「だわ」「なのよ」「かしら」といった、文章表現として今も多用される女性特有の語尾について、「そんな言い方しないよ」と感じる女性の方って、きっと多いはずですよね?

関東学院大学で言語学を研究している中村桃子さんのインタビュー
なぜ翻訳でステレオタイプな「女ことば」が多用される? 言語学者・中村桃子さんインタビュー - wezzy|ウェジー
が、女ことばを巡り、言葉と政治の関わりについて興味深い内容だったので、「無意識に行なわれるステロタイプのおしつけ」という視点から、差別の問題や言語による思想統制の問題を考えてみます。

女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない

インタビューの冒頭で、中村さんはこう語ります。

みなさん「日本語には女ことばがある」ということはご存知ですよね。しかし、「女ことばってなあに?」と聞くと、「女の人が話してる言葉でしょ」って答えが返ってくるんですね。学生さんに尋ねてみても、昔から日本の女性はなにか共通した「女らしさ」を持っていて、それは「男らしさ」とはちがっていて、言葉を通じて自然にその女らしさがにじみ出た言葉づかいが「女ことば」だ、と理解している人が多いんです。しかし、果たしてそうなんだろうか? と。女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない。

文章表現として使われる「女ことば」が、喋り言葉として使われる「女ことば」と違うことは、まったくその通りです。

そこで、この記事では、

  • 「女ことば」とは書き言葉において話し手が女性であることを示す表現法

を意味することにし、

  • 喋り言葉としての女性特有の表現は「女性口語」

と表すことにします。

中村さんは、国語というものが政治的に作られてきた歴史に注目し、女ことばの持つ政治性について語るのですが、その前に文章表現における役割語としての女ことばのことを少し見てみましょう。

書き言葉としての役割語

「そうじゃ,わしが博士じゃ」としゃべる博士や「ごめん遊ばせ,よろしくってよ」と言うお嬢様に,会ったことがあるだろうか.現実には存在しなくても,いかにもそれらしく感じてしまう日本語,これを役割語と名づけよう.誰がいつ作ったのか,なぜみんなが知っているのか.そもそも一体何のために,こんな言葉づかいがあるのだろう?

これは、金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」という本の紹介文句です。

このような役割語がなぜ存在するかというと、

  • 文章表現において「誰が」喋っているかを強調し、
  • 読者にキャラクターの個性を強くアピールするため、

ということになるでしょう。

「女ことば」についても、純粋な意味での役割語としての機能を考えれば、「話し手が女性である」という事実を表すだけのことですから、そこには必ずしも政治的な意味合いはないことになります。

役割語についてもっと知りたい方は、
金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(2003 岩波書店)
をぜひ読んでみてください。

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ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語

マンガやアニメで使われる役割語は、キャラクターの明確化するために、作り手が意図的に使用するわけですから、新しい表現を生み出すこともあり、創造性も秘めています。

さて、翻訳語としての女ことばはどうでしょう。

インタビュワーの鈴木みのりさんが、

海外の俳優、歌手など実在の人物へのインタビュー記事の翻訳や、映画、テレビドラマの字幕や吹き替えの「女ことば」への違和感

という通り、言葉における性差の少ない英語などの表現を、不用意に女ことばを使って翻訳すると、どうしてもおかしな印象になります。

これには翻訳をする者と、読み手・聞き手との年齢ギャップということも関係するのですが、もう一つ大きな点として、男性翻訳者のステロタイプな意識や、女性翻訳者に対しても「女ことば」という常識を押しつけてしまう日本の文化環境といったことが考えられます。

79年の映画『エイリアン』での、主人公のリプリーが戦いの果てにひとりで脱出用シャトルで逃げる際に、“I got you, you son of a bitch”というシーンを採用しています。この言葉づかいは、英語圏の人から言わせるとかなり過激なセリフを言うんですが「やっつけたわ 化け物! 助かったのよ」と女ことばに訳されていて私も驚きました(笑)。それから40年近く経ってますが、これから変わっていくんじゃないでしょうか。

と中村さんは語っていますが、あの男勝りのリプリーが「やっつけたわ、助かったのよ」じゃ、さすがに様にならないですよね!

ジェンダーを表現する武器としての女ことば

一方で中村さんは、女性が主体的に使う「女性口語」についても説明しています。

明治時代に、「女には男とは異なる役割がある」という規範に抵抗し、主体的にアイデンティティを主張するために、一部の女学生が「てよだわ言葉」を使ったのでは

というように、男の側からの役割の押しつけに対抗するために「女性口語」が新しい表現として使われた可能性を指摘するのです。

現代のギャル語についても、似たような構図としてとらえ、時代の中で生まれる自律的な表現として積極的に評価しています。

「言語による思想統制」という政治的物語

ところで、このインタビュー記事のはてなブックマークにつくコメントを見ると*1、「女ことばくらいで、イデオロギーとかどうとか、ぐだぐた言うなよ」といった趣旨の男性によるものと思われる意見が散見されます。

どんな意見を持ち、それをどのように表現されるかは、個々の人の自由に任されるものですから、そこをどうこう言うのではないのですが、女性差別という観点からすれば、ここで多くの男が「そんなのどうってことないじゃん」開き直るとすれば、それは当然、女性の側から批判されることになるだろうな、と思うのです。

こういうとき、男の側には「差別をしている」という意識は特にないでしょうが、「女性の感じる違和感を無視してかまわない」と考えること自体が、男の持つ特権を振りかざし、女性を蔑視することにつながっていくことに十分注意を払うべきでしょう。

女性が女性の立場から現状に対して異議を述べるとき、それを謙虚に聞く姿勢を持つことは大事なことだと思いますし、「そんな姿勢は必要ない」と切り捨ててしまえば、結局は巡り巡って、「自分自身が言いたいことを言えない状況を作り出してしまうのだ」ということを、少しでも多くの方が理解してくれたらなあ、とも思うわけです。

インタビューのはじめの方で、国語の政治性の問題について触れられていましたが、日本語を意味する国語ではなく、国家語としての国語が、大航海時代のスペインにおいていかに構想されたか、という興味深い話題もあります。
(イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』(2006 岩波現代文庫)所収の「ヴァナキュラーな価値」におけるネブリハに関する議論を参照)

そのようにして国家の統治の道具として西洋において構成された国家語が、明治時代の日本において国語として成立していくことになりました。

この国語という巨大なフィクションが、キリスト教を模して作り上げられたといわれる国家神道と合わさって、「日本」という国家の枠組みとして、明治の近代化の過程において「創作」されていったわけです。

こうして歴史の展開を少しずつ覗き見ることで、たとえば、日本の伝統とされる「男は外で働き、女は家を守る」といった価値観も、実は明治以降に創作された面が大きかったことも分かってきますし、そのように多数の視点を身につけ、社会や自分の常識から自由になることで、思わぬ視野が開けてくることは、なかなか楽しいことでもあります。

あなたが女であれ、男であれ、少しばかりの自由な価値観をお持ちの方なら、中村桃子さんのお話から、いろいろなことが学べるに違いありません。

てなわけで、ご精読ありがとうございました。
それではみなさん、ナマステジーっ♬

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中村 桃子「女ことばと日本語」 (2012 岩波新書)