にしている、

のは当たり前ですよね。

するとひっかかるのは、

  • 「いやなこと」も自由にしている

という話になります。

前にも書いたとおり、「いやな気持ち」になるのも選択しているのだ、ということが多くの方には納得いかないかもしれないので、ここをもう少し説明しますと、

  • 「いやな気持ち」になるのは「いや」だけど、自分の行動パターンを変えるのは「もっといや」だから、「いやな気持ち」になるのを選んでいるのだ、

と言えば、少しは分かってもらえるかもしれません。

つまり、ぼくたちは、自分の中に葛藤する二つの気持ちがあるとき、どちらか強い方にもとづいて選択をするのですが、その強い方の気持ちが「無意識的」である場合がままあるため、

  • 「いやなことなのに『やらなければならない』から仕方なくやっている、こんなことは自分の自由になるのなら選んだりしない」と思ってしまい、
  • 「そのことを自分から選んでいる」ことに気がつかない

ということになるのです。

ほんとうは「もっといや」なことを避けるために、「ちょっといや」なことをするという選択をしているのに、自分で選んだんじゃなくて仕方なくやってるんだ、と思い込んでしまうわけです。

この「いやなことをするのも自分でしていること」というのがお分かりいただければ、

  • 「好きなこともいやなことも自分で選んでしているだけなんだから、初めからぼくたちは自由なんだ」

ということも、納得していただけるかもしれません。

「自由に生きようとするきみ」を、ぼくは応援するぜ

以上のように、この記事の「隠し結論」は

  • ぼくたちは初めから自由に生きている

なのですが、それはおいておいても、

  • 自由に生きていいのだ

という結論は、ぼくの実感として変わりありません。

この記事の内容自体もそうですが、前だったら「こんな記事書いてなんになるんだろう」とか「誰が読んでくれるんだろう」とか思って、自己規制して書かなかったかもしれないようなものなんですね。

でもそれが、何か自分の中で吹っ切れるものがあって、

  • 「あー、自由に生きていいんだなー」
  • 「ほんとに何書いてもいいんだなー」

ってすっと思えるようになったっていくのが、ぼくがこの記事で書きたかった、ある種の「理解」なんです。

それを「悟り」と言ったら大げさすぎると思われるでしょうけれど、禅の世界では、小さい悟りを積み重ねていって大悟に至るって考え方もありますし、初期仏教では「悟り」を四つの段階に分けて、最初の段階の悟りを得た人のことを「流れに入ったもの」って言うんですね。

ぼくはまだ、悟りへと至る「流れに入った」とは到底言えませんが、今回の経験で「流れに片足くらい突っ込んめたかな」くらいには思っています。

これが無事に「流れに入れるかどうか」は今後の精進次第ですが、まあ、のんびり気長にやっていこうと思います。

それで最後に言いたいのは、もしあなたが、人生の道行きの中で悩んでいて、「常識的」な社会の枠組みの中で生きているくことがつらいのでしたら、思い切ってその「枠」から飛び出してしまうことも一つの方法だってことなんです。

もちろん「枠」の外でうまくやっていけるかどうかは分かりません。

けれどうまくいかなければ、その時点で元の「枠」に戻ったってかまわないんです。

遠回りにはなるかもしれませんが、そこで得られる経験はきっとあなたの人生の糧になるはずです。

ですから、ぼくは「自由に生きようとするあなた」を、ぼくは応援します。

無闇に世間に逆らうのではなく、人の常識とは距離をおいて、しっかり自分の足で立つことは、何ものにも代えがたい価値があります。

自由を求めるあなたの人生に、幸多からんことを心よりお祈りします。

ということで、長い文章に最後までおつき合いいただいたみなさん、大変ありがとうございました。

それではまた機会がありましたら、フィル・ミレンゲーっ♬